第96話『対話案』
地下に光が灯っている。
その報告が入った時、臨時拠点の空気は一度止まった。
声。
名前。
食卓。
子守唄。
服。
人型。
それだけでも十分だった。
もう灰の巣は、通常の魔物として扱うにはあまりにも異常だった。
だが、光。
それは別の意味を持っていた。
人間は、夜に光を使う。
暗闇を遠ざけるために。
安心するために。
集まるために。
作業をするために。
祈るために。
生きている場所を示すために。
だから、地下の奥で灰の群れが光の周りに集まっていると聞いた時、それをただの道具利用として片づけることはできなかった。
セヴィルは、報告書を机へ置いたまま黙っていた。
偵察用の小型感知具が、旧排水路の奥で微弱な魔導灯の反応を拾った。
人間側が設置したものではない。
古い施設内に残されていた壊れかけの魔導灯が、何らかの刺激で再点灯した可能性が高い。
問題は、それがすぐに消されなかったことだ。
灰の巣は、光を避けなかった。
むしろ、一定時間その周囲に留まっていた。
見張りが遠くから確認した影は複数。
幼体らしき小型個体も光の近くにいた。
セヴィルは、ペンを持ったまま動かなかった。
ラグドが低く言う。
「書かねぇのか」
「書く言葉を選んでいます」
「今さらかよ」
「今さらだからです」
セヴィルは、ようやく一行を書いた。
《灰巣群体、人工光源への忌避反応なし。むしろ集合行動を確認》
書いてから、眉をひそめる。
足りない。
まるで、虫が灯りへ集まっただけの記録に見える。
だが、違う。
灰の巣は、ただ光へ集まったのではない。
今までの流れを考えれば、光を“生活空間の一部”として取り込んだ可能性がある。
食卓。
寝床。
名前。
子守唄。
服。
人型。
それらの延長に、光がある。
暗闇の中で、群れが灯りを囲む。
その光景を、セヴィルは実際に見たわけではない。
それでも、想像できてしまう。
それが気味悪かった。
エリシアは、報告書を読んでからずっと黙っていた。
彼女の中には、別の感情が生まれている。
恐怖だけではない。
同情とも違う。
もっと危ういもの。
希望に近いものだった。
光を囲む。
熱を出した幼体を看病する。
食事を分ける。
「ごめん」と言う。
それなら。
もしかしたら。
そう考えてしまう。
考えてはいけないと思うのに、考えてしまう。
対話できるのではないか。
その言葉は、彼女の喉の奥でずっと止まっていた。
言えば、空気が変わる。
反対される。
怒鳴られる。
甘いと言われる。
分かっている。
でも、言わずにはいられなかった。
「……話せるんじゃないでしょうか」
部屋の中の空気が、冷たく固まった。
防衛局の男が、すぐに顔を上げる。
「何を言っている」
エリシアは少し怯んだ。
だが、引かなかった。
「言葉を覚えています。状況に応じて使っています。ごめん、とも言った。来ないで、とも言った。なら……」
「人間を食った」
男の声は硬かった。
「子供を傷つけ、兵を襲い、人の声を真似て罠にした。話す相手ではない」
エリシアは唇を噛む。
「でも、罠にするためだけじゃないかもしれません」
「同じことだ」
「違います」
珍しく、エリシアの声が強くなった。
「もし、本当に何かを伝えようとしているなら、全部を罠として扱ったら、もう何も分からないまま殺すことになります」
防衛局の男が怒る。
「殺すべきものだ!」
エリシアは俯かなかった。
「それでも、知りたいんです」
部屋が静かになる。
アレンは彼女を見ていた。
ラグドは腕を組んで目を閉じている。
ロウは壁際で黙っている。
セヴィルは、ペンを止めたままエリシアを見ていた。
防衛局の男は吐き捨てる。
「甘い」
「甘いと思います」
エリシアは答えた。
