第10話『脚』
巣の中は、静かだった。
外の洞窟では、相変わらず何かが動いている。
水滴が落ちる。
虫が這う。
獣が唸る。
骨が割れる。
肉が裂ける。
短い悲鳴が上がり、すぐに消える。
それでも、この小さな岩室の中だけは、少しだけ別の場所のように思えた。
腐肉の臭い。
獣の血。
乾いた骨。
糞の名残。
そして、自分の匂い。
それらが混ざっている。
ひどい臭いのはずだった。
最初の頃なら、ここにいるだけで耐えられなかっただろう。
だが今は違う。
この臭いは、自分を隠す。
この骨は、音を鳴らす。
この狭さは、大きな魔物を拒む。
この腐肉は、いざという時の餌になる。
全部、意味がある。
そう思える。
だから、少しだけ落ち着く。
そのことに気づくたび、灰色の幼生は自分の中で何かが変わっているのを感じた。
気持ち悪い場所を、安心できる場所だと思っている。
血と骨に囲まれた場所を、巣だと認識している。
それはもう、人間の感覚ではない。
そもそも自分が人間だったのか分からない。
けれど少なくとも、今の自分は人間ではない。
それだけは、何度考えても明らかだった。
幼生は、巣の奥で身体を丸めていた。
獣の死体は、だいぶ減っている。
全部食べたわけではない。
食べられる部分を選び、残りは分けてある。
腐敗が進んだ部分は入口付近に置き、匂いを強くする。
まだ食べられる肉は奥の割れ目へ押し込む。
硬い骨は小石と混ぜて入口の近くへ置く。
誰かが入れば音が鳴るように。
自分でも驚くほど、整っていた。
部屋ではない。
家でもない。
だが、これは巣だった。
自分のために作った空間。
自分が生き延びるために変えた場所。
幼生は前脚で床を軽く叩いた。
音は小さい。
自分が動く道には、骨を置いていない。
そのため、音を立てずに奥から入口まで移動できる。
だが侵入者は違う。
入口から真っ直ぐ入れば、小石か骨に触れる。
音がする。
そこで自分は気づく。
この小さな仕掛けが、昨日から何度か役に立った。
小型の虫が一匹。
鼠型魔物が一匹。
それから、よく分からない柔らかい魔物が一匹。
全部、音で気づいて仕留めた。
食べた。
保存した。
また食べた。
この巣は、餌も運んでくる。
血の匂いに釣られて入ってくる小型魔物を、自分が狩る。
待つ。
殺す。
食う。
そういう場所になっている。
その事実に、幼生は静かに恐怖した。
自分は、巣を作った。
それだけではない。
巣を使って、餌を狩るようになった。
逃げるための場所が、狩るための場所になりつつある。
弱いから隠れる。
隠れるから、奇襲できる。
奇襲できるから、殺せる。
殺せるから、食える。
食えるから、変われる。
全部繋がっている。
嫌なほど綺麗に。
幼生は、自分の脚を見た。
脚。
それが今日、一番気になっているものだった。
以前より長い。
細いが、しなやかだ。
先端には小さな鉤のような爪がある。
岩を掴む。
骨を引く。
肉を押さえる。
壁を登る。
天井に張りつく。
できることが増えた。
脱皮前の脚とは違う。
再生した脚も、もう他とほとんど変わらない。
むしろ、一度失ったせいか、その脚だけ少し感覚が鋭い気がする。
岩のざらつき。
骨の硬さ。
肉の柔らかさ。
空気の振動。
そういうものを、脚の先で感じ取れる。
便利だった。
あまりにも。
幼生は、ゆっくりと巣の壁へ近づいた。
前脚をかける。
中脚をかける。
後ろの脚が自然に地面を押す。
身体が持ち上がる。
壁を登る。
音はほとんどない。
光苔の薄い光が入り口からわずかに差し込み、灰色の外皮を鈍く照らした。
幼生は壁から天井へ移動した。
逆さになる。
以前なら恐怖があったかもしれない。
落ちる。
動けない。
危ない。
そう思っただろう。
だが今は、恐怖より先に安定感がある。
脚が岩を掴んでいる。
身体が軽い。
落ちない。
天井から巣を見下ろす。
骨。
肉。
石。
入口。
逃げ道。
全部の位置が分かる。
上から見ると、さらに理解できた。
ここは、自分のための空間だ。
自分が小さいから使える。
自分が壁を登れるから有利になる。
自分が灰色だから隠れられる。
自分の身体に合っている。
そう思った瞬間、少しだけ喜びのようなものが湧いた。
その直後、幼生は自分でその感情を嫌悪した。
嬉しいのか。
この身体が。
この脚が。
この巣が。
魔物として上手く生きられることが。
本当に?
