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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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92/99

第92話『ごめん』

アカがその言葉を覚えたのは、夜道の騒ぎが静まった後だった。


排水路の奥。


古い生活区画。


布と皿と壊れた椅子が散らばる部屋。


そこに、灰の群れは身を潜めていた。


ミルはまだ震えている。


夜道で人型を試し、人間に見られ、警報を鳴らされた。


それは、群れ全体へ強い記憶として流れ込んでいた。


外套。


月明かり。


若い兵の足音。


「大丈夫か」と呼びかける声。


「下がれ」と止める声。


「助けて」に反応してしまう人間。


布がめくれた時の恐怖。


笛の音。


ミルの中では、それらがぐちゃぐちゃに混ざっている。


ニィは、何度もミルの近くへ行った。


匂いを整える。


落ち着かせる。


チイたちから離す。


ミルの恐怖がチイへ移らないように。


しかし、完全には防げない。


チイの中にも、もう夜道の断片が入っている。


人影。


声。


警報。


逃げる。


それを意味として理解してはいない。


だが、恐怖の形として覚えてしまっている。


クロは入口で低く伏せていた。


怒っている。


ミルにではない。


いや、ミルにも少しは向いている。


だが、それ以上に人間へ。


夜道で兵が笛を吹いたこと。


群れの場所を知らせたこと。


人間の灯りが増えたこと。


それら全てへ怒っている。


クロにとって、人間は外から来る危険だ。


近づけば噛む。


脅せば退かせる。


それが一番分かりやすい。


グレイは、その単純さが少し羨ましかった。


自分はもう、そこまで単純ではいられない。


人間を食べた記憶。


レオン。


村の火。


食卓。


名前。


子守唄。


服。


人型。


人間への理解は、少しずつ増えている。


だが、理解すればするほど、簡単には動けなくなる。


アカは、部屋の隅にいた。


布人形を抱えている。


人形は古い。


中の綿は湿り、片腕は千切れかけている。


それでもアカは離さない。


その人形が、アカの中にある人間の記憶を引き出すからだ。


母親。


子供。


服。


寝床。


歌。


そして、別の記憶。


血。


兵士。


腕を噛まれた痛み。


死にたくないという恐怖。


アカの中には、人間の断片が多すぎる。


小さな身体に収まりきらない。


だから時々、壊れた声として漏れる。


「こわい」


「いたい」


「やだ」


「たすけて」


「ごはん」


その言葉を、ミルやチイが真似する。


だからニィは嫌がる。


だが、完全には止められない。


その夜、アカはしばらく黙っていた。


布人形を抱え、顔を伏せている。


グレイは近づかなかった。


アカが静かな時は、無理に触れない方がいい。


人間の記憶が内部で流れている時、強い刺激を与えると混乱する。


それを、グレイは経験で覚えていた。


だが、アカの中の何かが急に動いた。


グレイは感覚で分かった。


強い記憶。


血ではない。


痛みでもない。


もっと違うもの。


アカが、布人形を抱える力を強めた。


そして、小さく呟いた。


「ご……めん」


部屋の中が止まった。


水音だけが続いている。


さらさら。


排水路の奥を流れる水。


その音の中で、アカの声だけがやけに残った。


ごめん。


グレイは、その音を知っていた。


レオンの記憶の中にある。


人間がよく使う言葉。


誰かを傷つけた時。


失敗した時。


約束を破った時。


守れなかった時。


死に際に。


生き残った時に。


軽く使う時もある。


重く使う時もある。


「ごめん」


その意味は、一つではない。


だが、どれも何かを認める言葉だった。


自分が悪かった。


相手を傷つけた。


そういう感覚。


グレイは、アカを見つめた。


アカがなぜ今その言葉を出したのか。


すぐには分からない。


しかし、アカの中から流れてくる記憶で、少しだけ見えた。


兵士の腕。


噛みついた感触。


血の味。


兵士の叫び。


「やめろ」


「助けて」


そして、兵士の記憶の中にあった別の声。


誰かに向けて言った言葉。


「ごめん」


それは、兵士自身の記憶だった。


家族へ。


子供へ。


戦場へ行く前。


帰れないかもしれない時。


あるいは、誰かを守れなかった時。


場面は壊れていてはっきりしない。


だが、その言葉だけが残っていた。


ごめん。


アカは、その音を拾った。


そして今、口にした。


意味を知っているのか。


