自分をうつす鏡
ある日、ボクはとても驚くべきものを見た! それを見た時の恐怖は言葉では説明できない。ただただ、とても怖かったのだ。そいつはチョロチョロと動き回り、ボクに聞こえる高い音で時折り話しかけてきた。だけれども、その存在もボクに対して恐れを感じていたらしく、積極的に接触してくることはなかったのである。
そもそも、ボクはボク自身がどんな格好をした生き物であるかを知らなかった。前足がニ本あって後ろ足が二本あり、うんちとおしっこをする器官があり、全身が毛で覆われているらしいことは知っていたが、それ以外は分からなかったのである。人間さんは鏡というものを使って、自分がどんな姿をした生き物であるかを認識しているらしいので、自分に似た姿のものを見ても、さして驚かないらしいが、ボクたちは違うのである。
ボクだってお兄ちゃんが冗談でおいた鏡で自分の姿を見たことはあったが、それが自分自身であるなどと確信することもなかったのである。それゆえ、ボクは仲間に出会っても恐怖を感じたのだ。確かにボクに似たニオイがプンプンしていたのだが、それがジャンガリアンハムスターの雌であると気づくのには、随分と時間がかかったのだ。
残念ながら、ボクと同じようにケージで暮らしていた彼女と仲良くなることは出来なかったが、お兄ちゃんが彼女につけた名前くらいは憶えている。よっちゃんがそれだ。なんでも、『魔法使いサリー』というアニメに登場する女の子の名前なのだそうだ。
よっちゃんは気性が荒く、お兄ちゃんにも懐かなかったのだそうだ。実際、ボクもよちゃんが良く――シュ! ジュ! と怒っている声を耳にしたものだ。
だけれども、ボクはよっちゃんに大変感謝しているのだ。なぜならば、自分がどんな生き物なのかを教えてくれたのは彼女なのであるからだ。雄と雌という違いはあれども、ボクが暮らしていて一番衝撃的であり、また感動的だったできごとは彼女との出会いにあったのである。
しばらくの間、ボクは彼女の存在を嗅ぎ取っていたのだが、ある日を境に彼女の放つニオイが少しずつ消えてゆくのを感じたのだ。
お兄ちゃん曰く、よっちゃんは早死にしてしまったということらしいのだが、ボクにはよくわからないのである。
死んじゃう。死ぬってなんだ? お兄ちゃんはブッポウとかいうテツガクを使ってボクにとても丁寧に説明してくれたのだが、どうしてもボクにはわからなかったのだ。少ないおつむを使って、ボクはボクなりに想像してみたり必死に考えたりもしたのだが、とんと見当がつかなかったのである。そしてそのうち、そうしたことも忘れてしまったのだ。
そんなことよりも、美味しいものを食べたり、気持ちよく眠ったりすることのほうが、ボクにとっては重要だったということだ。
そうしたこと以外で気になったことといえば、おしっこをする部分がなんだかモゾモゾとして、落ち着かない気分になったことだ。こうなるとやたらとストレスが溜まり、それを発散しようとしてケージの棒をガジガジと齧ったり、所構わず走り回ったりしたのだが、どうにもこうにもならない奇妙な欲望を抑えることが出来なかったのである。
お兄ちゃんの彼女はなぜかわからないが、そうしたボクの気持ちを知っていたらしく、よっちゃんをボクのために連れてきてくれたのだそうだ。
もしも、ボクがよっちゃんと同じケージで暮らすことになったならば、ボクにはよくわからないながらも、おしっこをするところのモゾモゾ感をまぎらわす方法に自然に気づくことができたらしいのだが、ボクにはそういう機会が廻ってこなかったのである。
その他にも、ボクには好きなものには優しくして、嫌いなものには冷酷な態度を取るという習性があるらしいのだが、なにしろボクはずっとひとりで暮らしてきたので、あまりそういう気分になったことがないのだ。あえていえば、お兄ちゃんの彼女はあんまり好きではなかったといったところだ。そうではあっても、特別嫌いというわけでもなかったのである。ただなんとなくであり、理由があって好きになれなかったわけでもない。
どうしても正確にいい表わせといわれたならば、お姉ちゃんはあまりエサをくれなかったからだろう。
こうした感情は人間さんにもあるらしく、お兄ちゃん曰く、本能というものらしい。ボクには難しすぎて良くわからないし、気にしたことすらないのであるが……。