答えは出ない。
ただ、脚は岩をしっかり掴んでいた。
落ちない。
それは確かだった。
しばらくして、入口の骨が鳴った。
かつん。
幼生の身体は、ほとんど反射で動きを止めた。
音。
小さい。
軽い。
入口。
一匹。
幼生は天井に張りついたまま、入口の方を見る。
何かが入ってきた。
小型の虫型魔物。
甲殻は薄い。
昨日食べたものより少し大きい。
血の匂いに釣られたのだろう。
虫型魔物は慎重に中へ入る。
触角を動かし、腐肉の匂いを探っている。
上は見ていない。
幼生は動かなかった。
待つ。
もっと奥へ。
もっと逃げにくい位置へ。
虫型魔物が入口から二歩、三歩と進む。
小石が鳴る。
止まる。
また進む。
餌に意識が向いている。
幼生は天井から落ちた。
音は小さい。
虫型魔物の背に乗る。
前脚で甲殻の縁を掴み、首の隙間へ牙を入れる。
正確に。
迷いなく。
虫型魔物が暴れる前に、柔らかい肉を裂く。
黒い体液が流れる。
虫型魔物が脚をばたつかせる。
だが短い。
幼生は体重をかけ、牙を深く沈める。
やがて動かなくなる。
幼生はすぐに死体を奥へ引きずった。
入口に血を残しすぎない。
匂いは使う。
だが強すぎると、大きな魔物を呼ぶ。
その加減も少しずつ覚えている。
死体を奥へ置き、必要な分だけ食べる。
甲殻の隙間から肉を引き出す。
味は慣れた。
苦く、濃く、少し泥臭い。
だが食べられる。
身体に入る。
栄養になる。
《小型甲殻魔物を捕食しました》
《脚力が微量上昇しました》
《壁面移動能力が微量上昇しました》
《奇襲行動を確認》
《静音移動が微量上昇しました》
声が響く。
幼生は咀嚼しながら、それを受け入れた。
もう、その声に驚くことはほとんどない。
それどころか、少しだけ待っている自分すらいる。
何が上がったのか。
何を得たのか。
この行動に意味があったのか。
それを知りたい。
声は、答えをくれる。
そのことに依存し始めているのかもしれない。
幼生は食事を止めた。
声を待っている。
それもまた、変化なのではないか。
この声が何なのか、まだ分からない。
誰のものなのか。
神なのか。
世界なのか。
自分の内側なのか。
ただの仕組みなのか。
分からない。
それでも、この声は淡々と告げる。
食った。
得た。
変わった。
まるで、それが当然であるかのように。
幼生は虫型魔物の残りを保存場所へ押し込んだ。
すると、奥の割れ目の中から腐った肉片が転がり出た。
以前隠したものだ。
かなり傷んでいる。
だがまだ食べられる部分がある。
幼生はそれを見て、自然に状態を判別した。
ここはもう駄目。
ここは食べられる。
ここは匂い消しに使える。
そこで、また動きが止まる。
まただ。
死肉への嫌悪より先に、利用方法が浮かぶ。
だが昨日ほど衝撃はない。
嫌悪が薄れたことにすら、慣れ始めている。
幼生は腐った肉片を入口の近くへ移動させた。
強い臭いで、奥の保存肉と自分の匂いを隠すために。