たぶん、完全には知らない。


だが、血の味と、兵士の痛みと、自分が噛んだ記憶と一緒に出てきた。


だから、ただの真似ではなかった。


グレイはそう感じた。


ニィが、ゆっくりアカへ近づいた。


警戒している。


でも、押さえつけない。


アカは震えながら、また言った。


「ごめん……」


今度は、誰に向けているのか分からなかった。


グレイへか。


ニィへか。


噛んだ兵士へか。


自分自身へか。


アカ自身にも分からないだろう。


だが、その声には、今までの「こわい」と違う重さがあった。


怖いから出る音ではない。


痛いから出る音でもない。


何かを思い出して、何かが胸の奥を押すような音。


ミルが、すぐに真似しようとした。


「ご……」


ニィが強く止める。


「グ!」


ミルはびくりとする。


なぜ止めるのか分からない。


「ごめん」は役に立つ音なのか。


危険な音なのか。


ミルには判断できない。


ニィも分かっていない。


ただ、この音は軽く真似してはいけないと感じたのだ。


グレイも同じだった。


「ごめん」


その音は、今までの言葉と違う。


「こないで」は、距離を作る。


「たすけて」は、人間を呼ぶ。


「ごはん」は、食べる時の合図になる。


「おいで」は、集める。


「こわい」は、恐怖を伝える。


では、「ごめん」は何を動かすのか。


グレイには分からない。


だが、動かすものがあるのは分かる。


自分の中の何かが、動いている。


レオンの記憶。


死んだ人間。


食べた人間。


その血で生まれた自分。


これまで噛んだもの。


殺したもの。


村の山羊。


少年の腕。


兵士の血。


そして、守れなかったもの。


止められなかったもの。


アカが人間を食べた時。


ミルが夜道へ出た時。


人間が怖がった時。


その全部が、音の周りへ集まってくる。


ごめん。


グレイは、その音を自分で出そうとした。


喉が動く。


しかし、出なかった。


まだ。


その意味を出すには、何かが足りない。


あるいは、重すぎる。


アカは、布人形へ顔を押しつけた。


「ごめん……いたい……ごめん……」


言葉が混ざる。


アカの中で、噛んだ兵士の痛みと自分の恐怖が絡まっている。


ニィが寄り添う。


いつものように匂いを整える。


落ち着け。


ここにいる。


群れ。


そう伝える。


アカは少しだけ震えを弱めた。


だが、「ごめん」は消えない。


部屋の空気へ残った。


その頃、人間側でも、その言葉が出ていた。


負傷した兵士は、まだ寝台の上にいた。


エリシアの治療で命は助かった。


腕も残る。


だが、精神的な傷は深い。


夜になると、彼は何度も目を覚ます。


灰色の小さな口。


血。


人間の声。


「こないで」


その記憶が離れない。


彼のそばには、アレンがいた。


本来は見張り交代の時間だったが、アレンは少し残っていた。


兵士は目を開け、かすれた声で言った。


「すみません」


アレンは眉を寄せる。


「何がですか」


兵士は天井を見たまま言う。


「俺が……布を拾いに行ったから」


「あなたのせいじゃない」


「でも、命令では一人で離れるなって」


アレンは黙る。


兵士は続けた。


「すみません。迷惑を……」


アレンは、少し強く言った。


「謝らないでください。生きていてくれてよかった」


兵士の目から涙がこぼれた。


「怖かったんです」


「はい」


「食われると思った」


「はい」


「でも、あれ……小さかった」


アレンは息を止める。


兵士は震えながら言う。


「小さいのに、怖くて……でも、あれも怖がってた。俺を噛みながら、あれも震えてた」


アレンは何も言えなかった。


兵士は、ぽつりと言った。


「変ですよね。俺、あれを憎めばいいのに」


アレンは、ゆっくり首を振った。


「変じゃないです」


そう言いながら、自分にも言い聞かせていた。


この世界は、もう簡単ではない。


被害者がいて、加害者がいる。


守るべき人間がいる。


それは間違いない。


でも、灰の巣の中にも恐怖がある。


それを知ってしまった。


だから苦しい。


兵士は、また小さく言った。


「ごめんなさい」


アレンは答えられなかった。


同じ頃。


セヴィルは、排水路の奥で聞こえた新しい声の報告を受けていた。


見張りの一人が言った。


「地下から、謝ってるみたいな声が聞こえたんです」


セヴィルの手が止まる。


「何と」


「“ごめん”って」


記録室が静かになった。


ラグドもそこにいた。


エリシアも。


アレンはまだ兵士のところだ。


セヴィルは目を閉じた。


「……ついに」


ラグドが低く言う。


「何がだ」


「謝罪語です」


「謝罪?」


「人間の社会的言語です。恐怖や食欲より、ずっと複雑です」


