第98話『返事』
「また」
グレイは、その音を何度も繰り返した。
暗い部屋。
壊れた食卓。
割れた皿。
弱く灯る魔導灯。
布を重ねた寝床。
そこに眠るチイたち。
見張るクロ。
寄り添うニィ。
布人形を抱えるアカ。
骨を並べるカラ。
前に立つマエ。
言葉を真似るミル。
その全ての中心で、グレイは小さく声を出していた。
「また」
意味は、まだ完全には分からない。
だが、音の形は残っている。
エリシアが最後に言った。
また、話したい。
その言葉の中で、グレイが掴めたのは少しだけだった。
また。
次。
もう一度。
終わりではない。
それだけ。
けれど、それだけでも大きかった。
人間の声は難しい。
聞こえる、は分かった。
待て、も分かる。
来ないで、も分かる。
でも、傷つけたくない、は難しい。
ここにいて、も難しい。
人を襲わないで、はもっと難しい。
人間の言葉は、ただの音ではない。
複数の意味が絡まり、過去が混ざり、気持ちが乗る。
グレイには、それが全部は掴めない。
だから、前回は絡まった。
エリシアは何かを伝えようとした。
グレイも何かを返そうとした。
でも、言葉は途中で濁り、クロの警戒とニィの不安とアカの恐怖とミルの好奇心が全部混ざった。
結果、グレイは「こないで」と返した。
それは嘘ではない。
来てほしくなかった。
近づかれたくなかった。
チイたちを見られたくなかった。
でも、それだけではなかった。
本当は、もう少し違うこともあった。
聞こえる。
怖い。
近づくな。
でも、また声は聞きたい。
傷つけたくない。
でも、傷つけるかもしれない。
食べたい。
でも、人間は食べたくない。
守りたい。
でも、人間も守るものを持っている。
その全部を、どう言えばいいのか分からなかった。
だから、グレイは言葉を探していた。
群れの中にある音を集める。
人間の記憶。
レオン。
兵士。
アカの中に残る母親の声。
エリシアの呼びかけ。
アレンの低い声。
ラグドの警戒。
セヴィルの記録する声。
それらをひとつずつ拾う。
「きこえる」
これは使える。
呼びかけへ返す言葉。
「こないで」
これは距離を作る言葉。
「ごめん」
これは傷つけた後の言葉。
「ごはん」
これは食べる言葉。
「だいじょうぶ」
これは安心させる言葉。
「こわい」
これは恐怖。
「いたい」
これは痛み。
「また」
これは次。
それらを並べれば、何かになるのか。
グレイは、魔導灯の光を見つめながら考えた。
人間は言葉を並べる。
そうすれば、複雑なことを伝えられる。
レオンの記憶の中で、人間はいつもそうしていた。
一つの音では足りないから、音を繋ぐ。
でも、繋ぎ方を間違えれば意味が変わる。
それが難しい。
ミルが近づいてきた。
「また」
すぐ真似る。
グレイはミルを見る。
ミルは、言葉を集めるのが早い。
だが、意味はまだ浅い。
「また」
「きこえる」
「こないで」
「ごめん」
ミルは順番に鳴いた。
それはただの列だった。
でも、グレイの中で、何かが引っかかった。
また。
きこえる。
こないで。
ごめん。
これを人間に返したら、どう聞こえる。
意味はあるのか。
ミルは楽しそうだった。
音を繋げる。
今までより長い。
それが面白い。
だが、ニィは不安そうに見ている。
人間の言葉を長く繋げるほど、群れが不安定になるからだ。
アカが布人形を抱えたまま、ぽつりと言った。
「ごめん……いたい……」
その声には重みがある。
アカは、食べた兵士の痛みをまだ抱えている。
だから「いたい」と「ごめん」が近い。
グレイはそれを覚える。
傷つけたら。
痛い。
ごめん。
だが、痛いのは相手だけではない。
アカも痛い。
グレイも痛い。
人間も痛い。
群れも痛い。
誰の痛みを言うのか。
言葉はまた絡まる。
クロが低く唸った。
外。
人間。
近づいている。
今度はまだ遠い。
だが、来る。
三度目の呼びかけか。
それとも偵察か。
グレイは感覚を広げた。
人間の匂い。
アレン。
エリシア。
ラグド。
ロウ。
セヴィル。
また同じ。
ただし、今回はさらに慎重だ。
距離を取っている。
盾が多い。
弓もある。
だが、火と毒は遠い。
呼びかけ。
また。
グレイの中で、その言葉が反応した。
人間はまた来た。
声を交わすために。
それなら、今度はこちらから返さなければならない。