そうしていると、ふと自分がこの巣の中で何をしているのか分からなくなった。
餌を分ける。
罠を作る。
敵を待つ。
死体を利用する。
入口の匂いを調整する。
まるで、本当に魔物だ。
いや。
魔物なのだ。
そう受け入れるしかない。
幼生は巣の出口へ向かった。
中にいるだけでは、餌は限られる。
それに、水が必要だった。
巣に水場はない。
ここが唯一の欠点だ。
水は外へ飲みに行かなければならない。
危険だが、仕方ない。
幼生は入口の骨を避けて外へ出た。
洞窟の空気は巣の中より少し冷たい。
匂いも広い。
情報が一気に増える。
水の匂い。
小型魔物。
糸。
人間の古い匂い。
血。
石。
幼生は壁沿いに進んだ。
脚の感覚が昨日より鋭い。
地面の振動が分かる。
遠くで大型魔物が歩いた時、岩を通して微かな震えが伝わる。
左奥。
距離はある。
近づかない方がいい。
右側の狭い通路からは、小さな気配が複数。
虫の群れ。
避ける。
正面には水の匂い。
だが、水場には危険が集まる。
慎重に。
幼生は低く進む。
途中、壁に古い爪痕があった。
大きい。
自分の身体など簡単に裂けるだろう。
その爪痕を見て、以前ならただ恐怖したはずだ。
今は、まず考えた。
この高さ。
この幅。
この爪の角度。
相手は四足か。
前脚が大きい。
爪を振るうタイプ。
入口の狭い巣には入れない。
だが、外で会えば終わり。
だから匂いを覚える。
避けるために。
幼生は爪痕へ近づき、周囲の匂いを嗅いだ。
古い。
だが獣臭が残っている。
強い個体。
覚える。
その瞬間、頭の奥で声がした。
《危険察知の素質が微量上昇しました》
幼生は、少しだけ目を細めた。
見る。
嗅ぐ。
覚える。
それだけでも力になる。
なら、やはり無駄なものはない。
この洞窟の全てが、自分を変える。
傷も。
匂いも。
死体も。
恐怖も。
知識も。
すべて。
それが怖くもあり、少しだけ頼もしくもあった。
水場に近づくと、先客がいた。
小さな魔物が二匹。
一匹は鼠型。
もう一匹は、細長い蛇のような魔物。
互いに距離を取って水を飲んでいる。
幼生は岩陰に隠れた。
水を飲みたい。
だが、今出れば戦闘になるかもしれない。
鼠は狩れるかもしれない。
蛇は分からない。
毒がある可能性もある。
しかし毒なら、食えば耐性が得られるかもしれない。
そう考えた自分に、幼生は少しだけ冷えた。
危険を見て、回避より先に利用を考える。
この癖が強くなっている。
生きるためには役立つ。
だが、いつかそのせいで死ぬかもしれない。
いや。
死ぬかもしれない行動でも、身体は適応の材料と見る。
この性質そのものが危険だ。
幼生は岩陰で待った。
鼠型魔物が先に水場を離れる。
蛇型魔物はまだいる。
細い舌を出し、空気を舐めている。
こちらには気づいていない。
幼生は動かない。
蛇が水から離れるまで待つ。
待てる。
空腹ではないからか。
