第97話『呼びかけ』
声は、残った。
人間たちが去ったあとも。
足音が遠ざかり、通路の気配が薄れ、ロウの弓の張り詰めた空気も、ラグドの警戒も、アレンの迷いも、エリシアの震える願いも、セヴィルの観察する視線も、すべてが遠くなったあと。
それでも、声だけは残った。
グレイ。
聞こえる?
人間が、自分の名を呼んだ。
それは、ただの音ではなかった。
群れの内側で呼ばれるグレイとは違う。
クロが呼ぶ。
ニィが呼ぶ。
チイが未熟な声で真似る。
それらは、巣の中の音だった。
匂いと感覚とつながりに包まれた、群れの音。
だが、エリシアの声は外から来た。
群れの外。
敵の側。
人間の側。
そこから、自分の名を呼んだ。
それが、グレイの中に深く刺さっていた。
魔導灯の光は、まだ弱く灯っている。
ぱち。
ぱち。
小さく揺れて、壁に影を作る。
その影の中で、チイたちが眠っている。
熱を出したチイも、まだ弱いが、呼吸は落ち着いていた。
ニィはそのそばにいる。
クロは入口側。
カラは皿の欠片と骨を並べているが、音を鳴らさないようにしている。
マエは寝床の外側。
ミルは、ずっと同じ言葉を練習していた。
「きこえる」
小さく。
歪んで。
何度も。
「きこ……える」
ニィは止めなかった。
この言葉は、今までの言葉と少し違った。
こないで。
たすけて。
ごはん。
ごめん。
おはよう。
それらは、群れの中の状況に結びつき始めている。
だが、「聞こえる」は、人間への返事だった。
外へ向かう言葉。
ミルはそのことを完全には理解していない。
それでも、外へ伸びる音だと感じているらしい。
だから、何度も練習する。
アカは、魔導灯の近くで布人形を抱えていた。
前より静かだ。
でも、時々人間の記憶が揺れる。
「ごめん」
「こわい」
「だいじょうぶ」
そのどれでもない言葉を探しているように、口を小さく動かしている。
グレイは、部屋の中央でじっとしていた。
人間と声を交わした。
その事実は、群れの空気を変えている。
クロは不満だった。
人間と声を交わすことは、危険だ。
呼ばれれば近づきたくなる。
返せば、また呼ばれる。
声は道になる。
道は敵を連れてくる。
クロの感覚は単純で、強い。
ニィは揺れていた。
人間は攻撃しなかった。
エリシアの声には、刃がなかった。
でも近づくのは怖い。
チイたちを守るには距離が必要。
アカは別の揺れを持っていた。
ごめん。
人間。
血。
自分が噛んだ兵士。
エリシアの声。
それらが、アカの中で壊れたまま混ざっている。
ミルはただ学ぼうとしている。
カラは音の違いを覚えている。
マエは、いつでも前に出るつもりでいる。
チイたちは、人間の声の意味をまだ知らない。
だが、声が来ると群れ全体が変わることだけは感じている。
グレイは、そのすべてを背負っていた。
人間の声は、危険だ。
それでも、グレイはまた聞きたいと思ってしまった。
そのことが怖かった。
人間側でも、声は残っていた。
エリシアは、臨時拠点に戻ってからずっと黙っていた。
自分の声に、グレイが返した。
きこえる。
ごめん。
たったそれだけ。
それだけなのに、彼女の中では大きすぎた。
魔物が言葉を返した。
しかも、問いに対する形で。
偶然ではない。
少なくとも、そう思えてしまう程度には繋がっていた。
ラグドは会議室の机に地図を広げたまま、何度も同じ場所を睨んでいた。
旧排水路。
生活区画。
灰の群れがいる場所。
その周辺に印が増えている。
侵入不可。
観測地点。
退路。
狙撃位置。
毒煙投入口候補。
誘導路。
そして、新しく書き込まれた印。
呼びかけ地点。
ラグドは、その文字を見るたびに苦い顔をした。
「呼びかけ地点、ね」
セヴィルが横で記録をまとめている。
「便宜上の名称です」
「便宜上でも気持ち悪ぃ」
「同意します」
セヴィルは淡々と言った。
だが、その手は速い。
彼は今回の出来事を、極めて重要な転換点として記録していた。
《中心個体グレイ、名前への反応あり》
《人間側呼びかけ「聞こえる?」に対し、音声返答「きこえる」を確認》
《謝罪語「ごめん」を再発話》
《反応は単純模倣ではなく、問いへの応答である可能性》