ただ聞こえるだけでは足りない。
こないでだけでも足りない。
グレイは、群れへ感覚を送った。
隠れろ。
静かに。
声を出すな。
ミルが少し残念そうにする。
アカは震える。
ニィがチイを抱える。
クロは不満を持ちながら入口へ。
カラは骨を止める。
マエは前へ。
グレイは、魔導灯の光から離れた。
暗がりへ。
人間の声が届く場所へ。
今回、人間側は前回よりも慎重だった。
ラグドは全員の配置を何度も確認した。
「距離を詰めるな。声が返っても動くな。泣いても動くな。助けてと言われても動くな」
エリシアは、その言葉に少しだけ顔を歪めた。
でも反論しない。
それが必要だと分かっている。
夜道の件がある。
助けて、という声に近づけば危険。
人影に近づけば危険。
声が優しくても、近づけば壊れる。
だから、距離を守る。
アレンはエリシアの横にいる。
剣は抜いていない。
だが、今までよりも集中している。
前回の混線。
グレイの唸り。
それを思い出している。
言葉は剣より危うい。
そう感じていた。
セヴィルは、今回の呼びかける言葉を紙に書いてきていた。
短い言葉だけ。
名を呼ぶ。
聞こえるか。
待て。
怖いか。
食べ物。
また話す。
それ以上は使わない。
防衛局の男は強く反対したが、ラグドが押し切った。
ただし、兵は多い。
盾もある。
少しでも異変があれば即撤退。
それが条件だった。
エリシアは、暗い通路の奥へ向かって声を出した。
「グレイ」
返事は、すぐにはなかった。
だが、奥の空気が動く。
そこにいる。
全員が分かる。
エリシアは続けた。
「聞こえる?」
しばらく沈黙。
そして、暗闇の奥から声が返った。
「きこえる」
人間側に緊張が走る。
もう驚きは前ほどではない。
だが、慣れることはない。
怪物の声。
人間の言葉。
その二つが混ざっている。
エリシアは、深く息を吸う。
「待って」
奥から返る。
「まて」
セヴィルが記録する。
単語模倣。
いや、状況応答。
どちらとも言える。
エリシアは、次を慎重に選んだ。
「怖い?」
グレイは、少し沈黙した。
怖い。
この言葉は分かる。
アカがよく使う。
ミルも使う。
チイたちも意味を持ち始めている。
怖い。
恐怖。
グレイは怖いのか。
人間が怖い。
火が怖い。
毒が怖い。
チイを失うのが怖い。
アカがまた人間を食べるのが怖い。
ミルが夜道へ出るのが怖い。
エリシアが近づくのが怖い。
エリシアが去るのも、少し怖い。
どれを言えばいい。
グレイは、ゆっくり返した。
「こわい」
エリシアの目が揺れた。
アレンが奥を見つめる。
ラグドは動かない。
セヴィルの手が止まりかける。
怪物が怖いと言った。
それをどう受け取るべきか。
防衛局の兵の一人が、小さく息を呑む。
怖いのはこっちだ。
そう思っているかもしれない。
それも正しい。
エリシアは、声を震わせないように言った。
「私も、怖い」
その言葉は、予定になかった。
ラグドが横目で見る。
だが止めなかった。
短い。
分かりやすい。
しかも、嘘ではない。
グレイには、完全には分からない。
私。
も。
怖い。
私。
エリシア自身。
も。
同じ。
怖い。
エリシアも怖い。
人間も怖い。
グレイも怖い。
その構造を、グレイはぼんやり掴んだ。
「こわい」
グレイはもう一度言った。
今度は、少しだけ違う響きだった。
自分だけではない。
相手も。
その感覚が混ざった。
エリシアは泣きそうになった。
しかし、次へ進む。
「食べ物」
グレイの身体が反応する。
食べ物。
ごはん。
肉。
餌。
チイ。
空腹。
危険。
人間が食べ物と言う。
何を意味している。
くれるのか。
奪うなと言うのか。
グレイは沈黙する。
セヴィルが小さく言う。
「焦らないで」
エリシアは頷く。
そして、用意していた布包みを後方の兵へ合図する。
肉。
毒のないもの。
何度も確認したもの。
だが、まだ近づけない。
置く場所は遠い。
人間側と灰の巣の中間より、人間側寄り。
エリシアは言う。
「食べ物、置く」
置く。
その言葉はグレイにはやや難しい。
でも、物を置く行為は分かる。
皿へ肉を置く。
布を置く。
骨を置く。
人間が食べ物を置く。
何のために。
毒かもしれない。
罠かもしれない。
だが、食べ物。
グレイの中でチイたちの空腹が反応する。
