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第19話 伸ばした手

 倉庫内には、まだ煙幕の白煙が薄く漂っていた。

 憲兵隊が次々と男たちを拘束し、武器を取り上げていた。

 怒号と足音が飛び交う中、アンジェはようやく張り詰めていた息を吐いた。


「アンジェ!」


 聞き慣れた声に振り返る。

 そこには、倉庫へ駆け込んできたエドワードがいた。

 乱れた髪。

 鋭い眼差し。

 だがアンジェの姿を認めた瞬間、その表情が大きく揺れる。

 アンジェの胸がきゅっと締めつけられた。


 先ほどまで、喧嘩別れのような状態だったのだ。

 怒っているかもしれない。

 呆れられているかもしれない。

 そんな不安が頭を過る。

 だがエドワードはアンジェの前まで来ると、張り詰めていたものが切れたように小さく呟いた。


「……無事で、良かった」


 それは、心の底から安堵した声だった。

 アンジェは目を瞬かせる。

 責める言葉は、一つもない。


「……ご、ごめんなさい」

 気づけば、そんな言葉が零れていた。

「わたし、怒鳴ったりして……」

「いや」


 エドワードは静かに首を振る。

「君の言葉のおかげだ」

「え?」

「サラの様子がおかしいことに気づけた」


 エドワードは視線を横へ向けた。

 そこでは、憲兵隊に付き添われたサラが静かに歩いている。

「君に言われたんだ。“今、生きて信頼してる人を見ろ”と」

 アンジェの瞳が揺れる。


「だから周囲を見ることができた。サラの様子がおかしいことに気づけた」

 エドワードは続けた。


「問いかけたら、彼女は白状した。ギルベルトに協力し、イヴリン夫人の外出予定を漏らしていたことを」

「……っ」

「十年前の件で人生を狂わされた人間は多い。彼女もその一人だ」

 エドワードはアンジェに視線を戻した。

「以前は私を憎んでいたそうだ。多くの人を巻き込んだ報いを受けて当然の人間だと」

 アンジェは黙って耳を傾ける。

「だが彼女は、俺が働く姿を見ていて、感じてくれたらしい」

 エドワードは苦く笑った。


「自分が間違っているのではと……迷っていたようだ」

 そして静かに続ける。

「だから、黙り続けることができなかった」

 サラはエドワードへ全てを打ち明けた。


 密輸倉庫の場所。

 ギルベルトたちの計画。

 そして自ら囮となり、煙幕を爆発させて内部を混乱させる役目まで引き受けたのだ。


「危険だから止めたんだがな」

 エドワードは小さく息を吐く。

「それでも彼女は行った。罪を償いたいと」


 アンジェは、憲兵に連れられていくサラの背中を見つめた。

「……サラは、どうなるんですか?」

「伯爵家にはいられなくなるだろう」

 エドワードは静かに答える。

「だが、情状酌量で刑には問われない予定だ」

 アンジェはほっと息を吐く。


 その時倉庫の入り口から、切羽詰まった声が響いた。

「イヴリン!!」

 駆け込んできたアダムが、憲兵に保護されていたイヴリンの姿を見つけたのだ。

「あなた……」

 イヴリンが目を見開く。

 次の瞬間、アダムは勢いよく彼女を抱きしめていた。

「無事か!? 怪我は!?」

「だ、大丈夫ですわ。少し手を切っただけ――」

 言い終える前に、アダムの顔色が変わる。

 イヴリンの手から血が滲んでいた。

「全然大丈夫じゃないだろうが!」

 アダムは眉を吊り上げ、そのままイヴリンをひょいと抱き上げる。


「きゃっ、ちょ、ちょっとあなた!?」

「医者だ! 医者を呼べ!!」

 周囲へ怒鳴りながら、アダムはそのまま倉庫の外へ駆けていった。

 イヴリンの抗議の声だけが、遠ざかっていく。


「も、もう…父様ったら!」

 娘のことも忘れて脇目もふらず妻を抱えていった父に、腹が立つやら気恥ずかしいやらで、アンジェは赤くなった。

 アンジェの赤い顔を見て、エドワードがふっと目を細める。


「サラのように、俺を恨んで当然だった人間が、今の俺を見て考えを変えてくれた」

 低く穏やかな声だった。

「それを教えてくれたのは、君だ」


 その眼差しがアンジェへ向けられる。

 今まで見たこともないほど柔らかく、愛しいものを見るような目だった。

 アンジェの顔がさきほどとは違う熱で一気に朱に染まる

「え、あ……」

 視線が泳ぐ。

 心臓がうるさいほど鳴っていた。


 脳裏に浮かんだのは、母――イヴリンの言葉だった。

『素直になることね』

 アンジェはぎゅっと拳を握る。

 今なら言える気がした。


「あ、あの、わたし……!」

 意を決して口を開いた、その瞬間だった。


 バチっ、と張り詰めた縄が弾けるような音がした。

 倉庫内の人々が一斉に振り向く。

 ドックにある密輸船の方である。

「船の係留ロープが切れたようだ!」

 近くにいた伯爵家の兵士が声を上げた。

 その声にホッとした空気が漂う。


 アンジェもほっと胸を撫で下ろした。

「な、なんだ…銃声かと思った」

 弛緩した空気が、油断を生んだ。


「殺してやるッ!!」

 怒声が響く。

 全員の視線が弾かれたように動く。


 拘束されていたはずのギルベルトが、憲兵を突き飛ばしていた。

 奪い取った銃口が、真っ直ぐエドワードへ向けられる。


「っ!!」


 アンジェの身体が先に動いた。


「エドワード!!」


 彼を思い切り突き飛ばす。

 今度こそ本物の乾いた銃声が響いた。

 だが次の瞬間、アンジェの足元が空を切った。


「……え?」

 そこは隠しドックの縁だった。


 踏み外した先には、海へ続く暗い水路が口を開けている。

 身体が傾く。


「アンジェ!!」

 エドワードが咄嗟に手を伸ばした。


 指先が触れる。

 だが支えきれない。


 二人の身体は、そのまま勢いよく水路へ投げ出された。

 冷たい海が、闇ごと二人を呑み込んだ。

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