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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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第9話『巣』

嫌だ。


その言葉は、まだ残っていた。


だが、残っているだけだった。


強い感情ではない。


火傷の跡のように、そこにあるだけ。


触れれば痛む。


けれど、普段は忘れている。


白灰色の幼生は、暗い通路を進みながら、何度もその言葉を確かめていた。


嫌だ。


死肉に慣れるのが嫌だ。


同族の味を覚えているのが嫌だ。


自分の身体を便利だと思うのが嫌だ。


人間の足を見て、柔らかそうだと考えたのが嫌だ。


嫌だ。


嫌だ。


嫌だ。


だが、そのたびに腹の奥は静かに返す。


それで、生きられる。


その一言で、すべてが沈む。


この洞窟で生きるために必要なら。


死肉を食う。


毒を飲む。


傷に耐える。


同族も食う。


身体が変わっても受け入れる。


嫌悪はある。


恐怖もある。


だが、生存の前では弱くなっていく。


それを自覚していることだけが、まだ救いのように思えた。


自覚しているうちは、完全には変わっていない。


そう思いたかった。


幼生は壁沿いに進んだ。


灰色の外皮は、光苔の薄い明かりの中でも目立ちにくい。


以前の白い身体なら、岩陰にいても浮いていただろう。


今は違う。


身体を低くし、動きを止めれば、ほとんど岩と区別がつかない。


そのことを、もう理解している。


理解しているどころか、利用している。


広い洞窟の中央には出ない。


水場に長く留まらない。


死骸を見つけてもすぐには飛びつかない。


強い匂いの場所には、強い捕食者が来る。


音を立てたものは死ぬ。


光の下に出たものは狙われる。


この洞窟には、いくつもの掟がある。


誰かが教えてくれたわけではない。


死体と、傷と、空腹が教えた。


そして今日は、その掟の中に一つ新しいものが加わろうとしていた。


居場所が必要だ。


ただ隠れる場所ではない。


戻れる場所。


餌を隠せる場所。


傷を癒やせる場所。


脱皮できる場所。


見つかりにくく、逃げ道があり、強い魔物が入り込めない場所。


巣。


その言葉が、頭に浮かぶ。


幼生はその言葉に少しだけ抵抗を覚えた。


巣。


まるで虫だ。


まるで獣だ。


けれど、自分が今さら人間の部屋を求めることなどない。


布団もない。


扉もない。


火もない。


声をかける相手もいない。


なら、自分に必要なのは巣だ。


その認識はあまりにも自然で、だからこそ嫌だった。


だが、嫌だからといって不要にはならない。


幼生は小さな亀裂を覗き込んだ。


狭い。


しかし奥行きが足りない。


入り口が大きすぎる。


小型の獣なら入ってこられる。


駄目。


次。


天井近くの裂け目。


高い位置にあり、目立ちにくい。


だが、壁を這う蜘蛛型魔物の糸が近い。


危険。


次。


水場のそばの岩陰。


水が近いのは便利だが、他の魔物も来る。


人間も来た。


駄目。


次。


骨が積み重なった場所の裏。


匂いが強く、自分の匂いを隠しやすい。


だが、死肉漁りの魔物が頻繁に通る。


駄目。


幼生は探し続けた。


移動には危険が伴う。


それでも探した。


一つの隠れ場所に留まり続ければ、いずれ見つかる。


餌も尽きる。


そして、脱皮の時のように動けなくなった時、外にいれば死ぬ。


だから巣が必要だった。


腹はまだそれほど減っていない。


だが、いつ空腹が来るか分からない。


食べたものはすぐに身体へ変わる。


身体が変われば、また食べ物が必要になる。


この身体は燃費が悪い。


そう思った瞬間、幼生は自分の感覚に少しだけ驚いた。


燃費。


まるで自分の身体を道具や機械のように考えている。


だが、実際そうだった。


この身体は、生き残るための器。


餌を入れ、変化し、逃げ、隠れ、狩る。


それを繰り返している。


なら、効率を考えるのは当然かもしれない。


当然。


また一つ、嫌なものが当然になった。


通路の先で、匂いが変わった。


湿った土。


古い血。


そして、ほとんど腐りきった肉の臭い。


幼生は足を止めた。


餌場ではない。


それよりも、もっと古い。


捨て場。


そんな印象だった。


