第92話『ごめん』
アカがその言葉を覚えたのは、夜道の騒ぎが静まった後だった。
排水路の奥。
古い生活区画。
布と皿と壊れた椅子が散らばる部屋。
そこに、灰の群れは身を潜めていた。
ミルはまだ震えている。
夜道で人型を試し、人間に見られ、警報を鳴らされた。
それは、群れ全体へ強い記憶として流れ込んでいた。
外套。
月明かり。
若い兵の足音。
「大丈夫か」と呼びかける声。
「下がれ」と止める声。
「助けて」に反応してしまう人間。
布がめくれた時の恐怖。
笛の音。
ミルの中では、それらがぐちゃぐちゃに混ざっている。
ニィは、何度もミルの近くへ行った。
匂いを整える。
落ち着かせる。
チイたちから離す。
ミルの恐怖がチイへ移らないように。
しかし、完全には防げない。
チイの中にも、もう夜道の断片が入っている。
人影。
声。
警報。
逃げる。
それを意味として理解してはいない。
だが、恐怖の形として覚えてしまっている。
クロは入口で低く伏せていた。
怒っている。
ミルにではない。
いや、ミルにも少しは向いている。
だが、それ以上に人間へ。
夜道で兵が笛を吹いたこと。
群れの場所を知らせたこと。
人間の灯りが増えたこと。
それら全てへ怒っている。
クロにとって、人間は外から来る危険だ。
近づけば噛む。
脅せば退かせる。
それが一番分かりやすい。
グレイは、その単純さが少し羨ましかった。
自分はもう、そこまで単純ではいられない。
人間を食べた記憶。
レオン。
村の火。
食卓。
名前。
子守唄。
服。
人型。
人間への理解は、少しずつ増えている。
だが、理解すればするほど、簡単には動けなくなる。
アカは、部屋の隅にいた。
布人形を抱えている。
人形は古い。
中の綿は湿り、片腕は千切れかけている。
それでもアカは離さない。
その人形が、アカの中にある人間の記憶を引き出すからだ。
母親。
子供。
服。
寝床。
歌。
そして、別の記憶。
血。
兵士。
腕を噛まれた痛み。
死にたくないという恐怖。
アカの中には、人間の断片が多すぎる。
小さな身体に収まりきらない。
だから時々、壊れた声として漏れる。
「こわい」
「いたい」
「やだ」
「たすけて」
「ごはん」
その言葉を、ミルやチイが真似する。
だからニィは嫌がる。
だが、完全には止められない。
その夜、アカはしばらく黙っていた。
布人形を抱え、顔を伏せている。
グレイは近づかなかった。
アカが静かな時は、無理に触れない方がいい。
人間の記憶が内部で流れている時、強い刺激を与えると混乱する。
それを、グレイは経験で覚えていた。
だが、アカの中の何かが急に動いた。
グレイは感覚で分かった。
強い記憶。
血ではない。
痛みでもない。
もっと違うもの。
アカが、布人形を抱える力を強めた。
そして、小さく呟いた。
「ご……めん」
部屋の中が止まった。
水音だけが続いている。
さらさら。
排水路の奥を流れる水。
その音の中で、アカの声だけがやけに残った。
ごめん。
グレイは、その音を知っていた。
レオンの記憶の中にある。
人間がよく使う言葉。
誰かを傷つけた時。
失敗した時。
約束を破った時。
守れなかった時。
死に際に。
生き残った時に。
軽く使う時もある。
重く使う時もある。
「ごめん」
その意味は、一つではない。
だが、どれも何かを認める言葉だった。
自分が悪かった。
相手を傷つけた。
そういう感覚。
グレイは、アカを見つめた。
アカがなぜ今その言葉を出したのか。
すぐには分からない。
しかし、アカの中から流れてくる記憶で、少しだけ見えた。
兵士の腕。
噛みついた感触。
血の味。
兵士の叫び。
「やめろ」
「助けて」
そして、兵士の記憶の中にあった別の声。
誰かに向けて言った言葉。
「ごめん」
それは、兵士自身の記憶だった。
家族へ。
子供へ。
戦場へ行く前。
帰れないかもしれない時。
あるいは、誰かを守れなかった時。
場面は壊れていてはっきりしない。
だが、その言葉だけが残っていた。
ごめん。
アカは、その音を拾った。
そして今、口にした。
意味を知っているのか。
たぶん、完全には知らない。
だが、血の味と、兵士の痛みと、自分が噛んだ記憶と一緒に出てきた。
だから、ただの真似ではなかった。
グレイはそう感じた。
ニィが、ゆっくりアカへ近づいた。
警戒している。
でも、押さえつけない。
