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第8話 王室舞踏会


王宮の大広間は、眩しかった。 無数のシャンデリア。

磨き上げられた大理石。

色とりどりのドレスと燕尾服。

イーゼルト王国、その中心。

王室舞踏会。


「……すご」


アンジェは思わず呟いた。

豪奢、という言葉では足りない。

これ見よがしな華やかさではなく、“積み重ねられた格式”そのものが空間を支配していた。

隣ではアダムが小さく感心したように息を吐く。


「金のかけ方が商会と違うなぁ……」


「感想が商人なのよ」


「商人だからな」


イヴリンが呆れ半分で夫を小突いた。

本日の参加者は、アダム、イヴリン、アンジェの三人。

ヒューはまだ八歳であり、夜会への参加年齢に達していないためリンデン邸で留守番である。

本人はかなり不満そうだったが。


『僕も王宮行きたかった!』


『あと十年くらい待ちなさい』


そう言い聞かせてきたばかりだ。


「堂々としていなさい」


ジェームズ伯爵が低く言う。


「今夜のお前たちは、リンデン家とアーチャー家の客人だ」


「はい」


アンジェは頷いた。

だが。

一歩、大広間へ足を踏み入れた瞬間。

空気が変わる。

ざわり。

波のように視線が広がった。


「……あれが」


「マルス商会の……」


「外国商人の一家でしょう?」


「例の公爵閣下の縁談相手とか――」


ひそひそ。

ひそひそ。

アンジェは早速げんなりした。


(うわぁイーゼルト貴族めんどくさい……)


笑顔の裏で噂話。

品定めする視線。

値踏み。

ミゼルカの商人たちも腹芸はするが、ここまで湿っぽくない。


「気にするな」


小声でアダムが言った。


「気になるわよ」


「向こうは“商人の娘”を見る目だ。だったらこっちは“客を見る目”で見返せ」


「……なるほど?」


「つまり“金払い良さそうか”で判断しろ」


「強い」


ちょっと元気が出た。

実際、商会長の娘として育ったアンジェは“人を見る”ことには慣れている。

視線を返せば分かる。

好奇心。

軽蔑。

警戒。

そして。

少しの羨望。


「……?」


アンジェは瞬く。

完全に敵意ばかりというわけでもないらしい。

ふと、アンジェは周囲の令嬢たちへ目を向けた。

年若い令嬢たちが、ちらちらとこちらを見ている。


ドレス。

髪型。

仕草。

完全に品定めだった。


(あ、若い子にはレースが流行りなのね)


アンジェは内心でふむふむと頷く。

年配の貴婦人は格式あるベルベットのドレスを着ているが、若い令嬢は裾や袖口へ繊細なレースをあしらっている。


「見て、あれ真珠よ」


「まあ、なんて素敵……」


「こちらではあまり手に入らないわ」


「さすが商人の娘ってところかしら」


こそこそとした会話が聞こえてくる。

アンジェは首を傾げた。


(真珠?)


髪飾りへそっと触れる。

ミゼルカ港湾部には真珠養殖場があり、ミゼルカでは比較的一般的な宝石だ。

アンジェの髪飾りも、ミゼルカから持ってきたものだった。


(船で運べばすぐなのに……)


そこまで考えて、アンジェはふと気づく。


(……あら? そういえばイーゼルトには直通航路が――)


そこで。

楽団の音楽が一段高く鳴った。


「王太子殿下、王太子妃殿下のおなりです」


ざわり、と会場全体が頭を垂れる。

アンジェも慌てて倣った。

現国王は長く病床にあり、すでに表舞台へ姿を見せなくなっている。 今、この国の中心に立つのは、王太子夫妻だった。

現れたのは、一組の美しい夫妻。

ルーカス・イーゼルト王太子。

柔らかな金髪と穏やかな灰青色の瞳を持つ青年。

その隣には、フリージア王太子妃。

淡い銀髪に、静かな威厳を宿した美女。

アンジェは少し驚いた。


(思ったより柔らかそうな人たち……)


もっと威圧感のある王族を想像していた。

やがてリンデン伯爵家の順番が回ってくる。


「ジェームズ・リンデン伯爵、並びに家族にございます」


アンジェは心臓が跳ねるのを感じた。


(ええと、右足を引いて、視線は下げすぎず……)


頭へ叩き込んだ作法を必死に思い出す。

ドレスの裾を摘み、慎重に膝を折った。

ぎこちなくならないよう意識したカーテシー。

失敗していないだろうかと不安になる。

すると。


「あなたがアンジェ嬢ですね」


先に声をかけたのは、フリージアだった。

柔らかな微笑み。

だがその瞳はとても聡明そうだった。


「は、はい」


「お会いできて嬉しいわ」


アンジェはぱちぱち瞬いた。

……友好的だ。

予想外なくらいに。

隣のルーカスも穏やかに笑う。


「エドワード公爵がお世話になっています」


「えっ」


アンジェは固まった。


「港を案内されたと聞きました」


「あ、はい……」


「珍しいですね」


ルーカスが少し笑う。


「公爵が自分から誰かを案内するなんて」


アンジェはなんとなく言葉に詰まった。

王太子夫妻の空気は穏やかだ。

少なくとも、“失脚した兄を疎んでいる現王太子夫妻”には見えない。

むしろ。


「でも仕事の話ばかりでつまらなかったでしょう?」


ルーカスが苦笑する。


「公爵は昔から極端なんです」


「……分かる気がします」


港で延々と説明していた姿を思い出す。

フリージアが小さく笑った。

その笑顔は、とても自然だった。

十年前、“婚約破棄された元婚約者”とは思えないほどに。

アンジェは思わず聞きそうになった。

本当に気にしていないのか、と。


「アンジェ嬢」

フリージアが静かに言った。


「どうか、公爵をよろしくお願いしますね」


アンジェは目を瞬く。

その声音は穏やかだった。

責めるでもなく、試すでもなく。

ただ、本当に案じている人の声だった。


「十年前の件は、もちろん公爵にも責任があります」


 フリージアは静かに続ける。


「軽率だった部分も、未熟だった部分もあった」


 ルーカスも静かに頷く。


「あの頃の王宮は、皆少しずつ間違えていたのです」


穏やかな声音だった。

けれど、その言葉の奥には簡単には語れないものが滲んでいる。

誰か一人だけが悪かったわけではない。

あの頃の王宮には、止められなかった者も、流された者もいたのだろう。

様々な思惑が絡み合った結果が、あの騒動だったのかもしれない。


「それでも、公爵は今も責任を背負い続けています」


フリージアは少しだけ寂しそうに笑った。


「だからこそ、そろそろ前を向いてほしいのです」


アンジェは小さく息を呑む。


その言葉には、“許した”というより。

 “もう終わったことにしなければならない”という覚悟が滲んでいた。

王太子夫妻はきっと、十年前をなかったことにはしていない。

けれど王家としても、一個人としても。

いつまでも過去だけを見てはいられないのだ。


「だから」


フリージアが微笑む。


「あなたのような方が傍にいてくださるなら、嬉しいわ」


アンジェは完全に困惑した。


(いや待って)


なんでそんな。

期待のこもった目で見るの。

縁談、まだ全然始まってもいないのに。

しかも本人、断ってもらう気満々だったはずなのに。

アンジェが内心で混乱していると、不意に会場がざわついた。


空気が変わる。

人々の視線が、一方向へ流れる。

そして。

黒の礼装に身を包んだ長身の男が、大広間へ姿を現した。


――エドワード・イーゼルト公爵。



その瞬間。


さっきまでの噂話とは違う種類のざわめきが、会場を満たした。

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