第8話 名前のない職人
第2章です。舞台は王都リエン、東通り。
硝子の卸が並ぶ、坂の下の町です。
「おばさん、手が汚い」
商会の帳場に入って三歩目で、そう言われた。
声の主は、机の上に座っていた。十五くらいだろうか。編んだ髪を無理やり頭に巻きつけて、袖を肘までまくっている。腕にも小さな火傷の痕があった。
「コレット」オーギュスト様が言った。「客だ」
「客じゃないでしょ。借り手でしょ」
「借り手も客だ」
「借り手は、うちがお金もらう側」
娘はわたくしの手をもう一度見た。それから、付け足した。
「——いい汚れ方」
「といいますと」
「爪の内側だけ黒いの。灰かいてる人の汚れ方。表が汚いのは、ただの怠け者」
わたくしは、自分の手を見た。言われたとおりだった。
◇
貸工房の契約は、その日のうちに済んだ。
家賃は月に銀貨で十二。相場より安い。屋根が抜けていたぶんを引いてある、とオーギュスト様は言った。
「屋根は、わたくしが直しました」
「はい」
「では、引く理由がございません」
「直った屋根は工房のものになります。あなたのものではありません」
「では、直したぶんを家賃から引いていただくのが筋でございます」
「引いております。だから十二です」
筋は通っていた。通っている話を、この人は二度説明しない。一度説明して、あとは書付を回してくる。
「板を、買っていただけますか」
「もちろん」
「値は」
「一枚、銀貨八」
わたくしは顔を上げた。
「ダルクールに、いくらでお払いでしたか」
「銀貨六です」
「では六で」
「八です」
彼は書きながら言った。
「あちらは伯爵家の名で売っておられた。仲介の分が乗っていました。職人から直に買うなら、その分は職人へ行きます」
「……その言い方は」
「商いの話です」
彼は書付をこちらへ回した。字が細い。罫からはみ出していない。ドニの字に似ていた。
◇
「レナールさんは、その板の職人に会いたがってました」
コレットが言った。板を数えながらだった。
「十年ずっと。毎年、荷が来ると縁を触るんです。触って、うんって言う」
「コレット」
「言ってました」
オーギュスト様は帳簿から顔を上げなかった。
「その職人は、いまはいないそうだ」
「ふうん」
娘はわたくしを見た。見て、それから板の方を見た。
わたくしが荷車から下ろした四十枚は、全部ダルクールで焼いたものだ。在庫として持ち出してきた。売るために焼いたのではなく、南翼の予備として焼いたものだった。
コレットは、板の縁を指の腹でなぞった。一枚。二枚。三枚。それから、四枚目で止まった。
「……これ、寸法が違う」
「はい」
「三尺と二尺。ほかは全部、四尺と二尺半。この一枚だけ」
わたくしは、荷から取り違えて積んだのだと気づいた。王都の工房で焼いた、あの一枚だった。
「それは、売り物ではありません」
「なんで」
「嵌まる窓が、ございませんので」
娘は板を戻した。戻す手つきが、丁寧だった。
「じゃ、置いとけば」
「ええ」
「窓のほうが、あとから来ることもあるし」
◇
その日の午後、わたくしは工房の棚を組み直した。
三十年前の棚がそのまま残っていたが、溝の間隔が狭い。この工房の前の主は、いまより厚い板を焼いていたのだろう。溝が浅くて、幅が広い。
浅い溝に薄い板を立てると、風でも倒れる。倒れた板は、下の一枚を道連れにする。
わたくしは溝を切り直した。鑿で三分ずつ深くして、間隔を詰める。四十枚ぶんで、半日かかった。
コレットが二度、覗きに来た。一度目は何も言わずに帰った。二度目に、こう言った。
「棚なんか、うちの若いのにやらせればいいのに」
「寸法が要りますので」
「言えばいいじゃん」
「わたくしの寸法でございますので」
「ふうん」
娘は戸口に寄りかかって、しばらく見ていた。
「おばさん、それ、あと何本切るの」
「二十二本でございます」
「数えてる」
「数えております」
「なんで数えてんの」
「終わりが見えますので」
コレットは、それに答えなかった。答えずに、鑿をもう一挺持ってきて、隣に座った。
「切り方、教えて」
「深さが三分でございます」
「三分ってどれくらい」
「爪の、この辺りまで」
娘は自分の爪を見て、それから木に鑿を当てた。最初の一本は、深すぎた。
「並品でございます」
「褒めてる?」
「使えます、という意味です」
◇
夕方、倉の裏を見せてもらった。
商会の倉は、奥へ行くほど古い板が入っている。売れ残りではない。オーギュスト様は「見本」と呼んでいた。
「取っておくのですか」
「はい」
「売らずに」
「はい」
「値打ちが下がりましょう」
「下がります」
彼は奥の棚を指した。
板が立てて並んでいる。木枠に溝を切って、一枚ずつ。藁の噛ませ方が、うちのやり方と同じだった。同じというより、うちの荷をそのまま棚へ移しただけの噛ませ方だ。
「十年ぶんです」
「……十年ぶん」
「毎年、最初に届いた一枚だけ、抜いてあります」
棚は、十段あった。段の高さが、上へ行くほどわずかに広い。板が年々ほんの少し厚くなっているからだ。
厚くした覚えはない。ただ、十年のあいだに手が変わった。
◇
わたくしは、その前に立った。いちばん下が、いちばん古い。
一枚目は、十年前の春だ。婚礼の翌々月に焼いた板。あの年は、南翼の壁を落として、百二十枚を一気に入れた。焼いても焼いても終わらなかった。
手が腫れて、竿が握れなくなった日がある。三日休んだ。休んだ三日を、帳面には「休。手」と書いた。
その一枚が、そこにある。
わたくしは、覗き込んだ。薄暗い。倉の奥には窓がない。板の中央は見えない。縁だけが、通路のランプをわずかに拾っていた。
——泡が、列になっている。閉じている。
「明日、灯りを入れます」
背後でオーギュスト様が言った。
「ここは暗くて、板が見えない。十年、ずっと不便でした」
「十年、不便になさっていたのですか」
「はい」
「なぜ、いままで直されなかったのですか」
「見る用が、ありませんでしたので」
◇
「……見て、どうなさるのですか」
わたくしは、そう聞いた。彼は少し黙った。それから、言った。
「いつか、焼いた人に会ったときに、話すことがあるように」
わたくしは、棚の方を向いたままでいた。振り返ると、顔に何か出そうだった。
「話すことは、もうおありでしょう」
「板の話でしたら」
「板の話でよろしいのでは」
「板の話しかできないのが、困るのです」
彼は、そう言って灯りの位置を確かめに行った。
◇
その夜、ダルクール邸の南翼で、下男が薪をくべた。
目盛りは十四だった。彼は炉の口を全部開けて、薪を五本足した。前の晩に十五だったから、少し多めにした。そういう考え方だった。
東の壁の三枚目で、また、ぱき、と音がした。温度計の目盛りは、朝には二十を越えていた。
コレットが出てきました。この子は貶してから褒めます。順序を変えません。
倉の奥の十段の棚は、書いていていちばん手が止まったところです。十年ぶんの「最初の一枚」を、売らずに取っておく人がいます。しかも、暗くて見えない場所に。
次話——倉に灯りが入ります。灯りが入ると、十年ぶんの板の真ん中が見えます。