それとも、以前より我慢が効くようになったのか。
分からない。
しばらくして、蛇型魔物も岩の隙間へ消えた。
幼生は周囲を確認してから水場へ近づいた。
水面が揺れている。
主人公だったものの姿が映る。
幼生は水を飲む前に、少しだけ自分を見た。
灰色の身体。
長い脚。
少し硬い外皮。
目は増えたように見える。
口元の牙も、前より整っている。
いや、整っているという表現はおかしい。
肉を裂くのに向いた形へ、より鋭くなっている。
白い幼生では、もうない。
では何なのか。
分からない。
魔物。
幼生。
灰色の虫。
洞窟の何か。
自分を呼ぶ言葉がない。
それが、以前より気になった。
人間には名前がある。
昨日聞いた人間たちも、互いに呼び合っていた気がする。
はっきりした名は聞き取れなかった。
だが、声には相手を示す響きがあった。
こっち。
おい。
待て。
そういう呼びかけ。
誰かが誰かを認識する音。
自分にはそれがない。
自分を呼ぶものがない。
だから、いつまでも“自分”としか思えない。
幼生は水を飲んだ。
冷たい。
口の中の血の味が薄くなる。
その時、遠くから人間の声が聞こえた。
幼生の身体が即座に伏せる。
人間。
また。
声は遠いが、複数いる。
幼生は水場から離れ、岩陰へ潜った。
人間の匂いもする。
火。
鉄。
汗。
薬草。
革。
昨日とも、一昨日とも違う匂い。
別の人間たち。
「この辺りだ。昨日の調査班が妙な痕跡を見つけたって言ってた」
男の声。
低い。
慎重。
「幼生系だろ? 放っておいてもいいんじゃないのか」
別の男。
少し軽い。
「ただの幼生ならな」
足音が近づく。
幼生は岩陰で動かない。
体表の灰色が岩と馴染む。
水場の近くは危険だ。
だが、今動く方が危険。
人間は三人か、四人。
装備の音が多い。
金属。
革。
瓶の揺れる音。
調査班。
痕跡。
妙な。
幼生は言葉を聞きながら、身体を硬くした。
何を見つけた。
自分か。
巣か。
食べ跡か。
「これだ」
人間の一人が言う。
幼生の視界には直接見えない。
だが水場の近く、昨日同族が食われた場所あたりだ。
「幼生の食い残し?」
「いや、見ろ。上から裂かれた跡はバット系だ。問題はこっちだ」
「下から齧った跡……か」
「そうだ。幼生系が幼生を食ってる」
幼生の身体がわずかに震えた。
見られている。
食べた痕跡を。
人間は、そこから自分の行動を読んでいる。
「共食いくらい珍しくないだろ」
「珍しくはない。だが、この齧り方が妙なんだよ。食べる部位を選んでいる。適当に食い散らかしてない」
幼生は、息を潜めた。
食べる部位を選んだ。
その通りだった。
食える場所を判断した。
効率の良い場所を食べた。
人間はそれを見抜く。
怖い。
「それと、昨日見つけた中型獣の死骸。あれも変だった。部屋の中の骨の配置が不自然だった」
「配置?」
「誰かが動かしたみたいだった」
幼生は、巣のことを思い出した。
見つかったのか。
いや、昨日?
