第95話『光』
地下の群れは、火を持たない。
必要がなかった。
灰の巣は暗闇で生きる。
匂い。
振動。
熱。
感覚。
それらがあれば動ける。
むしろ、強い光は嫌われていた。
人間の灯りは危険の印だった。
見張り。
武器。
討伐。
だから、地下で光を見れば隠れる。
それが普通だった。
だが、最近の群れは“普通”から離れ始めている。
名前を持った。
食卓を作った。
子守唄を覚えた。
「ごめん」と言った。
「おはよう」を知った。
そして今、光へ近づこうとしていた。
最初に見つけたのは、カラだった。
カラは、最近ずっと物を集めている。
骨。
皿。
鉄片。
木材。
鳴るもの。
動くもの。
使えるもの。
理由はない。
いや、カラの中には理由があるのかもしれない。
並べる。
鳴らす。
変える。
それが楽しい。
人間で言えば遊びに近い。
群れには、元々そんな概念はなかった。
だがカラは、もう明らかに“遊んでいる”。
その日も、カラは古い倉庫跡を漁っていた。
地下施設のさらに奥。
人間が昔使っていた保守区画。
錆びた棚。
崩れた箱。
湿った紙。
割れたガラス。
そこに、ひとつだけ光るものがあった。
小さな魔導灯。
完全には壊れていない。
黒雨の影響でかなり劣化しているが、まだ内部に微かな魔力が残っていた。
カラは、それを骨でつついた。
かち。
微かな音。
次の瞬間。
ぱっ。
小さな光が灯った。
地下の暗闇へ、白っぽい光が広がる。
カラが飛び退く。
骨が鳴る。
からん。
驚き。
怖い。
でも、目を離せない。
光は弱い。
ちらついている。
今にも消えそう。
それでも、地下にとっては異質すぎた。
カラの感覚が群れへ広がる。
異常。
明るい。
熱くない。
光。
グレイがすぐ向かった。
クロも反応する。
ニィがチイたちを集める。
ミルは興奮している。
新しいもの。
人間のもの。
アカは遠くから震えながら見ていた。
グレイが倉庫跡へ着いた時、光はまだ残っていた。
小さい。
弱い。
でも、確かに暗闇を押し返している。
グレイは止まった。
レオンの記憶が揺れる。
ランタン。
家の灯り。
酒場。
夜道。
暖炉。
人間は、夜に光を作る。
暗闇を追い払うために。
グレイは、その意味を今まで深く考えたことがなかった。
地下では、暗闇が普通だったから。
だが、光があるだけで、景色が変わる。
崩れた棚が見える。
床の細かな傷が見える。
カラの骨の位置が分かる。
自分の外皮まで見える。
グレイは、それに少し戸惑った。
見える。
今まで匂いと感覚でしか知らなかった空間が、形になる。
ミルが近づいた。
光へ前脚を伸ばす。
ニィが止める。
危険。
でも、ミルは止まらない。
そっと触れる。
熱くない。
ミルはさらに近づく。
光が布へ映る。
その瞬間、ミルの姿が壁へ大きく映った。
影。
歪んだ人影のような影。
ミルが止まる。
壁を見る。
自分の影を見る。
前脚を動かす。
影も動く。
ミルが、小さく鳴いた。
「ヒト……」
グレイは、少し背筋が冷えた。
影。
それは、人間に近い形をさらに強調していた。
布を被ったミルの輪郭。
細長い影。
遠目なら、本当に人間に見える。
だが、近づけば脚が多い。
関節が違う。
影は嘘をつく。
光があるから。
グレイは、その事実に奇妙な恐怖を覚えた。
ニィは、光を嫌がっていた。
チイたちを少し遠ざける。
目が慣れていない。
落ち着かない。
でも、チイたちは逆だった。
光を見ている。
じっと。
生まれて初めて見る明るさ。
地下の青白い苔光とは違う。
もっとはっきりしている。
一体が、小さく前脚を伸ばした。
光へ。
アカが、その瞬間、小さく呟いた。
「きれい……」
部屋が静まった。
きれい。
グレイは、その言葉を知っている。
レオンの記憶。
夕日。
星。
花。
雪。
人間が、好きなものを見た時に使う。
必要ではない。
食べられない。
戦えない。
でも、見て“いい”と感じる。
それが、きれい。
アカは、光を見ながら言った。
「きれい……」
ミルが真似する。
「きれ……い」
カラは骨を鳴らす。
から。
嬉しそう。
自分が見つけた。
群れが集まった。
光が中心にある。
グレイは、魔導灯へ近づいた。
弱い光。
壊れかけ。
それでも、温かさとは違う何かがあった。
地下を少しだけ変える。
夜を押し返す。
レオンの記憶が流れる。
食卓の灯り。
誰かの笑い声。
夜なのに安心できる場所。
グレイは、その感覚を知ってしまった。
その時。
チイの一体が、小さく鳴いた。
熱を出していた個体。
