第20話 重すぎる愛
海へ落ちた瞬間、全身を凍えるような冷たさが襲った。
「っ……!」
アンジェは息を呑む。
暗い水路の水は想像以上に深く、濡れたドレスが一気に身体へ絡みついた。
重い。
沈む。
そう思った瞬間、強い腕がアンジェを抱き寄せた。
「アンジェ!」
エドワードだった。
彼は片腕でアンジェを支えながら、必死に周囲を見回す。
だが隠しドックの岸壁は高く、濡れた石壁には掴まる場所もない。
とても這い上がれそうになかった。
その時、近くに停泊していた密輸船が軋みながら揺れる。
船体から垂れた救命用の縄梯子が、水面近くまで下がっていた。
エドワードはすぐに決断した。
「掴まっていろ」
「え……?」
次の瞬間、アンジェの身体が軽々と抱き上げられる。
水を吸ったドレスは鉛のように重い。
それでもエドワードは片腕でアンジェを抱えたまま、もう片方の手だけで縄梯子を登り始めた。
「エ、エドワード!? 無茶です!」
「黙ってろ」
低い声だった。
だが息は荒い。
濡れた縄梯子は滑りやすく、船も波で揺れている。
それでもエドワードは一段ずつ確実に登っていった。
やがて船の縁へ辿り着くと、アンジェを先に甲板へ押し上げる。
その後、自分も重い身体を引き上げた。
「はぁ……っ」
荒い息が漏れる。
アンジェは慌てて振り返った。
「大丈夫ですか!?」
「……問題ない」
そう答える声は掠れていた。
岸では憲兵隊が騒然としている。
「船に乗り込め!」
「だめです! 流されてる!」
先ほどの爆発で切れた係留ロープがぶらぶらと揺れている。
船は少しずつドックから離れ始めていた。
「新しいロープを持ってこい!」
「急げ!!」
憲兵たちが慌ただしく走り回る。
だがそんな喧騒をよそに、エドワードはアンジェを見つめたままだった。
そして次の瞬間。
ぎゅっと。
強く抱き締められる。
「……っ!?」
アンジェの身体が固まる。
濡れた服越しに伝わる体温が熱い。
エドワードの腕は、震えていた。
「エドワード……?」
すると彼は、掠れた声で呟いた。
「……また、失くすのかと思った」
その言葉に、アンジェははっとする。
エドワードはかつて、愛した人を失っている。
十年前の事件は、彼から多くを奪ったのだ。
だから今、アンジェが落ちた瞬間――あの日の恐怖が蘇ったのだろう。
アンジェはゆっくりエドワードを見上げた。
そして真っ直ぐ、その瞳を見つめる。
「私は死にません」
はっきりと言った。
「絶対に生きます」
エドワードの目が揺れる。
「そして……あなたを幸せにしたいです」
静かな波音だけが響いた。
エドワードは息を呑むように目を見開き、それから苦しそうに目を伏せる。
「……貴方がいると」
低い声が零れる。
「前を向いていられる」
ゆっくりと、アンジェへ視線を戻した。
「だから、そばにいて欲しい」
距離が近づく。
互いの吐息が触れそうなほどに。
アンジェの心臓が激しく鳴った。
その時だった。
「公爵閣下ーっ!!」
岸から憲兵隊の大声が飛ぶ。
「ロープを渡します! 船へ結んでください!!」
「……っ!」
「……!」
二人は同時にはっとした。
どうやら甲板の欄干の陰になっていたらしく、こちらの様子は見えていなかったらしい。
会話も聞こえてはいなかっただろう。
それでも、途端に気まずくなる。
エドワードは咳払いして素早く距離を取った。
「あ、あの……」
アンジェも顔を真っ赤にしながら視線を泳がせる。
エドワードは耳まで赤くなりつつ、岸へ向かって手を上げた。
「投げろ!」
憲兵がロープを投げる。
エドワードはそれを受け取るため歩き出した。
だが、その途中でふと立ち止まる。
そして振り返らないまま、ぽつりと呟いた。
「……覚悟してください」
「え?」
低い声が続く。
「私の愛は、たぶん」
少しだけ苦笑が混じる。
「周りが見えなくなるくらい、重いので」
アンジェは言葉を失った。
そのままエドワードはロープを持って船縁へ向かっていく。
残されたアンジェは、真っ赤な顔のまま胸を押さえた。
(……公爵様の重い愛って、そんな宣言みたいに言うものなの!?)
どくどくと心臓が鳴る。
嬉しい。
けれど。
(わ、私……受け止めきれるのかしら……!?)
アンジェはひどく幸せそうな顔で、本気で悩み始めるのだった。