アカは震えながら、また言った。
「ごめん……」
今度は、誰に向けているのか分からなかった。
グレイへか。
ニィへか。
噛んだ兵士へか。
自分自身へか。
アカ自身にも分からないだろう。
だが、その声には、今までの「こわい」と違う重さがあった。
怖いから出る音ではない。
痛いから出る音でもない。
何かを思い出して、何かが胸の奥を押すような音。
ミルが、すぐに真似しようとした。
「ご……」
ニィが強く止める。
「グ!」
ミルはびくりとする。
なぜ止めるのか分からない。
「ごめん」は役に立つ音なのか。
危険な音なのか。
ミルには判断できない。
ニィも分かっていない。
ただ、この音は軽く真似してはいけないと感じたのだ。
グレイも同じだった。
「ごめん」
その音は、今までの言葉と違う。
「こないで」は、距離を作る。
「たすけて」は、人間を呼ぶ。
「ごはん」は、食べる時の合図になる。
「おいで」は、集める。
「こわい」は、恐怖を伝える。
では、「ごめん」は何を動かすのか。
グレイには分からない。
だが、動かすものがあるのは分かる。
自分の中の何かが、動いている。
レオンの記憶。
死んだ人間。
食べた人間。
その血で生まれた自分。
これまで噛んだもの。
殺したもの。
村の山羊。
少年の腕。
兵士の血。
そして、守れなかったもの。
止められなかったもの。
アカが人間を食べた時。
ミルが夜道へ出た時。
人間が怖がった時。
その全部が、音の周りへ集まってくる。
ごめん。
グレイは、その音を自分で出そうとした。
喉が動く。
しかし、出なかった。
まだ。
その意味を出すには、何かが足りない。
あるいは、重すぎる。
アカは、布人形へ顔を押しつけた。
「ごめん……いたい……ごめん……」
言葉が混ざる。
アカの中で、噛んだ兵士の痛みと自分の恐怖が絡まっている。
ニィが寄り添う。
いつものように匂いを整える。
落ち着け。
ここにいる。
群れ。
そう伝える。
アカは少しだけ震えを弱めた。
だが、「ごめん」は消えない。
部屋の空気へ残った。
その頃、人間側でも、その言葉が出ていた。
負傷した兵士は、まだ寝台の上にいた。
エリシアの治療で命は助かった。
腕も残る。
だが、精神的な傷は深い。
夜になると、彼は何度も目を覚ます。
灰色の小さな口。
血。
人間の声。
「こないで」
その記憶が離れない。
彼のそばには、アレンがいた。
本来は見張り交代の時間だったが、アレンは少し残っていた。
兵士は目を開け、かすれた声で言った。
「すみません」
アレンは眉を寄せる。
「何がですか」
兵士は天井を見たまま言う。
「俺が……布を拾いに行ったから」
「あなたのせいじゃない」
「でも、命令では一人で離れるなって」
アレンは黙る。
兵士は続けた。
「すみません。迷惑を……」
アレンは、少し強く言った。
「謝らないでください。生きていてくれてよかった」
兵士の目から涙がこぼれた。
「怖かったんです」
「はい」
「食われると思った」
「はい」
「でも、あれ……小さかった」
アレンは息を止める。
兵士は震えながら言う。
「小さいのに、怖くて……でも、あれも怖がってた。俺を噛みながら、あれも震えてた」
アレンは何も言えなかった。
兵士は、ぽつりと言った。
「変ですよね。俺、あれを憎めばいいのに」
アレンは、ゆっくり首を振った。
「変じゃないです」
そう言いながら、自分にも言い聞かせていた。
この世界は、もう簡単ではない。
被害者がいて、加害者がいる。
守るべき人間がいる。
それは間違いない。
でも、灰の巣の中にも恐怖がある。
それを知ってしまった。
だから苦しい。
兵士は、また小さく言った。
「ごめんなさい」
アレンは答えられなかった。
同じ頃。
セヴィルは、排水路の奥で聞こえた新しい声の報告を受けていた。
見張りの一人が言った。
「地下から、謝ってるみたいな声が聞こえたんです」
セヴィルの手が止まる。
「何と」
「“ごめん”って」
記録室が静かになった。
ラグドもそこにいた。
エリシアも。
アレンはまだ兵士のところだ。
セヴィルは目を閉じた。
「……ついに」
ラグドが低く言う。
「何がだ」
「謝罪語です」
「謝罪?」
「人間の社会的言語です。恐怖や食欲より、ずっと複雑です」
ラグドは顔をしかめる。
「真似してるだけだろ」
セヴィルは少し黙る。
そして言った。
「最初はそうでしょう」