まだ弱い。
だが、光を見ている。
そして、少しだけ身体を起こした。
ニィが驚く。
チイは、光へ前脚を伸ばした。
触れたい。
そんな感覚。
グレイは、それを見ていた。
熱を越えたばかりの小さな身体が、光へ向かう。
その姿は、妙に人間らしかった。
その頃。
地上でも、光が問題になっていた。
夜道の警戒が強まり、村では灯りが増えている。
人間たちは、暗闇を恐れ始めていた。
灰の巣が人型を真似したから。
外套を着た影。
「助けて」という声。
夜道。
それ以来、灯りを消せなくなった。
ラグドは見張りへ指示していた。
「灯りを絶やすな」
兵が頷く。
「でも、灯りがあると逆に目立ちます」
「構わねぇ」
ラグドは低く言った。
「暗闇の方が危険だ」
その感覚は、地下の群れとは正反対だった。
人間は、光で安心する。
暗闇を嫌う。
だが、灰の群れは暗闇で安心し、光を警戒する。
本来なら。
本来なら、そうだった。
セヴィルは、報告書を見ていた。
夜間警戒の強化。
住民避難。
人型模倣。
その文字の中で、ふと別のことを考えていた。
地下の群れは、灯りを持つだろうか。
あり得ない考えだった。
魔物が光を持つ。
火を囲む。
そんなものは神話にも少ない。
だが、今までの“あり得ない”が、全部現実になっている。
セヴィルは、自分の想像に嫌気が差した。
地下では、光の周りへ群れが集まっていた。
クロだけは離れている。
光は嫌いだ。
見つかりやすい。
戦いに向かない。
その本能は変わらない。
でも、クロも時々見てしまう。
小さな光。
チイたちの顔。
ニィの影。
アカの震える横顔。
それらが照らされる。
暗闇とは違う。
グレイは、魔導灯を持ち上げた。
軽い。
人間なら手に持つもの。
グレイは前脚で支える。
光が揺れる。
影も揺れる。
ミルが、その影を追いかける。
壁へ映る。
人型に近い影。
怪物の影。
混ざる。
グレイは、その光景を見ていた。
地下に光がある。
それだけで、群れが別の生き物みたいだった。
アカが、ふいに言った。
「おうち……」
グレイが振り返る。
アカは、光を見ながら布人形を抱えている。
「おうち……あったかい……」
記憶。
人間の家。
灯り。
夜。
子供。
食卓。
その断片。
グレイは、胸の奥が重くなった。
地下は家ではない。
排水路。
腐った施設。
湿った石。
それなのに。
光があるだけで、“家”に近づいてしまう。
それが怖かった。
ミルは、影遊びを始めていた。
前脚を動かす。
壁の影が揺れる。
チイたちが見ている。
一体が真似する。
小さな影。
カラは骨を鳴らして合わせる。
から。
から。
まるで、人間の子供の遊びみたいだった。
グレイは、それを止めなかった。
止められなかった。
なぜなら、自分も少しだけ見入っていたから。
光は、群れを変える。
暗闇では見えなかったものを見せる。
傷。
表情。
震え。
影。
そして、自分たちの姿。
グレイは、ふと壁へ映る自分の影を見た。
大きい。
歪。
脚が多い。
人間ではない。
だが、影の上半分だけなら、少しだけ人に見えた。
光が弱いから。
輪郭がぼやけるから。
それがまた怖かった。
グレイは、魔導灯を少し下げた。
すると影が崩れる。
怪物に戻る。
グレイは、少し安心した。
同時に、少しだけ残念だと思ってしまった。
その感覚が、自分でも嫌だった。
人間に見えたいのか。
近づきたいのか。
違う。
ただ、理解したい。
でも、理解するたびに距離が壊れる。
人間と怪物の境界が曖昧になる。
その時、魔導灯が一度大きくちらついた。
ぱち。
光が弱まる。
チイたちがざわつく。
ミルが慌てて近づく。
アカが「きえる……」と呟く。
グレイは、なぜか強く不安になった。
消える。
この小さな光が。
その不安は、熱を出したチイを見ていた時と少し似ていた。
なくなるかもしれない。
だから、失いたくない。
グレイは、魔導灯をそっと床へ置いた。
光はまだ弱く揺れている。
完全には消えていない。
ニィが、熱を出していたチイを光の近くへ寄せた。
暖かいわけではない。
でも、チイは落ち着いた。
光を見ている。
グレイは、その姿を見ながら思った。
もし、本当の朝日を見せたら。
群れはどうなる。
太陽。
空。
風。
人間が“きれい”と言うもの。
それを知ったら。
もう、本当に戻れなくなる気がした。
地下の暗闇の中。
壊れかけの小さな光。
その周りへ集まる灰色の怪物たち。
その光景は、ひどく静かで。
ひどく異常で。
そして少しだけ、温かかった。