人間が巣の近くまで来ていたのか。
背中の外皮が冷える。
「魔物が罠でも作ったって言いたいのか?」
軽い声の男が笑う。
「幼生が?」
「だから妙だと言ってる」
低い声の男は笑わなかった。
「白い幼生がいるはずなんだが、灰色の外皮片も見つかった。脱皮してる。短期間で性質が変わってる可能性がある」
灰色。
脱皮。
外皮片。
幼生は、古い外皮を食べ残した欠片を思い出した。
全部食べたと思った。
だが、残っていたのかもしれない。
「呼び名、付けとくか?」
別の声が言った。
「報告書に書くなら必要だろ。未確定幼生じゃ長い」
幼生の中で、何かが止まった。
呼び名。
名前。
人間たちは、自分の話をしている。
自分を呼ぶ音を作ろうとしている。
「灰色の外皮で、洞窟に潜む幼生……グレイラーヴァとか?」
「雑だな」
「分かりやすいだろ」
グレイラーヴァ。
その音が、幼生の頭の中に残った。
人間の言葉。
ただの仮称。
報告書に書くための便宜上の呼び名。
それでも。
幼生は、その音を何度も頭の中で反芻した。
グレイラーヴァ。
自分を示す音。
初めて聞いた。
「まあ仮称ならそれでいい。灰幼生、とでも書いておけ」
「はいはい。灰幼生ね」
灰幼生。
グレイラーヴァ。
人間たちは軽く言う。
自分たちがどれほど大きなものを投げたのかも知らずに。
幼生は岩陰で動けなかった。
名前ではない。
本当の名前ではない。
人間が勝手につけた分類名。
獣や虫につけるような呼び名。
それでも。
それでも、自分には何もなかった。
名前も。
過去も。
呼ばれる音も。
だから、その音は妙に重かった。
グレイラーヴァ。
灰幼生。
自分は、それなのか。
それだけなのか。
分からない。
けれど、その音を聞いた瞬間、胸の奥の空洞に何かが落ちた気がした。
「気をつけろよ。もし本当に罠を使う幼生なら、普通じゃない」
「幼生相手に大げさだな」
「普通じゃない魔物ほど、最初は小さい」
低い声の男が言った。
その言葉に、幼生はなぜか強く反応した。
普通じゃない。
小さい。
自分のことだ。
人間がそう言った。
怖い。
見つかれば殺されるかもしれない。
調査されるかもしれない。
追われるかもしれない。
だが、同時に別の感情が湧いた。
認識された。
自分は、ただ洞窟の底にいる無名の幼生ではなくなった。
人間が痕跡を見て、呼び名をつけた。
灰幼生。
グレイラーヴァ。
それが、自分を示す音になった。
人間たちはしばらく周囲を調べていた。
幼生は動かなかった。
グレイラーヴァという音を頭の奥で繰り返しながら。
やがて、人間たちは水場を離れた。
足音が遠ざかる。
声が小さくなる。
気配が消える。
それでも幼生はしばらく動かなかった。
完全に安全になるまで待つ。
待つ間も、その音は消えなかった。
灰幼生。
グレイラーヴァ。
どちらがいいのか。
そもそも、いいも悪いもない。
人間が付けた仮称だ。
自分の意思ではない。
だが。
ないよりは、あった。
幼生は水場へ戻り、自分の姿を見た。
灰色の外皮。
長い脚。
暗い目。
裂けた口。
白い幼生ではない。
なら、灰幼生。
確かに、そう呼ぶのは間違っていない。
「……グレイ」
声に出してみた。
喉から漏れた音は歪んでいた。
人間の発音とは違う。
だが、近い。
「グレイ……ラーヴァ」
うまく言えない。
舌が違う。
喉が違う。
口の形が違う。
それでも、その音を出そうとする。
グレイ。
ラーヴァ。
灰色の幼生。
自分の音。
幼生は水面の自分を見つめた。
名前を得たわけではない。
人間に呼ばれただけ。
それも、魔物として。
危険かもしれない未確定個体として。
それでも、自分を示す音がある。
それは、不思議だった。
嬉しいのか。
怖いのか。
分からない。
ただ、胸の空洞が少しだけ形を持った気がした。