岩の裂け目の奥に、低い空間がある。


入り口は細い。


幼生なら入れる。


鼠型魔物はぎりぎり入れるかもしれない。


だが、ケイブハウンドや痩せた獣は無理だ。


中からは強い腐臭がする。


危険かもしれない。


だが、同時に匂い隠しには向いている。


幼生は入り口に近づいた。


中を覗く。


暗い。


光苔の光も届かない。


だが、匂いと空気の流れで少し分かる。


奥は意外と広い。


水はない。


だが湿気はある。


古い骨がある。


死体も少し。


生きた気配は薄い。


ただ、一つだけ注意すべき匂いがある。


糞。


獣のもの。


つまり、ここを使っていた魔物がいる。


今はいない。


だが戻ってくる可能性がある。


幼生はしばらく入り口で迷った。


入るべきか。


避けるべきか。


だが、ここほど条件の良い場所はなかなかない。


強い匂い。


狭い入り口。


広い奥。


壁には小さな亀裂が複数あり、逃げ道にもなりそうだ。


問題は、元の主。


戻ってきた時にどうするか。


戦える相手なら奪う。


無理なら逃げる。


そう考えて、幼生は自分の思考にまた気づいた。


奪う。


今、自然にそう思った。


巣を奪う。


他の魔物の居場所を。


それが必要なら。


幼生は暗い隙間へ入った。


腹を低くし、音を殺す。


入り口は狭い。


灰色の外皮が岩に擦れる。


奥へ進むほど腐臭が強くなった。


最初なら耐えられなかっただろう。


だが今は、臭いの種類を分けられる。


古い骨。


乾いた皮。


腐った脂。


獣の糞。


湿った土。


それぞれ違う。


気持ち悪さよりも先に、情報として入ってくる。


奥に着いた。


そこは、低い天井の小部屋のようだった。


岩に囲まれた空間。


床には骨が散らばっている。


小型魔物の骨。


虫の殻。


干からびた肉片。


壁際には、獣が寝床にしていたらしい窪みがあった。


糞の匂いはそこからする。


幼生は周囲を確認した。


生きた気配はない。


今はいない。


ここを使える。


少なくとも、一時的には。


幼生は小部屋の中央まで進み、身体を低くした。


広さは十分だ。


脱皮もできる。


餌も隠せる。


入り口から見えにくい位置に、岩の割れ目がある。


そこに肉を押し込めば保存できる。


天井に小さな穴があり、空気が流れている。


完全に閉じた空間ではない。


悪くない。


かなり良い。


幼生は、初めてその場所に少しだけ安心を覚えた。


自分の場所。


そう思った。


その瞬間、胸の奥に奇妙な熱が生まれた。


ここは自分の場所だ。


他のものに入られたくない。


奪われたくない。


荒らされたくない。


縄張り。


その言葉が浮かぶ。


幼生は固まった。


縄張り意識。


獣のような感覚。


いや、魔物なら当然なのかもしれない。


だが、自分の中にそれが芽生えたことが、少し怖かった。


自分の場所。


自分の餌。


自分の逃げ道。


そういうものを持ち始めている。


生きるために。


幼生はまず、床の骨を動かした。


入り口に近い骨を少しずつ奥へ押し込む。


骨を踏まれると音が出る。


だから、入り口付近の床はできるだけ綺麗にする。


代わりに、部屋の奥に骨を集める。


そこで足音が鳴っても、自分が動く時の音に紛れるかもしれない。


そんなことを考えながら動いた。


次に、古い肉片を岩の割れ目へ押し込んだ。


食べられるものと、もう駄目なものを分ける。


食べられるものは奥へ。


駄目なものは入り口近くへ。


腐臭で匂いを誤魔化すために。


自分でも驚くほど、動きに迷いがなかった。


巣を整えている。


そう理解した。


ただ隠れるだけではなく、自分が生きやすいように環境を変えている。


適応するのは身体だけではない。


周囲も変える。


その方が生きやすい。


幼生は、しばらく無心で巣を作った。


岩の隙間へ身体を押し込み、逃げ道の確認をする。


入り口から奥まで何歩で移動できるか試す。


天井の小穴に頭を突っ込み、外へ繋がっていないか確認する。


完全には通れない。


だが空気は通る。


もし煙や火が来たら、ここから逃げることはできない。


火。


人間の火を思い出す。


あの明かり。


熱。


焼けた肉。


主人公ではなく、幼生はその記憶に少し身を硬くした。


火は危険だ。


この巣に火を入れられれば終わりだ。


だから、人間には見つかってはいけない。


幼生は入り口の近くに戻った。


そこに、小さな石をいくつか転がした。


