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第16話 母の答え

港の事務所を飛び出したあと。

アンジェはしばらく、行き先も決めず街を歩いていた。

石畳を靴音が打つ。

港町特有の潮の匂い。

遠くから聞こえる荷運びの掛け声。

だが頭の中はそれどころではない。


(……やってしまった)


冷静になるほど、顔が熱くなった。

感情のまま怒鳴ってしまった。

しかも相手は公爵。

あんな風に、人の傷へ踏み込むべきではなかったのではないか。

いや、それ以前に。


「うわあぁ……」


思わず頭を抱える。

最後のほうなど、ほとんど勢いだった。

“目の前にもいるでしょう”なんて。

何を言っているのだ自分は。


「……絶対変な人だと思われた……」


どんどん落ち込んでいると。


「アンジェ?」


聞き慣れた声がした。

振り返ると、通り沿いに止まった馬車の窓から母が顔を覗かせていた。


「お母様?」


「ちょうどよかったわ。ヒューを送った帰りなの」


イヴリンは娘の姿を認めるなり、すぐに眉を寄せた。


「……あなた、護衛は?」


アンジェはぎくりとした。


「え、えっと」


「まさか一人で歩いていたの?」


静かな声だった。

だが母が本気で怒る時の声だ。


「アンジェ」


「はい……」


「馬車は?」


「乗ってません……」


イヴリンは深々とため息をついた。


「イーゼルトへ来てから何度言われたの」


「反省してます……」


「本当に?」


「してます……」


しゅんと肩を落とす娘を見て、イヴリンは再びため息をついた。


「乗りなさい。送るわ」


アンジェは素直に馬車へ乗り込んだ。

扉が閉まり、馬車がゆっくり動き出す。

しばらく沈黙が流れた。

だがアンジェは、ちらりと母を見る。

深い藍色のドレス。

上品な所作。

今でこそ立派な商会の女主人だが、この人は元々イーゼルトの伯爵令嬢だ。

そして。

周囲の反対を押し切って、父と駆け落ちした当人でもある。

アンジェはふと思う。

“忘れられない”という感情を。

この人は知っているのではないかと。


「……お母様」


「なあに?」


アンジェは少し迷ってから口を開いた。


「もし」


イヴリンが視線を向ける。


「もし、すごく強い気持ちで愛した相手がいたとして」


「ええ」


「周囲の反対を押し切るくらい、どうしてもその人じゃなきゃ嫌で……」


そこまで言って、アンジェはもごもごした。

なぜ自分がこんな質問をしているのか、自分でもよく分からない。

だがイヴリンは急かさず待ってくれる。

アンジェは意を決して続けた。


「そういう相手って……忘れられるものなんですか?」


馬車の中が静かになる。

イヴリンは少し目を瞬いたあと、ふっと笑った。


「難しい質問ね」


「……やっぱり忘れられない?」


アンジェが聞くと、イヴリンは窓の外へ視線を向けた。

昔を思い出すように。


「忘れないわ」


その答えは、驚くほどあっさりしていた。

アンジェは思わず息を呑む。

イヴリンは穏やかに続ける。


「だって、人生を変えるほど愛した人だもの」


その言葉には重みがあった。

家も。

立場も。

故郷も。

全部捨てて飛び込んだ恋だった。


「忘れようと思って忘れられるようなものではないわ」


アンジェは胸がざわつくのを感じた。


やはり。

エドワードもそうなのだろうか。

十年前の彼女を、今も――。

そう考えた瞬間。


「でもね」


イヴリンが静かに続けた。


「“忘れられない”と、“そこで立ち止まる”は別なのよ」


アンジェは顔を上げた。

イヴリンは優しく微笑む。


「人は過去を抱えたまま生きていくものだもの」


楽しかった記憶も。

苦しかった記憶も。

消えはしない。


「けれど、生きている限り、今の時間は流れていくでしょう?」