「でも、あれを見たら……食事を見たら、名前を呼んでいるのを聞いたら、もうただ焼けばいいとは思えません」
「その甘さで誰かが死んだらどうする」
「それも分かっています」
エリシアの声は震えた。
「分かっているから、怖いんです」
その言葉に、男は一瞬黙った。
エリシアは、恐怖を知らないわけではない。
むしろ、誰よりも怖がっている。
灰の巣を救いたいのではない。
人間を危険に晒したいのでもない。
ただ、“分かるかもしれないもの”を何も試さずに燃やすことが怖いのだ。
アレンが、静かに口を開いた。
「俺も、可能なら試すべきだと思います」
防衛局の男が目を剥く。
「あなたまで」
アレンは続けた。
「もちろん、近づきすぎるのは危険です。武器も下ろせない。だけど、呼びかけることはできる」
「相手は魔物だ」
「はい」
アレンは頷く。
「でも、来ないでと言った。ごめんとも言った。俺たちは、それに何も返していない」
ラグドが、そこで低く笑った。
疲れた笑いだった。
「返事か」
アレンはラグドを見る。
「変ですか」
「変だな」
ラグドは目を開ける。
「でも、変なのはもうとっくに全部だ」
その言葉に、誰も反論しない。
ラグドは地図を見た。
排水路。
生活区画。
旧作業員通路。
灰の群れが今潜んでいる場所。
「対話って言っても、近づけば死ぬ。声に釣られて近づいた奴もいる。向こうも怖がってる。こっちも怖い。下手すりゃ一言目で崩れる」
セヴィルが頷く。
「遠距離での呼びかけが妥当でしょう」
防衛局の男が苛立つ。
「研究者らしい案だな」
「防衛上も意味があります」
セヴィルは淡々と返した。
「もし、言葉に対して一定の反応を示すなら、誘導や停止にも使える可能性がある。逆に、反応しないなら、それも重要な情報です」
ラグドが苦い顔をする。
「つまり、試す価値はあるってことか」
「危険を管理できる範囲なら」
ロウが初めて口を開いた。
「距離を取る。退路を確保する。声をかけるのは一人。周りは弓と防護で固める。向こうが近づいたら、すぐ撤退」
ラグドは頷く。
「やるなら、それだな」
防衛局の男は納得していない。
だが、ラグドとアレン、セヴィルが同じ方向を向き始めたことで、完全には押し切れない。
「中央命令は殲滅許可です」
「許可だろ」
ラグドは返す。
「義務じゃねぇ。今すぐ毒煙を流せとは書いてねぇ」
「逃げられたら」
「もう何度も逃げられてる」
ラグドの声は低い。
「だからこそ、何を考えて動いてるか知る必要がある」
防衛局の男は沈黙した。
その沈黙は了承ではない。
だが、一時的な保留ではあった。
エリシアは、ほっと息を吐きそうになって、すぐに止めた。
まだ何も決まっていない。
いや、決まりかけているからこそ怖い。
対話案。
それは希望に見える。
だが、もし失敗すれば。
もう誰も止められなくなる。
地下では、グレイが光を見ていた。
壊れかけの魔導灯。
ぱち。
ぱち。
時々揺れる。
完全な光ではない。
でも、部屋の一部を照らしている。
チイたちは、光へ慣れ始めた。
熱を出したチイも、少しだけ身体を起こせるようになっている。
ニィがそばにいる。
ミルは壁に映る影を見ながら、布を被った形を調整している。
クロは相変わらず光から離れている。
カラは、魔導灯の近くで骨や鉄片を並べている。
反射する。
小さく光る。
それが面白いらしい。
アカは、光を見つめながら布人形を抱えている。
「きれい」
時々、そう言う。
グレイは、その言葉を聞くたびに不思議な感覚になる。
きれい。
役に立つわけではない。
食べられない。
戦えない。
でも、群れが静かになる。
チイたちが光を見る。
アカが震えを少し止める。
ニィが一瞬だけ休める。