誰かが入れば石が動き、音がする。


罠というほどではない。


だが、警戒にはなる。


その発想が自分の中から出てきたことに、幼生は少しだけ奇妙な感覚を覚えた。


罠。


環境利用。


人間たちがしていた連携とは違う。


だが、自分も少しずつ“考えて”生きている。


ただの本能ではない。


そう思うと、少し安心した。


まだ考えられる。


まだ自分は、飢えだけではない。


そう思いたかった。


その時。


入り口の外で、気配がした。


幼生は一瞬で動きを止めた。


生き物。


小型。


いや、中型。


匂い。


獣。


糞の匂いと同じ。


この巣の元の主。


戻ってきた。


幼生は部屋の奥へ下がり、骨の影に身体を伏せた。


灰色の外皮を岩と骨に馴染ませる。


入り口の外で、鼻を鳴らす音がする。


ぐふ。


ぐふ。


低い呼吸。


やがて、細長い顔が入り口から覗いた。


痩せた獣。


昨日、兎型魔物の残骸を奪っていったものと似ている。


同じ個体かもしれない。


長い舌。


薄い皮膚。


鋭い歯。


細い体。


入り口は狭いが、この獣は無理やり身体を押し込めば入れそうだった。


幼生の身体が緊張する。


勝てるか。


無理。


正面からは無理だ。


なら逃げるか。


逃げ道は奥の亀裂。


通れる。


だが、ここを捨てることになる。


せっかく見つけた巣。


自分の場所。


幼生の奥で、ざらついた感情が動いた。


嫌だ。


ここを奪われたくない。


その感情は、思ったより強かった。


獣が入り口から身体を入れようとする。


その前脚が、小石に触れた。


かつん。


小さな音。


獣が一瞬止まる。


幼生はその音を聞いた瞬間、動いた。


逃げるのではない。


横の壁を駆け上がる。


天井近くの影へ。


獣の視線が床に向いている間に、上を取る。


幼生は壁に張りついた。


新しい外皮と脚が岩を掴む。


落ちない。


獣が部屋の中へ入ってくる。


鼻を鳴らす。


異変に気づいている。


自分の匂いではないもの。


動かされた骨。


隠された肉。


そして、岩に紛れた幼生の匂い。


獣が顔を上げた。


見つかる。


幼生は迷わなかった。


天井から落ちる。


狙いは目。


正面からは勝てない。


なら、弱い場所だけを狙う。


獣が反応する。


速い。


だが、完全には避けきれない。


幼生は獣の顔に張りつき、黒い目の一つへ牙を突き立てた。


獣が絶叫する。


洞窟に響く声。


まずい。


音が大きすぎる。


他の魔物が来る。


だが、今離せば殺される。


幼生はさらに噛んだ。


目を潰す。


柔らかい。


熱い液体が口に広がる。


獣が頭を振る。


壁に叩きつけられる。


衝撃。


外皮が軋む。


だが離さない。


獣の前脚が顔を引っ掻こうとする。


幼生はその動きに合わせて、顔から首元へ滑った。


長い舌が伸びる。


絡め取ろうとする。


幼生は舌へ噛みついた。


獣がまた叫ぶ。


今度は短い。


痛みで動きが乱れる。


幼生は落ちた。


地面へ転がる。


獣がすぐに噛みつこうとする。


幼生は骨の山へ逃げ込んだ。


さっき自分で集めた骨。


そこへ身体を滑り込ませる。


獣の牙が骨に当たる。


がり、と音がする。


骨が崩れる。


幼生は骨の隙間を抜け、獣の後ろへ回った。


狭い部屋。


獣は身体が大きく、方向転換が遅い。


自分は小さい。


岩の隙間も骨の下も通れる。


この部屋なら。


この巣なら。


戦える。


幼生は初めて、それを理解した。


ここはただの隠れ場所ではない。


自分が生きるための形に変えた空間。


自分の有利な場所。


なら。


ここで勝つ。


獣が振り向く。


片目を潰され、舌から血を流している。


怒っている。


だが、傷は浅くない。


幼生は距離を取った。


正面から行かない。


獣が飛びかかる。


幼生は横へ逃げる。


獣の前脚が床を叩く。


骨が砕ける。


その音がまた外へ響く。


急げ。


長引けば別の捕食者が来る。


幼生は壁へ上がった。


獣が追う。


だが登れない。


舌を伸ばす。


幼生はそれを待っていた。


伸びてきた舌を避け、側面へ噛みつく。


今度は噛んですぐ離れる。


獣が舌を引く。


傷が増える。


血が飛ぶ。


幼生はまた天井へ移動する。


獣は苛立っている。


目で追えない。


鼻で探すが、腐臭と血と糞の匂いが混ざり、正確に捕まえられない。