アンジェは黙って聞く。


「大切なのは、過去を抱えたままでも、今目の前にいる人を見ようとすることじゃないかしら」


その言葉に、アンジェの胸がどくりと鳴った。

まるで。

先ほど自分がエドワードへぶつけた言葉の答え合わせみたいだった。

イヴリンは娘の顔を覗き込む。


「……アンジェ?」


「えっ」


「あなた、誰の話をしているの?」


にこり。

完全に気づいている顔だった。


アンジェは一瞬固まり。


「ち、違います!」


勢いよく否定した。


「別にそういうんじゃなくて!」


「ふふ、素直になることね」


「お母様!!」


真っ赤になる娘を見て、イヴリンは楽しそうに笑ったのだった。

アンジェは窓の外へ視線を向けながら、膝の上でそっと指を握りしめていた。

夕暮れの街並みがゆっくり流れていく。

けれどその景色はほとんど目に入らない。

頭の中には、先ほどのエドワードとの会話ばかりが残っていた。

感情のまま怒ってしまった。

勢いで飛び出してしまった。

今思い返すと、顔から火が出そうになる。

けれど。

あの時見たエドワードの目が、どうしても離れなかった。

過去を見続ける目。

死んだ彼女を抱えたまま、自分を許さない目。

そして同時に。

港で働く人々と話す時の穏やかな顔。

真剣に改革を語る姿。

不器用なくらい誠実な姿も思い出す。

噂だけでは分からなかった。

実際に会って、話して、知った。

だからこそ、放っておけないと思ってしまったのだ。


(……次に会ったら、ちゃんと謝ろう)


あんな怒鳴り方をするつもりではなかった。

もっと落ち着いて話したい。

そして。


アンジェは胸元へそっと手を当てる。

いつの間にか、ここに小さな熱が灯っている。

戸惑うけれど。

否定したくない気持ち。


(ちゃんと……伝えてみようかな)


公爵閣下を見ていると苦しいこと。

放っておけないこと。

信じたいと思っていること。

素直に。

今度こそちゃんと。


そう思った瞬間だった。

馬車が急停止した。

がくん、と大きく揺れ、アンジェは思わず座席へ手をつく。

「きゃっ」


イヴリンがすぐ窓の外へ視線を向ける。

「どうしたの?」


御者が申し訳なさそうに答えた。

「前方で馬車が脱輪しているようでして。道を塞いでおります」

アンジェも窓から覗く。

少し先で、一台の馬車が斜めに傾き立ち往生していた。

御者とらしき男が慌てた様子で助けを求めている。

イヴリンは小さく眉を寄せたが、すぐに護衛へ指示を出した。


「手を貸して差し上げて」

「はっ」


護衛たちが馬を降り、前方へ向かう。

狭い道だ。

確かに助けなければこちらも進めない。

アンジェはほっと息をつきかけ――。


次の瞬間。

「っ!?」

外から鈍い音がした。

どさり、と。

何かが倒れる音。

御者の短い呻き声。


「え?」


アンジェが顔を上げた時には、馬車の扉越しに人影が走るのが見えた。

御者席の扉が乱暴に開かれる。

「な――」

イヴリンが立ち上がる。

引きずり下ろされた御者が地面へ転がった。

代わりに、黒い外套の男が御者席へ飛び乗る。


「止まりなさい!!」


護衛の怒声。

だが遅い。

ばんっ、と鞭が鳴った。

馬が激しく嘶く。

次の瞬間、馬車が猛スピードで走り出した。


「きゃあっ!」


アンジェの身体が大きく揺れる。

イヴリンが咄嗟に娘を抱き寄せた。

外では護衛たちの叫び声が遠ざかっていく。


「奥様!!」


「追え!!」


石畳を凄まじい速度で駆ける馬車。

窓の外の景色が流れる。

アンジェは青ざめた。

脳裏に浮かぶのは、昼間のエドワードの言葉。


――身辺に気をつけてください。


その意味を。


今、ようやく理解したのだった。

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