「最初は?」
「声の模倣も、最初は真似でした。でも、今は状況に応じて使い分けています」
ラグドは黙った。
セヴィルは続ける。
「もし“ごめん”が状況と結びついたなら、彼らは傷つけた相手への反応を学び始めている可能性があります」
エリシアが小さく言った。
「罪悪感……?」
セヴィルは答えに迷った。
罪悪感。
その言葉は重い。
人間でも複雑な感情だ。
灰の巣にそれがあると断言するのは危険だ。
だが、否定もできない。
「本物かは分かりません」
セヴィルは言った。
「ただ、罪悪感に似た形の模倣が始まっているかもしれません」
ラグドが、疲れたように息を吐いた。
「やめてくれよ」
それは誰へ向けた言葉か分からなかった。
セヴィルへか。
灰の巣へか。
この状況へか。
「魔物が謝り出したら、どうすりゃいいんだ」
誰も答えられなかった。
地下の部屋では、アカがまだ「ごめん」を繰り返していた。
少しずつ、声は弱くなる。
ニィに寄り添われ、布人形を抱え、チイたちから少し離れた位置で丸まっている。
ミルは真似したくて仕方ないが、ニィに止められている。
カラは、その場の空気を察したのか骨を鳴らさない。
クロは入口から一度だけ振り返った。
アカを見る。
それから、また外を見る。
クロには、謝罪の意味はあまり分からない。
ただ、アカが乱れていることは分かる。
マエは、チイたちの前に座るように伏せている。
弱いものを守る位置。
グレイは、アカの近くにいた。
そして、考えていた。
人間を傷つけた。
そのことに対する反応。
ごめん。
もしそれを理解できるなら。
もし、自分たちが傷つけた相手を意識できるなら。
群れは、人間を襲わずに済むのか。
その考えが浮かぶ。
だが、すぐに別の現実が来る。
空腹。
恐怖。
防衛。
本能。
それらは「ごめん」では消えない。
アカは謝ったように見える。
でも、また空腹になればどうなる。
人間の血の匂いを嗅げばどうなる。
ミルが夜道で人影を真似たように、また誰かが人間へ近づくかもしれない。
ごめんと言えることと、繰り返さないことは違う。
グレイは、その違いをまだ言葉にはできない。
だが、重さだけは感じていた。
その時、アカが顔を上げた。
グレイを見た。
そして、はっきり言った。
「ごめん」
グレイは動けなかった。
それは誰の言葉だったのか。
アカ自身か。
兵士の記憶か。
食べた人間の断片か。
分からない。
だが、グレイへ向けられていた。
アカは、自分が群れへ危険を持ち込んだことを感じているのかもしれない。
人間の血の匂い。
兵士の記憶。
人間側の怒り。
それらを。
あるいは、ただ覚えた音を出しただけかもしれない。
それでも。
グレイは返したくなった。
何を返すのか分からない。
ただ、その音に対して何かを返さなければならないと感じた。
グレイは、喉を動かした。
長く、重く、歪んだ音。
「ご……めん」
部屋全体が静まった。
グレイが言った。
アカだけではなく。
ミルでもなく。
中心であるグレイが。
ごめん。
その音は、ひどく不完全だった。
人間の声には遠い。
だが、群れには届いた。
ニィが震える。
クロが振り返る。
チイたちが静かになる。
アカが布人形を抱えたまま、少しだけ身体を緩めた。
グレイは、自分が何に謝ったのか分からなかった。
レオンを食べたことか。
人間を傷つけたことか。
群れを止められないことか。
アカを生かしたことか。
チイたちを守るために、これからまた人間とぶつかることか。
分からない。
でも、その言葉を出した瞬間、胸の奥にあった何かが形を持った。
それは、罪悪感と呼ぶにはまだ幼い。
後悔と呼ぶには曖昧すぎる。
ただ、傷つけたことを知っている感覚。
それだけ。
しかし、灰の巣にとっては、それだけでも大きすぎる変化だった。
グレイは目を閉じた。
人間の言葉をまた一つ覚えた。
恐怖ではない。
食事でもない。
距離でもない。
謝罪。
それは、群れを止める力になるのか。
それとも、ただ苦しみを増やすだけなのか。
まだ分からない。
ただ、部屋の隅でアカが小さく眠り始めた。
「ごめん」と呟いたあとで。
それを見て、グレイは少しだけ思った。
人間の言葉には、傷を塞げなくても、震えを弱める力があるのかもしれない。
だが同時に。
その言葉を覚えた灰の巣は、もう二度とただの魔物には戻れないのだとも思った。




