第93話『熱』
最初に異変へ気づいたのは、ニィだった。
チイたちの匂いは、普段よく似ている。
生まれた時から同じ黒雨を浴び、同じ巣で育ち、同じものを食べている。
だから、細かな違いはあっても、根は近い。
ニィは、その匂いを毎日整えていた。
眠る位置。
食べる順番。
布の使い方。
身体の震え。
呼吸。
全部を近くで感じている。
だからこそ、小さな異変にも最初に気づけた。
そのチイは、最近よく眠っていた。
食事の時も反応が遅い。
白い虫を見ても飛びつかない。
ニィが布をかけると、そのまま動かなくなる。
最初は、夜道の騒ぎで疲れたのだと思った。
ミルの恐怖が群れへ流れたせいかもしれない。
チイたちは感覚が薄い。
周囲の不安に引っ張られやすい。
だが、違った。
ニィがその個体へ身体を寄せた時、熱を感じた。
熱い。
黒雨の湿気とは違う。
興奮とも違う。
身体の内側が熱を持っている。
ニィはすぐグレイへ感覚を送った。
異常。
チイ。
熱。
グレイは部屋の中央から立ち上がった。
クロも入口から振り返る。
ミルが壁の絵を見るのをやめる。
カラの骨の音も止まった。
アカだけは、少し遅れて反応した。
「いたい……?」
小さな声。
グレイは、ニィのところへ向かった。
布を重ねた寝床。
チイたちが固まって眠っている。
その中の一体。
身体が少し赤黒い。
呼吸が浅い。
時々、ぴくりと脚が動く。
グレイは近づき、匂いを嗅いだ。
異常。
腐敗ではない。
傷もない。
だが、身体が熱を持ち、匂いが変わっている。
レオンの記憶が揺れる。
病気。
熱。
熱病。
人間は時々こうなる。
身体が熱くなる。
動けなくなる。
水を飲ませる。
冷やす。
治るものもある。
死ぬものもある。
グレイは、その最後の記憶で止まった。
死ぬ。
チイは、死ぬのか。
グレイは、その考えをすぐには受け入れられなかった。
群れは死ぬ。
それは知っている。
最初の頃、灰の巣にはもっと多くの個体がいた。
空腹で消えたもの。
共食いされたもの。
崩落に巻き込まれたもの。
黒雨に耐えられなかったもの。
覚えている。
だが、チイたちは違う。
新しく生まれた。
守ると決めた。
ニィが抱え、マエが前に立ち、食卓で順番に食べさせた。
名前まではまだない。
でも、群れの“未来”として扱っていた。
その一体が、熱を出している。
グレイは、どうすればいいのか分からなかった。
クロは近づかない。
熱の匂いを嫌っている。
危険。
弱い。
死に近い。
クロの本能は、そう判断していた。
ニィは逆だった。
離れない。
ずっと身体を寄せている。
熱を分けるように。
落ち着かせるように。
アカが近づいてきた。
布人形を抱えたまま。
熱を持つチイを見て、震えた。
「やだ……」
人間の言葉。
グレイはアカを見た。
アカの中の記憶。
熱を出した子供。
汗。
濡れた布。
眠れない夜。
誰かが額へ手を当てる感覚。
アカは、その断片を抱えている。
アカは、おそるおそる布をチイへ被せた。
それから、小さく呟く。
「だい……じょぶ……」
意味を完全には理解していないだろう。
だが、その言葉は、誰かを安心させる時に使われていた。
グレイは、その音を聞きながら考えた。
人間は、熱を出した仲間をどうしていた。
レオンの記憶。
濡れた布。
水。
寝床。
声。
食事。
誰かがそばにいる。
それらが浮かぶ。
グレイは、すぐ水を取りに行った。
地下水脈。
冷たい水。
前脚へ含ませ、布へ染み込ませる。
ニィがそれを受け取った。
チイの身体へ当てる。
熱い。
布がすぐ温くなる。
ニィは何度も水を替えた。
ミルは、それを見ていた。
真似したい。
役に立ちたい。
だが、今は動けない。
空気が重い。
チイたちも静かだ。
熱を持つ個体の異常が、群れ全体へ広がっている。
グレイは、初めて“失うかもしれない”恐怖をはっきり感じていた。
空腹で死ぬのとは違う。
戦って死ぬのとも違う。
熱。
どうすればいいのか分からない。
だから怖い。
その頃、人間側でも似た空気があった。
村の仮設治療所。
エリシアは、別の子供を診ていた。
黒雨の湿気で肺を悪くした子供。
熱が高い。
咳が止まらない。
母親が、何度も「大丈夫ですか」と聞く。
エリシアは答える。
「まだ分かりません。でも、水を飲ませて、身体を冷やしてください」
母親は頷きながら、泣きそうな顔をしている。
アレンが、その様子を見ていた。
熱。
看病。
怖いのに、そばを離れない。
それは、人間にとって当たり前の光景だった。
だが、アレンの頭には、地下の灰の群れが浮かんでいた。
もし、あいつらにも同じことが起きたら。
ニィは、きっと離れない。
グレイは、何とかしようとする。
そう思えてしまった。
その考えが、アレンを苦しくさせる。
魔物だ。
討伐しなければならない。