その時、水面の奥で小さな波紋が広がった。
蛇型魔物。
水中に潜んでいたのか。
幼生は反応が遅れた。
蛇が水面から飛び出し、牙を向ける。
毒。
そう思う。
幼生は横へ跳んだ。
前より速い。
脚が地面を蹴る。
蛇の牙が空を噛む。
幼生は着地と同時に壁へ駆け上がる。
自分でも驚くほど滑らかだった。
蛇が追う。
水から出た蛇の動きは速いが、壁は登れない。
幼生は壁の上から蛇を見下ろした。
グレイラーヴァ。
灰幼生。
その音が頭に残っている。
自分は今、その名で呼ばれる魔物として、人間に警戒されている。
なら。
弱いままではいられない。
蛇が再び跳ねる。
幼生は壁から落ちるように回避し、蛇の背へ噛みついた。
鱗は硬い。
だが隙間がある。
牙をねじ込む。
蛇が暴れる。
毒牙が近い。
幼生は離れ、すぐに距離を取る。
正面から戦わない。
蛇が頭を上げる。
牙から液体が滴る。
あれを受ければ危険だ。
だが、食えば毒耐性が得られるかもしれない。
その考えが浮かんだ。
幼生は、もう否定しなかった。
危険だ。
だが、毒への耐性は欲しい。
水場で生きるなら。
蛇型魔物と戦うなら。
いつか人間が毒を使うなら。
必要になる。
蛇が飛びかかる。
幼生は横へ避け、尾へ噛みついた。
硬い。
だが噛み切れないほどではない。
蛇が体を巻きつけようとする。
幼生は脚で岩を掴み、身体を低くして抜ける。
蛇の胴に浅い傷。
血が出る。
幼生はその血を舐めた。
苦い。
舌が痺れる。
毒だ。
《微弱な毒性を摂取しました》
《毒性分解能力が反応しています》
頭の奥で声が響く。
痺れが広がる。
危険。
だが耐えられる。
幼生は距離を取った。
蛇は傷ついているが、まだ元気だ。
無理に殺す必要はない。
毒の血は少し摂取した。
今は逃げてもいい。
だが蛇は逃がしてくれない。
水場を縄張りにしているのか、しつこく追ってくる。
幼生は壁へ移動した。
蛇が跳ぶ。
届かない。
また跳ぶ。
届かない。
何度も。
そのたびに、幼生は少しずつ位置を変える。
蛇を疲れさせる。
水から離す。
乾いた場所へ誘導する。
蛇の動きが鈍る。
幼生は待った。
焦らない。
さっき人間が言っていた。
普通じゃない魔物ほど、最初は小さい。
なら、小さいなりに戦う。
蛇が動きを鈍らせた瞬間、幼生は上から落ちた。
狙いは首の後ろ。
牙を突き立てる。
蛇が暴れる。
身体を巻きつける。
幼生の外皮が軋む。
締めつけられる。
苦しい。
だが、牙は離さない。
首の柔らかい場所を探る。
そこへさらに深く噛む。
毒の味。
血の味。
生命の味。
蛇の力が少しずつ弱くなる。
やがて、動かなくなった。
幼生は蛇の死体から離れた。
身体が痺れている。
締めつけられた場所が痛い。
だが生きている。
毒も回っているが、意識はある。
《蛇型魔物を捕食可能》
《毒耐性が微量上昇しました》
《柔軟回避の素質が発現しかけています》
幼生は、蛇の肉に牙を立てた。
毒のある部位は避ける。
だが、少しは食べる。
耐性のために。
苦い。
舌が痺れる。
喉が焼ける。
それでも飲み込む。
食べながら、幼生は心の中で音を繰り返した。
グレイラーヴァ。
灰幼生。
自分を指す音。
人間が勝手につけた音。
だが今は、それでいい。
少なくとも、自分はもう何もないものではない。
洞窟の底で腐肉を漁るだけの白い幼生でもない。
巣を持ち、罠を使い、壁を走り、蛇を殺し、毒を食う。
灰色の幼生。
グレイラーヴァ。
幼生は蛇の肉を飲み込んだ。
身体の奥で毒が熱に変わっていく。
痛い。
苦しい。
だが、それすら自分を変える。
水面に映る灰色の影が、ゆらりと揺れた。
もう白くはない。
もう、ただ逃げるだけでもない。
グレイラーヴァは、音もなく水場を離れた。
巣へ戻るために。
自分の場所へ。
自分の名らしきものを、胸の奥に抱えたまま。