可能性。
その言葉で抑えるしかない。
断言はできない。
だが、否定もできない。
アレンは壁際に立ち、ずっと目を閉じていた。
剣を持つ手はいつも通りだ。
だが、内側は落ち着いていない。
グレイが返事をした時、アレンの中で何かが揺れた。
あれは敵だ。
止めなければならない。
そう思っている。
だが同時に、言葉を返した相手をただ斬れるのか、分からなくなっている。
人間を傷つけた。
それは事実だ。
兵を食いかけた。
子供を噛んだ。
夜道で人影を真似た。
危険すぎる。
それでも、聞こえる、と返した。
ごめん、と言った。
その二つが、同じ存在の中にある。
アレンは、その矛盾の前で止まっていた。
防衛局の男は、苛立っていた。
「これ以上の接触は危険です」
当然の意見だった。
「一度返事をしたから何だと言うのです。あれは人間の声を真似る。こちらの言葉を利用する。夜道の件をもう忘れたのですか」
ラグドは答えない。
男は続ける。
「助けて、を使った。こないで、を使った。今度は聞こえる、です。次は何です? 降伏します、とでも言わせるつもりですか」
セヴィルが静かに言う。
「言わせるのではありません。意味が繋がるかを見るのです」
「その結果、誰かが死んだら?」
「だから距離を取りました」
「距離があれば安全だと?」
セヴィルは黙る。
安全ではない。
誰もそんなことは思っていない。
ただ、知らないまま燃やすよりは、危険を把握したい。
それだけだ。
エリシアが、ようやく口を開いた。
「もう一度だけ、呼びかけたいです」
防衛局の男が、冷たい目で彼女を見る。
「正気ですか」
「はい」
「相手は人食いです」
「分かっています」
「なら」
「だからです」
エリシアの声は弱くなかった。
「もし、言葉が通じる可能性があるなら、これ以上人を襲わないでと伝えたい」
「前回も言ったでしょう。沈黙した」
「難しすぎたのかもしれません」
男は呆れたように笑った。
「魔物に分かりやすく話せと?」
「はい」
エリシアはまっすぐ答えた。
男は返す言葉を失った。
ラグドが、深く息を吐いた。
「簡単な言葉にする」
セヴィルが頷く。
「否定形は避けるべきです」
アレンが聞く。
「否定形?」
セヴィルは説明する。
「“襲うな”や“来るな”は、概念が複雑です。“襲う”を理解し、その否定を理解する必要がある。しかも、彼らにとって防衛行動と襲撃行動の境界が違う」
ラグドが顔をしかめる。
「つまり、何て言えばいい」
「距離を取れ。止まれ。待て。食べ物。交換。そういう単純語の方がいい」
防衛局の男が口を挟む。
「餌付けするつもりか」
ラグドが睨む。
「黙ってろ」
セヴィルは続ける。
「特に“人を襲うな”は、向こうにとって“人が近づいた時、守るな”と受け取られる可能性もある」
エリシアが小さく言う。
「じゃあ、何を伝えれば……」
アレンが静かに言った。
「近づくな、じゃなくて、ここにいて、ですか」
セヴィルは少し考える。
「それも危険です。彼らが“ここ”をどこまで理解するか不明です」
ロウが壁際から言った。
「じゃあ、まずは呼んで、返事を見るだけだな」
ラグドは頷いた。
「今日のところはそれだ」
エリシアは少し不満そうだったが、反論しなかった。
焦れば壊れる。
それは彼女も分かっている。
だが、時間はない。
中央命令は殲滅を許可している。
防衛局の強硬派は、いつでも毒煙を流したがっている。
村人の恐怖も限界に近い。
対話に割ける時間は、ほんの少ししかない。
その夜、二度目の呼びかけが行われた。
前回と同じ場所ではない。
少し手前。
距離を長く取った。
声が届くかどうか、ぎりぎりの位置。
ラグドの判断だった。
「近づくほど向こうも緊張する。少し離す」
ロウは高所で弓を構える。
アレンはエリシアの少し前。
剣は抜いていない。
だが、手は柄にかかっている。
セヴィルは記録板を持ち、耳を澄ませている。
防衛局の兵は後方。
盾と防護術の準備。
エリシアは、深く息を吸った。
暗い通路の奥を見つめる。
そこには、弱い光が見えた。
魔導灯。
地下に灯る小さな光。
その周りに、何かの影が動いている。