ラグドは顔をしかめる。


「真似してるだけだろ」


セヴィルは少し黙る。


そして言った。


「最初はそうでしょう」


「最初は?」


「声の模倣も、最初は真似でした。でも、今は状況に応じて使い分けています」


ラグドは黙った。


セヴィルは続ける。


「もし“ごめん”が状況と結びついたなら、彼らは傷つけた相手への反応を学び始めている可能性があります」


エリシアが小さく言った。


「罪悪感……?」


セヴィルは答えに迷った。


罪悪感。


その言葉は重い。


人間でも複雑な感情だ。


灰の巣にそれがあると断言するのは危険だ。


だが、否定もできない。


「本物かは分かりません」


セヴィルは言った。


「ただ、罪悪感に似た形の模倣が始まっているかもしれません」


ラグドが、疲れたように息を吐いた。


「やめてくれよ」


それは誰へ向けた言葉か分からなかった。


セヴィルへか。


灰の巣へか。


この状況へか。


「魔物が謝り出したら、どうすりゃいいんだ」


誰も答えられなかった。


地下の部屋では、アカがまだ「ごめん」を繰り返していた。


少しずつ、声は弱くなる。


ニィに寄り添われ、布人形を抱え、チイたちから少し離れた位置で丸まっている。


ミルは真似したくて仕方ないが、ニィに止められている。


カラは、その場の空気を察したのか骨を鳴らさない。


クロは入口から一度だけ振り返った。


アカを見る。


それから、また外を見る。


クロには、謝罪の意味はあまり分からない。


ただ、アカが乱れていることは分かる。


マエは、チイたちの前に座るように伏せている。


弱いものを守る位置。


グレイは、アカの近くにいた。


そして、考えていた。


人間を傷つけた。


そのことに対する反応。


ごめん。


もしそれを理解できるなら。


もし、自分たちが傷つけた相手を意識できるなら。


群れは、人間を襲わずに済むのか。


その考えが浮かぶ。


だが、すぐに別の現実が来る。


空腹。


恐怖。


防衛。


本能。


それらは「ごめん」では消えない。


アカは謝ったように見える。


でも、また空腹になればどうなる。


人間の血の匂いを嗅げばどうなる。


ミルが夜道で人影を真似たように、また誰かが人間へ近づくかもしれない。


ごめんと言えることと、繰り返さないことは違う。


グレイは、その違いをまだ言葉にはできない。


だが、重さだけは感じていた。


その時、アカが顔を上げた。


グレイを見た。


そして、はっきり言った。


「ごめん」


グレイは動けなかった。


それは誰の言葉だったのか。


アカ自身か。


兵士の記憶か。


食べた人間の断片か。


分からない。


だが、グレイへ向けられていた。


アカは、自分が群れへ危険を持ち込んだことを感じているのかもしれない。


人間の血の匂い。


兵士の記憶。


人間側の怒り。


それらを。


あるいは、ただ覚えた音を出しただけかもしれない。


それでも。


グレイは返したくなった。


何を返すのか分からない。


ただ、その音に対して何かを返さなければならないと感じた。


グレイは、喉を動かした。


長く、重く、歪んだ音。


「ご……めん」


部屋全体が静まった。


グレイが言った。


アカだけではなく。


ミルでもなく。


中心であるグレイが。


ごめん。


その音は、ひどく不完全だった。


人間の声には遠い。


だが、群れには届いた。


ニィが震える。


クロが振り返る。


チイたちが静かになる。


アカが布人形を抱えたまま、少しだけ身体を緩めた。


グレイは、自分が何に謝ったのか分からなかった。


レオンを食べたことか。


人間を傷つけたことか。


群れを止められないことか。


アカを生かしたことか。


チイたちを守るために、これからまた人間とぶつかることか。


分からない。


でも、その言葉を出した瞬間、胸の奥にあった何かが形を持った。


それは、罪悪感と呼ぶにはまだ幼い。


後悔と呼ぶには曖昧すぎる。


ただ、傷つけたことを知っている感覚。


それだけ。


しかし、灰の巣にとっては、それだけでも大きすぎる変化だった。


グレイは目を閉じた。


人間の言葉をまた一つ覚えた。


恐怖ではない。


食事でもない。


距離でもない。


謝罪。


それは、群れを止める力になるのか。


それとも、ただ苦しみを増やすだけなのか。


まだ分からない。


ただ、部屋の隅でアカが小さく眠り始めた。


「ごめん」と呟いたあとで。


それを見て、グレイは少しだけ思った。


人間の言葉には、傷を塞げなくても、震えを弱める力があるのかもしれない。


だが同時に。


その言葉を覚えた灰の巣は、もう二度とただの魔物には戻れないのだとも思った。

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