ここは臭い。


最初は嫌だった腐臭が、今は自分を隠してくれている。


幼生はそれを理解した。


嫌悪の対象だったものすら、利用できる。


獣が部屋の奥へ踏み込む。


そこは床が骨だらけの場所。


足場が悪い。


幼生が意図して骨を集めた場所。


獣の足が滑る。


体勢が崩れる。


その瞬間、幼生は天井から落ちた。


今度は首の後ろ。


柔らかい皮膚。


そこへ牙を立てる。


深く。


獣が暴れる。


幼生は噛みついたまま、脚でしがみつく。


新しい外皮が裂ける。


体が揺さぶられる。


壁に叩きつけられる。


痛い。


だが、以前ほどではない。


外皮が守っている。


痛覚も少し鈍い。


それがありがたく、そして怖い。


獣が暴れ続ける。


幼生は噛み続ける。


肉を裂く。


血を飲む。


喉の奥で、獣の命が弱っていくのを感じる。


だが、これだけでは殺しきれない。


幼生は牙をさらに深く入れた。


首の血管。


そんな言葉が浮かぶ。


そこを裂けば、早く死ぬ。


なぜ知っているのか分からない。


だが、分かる。


幼生は位置をずらし、柔らかく脈打つ部分を噛んだ。


獣の動きが激しくなる。


そして。


急に弱くなった。


血が大量に流れる。


獣が倒れる。


骨の山へ崩れ落ちる。


まだ脚が動いている。


幼生は離れなかった。


完全に止まるまで。


完全に。


長い時間のように感じた。


実際は短かったのかもしれない。


やがて、獣は動かなくなった。


幼生はようやく牙を抜いた。


身体が震えている。


疲労。


痛み。


興奮。


恐怖。


そして、勝利。


勝った。


自分より大きい魔物に。


真正面からではない。


巣を使って。


骨を使って。


匂いを使って。


狭さを使って。


自分の小ささを使って。


勝った。


幼生は獣の死体を見下ろした。


かつてなら逃げるしかなかった相手。


昨日なら、餌を奪われても隠れて見ているしかなかった相手。


それを、今は殺した。


自分の場所を守るために。


その事実が、身体の奥を熱くする。


腹が鳴った。


当然のように。


目の前には大量の肉がある。


温かい。


新鮮。


強い獣の肉。


食べれば力になる。


幼生は食いついた。


迷いはほとんどなかった。


首の傷口から肉を裂く。


血を飲む。


舌も食べる。


潰した目の周囲も食べる。


柔らかい。


濃い。


力がある。


今まで食べたどの獣よりも、身体に熱が入る。


《中型獣魔物を捕食しました》


《筋力が上昇しました》


《嗅覚が上昇しました》


《舌部感覚器官への適応素質を獲得しました》


《縄張り防衛行動を確認》


《環境利用能力が微量上昇しました》


《捕食経験値を獲得しました》


声が次々と響く。


幼生は食べながら聞いていた。


縄張り防衛行動。


それを聞いて、少しだけ食べる動きが止まった。


やはり、これは縄張りなのだ。


自分の場所。


自分の巣。


それを守るために戦った。


そして勝った。


自分は、もうただ隠れて逃げるだけではない。


居場所を持ち、それを守ろうとしている。


それは成長なのか。


獣に近づいたのか。


分からない。


幼生は再び肉を食べた。


考えても、腹は減る。


考えても、傷は痛む。


食べれば治る。


食べれば強くなる。


だから食べる。


しばらくして、外から気配が近づいた。


獣の悲鳴と血の匂いに引き寄せられたのだろう。


小型魔物がいくつか。


虫型。


鼠型。


もっと大きな気配も遠くにある。


幼生は食べる手を止めた。


このままでは、せっかくの肉を奪われる。


昔なら、逃げていた。


だが今は違った。


幼生は獣の死体を、部屋の奥へ引きずった。


重い。


全身を使う。


少しずつ。


骨の山の裏へ。


入り口から見えにくい場所へ押し込む。


次に、入り口へ戻る。


小石をさらに増やす。


骨を数本、細く積む。


崩れれば音が鳴るように。


小型の魔物なら通れる。


だが、入ってくれば分かる。


簡単な仕掛け。


罠。


幼生は入り口のそばの影に潜んだ。


外の気配が近づく。


最初に来たのは、小さな虫型魔物だった。


血の匂いに誘われ、入り口から入ろうとする。


小石が動く。


かつん。


音。


幼生は影から飛び出した。


虫型魔物の首元へ一撃。


すぐに殺す。


音を出させない。


死体を奥へ運ぶ。


食べるのは後。