灰の群れ。
彼女は、その光景を見てしまった。
完全には見えない。
だが、分かる。
地下の暗闇に、小さな灯りを囲む影たち。
それが、あまりにも人間の家に似ていて、そしてあまりにも違っていて、胸が痛くなった。
ラグドが低く言った。
「始めろ」
エリシアは頷いた。
「グレイ」
声が通路を伝う。
一度目より少し遠い。
反響する。
グレイ。
地下の部屋で、グレイは顔を上げた。
まただ。
人間の声。
エリシア。
クロがすぐ唸る。
ニィがチイを寄せる。
ミルが口を開きかける。
グレイは止める。
自分が出る。
グレイは、魔導灯の光から離れ、暗がりへ進んだ。
今回はすぐには姿を見せない。
距離がある。
声だけが届く。
エリシアがもう一度言う。
「グレイ。聞こえる?」
同じ問い。
グレイは覚えている。
聞こえる。
返す言葉。
グレイは喉を震わせた。
「きこえる」
人間側に、緊張が走る。
セヴィルが記録する。
二度目。
明確な応答。
エリシアは、胸がいっぱいになりかけた。
だが、焦らない。
今度は、言葉を選ぶ。
短く。
分かりやすく。
「待って」
グレイは止まる。
待って。
待つ。
動かない。
これは分かる。
群れでも使う。
グレイがチイを止める時。
ニィが食事の順番を整える時。
待つ。
意味が近い。
グレイは返事を考える。
「ま……て」
ミルが奥で小さく真似しそうになる。
ニィが止める。
エリシアは息を呑む。
通じている。
少し。
本当に少し。
アレンの目が変わる。
ラグドも、表情を硬くしたまま黙っている。
エリシアは次の言葉を言う。
「来ないで」
その瞬間、グレイの中で言葉が揺れた。
来ないで。
これは知っている。
二体目が使った。
アカが使った。
ミルが夜道で使った。
人間を止める言葉。
距離を作る言葉。
だが、エリシアの声には攻撃がない。
来ないで。
つまり、こちらから近づくな。
人間側へ出るな。
そういう意味か。
だが、グレイの中で別の言葉と混ざる。
エリシアが以前言った。
人を襲わないで。
来ないで。
襲わないで。
こないで。
たすけて。
ごめん。
全部が、音として近い場所へ集まる。
アカが奥で震える。
「こないで……ごめん……」
ミルが小さく「たすけて」と呟きかける。
クロが唸る。
人間がまた命令している。
来るな。
なら、人間も来るな。
そういう怒り。
グレイは混乱した。
来ないで。
人間が言う。
でも、人間は今来ている。
近づいてきた。
声をかけている。
なら、こちらへ来るなという意味か。
それとも、これ以上近づくなという意味か。
それとも、群れに村へ来るなと言っているのか。
場所が分からない。
ここ。
そこ。
人間。
巣。
距離。
言葉だけでは足りない。
グレイは沈黙した。
エリシアが待つ。
セヴィルが小さく言う。
「反応が鈍った」
ラグドが低く返す。
「言葉が悪かったか」
エリシアは少し焦る。
「グレイ。来ないで。ここにいて」
さらに言葉が増えた。
グレイの中で混乱が大きくなる。
来ないで。
ここにいて。
どこがここ。
人間の場所か。
グレイの場所か。
今いる排水路か。
魔導灯の部屋か。
外に来るなということか。
ここにいてと言うなら、人間が来るのか。
危険。
クロが前へ出そうになる。
グレイは止める。
人間側でも空気が乱れる。
防衛局の兵がざわつく。
「動きました」
ロウが弓を引く。
「まだ撃つな」
ラグドが言う。
エリシアは、自分の言葉が混乱を招いていると気づいた。
でも、どう言えばいいのか分からない。
「傷つけたくない」
その言葉が、思わず出た。
ラグドが眉をしかめる。
複雑すぎる。
だが、もう遅い。
傷つけたくない。
グレイには、その言葉がほとんど分からない。
傷。
痛い。
つける。
ない。
欲しい。
ない。
感情が複雑すぎる。
だが、「痛い」は分かる。
アカが強く反応する。
「いたい……ごめん……」
チイたちがざわつく。
ニィが抑える。
ミルが「いたい」と真似しそうになる。
グレイの中で、対話が濁っていく。
声は繋がる。
でも、繋がった先で絡まる。
グレイは、ようやく返した。
「こないで」