そういう意味では、役に立っている。
人間は、そういうものをたくさん持っているのかもしれない。
皿。
椅子。
服。
歌。
名前。
光。
全部、ただ生きるだけなら必要ない。
だが、生き続けるには必要になる。
グレイは、そう思いかけた。
その時。
遠くから、人間の気配が近づいた。
クロがすぐ反応する。
「グレ」
グレイも顔を上げる。
人数は多くない。
だが、本隊に近い匂いがある。
アレン。
エリシア。
ラグド。
セヴィル。
ロウ。
他にも数名。
防衛局の兵。
しかし、以前と違う。
毒の匂いが薄い。
火薬も遠い。
代わりに、防護具。
盾。
退路。
準備された気配。
攻め込むためではない。
近づき、止まり、何かをしようとしている。
グレイは群れへ感覚を送った。
隠れろ。
チイを奥へ。
ニィがすぐ動く。
クロは入口側へ出る。
カラが骨を持つ。
ミルは布を被ろうとして、グレイに制止される。
今は駄目。
ミルは止まる。
アカは、光を見たまま震える。
「ヒト……」
グレイは入口側へ向かった。
人間は、部屋の外までは入ってこない。
少し遠い通路で止まった。
距離がある。
声が届くぎりぎり。
グレイは、壁の影へ身を沈める。
人間側では、ラグドが手で全員を止めた。
「ここまでだ」
アレンは前へ出る。
エリシアも、その隣に立つ。
ロウは後方で弓を構えている。
セヴィルは記録板を持っているが、手は震えていない。
むしろ、異様なほど集中している。
防衛局の兵は警戒している。
ラグドはアレンへ言った。
「短くしろ。近づくな。返事があっても動くな」
アレンは頷いた。
「はい」
エリシアが小さく言う。
「私が呼びかけます」
アレンが驚く。
「エリシア」
「私の声の方が、怖がらせないかもしれない」
ラグドは少し考えた。
確かに、アレンの声は剣と結びついているかもしれない。
エリシアは治療をした人間だ。
灰の巣がそれを理解しているかは分からない。
だが、彼女の声は柔らかい。
試すなら。
ラグドは低く言った。
「一言だけだ」
エリシアは頷いた。
そして、暗い通路へ向かって声を出した。
「グレイ」
地下の空気が止まった。
グレイの身体が硬くなる。
名前。
人間が、自分の名を呼んだ。
群れ全体が反応する。
クロが低く唸る。
ニィが奥でチイを抱き寄せる。
アカが震える。
ミルが顔を上げる。
カラの骨が鳴りそうになり、止まる。
人間が、グレイと呼んだ。
今までも聞こえていたかもしれない。
でも、これは違う。
呼びかけ。
こちらへ向けた声。
グレイは動かない。
エリシアは、もう一度だけ言った。
「グレイ。聞こえる?」
聞こえる。
意味も、少し分かる。
グレイは、その言葉を理解した。
完全ではない。
だが、名を呼び、相手の反応を待つ形は分かる。
人間の会話。
レオンの記憶。
「聞こえるか」
返事を求める言葉。
グレイは、喉を動かした。
返すべきか。
返せば、人間はどうする。
近づくかもしれない。
攻撃するかもしれない。
逃げるかもしれない。
クロが止める感覚を送る。
危険。
ニィは不安。
アカは震えながら、なぜか「ごめん」と呟く。
ミルは見ている。
声を返したい。
真似したい。
グレイは、静かに前へ出た。
完全には姿を見せない。
暗がり。
光の外。
人間側からは、影だけが見える。
大きな影。
灰の巣主。
エリシアは息を止めた。
アレンが剣に手をかける。
ラグドが低く言う。
「抜くな」
アレンは剣を抜かない。
グレイは、人間たちを見た。
エリシア。
声が柔らかい人間。
傷を治す人間。
アレン。
剣。
迷い。
ラグド。
警戒。
セヴィル。
見る人間。
ロウ。
遠い牙。
全員分かる。
グレイは、喉を震わせた。
「……きこ……える」