次。


鼠型魔物。


入り口を覗く。


血の匂いに夢中だ。


小石が鳴る。


幼生が襲う。


短い抵抗。


殺す。


奥へ運ぶ。


次。


小さな白い幼生。


同族。


入り口近くで止まる。


血の匂いに惹かれている。


主人公だったものと似た姿。


弱く、白く、柔らかい。


幼生は影の中から見ていた。


同族は入り口の骨に触れる。


かちゃ。


音が鳴る。


同族がびくりと震える。


幼生は動かなかった。


食べるか。


身体は反応した。


だが、さっき獣を食べたばかりだ。


今は急いで食べる必要はない。


同族はしばらく迷い、やがて去っていった。


幼生はそれを見送った。


なぜ襲わなかったのか。


自分でも分からない。


満腹だったからか。


面倒だったからか。


それとも、まだ何かが残っていたのか。


分からない。


ただ、見逃した。


その事実だけがあった。


少しだけ、ほっとした。


まだ全部は変わっていない。


そう思いたかった。


しかしその安堵は長く続かなかった。


見逃した同族の後ろから、天井の影が落ちた。


コウモリ型魔物。


同族は声を上げる間もなく捕まった。


首を裂かれ、持ち上げられる。


白い体液が入り口近くに落ちた。


幼生は影の中で動かなかった。


今出れば、自分が危ない。


見逃しても、死ぬものは死ぬ。


助けなかった。


また。


そして、入り口近くに落ちた同族の体液の匂いに、腹の奥が反応した。


幼生は目を閉じた。


洞窟はそういう場所だ。


そう自分に言い聞かせた。


夜なのか昼なのか分からない時間が過ぎた。


幼生は巣の中を整え続けた。


獣の死体を奥へ。


虫と鼠の死骸を割れ目へ。


食べられない骨を入り口近くへ。


石を配置する。


逃げ道を確認する。


血の匂いが強すぎる場所には腐肉を重ねて誤魔化す。


その作業をしながら、幼生は自分がこの場所に馴染んでいくのを感じた。


巣。


自分の巣。


この言葉への抵抗は、もう最初ほど強くなかった。


むしろ、落ち着く。


戻る場所がある。


食料がある。


隠れられる。


逃げられる。


それだけで、洞窟が少しだけ違って見えた。


ただ漂う弱い幼生ではない。


場所を持つ生き物になった。


そのことに、安心と恐怖を同時に覚えた。


食料を隠し終えた頃、頭の奥で声が響いた。


《巣作成行動を確認》


《縄張り意識が微量上昇しました》


《環境利用能力が微量上昇しました》


《罠設置の素質が発現しかけています》


《進化条件達成まで、残り僅かです》


罠設置。


縄張り意識。


巣作成。


それらの言葉が、幼生の中に沈む。


もう完全に魔物の行動だった。


だが、それによって生きられる。


それによって、強いものにも勝てた。


幼生は部屋の奥へ戻り、獣の死体の横で身体を丸めた。


肉の匂い。


骨の匂い。


自分の匂い。


腐臭。


すべてが混ざっている。


最初なら耐えられなかった空間。


今は、少しだけ安心する。


その事実が、何より変化を示していた。


幼生は目を閉じる。


眠る前、ふと人間の声を思い出した。


幼生系。


弱い。


そう言っていた。


もしまた会ったら、人間は自分を何と呼ぶのだろう。


白い幼生。


洞窟虫。


魔物。


それとも。


名前。


その言葉が浮かんだ。


自分には名前がない。


最初からない。


思い出せないのではなく、本当に無いのかもしれない。


そう思うと、少しだけ胸の奥が空いた。


巣はある。


餌もある。


身体も変わった。


それでも、自分を呼ぶ音はない。


誰かが誰かへ伝える音。


人間の声のようなもの。


自分には、それがない。


幼生は、暗闇の中で静かに身体を丸めた。


名前。


いつか、それが必要になるのだろうか。


それとも、必要ないのだろうか。


答えは出ない。


ただ、巣の入り口で小石が小さく鳴った。


幼生は目を開ける。


餌か。


敵か。


それとも、ただの風か。


音を聞き分ける。


動くべきか、待つべきかを考える。


ここは自分の巣だ。


そう思った瞬間、恐怖より先に、守るべきものを荒らされた不快感が湧いた。


幼生は、音もなく影の中へ溶けた。


もう、ただ逃げるだけではない。


この暗い小部屋で。


骨と腐肉と血に囲まれた場所で。


初めて自分の居場所を手に入れた。

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