人間側が止まる。
エリシアの顔が少し曇る。
それは、返事だった。
だが、意味が分からない。
グレイが言う「こないで」は、エリシアが言った「来ないで」と同じなのか。
人間へ来るなという意味か。
自分たちも行かないという意味か。
それとも、恐怖に反応しているだけなのか。
セヴィルが小さく言う。
「混線しています」
ラグドが低く頷く。
「ああ。これ以上はまずい」
エリシアは、まだ諦めたくなかった。
「待って、グレイ」
待って。
その言葉は通じるかもしれない。
だが、今のグレイには、それすら命令に聞こえた。
人間が呼ぶ。
待てと言う。
来るなと言う。
傷つけたくないと言う。
でも武器がある。
弓がある。
剣がある。
防衛局の兵がいる。
奥には毒の匂いも少し残る。
グレイは、低く唸った。
「グル……」
通路の空気が一瞬で張り詰める。
アレンが前へ出る。
「エリシア、下がって」
「でも」
「下がって」
声が強い。
ロウも弓を構える。
ラグドが手を上げる。
撤退準備。
セヴィルはまだ聞こうとしているが、ラグドが睨む。
「終わりだ」
エリシアは唇を噛み、下がった。
その足音に、グレイは少しだけ落ち着く。
人間が下がる。
距離ができる。
やはり、こないで、は通じたのか。
いや、人間が危険を感じて下がっただけか。
分からない。
エリシアは最後に、絞り出すように言った。
「また、話したい」
その言葉も複雑だった。
また。
話す。
したい。
グレイには断片しか届かない。
だが、声の感情だけは分かった。
エリシアは、攻撃したいのではない。
近づきたい。
でも怖い。
グレイと同じだった。
そのことだけは、言葉より深く分かった。
人間たちは下がっていく。
足音が遠ざかる。
今度は、前回より重い足音だった。
成功と失敗が混ざっている。
二度目の呼びかけは、つながった。
そして、絡まった。
地下の部屋へ戻ると、群れは不安に包まれていた。
クロは怒っている。
声は危険。
人間は近づく。
ニィはチイたちを抱え、震えている。
アカは「ごめん」と「こないで」を交互に呟く。
ミルは、混乱した言葉を真似しようとしている。
「まて」
「こないで」
「いたい」
「きこえる」
カラは骨を鳴らさない。
マエはチイの前で固まっている。
チイたちは、ただ不安を吸収している。
グレイは魔導灯の前へ戻った。
光が揺れる。
ぱち。
ぱち。
グレイは、その光を見ながら、エリシアの言葉を思い返した。
グレイ。
聞こえる?
待って。
来ないで。
ここにいて。
傷つけたくない。
また、話したい。
どれも完全には分からない。
でも、どれも何かを求めていた。
人間は、自分たちを止めたい。
それは分かる。
でも、すぐ殺したいだけではない人間もいる。
それも分かる。
その二つが同時に存在している。
人間は一つではない。
群れと同じだ。
クロの怒り。
ニィの不安。
アカの罪悪感。
ミルの好奇心。
グレイの迷い。
全部が群れの中にあるように、人間にも違うものがある。
エリシアは近づきたい。
防衛局は殺したい。
ラグドは止めたい。
アレンは守りたい。
セヴィルは知りたい。
ロウは見極めたい。
人間も、ばらばらだ。
だが、そのばらばらが同じ方向へ傾いた時、毒と火になる。
グレイは、それを理解していた。
だから、対話は危険だった。
言葉を間違えれば、ばらばらの人間が一つの敵になる。
そして灰の巣も、ばらばらの恐怖を一つの攻撃に変えてしまう。
それでも。
グレイは、小さく呟いた。
「また……」
意味はまだ薄い。
だが、エリシアの最後の言葉。
また話したい。
その中の“また”だけが、少し残った。
もう一度。
次。
終わりではない。
それだけ。
グレイは魔導灯の光を見つめた。
人間の言葉は難しい。
絡まる。
傷つける。
怖がらせる。
それでも、暗闇の中で手を伸ばすようなものでもある。
グレイには、まだ分からない。
だが、完全に遠ざけることも、もうできなかった。
遠くで、人間たちの足音が消える。
地下には、水音と小さな光だけが残った。
そして、グレイの中には。
「また」という、まだ形にならない言葉が残り続けていた。