でも、熱を出した幼体を抱える姿を想像してしまう。
その時、エリシアが小さく言った。
「怖いですよね」
アレンは顔を上げる。
エリシアは子供の額へ布を当てながら続けた。
「熱って、戦えばどうにかなるものじゃないから」
アレンは、ゆっくり頷いた。
戦いなら分かる。
敵がいて、剣があって、勝ち負けがある。
だが、熱は違う。
何をしても苦しむ時がある。
祈るしかない時がある。
それが、一番怖い。
地下では、チイの熱が下がらなかった。
時間の感覚は曖昧だ。
黒雨のせいで昼夜も分かりづらい。
それでも、かなり長く熱を出している。
ニィは休まない。
水を替える。
布を濡らす。
身体を寄せる。
食べ物を少しずつ口元へ持っていく。
チイは、ほとんど食べない。
クロが低く唸った。
苛立ち。
弱った匂いが群れを不安定にする。
グレイはクロを見る。
クロは分かっている。
このままなら、チイは死ぬかもしれない。
そして、本能のどこかでは、その弱さを切り離すべきだとも感じている。
群れを守るために。
だが、クロは動かない。
ニィがいるからだ。
グレイがいるからだ。
もし最初の頃なら、弱った幼生は捨てられていた。
だが、今の群れは違う。
守ろうとしてしまう。
それが良いことなのか、グレイには分からない。
アカが、また子守唄を歌い始めた。
掠れた声。
「ね……ん……ね……」
熱を出したチイのそばで。
チイは苦しそうに呼吸を続ける。
それでも、少しだけ身体の震えが弱まる。
ミルが、小さく言った。
「だい……じょぶ?」
誰へ向けた言葉なのか。
チイへか。
ニィへか。
自分自身へか。
グレイには分からない。
ただ、群れの中で、みんなが熱を持つチイを意識している。
その感覚が強かった。
以前なら、弱った個体は自然に群れの外へ落ちていた。
今は違う。
みんなが止まっている。
一体の熱のために。
グレイは、それが良いことなのか悪いことなのか分からなかった。
だが、重い。
ものすごく重い。
夜。
チイの呼吸が急に乱れた。
ニィが強く鳴く。
グレイが飛び起きる。
チイの身体が痙攣している。
熱い。
苦しい。
呼吸が詰まる。
アカが震える。
「やだ……やだ……」
ミルが後退る。
クロまで近づいてくる。
マエがチイたちの前へ立とうとして、どうしていいか分からず固まる。
グレイは、チイの身体へ前脚を置いた。
何もできない。
水を替えても。
布を濡らしても。
声をかけても。
熱は消えない。
その無力さが、グレイを強く締めつけた。
レオンの記憶。
人間も同じだった。
熱を出した子供のそばで、何もできずにいる。
額へ手を当てる。
水を替える。
大丈夫と言う。
祈る。
でも、治るかは分からない。
グレイは、初めて理解した。
人間の弱さ。
そして、それでもそばを離れない理由。
苦しんでいるものを、一匹で置いていけない。
それだけだ。
チイの痙攣が、少しずつ落ち着く。
呼吸はまだ苦しい。
だが、止まっていない。
ニィが崩れるように身体を寄せた。
疲れている。
ずっと看病していた。
グレイは、ニィへ少しだけ感覚を送る。
休め。
ニィは首を振るように身体を動かす。
離れない。
グレイは、それ以上言えなかった。
アカが、小さく呟く。
「だいじょうぶ……だいじょうぶ……」
それは、人間の記憶だ。
本当に大丈夫かなんて分からない時でも、人間はそう言う。
安心させるために。
自分自身のために。
グレイは、その言葉を聞きながら、熱を持つチイを見つめた。
怖かった。
死ぬことが怖いのではない。
失うことが怖い。
その感覚。
以前の灰の巣には、そんなものはなかった。
空腹。
生存。
増殖。
それだけ。
だが今は違う。
名前がある。
役割がある。
子守唄がある。
謝罪がある。
そして、熱を出した一体のために、群れ全体が眠れなくなる。
それは、あまりにも人間に近かった。
同時に、ひどく不自然でもあった。
地下の暗闇。
灰色の怪物たち。
その中心で、一匹の幼生の熱に怯えている。
そんな光景、本来この世界に存在してはいけなかった。
グレイは、濡れた布をもう一度チイの身体へ当てた。
熱い。
それでも、少しだけ。
ほんの少しだけ、最初より熱が弱くなった気がした。
ニィも気づく。
希望。
小さい。
でも、確かにある。
チイの呼吸が、ほんの少し深くなる。
アカの子守唄が続く。
ミルは黙って見ている。
クロも離れない。
カラは骨を鳴らさない。
マエは入口側へ背を向け、チイたちを囲う位置にいる。
グレイは、その全てを見ながら思った。
もし、このチイが助かったら。
群れは、もっと変わってしまう。
守れた、という記憶を持つ。
失いたくない、という感覚を強くする。
それはきっと、群れをさらに人間へ近づける。
だが同時に。
もっと深く苦しませるのだとも、グレイはぼんやり理解していた。




