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第15話 忘れられない人

港湾事務所の応接室には、紙の擦れる音だけが静かに響いていた。


「――ですので、南側倉庫の管理権限を一部港湾局へ戻せれば、荷の滞留はかなり改善されるかと」


エドワードが資料を示しながら説明する。

落ち着いた声だった。

低く、聞き取りやすい。

理路整然としていて、無駄がない。

だが。


アンジェは、その言葉が半分も頭に入っていなかった。

じっとエドワードの顔を見てしまう。


「……アンジェ嬢?」


「はっ」


慌てて姿勢を正す。


「聞いておられましたか」


「き、聞いてました!」


たぶん聞いていなかった。

エドワードは少し怪訝そうにしたが、それ以上は追及しなかった。

アンジェは誤魔化すように資料へ視線を落とす。

けれどやはり、意識は隣へ引っ張られる。


十年前。

“お花畑の元王太子”。

恋に溺れ、婚約者を大勢の前で捨てた愚かな男。

噂の中のエドワードは、そういう人物だった。

だが実際会った彼は、まるで違う。

真面目で。

仕事熱心で。

現場にも自ら足を運び。

市井の人々の暮らしや物流にも驚くほど詳しい。

少し卑屈なくらいで、むしろ自分を低く見積もっている。

だから今まで、噂と本人が上手く結びつかなかった。


だが昨日。

フリージアから過去を聞いたことで、ようやく少し繋がったのだ。

真っ直ぐすぎて、暴走した王子。

そして、悪女として死んでいった男爵令嬢。


アンジェはふと考えてしまう。

そんな終わり方をした相手を、果たして忘れられるのだろうか。

むしろ今も。

忘れられないのではないか。

縁談は断るつもりだと言われている。

だが本当は。

今でも彼女を想っているのでは――。


そう考えた瞬間、胸の奥が妙にざわついた。

(……なんで私、こんなモヤモヤしてるの)

自分でも分からない。

その時だった。

外から怒鳴り声が響いた。


「通せって言ってんだろ!!」


「待て! 許可証を見せろ!」


「ふざけんな!!」


どたん、と何かが倒れる音。

アンジェとエドワードは同時に顔を上げた。

外へ出ると、港の搬入口付近が騒然としていた。

荷車が横倒しになり、木箱が散乱している。

怒鳴り合う男たち。

従業員が慌ただしく動き回っていた。


「またか……」


エドワードが低く呟く。


その直後。


「憲兵だ!!」


鋭い声とともに憲兵たちが駆け込んできた。

逃げようとした男たちが次々取り押さえられる。


「離せ!」


「港湾業務妨害の容疑だ!」


捕物が始まり、周囲にはあっという間に野次馬が集まった。


「最近多いなぁ」


「改革絡みだろ」


「でも、公爵閣下って本当に信用できるのか?」


その声にアンジェの眉がぴくりと動く。


「十年前、婚約者との約束を平気で破った人だろ?」


「いや、最近はちゃんとしてるって聞くぞ」


「でもなぁ……」


「正直、何考えてるか分からない」


庇う声もある。

だが、戸惑う声のほうが多かった。

噂と、今目の前にいるエドワード。

人々自身も、その差に迷っているのだ。

アンジェはかっとした。


「何も知らないくせに――」


「アンジェ嬢」


低い声だった。

振り向くと、エドワードが静かに首を振る。


「中へ戻りましょう」


「でも!」


「ここで言い返しても、騒ぎが大きくなるだけです」


その声音は妙に落ち着いていた。

慣れているようで。

アンジェは余計に腹が立つ。

だが結局、エドワードに促されるまま室内へ戻った。

扉が閉まり、外の喧騒が少し遠ざかる。

二人きりになると、アンジェは堪えきれず言った。


「なんなんですか、あれ」


エドワードは少し苦笑した。


「最近、妨害工作が増えているのです」


「妨害工作?」


「この業務提携を快く思わない者たちがいます」


港湾改革。

交易改革。

既得権を奪われる人間は少なくない。


「それに、私自身をよく思わない者も」


エドワードは淡々と言った。


「十年前の件を蒸し返し、“約束を破る男”だと噂を流している一派がいます」


アンジェは眉を寄せる。


「そんなの……」


「改革を止めるには、私個人への不信を煽るのが早いのでしょう」


まるで他人事のような言い方だった。

エドワードは続ける。


「アンジェ嬢も気をつけてください」


「え?」


「マルス商会は今や私の協力者です。嫌がらせや脅し程度は十分あり得る」


アンジェは少し目を見開く。

エドワードは静かに付け加えた。


「妨害している者の中には、十年前の件で私を恨んでいる人間もいます」


「……」


「婚約を破った男は信用できない、と」


アンジェは思わず声を荒げた。


「でも騙されてたんでしょう!?」


エドワードは少し目を伏せた。


「騙されていたことと、婚約破棄は別問題です」


静かな声だった。


「貴族にとって婚約は契約です。それを公衆の面前で破棄した。重大な契約違反であることに変わりはありません」


「でも!」


アンジェは食い下がる。

エドワードは苦く笑った。


「婚約破棄の一幕は、私が暴走した結果です」


アンジェは目を瞬く。


「彼女にとっては、むしろ想定外の事態だった」


そして静かに続ける。


「彼女の目的は、王太子妃になることではありませんでした」


「え?」


「愛人として王太子を囲い込み、傀儡にすることです」


アンジェは息を呑む。


「ですが私は、彼女を日陰へ置くつもりなど全くなかった」


正式に婚約を破棄し、彼女を妻にすると言い出した。

それは彼女にとっても予想外だったのだ。


「だから婚約破棄も、その後の混乱も、責任は私にあります」


静かな声だった。

諦めたような。

自分を裁き続ける声。

アンジェは、その目を見る。

過去を見ている目だった。

十年前を。

死んだ彼女を。


――今も、ずっと。


アンジェはぎゅっと拳を握った。


「……公爵閣下」


「はい」


「なんで、そんな目をするんですか」


エドワードが少し目を瞬く。

アンジェは唇を噛んだ。

胸が苦しかった。


「過去ばっかり見て」


声が震える。


「死んだ彼女ばっかり見て」


「アンジェ嬢――」


「今、生きてあなたを信頼してる人を見てくださいよ!」


部屋が静まり返る。

エドワードの瞳がわずかに揺れた。


「港の人たちだって、商会の従業員だって、王太子殿下たちだって……!」


アンジェは感情が溢れてしまい、言葉が止まらなかった。


「みんな今のあなたを見てるのに、なんで本人だけ十年前に閉じこもってるんですか!あなたを想っている人が……」


ついに涙がこぼれた。


「目の前にもいるでしょう!!」


言った瞬間、自分でも何を言っているのか分からなくなった。

エドワードは動揺した顔でアンジェを見返していた。

いつも冷静なエドワードのそんな顔に、逆に動揺してしまう。


アンジェは勢いよく踵を返してそのまま部屋を飛び出していった。

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