第99話『肉』
人間が置いていった肉は、まだ通路の途中にあった。
誰も触っていない。
薄暗い石床の上。
古い布へ包まれたまま。
魔導灯の光はそこまで届かない。
だが、匂いは届く。
肉。
新しい。
腐っていない。
毒の匂いは薄い。
完全には分からない。
でも、今まで人間が投げ込んできた腐肉や毒餌とは違う。
それが逆に怖かった。
グレイは、かなり長い間その場から動かなかった。
遠くから匂いを嗅ぐ。
クロはもっと近づきたがっている。
確認。
危険なら捨てる。
食べられるなら持ち帰る。
クロにとっては、それだけだ。
だが、グレイは動けなかった。
食べ物。
人間が置いた。
その意味が重すぎる。
もし毒なら。
チイたちが死ぬ。
もし毒でなかったら。
人間が“与えた”ことになる。
それもまた、群れを変えてしまう。
ニィは、後ろで不安を流している。
チイたちが空腹だからだ。
熱を出したチイは回復してきている。
その分、食べる量も戻り始めた。
群れ全体が食料不足に近い。
だから、本来なら迷う余地はない。
食べ物を取る。
それが灰の巣の生き方だった。
だが今は違う。
人間が置いた肉。
そこに言葉が絡んでいる。
また、話す。
ごはん。
怖い。
ごめん。
その全部が、この肉へ染み込んでいる気がした。
クロが低く唸る。
「グル」
行く。
確認する。
その感覚。
グレイは少し考え、頷くように感覚を返した。
クロは静かに前へ出る。
姿勢は低い。
いつでも飛び退けるように。
通路は静かだった。
人間の気配は遠い。
完全には消えていない。
だが、監視だけ。
近づいてはいない。
クロは布包みへ近づいた。
匂いを嗅ぐ。
肉。
人間が処理した肉。
少し香草の匂いもある。
保存のためか。
毒。
強い反応はない。
クロは布を前脚で軽く裂いた。
中から肉が見える。
乾燥肉。
比較的保存が利くもの。
人間の兵糧。
クロはさらに警戒する。
少しだけ舐める。
待つ。
変化なし。
クロは、グレイへ感覚を返した。
食べられる。
グレイは、すぐには動かなかった。
本当に。
食べていいのか。
その迷い。
灰の巣らしくない迷い。
だが、もう群れは変わってしまっている。
ニィが後ろから来た。
チイたちの空腹が強い。
アカも近くへ来る。
肉の匂いに反応している。
だが、震えている。
人間。
肉。
血。
記憶。
アカの中でそれらが結びつく。
ミルは、ただ興味津々だった。
人間が置いた。
人間がくれた。
その発想が、ミルの中にはもうある。
「ごはん」
ミルが小さく言った。
グレイは、その言葉を聞きながら、ようやく前へ出た。
布包みを見下ろす。
人間の手で包まれた布。
きっちり折られている。
それだけで、地下の群れとは違う感じがした。
丁寧。
人間は、物を整える。
皿を並べる。
布を畳む。
名前をつける。
意味を持たせる。
この肉も、ただ投げられたわけではない。
「置く」と言っていた。
つまり、渡そうとした。
グレイは、その意味をぼんやり理解していた。
クロが少し苛立つ。
食べるなら早くしろ。
そういう感覚。
ニィは逆に慎重。
チイへ与える前に、様子を見るべき。
アカは怖がっている。
ミルは触りたがる。
カラは、布の結び方を見ている。
マエは周囲を警戒。
群れの反応が割れる。
その様子を見て、グレイは妙な感覚になった。
人間みたいだ。
意見が違う。
怖がるもの。
欲しがるもの。
止めるもの。
観察するもの。
守るもの。
昔の灰の巣なら、こんなふうにはならなかった。
強い個体が取る。
終わり。
それだけ。
今は違う。
グレイは、乾燥肉を少しだけ噛み切った。
しょっぱい。
保存用。
硬い。
でも、ちゃんと食べ物だ。
身体に異常はない。
グレイはしばらく待った。
何も起きない。
毒はない。
少なくとも、すぐには。
グレイは、肉を持ち帰る感覚を返した。
ニィが安心する。
クロも納得。
ミルは嬉しそう。
アカはまだ震えている。
人間の食べ物。
それは、アカの中で“人間そのもの”に近かった。
食卓。
皿。
暖かい部屋。
家族。
その記憶が、乾燥肉の匂いで少し揺れる。
地下の部屋へ戻ると、魔導灯の光が肉を照らした。
人間の食べ物。
地下の食卓へ置かれる。
その光景は、ひどく異常だった。
チイたちが匂いへ反応する。
空腹。
ニィが順番を整える。
熱を出していたチイには、小さく裂いた柔らかい部分。
ミルがそれを見て真似する。
アカは、肉を見つめたまま動かない。