人間たちの空気が変わった。
エリシアの目が見開かれる。
アレンが息を呑む。
セヴィルの手が止まる。
防衛局の兵が一歩下がる。
返事。
明確な返事。
意味が繋がっているかどうかは分からない。
だが、問いに対して返った。
エリシアは泣きそうな顔になった。
「分かるの……?」
ラグドが低く言う。
「一言だけって言ったぞ」
でも、もう遅い。
エリシアは止まれなかった。
「人を襲わないで」
その言葉は、グレイには難しかった。
人。
襲う。
ない。
否定。
組み合わせが複雑だ。
グレイの中で言葉がばらける。
ヒト。
クロが唸る。
人は危険。
アカが震える。
人の血。
ミルが「ヒト」と小さく真似する。
襲う。
それは攻撃。
噛む。
殺す。
ない。
しない。
グレイは、言葉をつなげようとする。
人を襲わないで。
つまり、人間へ噛みつくな。
食べるな。
傷つけるな。
その意味に近いものは分かる。
だが、群れは空腹になる。
人間は攻めてくる。
守るために噛むこともある。
どう答えればいい。
グレイは沈黙した。
その沈黙が長くなる。
人間側の緊張が増す。
エリシアは、もう一度言いそうになる。
ラグドが止める。
「やめろ」
その時。
アカの声が、奥から漏れた。
「ごめん……」
人間側にも聞こえた。
小さいが、確かに。
ごめん。
エリシアの顔が歪む。
アレンも苦しそうに目を伏せる。
防衛局の兵は恐怖で硬直する。
グレイは、アカの声を受けて、もう一度喉を動かした。
「ご……めん」
エリシアが一歩出そうになった。
ラグドが腕で止める。
「動くな」
エリシアの目には涙があった。
「でも」
「動くな」
グレイは、彼女が近づこうとしたことで、すぐ警戒した。
クロも反応する。
ニィが奥でチイをさらに隠す。
ミルが布を掴む。
空気が一気に危険へ傾く。
ラグドは、それを見て即座に判断した。
「下がる」
防衛局の兵が驚く。
「今、返事を」
「だから下がるんだ」
ラグドの声は硬い。
「これ以上は崩れる」
エリシアは悔しそうに唇を噛む。
アレンが小さく頷く。
彼も分かっていた。
今、一歩でも近づけば、すべてが壊れる。
対話のようなものは生まれた。
だが、それは薄氷だった。
人間側は、ゆっくり下がった。
グレイは追わない。
ただ見ている。
人間たちの足音が遠ざかる。
エリシアの匂いが薄れていく。
その後、地下の通路は静かになった。
グレイは、その場に立ち尽くしていた。
返事をした。
人間に。
名前を呼ばれ。
聞こえる、と返し。
ごめん、と言った。
それだけ。
それだけなのに、巣全体が震えていた。
クロは不満だった。
危険。
近づけた。
声を返すべきではない。
ニィは不安とわずかな安堵が混ざっている。
人間は攻撃しなかった。
アカは震えながら「ごめん」を繰り返す。
ミルは新しい音を覚えようとしている。
「きこえる」
カラは骨を鳴らさない。
マエはチイの前に立ったまま。
チイたちは、何が起きたか分からず、ただ静かにしている。
グレイは、魔導灯の光へ戻った。
弱い光。
その周りに、群れがいる。
人間は、まだ遠い。
でも、少しだけ近づいた。
本当に少しだけ。
それが良いことなのか、悪いことなのか、グレイには分からなかった。
ただ、一つだけ分かった。
声は繋がる。
だが、繋がったものは、すぐに壊れる。
人間も灰の巣も、まだ近づくには尖りすぎている。
それでも、エリシアの声は残っていた。
グレイ。
聞こえる?
その音が、地下の暗闇の中で何度も反響している気がした。
グレイは、小さく呟いた。
「きこえる」
それは返事だった。
遅すぎる返事。
誰にも届かない返事。
それでも、初めて人間へ向けて返した言葉だった。