ニィも強く反応する。
クロは警戒。
アカは人間の血の記憶で震える。
ミルは好奇心。
グレイは、返事を探した。
食べ物。
置く。
待て。
怖い。
ごめん。
言葉が足りない。
グレイは、ゆっくり言った。
「ごはん……こわい」
エリシアが息を呑む。
セヴィルは目を見開く。
意味がある。
少なくとも、そう聞こえる。
食べ物が怖い。
毒を疑っているのか。
人間からの餌を警戒しているのか。
あるいは、食べる行為そのものが怖いのか。
解釈はいくつもある。
だが、単語を繋いだ。
グレイが、初めて自分の状態を組み立てた。
エリシアは慎重に言った。
「毒、ない」
セヴィルが少し顔をしかめる。
毒という言葉を出すのは危険かもしれない。
だが、もう出た。
グレイの中で、毒の匂いが蘇る。
人間が持ってきたもの。
殺すためのもの。
ない。
否定。
難しい。
毒ない。
毒がない。
本当か。
分からない。
グレイは沈黙する。
クロが唸る。
人間の食べ物は危険。
ニィは食べ物が欲しい。
チイたちが空腹。
グレイは決めきれない。
その時、アカが奥から小さく言った。
「ごめん……」
人間側にも微かに届く。
エリシアはその声を聞いて動きかける。
だが、止まる。
近づかない。
グレイは、アカの声を受けて言葉を組み立てた。
「ごめん……ごはん……こわい……」
人間たちは凍った。
それは、文章ではない。
文法もない。
だが、意味がにじむ。
ごめん。
食べ物。
怖い。
灰の巣が人間を食べたことを思い出しているようにも聞こえる。
人間からの食べ物を怖がっているようにも聞こえる。
食べること自体を謝っているようにも聞こえる。
あまりにも曖昧で、あまりにも重い返事。
エリシアの目に涙が浮かんだ。
アレンは唇を噛む。
ラグドは低く息を吐く。
セヴィルは、記録できないまま立ち尽くした。
防衛局の兵は恐怖していた。
怪物が言葉を並べている。
意味がありそうな言葉を。
それは、ただの魔物よりずっと怖い。
エリシアは、最後に言った。
「また、話す」
短く。
前回の言葉を少し簡単にした。
また。
話す。
グレイには、少し分かる。
また。
次。
話す。
声を交わす。
グレイは、返した。
「また……きこえる」
それは不完全な返事だった。
でも、人間側にははっきり届いた。
また聞こえる。
また聞く。
また声を返す。
そう聞こえた。
エリシアは、もう泣きそうだった。
ラグドが小さく言う。
「ここまでだ」
今回は、彼女も頷いた。
欲張ってはいけない。
これ以上言えば、また絡まる。
アレンが布包みの肉を、決められた場所へ置いた。
距離はある。
それ以上は近づかない。
人間たちはゆっくり下がる。
グレイは、その気配を感じていた。
肉。
置かれた。
人間は下がる。
攻撃しない。
まだ、信じない。
でも、取るかどうかは後で決められる。
グレイは追わなかった。
人間たちが完全に離れてから、クロが行きたがった。
先に確認する。
危険なら捨てる。
その感覚。
グレイは止めた。
まだ。
ニィがチイを押さえる。
ミルが「ごはんこわい」と真似する。
アカが「ごめん」と呟く。
カラが骨を鳴らそうとして止める。
グレイは、暗い通路の奥で肉の匂いを嗅いだ。
食べ物。
人間が置いた。
毒かもしれない。
贈り物かもしれない。
罠かもしれない。
対話の続きかもしれない。
分からない。
だが、今までと違うことだけは分かる。
人間は今回、声を使い、食べ物を置き、下がった。
グレイは、言葉を返した。
怖い。
ごめん。
また聞こえる。
そのやり取りは、ひどく不完全だった。
でも、たしかにやり取りだった。
人間の期待した返事ではなかったかもしれない。
「襲わない」とは言えなかった。
「分かった」とも言えなかった。
「仲直り」などできない。
ただ、怖いと返した。
ごめんと返した。
また聞こえると返した。
それだけ。
それでも、地下の暗闇に、小さな道ができたように感じた。
細く。
脆く。
いつでも崩れる道。
グレイは、魔導灯の光へ戻りながら、何度もその言葉を繰り返した。
「また……きこえる」
群れが静かに聞いている。
それは、人間へ向けた返事だった。
そして同時に、グレイ自身へ向けた確認でもあった。
まだ終わっていない。
声は、まだ聞こえている。