グレイは、肉を皿の上へ置いた。
皿。
人間の残したもの。
そこへ、人間の食べ物を置く。
レオンの記憶が強く揺れる。
食卓。
夜。
家族。
「いただきます」
その言葉が、一瞬だけ浮かんだ。
意味は深く分からない。
でも、人間は食べる前に言う。
命を食べる。
感謝。
そういうものが混ざった音。
グレイは、その言葉を出そうとして、やめた。
まだ重すぎる。
代わりに、ニィがチイへ肉を渡した。
チイは少し迷い、それから食べた。
小さな口。
噛む。
飲み込む。
ニィが強く安心する。
群れにも広がる。
食べた。
大丈夫。
それを見て、ミルも食べる。
クロも。
カラは少し遊んでから食べる。
マエは最後まで周囲を警戒しながら。
アカだけが遅れた。
肉を見ている。
人間の匂い。
怖い。
でも、空腹。
グレイはアカへ感覚を送った。
大丈夫。
その言葉は、まだ群れの中で完全には使われていない。
でも、意味は伝わる。
アカは、ゆっくり肉を噛んだ。
そして、小さく呟いた。
「ごはん……」
その声は、少しだけ穏やかだった。
人間側では、同じ頃、緊張が続いていた。
肉を置いてから、誰も近づいていない。
ラグドは監視位置から排水路の入口を見ていた。
「動いたか」
ロウが頷く。
「取った」
短い返事。
ラグドは、少しだけ肩の力を抜いた。
完全に拒絶はされなかった。
それは大きい。
エリシアは、その報告を聞いて座り込むように息を吐いた。
「食べてくれた……」
その言葉に、防衛局の男が苛立つ。
「喜ぶことではありません」
「でも」
「餌付けです」
エリシアは反論できなかった。
確かに、そうとも言える。
魔物へ食べ物を与えた。
普通ならあり得ない。
だが、セヴィルは違う視点で見ていた。
「交換行動の可能性があります」
男が睨む。
セヴィルは続ける。
「人間社会では、食事の共有は敵意の低下に繋がることが多い」
「ここは人間社会ではない」
「ええ」
セヴィルは静かに言う。
「だから、何が起きるか分からない」
その不確実さこそが怖い。
食べ物を渡した。
受け取られた。
では次は。
もっと近づくのか。
言葉が増えるのか。
それとも、突然裏切られるのか。
誰にも分からない。
アレンは、遠くの地下通路を見ながら思っていた。
肉を食べた。
あいつらは、今ごろどうしているのか。
チイたちは。
熱を出した幼体は。
ニィは。
グレイは。
食卓。
その言葉が、頭に浮かんでしまう。
地下では、食事が終わり始めていた。
量は多くない。
だが、人間の乾燥肉は栄養が高い。
チイたちは満足そうだった。
ニィの緊張も少し緩んでいる。
ミルは、空になった布包みを広げて見ている。
結び方。
布の匂い。
人間の痕跡。
カラは紐部分を気に入ったらしく、骨へ巻きつけて遊んでいる。
クロは、まだ完全には安心していない。
食べ物を与える。
それは、匂いを残す行為でもある。
人間はまた来る。
その警戒。
グレイも分かっている。
でも、肉を拒絶できなかった。
空腹だけではない。
言葉の続きだったから。
人間は、声だけではなく肉も置いた。
つまり、“敵意だけではない何か”を示そうとした。
グレイは、その感覚を理解しかけている。
それが怖い。
理解するほど、人間を単純な敵にできなくなる。
その時、チイの一体が、小さく鳴いた。
「ごは……」
まだ不完全。
でも、食事と音が結びつき始めている。
ミルが嬉しそうに真似する。
「ごはん」
ニィが少し困った感覚を出す。
チイたちが言葉を覚え始めている。
早い。
速すぎる。
グレイは、魔導灯の光を見つめた。
地下の怪物たち。
人間の食べ物。
食卓。
名前。
言葉。
それらが全部、ここにある。
そして今、人間側にも変化が起きている。
肉を置いた。
灰の巣が受け取った。
それは、ただの餌やりでは終わらない。
関係ができてしまう。
細い。
脆い。
でも、確かに。
グレイは、そのことをぼんやり理解していた。
そして同時に。
この関係は、きっと長くは続かないとも感じていた。
人間は怖がっている。
クロも怒っている。
防衛局は待てない。
群れは空腹になる。
誰かがまた間違える。
夜道の時みたいに。
熱の時みたいに。
言葉は繋がる。
でも、生き物は言葉だけで止まれない。
グレイは、空になった皿を見つめながら、小さく呟いた。
「ごはん……ごめん」
その言葉は、誰にも返されなかった。
ただ、魔導灯の小さな光だけが、静かに揺れていた。




