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第9話 事故物件、舞踏会に現る

 黒の礼装に身を包んだ男が、大広間へ足を踏み入れる。

 その瞬間、空気が変わった。

 ざわり、と。

 まるで水面へ石を投げ込んだように、会場中へ波紋が広がる。


「公爵閣下だ……」


「本当に来られたのか」


「何年ぶりだ?」


「最近は夜会にほとんど――」


 囁き声が飛び交う。

 エドワード・イーゼルト公爵。

 かつての王太子。

 十年前の婚約破棄事件以降、社交界へ姿を見せることは激減した。

 夜会も舞踏会も、ほとんど欠席。

 それだけに、彼が王室舞踏会へ現れたこと自体が一つの事件だった。

 しかも。

 視線は自然と、王太子夫妻へ向かう。

 十年前、婚約を破棄されたフリージア。

 そして現在、その夫となったルーカス。

 王家の中心に立つ二人と、失脚した元王太子。

 会場全体が、固唾を飲んだ。

 だが。


「ルーカス殿下、妃殿下」


 エドワードは静かに一礼した。


「本日はお招きいただき感謝いたします」


 礼儀正しい。

 ルーカスも穏やかに応じる。


「お越しいただき嬉しく思います、公爵」


 フリージアも静かに微笑んだ。


「お変わりありませんようで」


 拍子抜けするほどに、穏便だ。

 その空気に、周囲の貴族たちが逆に戸惑っていた。

 一方で、若い令嬢たちは、別方向で盛り上がっていた。


「えっ、あの人が元王太子!?」


「思ったよりずっと素敵じゃない?」


「背高い……」


「顔が良すぎる……」


「でも事故物件なんでしょう?」


「そこが逆に気になる!」


 きゃあきゃあ。

 アンジェは遠い目になった。


(なんなのこの人達……)


 十年前の事件を知らない世代だ。

 噂話としてしか聞いていない。

 だからこそ、“悲劇の元王子”くらいの感覚なのかもしれない。

 しかもエドワードは見た目だけなら非常に華がある。

 長身。

 整った顔立ち。

 落ち着いた物腰。

 黙っていれば完璧な公爵閣下だ。

 ……黙っていれば。


「アンジェ嬢」


 ふいに、低い声がした。


 振り向けばエドワードが立っている。


「一曲、お願いできますか」


 周囲がざわついた。

 うわぁ、という顔になるアンジェ。

 断れない。

 断れる空気ではない。


「……よろしくお願いします」


 手を取られる。

 その瞬間。

 周囲のさえずりが一気に増えた。


「噂は本当なのか?」


「外国商人の娘なのに?」


「次は婚約発表かしら」


 アンジェはげんなりした。


(うるさぁい!!)


 曲が始まる。

 エドワードのリードは驚くほど丁寧だった。

 動きに無駄がない。

 流れるような足運び。

 そしてまたアンジェも軽快な足運びでステップを踏んだ。

 礼儀作法では散々四苦八苦したアンジェだったが、実はダンスだけは教師に褒められていたのだ。

 二人は滑るようにフロアを舞った。

 黒の礼装と淡いブルーのシルクのドレス。

 長身の公爵と、華やかな商人令嬢。

 その姿は驚くほど絵になっていて、周りから感嘆の吐息が漏れている。

 だが周囲からの視線を横に、アンジェは小声で切り込んだ。


「……公爵閣下」


「はい」


「これ、どういうつもりです?」


 エドワードがわずかに瞬く。


「どういう、とは」


「噂に燃料投下してますよね?」


 率直だった。

 実際そうなのだ。

 事故物件公爵が、王室舞踏会で、自ら外国商人の娘をエスコート。

 社交界が放っておくはずがない。

 エドワードは少しだけ気まずそうな顔をした。


「……弟に唆されました」


「王太子殿下に?」


「アンジェ嬢の正式なデビュタントなのだから、一曲くらい踊るべきだと」


 エドワードは淡々と続ける。


「それに、王家としてもミゼルカとの友好姿勢を示したいのでしょう。ルーカス殿下は海外交易を重視されていますから」


 なるほど。

 政治的意図もあるわけだ。


「だからって!」


 アンジェは声を潜めつつ抗議した。


「このままじゃ周囲が勝手に縁談を固めますよ!?」


 今も周囲の視線が痛い。

 完全に“婚約秒読み”みたいな空気になっている。

 するとエドワードは、少しだけ考え込む顔をした。


「……正式に断っていただければよいかと」


 アンジェはぽかんとした。


「はい?」


「元々そのつもりでしたし」


 さらっと言う。

 悪気ゼロで。

 アンジェは頭を抱えたくなった。


「公爵閣下」


「はい」


「王家も後押ししてる縁談を、外国商人の娘が断って、そんな簡単に済むと思ってるんですか?」


 エドワードが黙る。


「しかも公爵閣下相手ですよ? よく思わない人だっています」


 “身の程知らず”。

 “王家の顔に泥を塗った”。

 そんな言葉くらい簡単に飛ぶ。

 イーゼルト貴族社会はそういう場所だ。


「私は別に平気でも、マルス商会とか、これからアーチャー家を継ぐヒューにまで影響したら困ります」


 ヒューはまだ幼い。

 当然、今回の舞踏会にも参加していない。

 だからこそ、周囲の大人たちの思惑から守らなければならない。

 エドワードは完全に言葉を失った。

 そして。

 数秒後、静かに目を伏せる。


「……申し訳ありません」


 低い声だった。


「配慮が足りませんでした」


 アンジェはちょっと驚く。

 この人、変なところで素直だ。

 普通の貴族なら言い訳くらいしそうなのに。


「いえ、まあ……」


 アンジェは少し考え込む。

 周囲はまだ勝手に盛り上がっている。

 このままでは確かに面倒だ。

 けれど。


(逆に利用できるかも?)


 アンジェの商人脳が働いた。


「……公爵閣下」


「はい」


「明日って予定空いてます?」


 エドワードが視線を向ける。

 アンジェはにやりと笑った。


「ウチに来ません?」


 その笑顔に。

 エドワードはなぜか、少し嫌な予感を覚えた。

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