表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/45

第10話『脚』

巣の中は、静かだった。


外の洞窟では、相変わらず何かが動いている。


水滴が落ちる。


虫が這う。


獣が唸る。


骨が割れる。


肉が裂ける。


短い悲鳴が上がり、すぐに消える。


それでも、この小さな岩室の中だけは、少しだけ別の場所のように思えた。


腐肉の臭い。


獣の血。


乾いた骨。


糞の名残。


そして、自分の匂い。


それらが混ざっている。


ひどい臭いのはずだった。


最初の頃なら、ここにいるだけで耐えられなかっただろう。


だが今は違う。


この臭いは、自分を隠す。


この骨は、音を鳴らす。


この狭さは、大きな魔物を拒む。


この腐肉は、いざという時の餌になる。


全部、意味がある。


そう思える。


だから、少しだけ落ち着く。


そのことに気づくたび、灰色の幼生は自分の中で何かが変わっているのを感じた。


気持ち悪い場所を、安心できる場所だと思っている。


血と骨に囲まれた場所を、巣だと認識している。


それはもう、人間の感覚ではない。


そもそも自分が人間だったのか分からない。


けれど少なくとも、今の自分は人間ではない。


それだけは、何度考えても明らかだった。


幼生は、巣の奥で身体を丸めていた。


獣の死体は、だいぶ減っている。


全部食べたわけではない。


食べられる部分を選び、残りは分けてある。


腐敗が進んだ部分は入口付近に置き、匂いを強くする。


まだ食べられる肉は奥の割れ目へ押し込む。


硬い骨は小石と混ぜて入口の近くへ置く。


誰かが入れば音が鳴るように。


自分でも驚くほど、整っていた。


部屋ではない。


家でもない。


だが、これは巣だった。


自分のために作った空間。


自分が生き延びるために変えた場所。


幼生は前脚で床を軽く叩いた。


音は小さい。


自分が動く道には、骨を置いていない。


そのため、音を立てずに奥から入口まで移動できる。


だが侵入者は違う。


入口から真っ直ぐ入れば、小石か骨に触れる。


音がする。


そこで自分は気づく。


この小さな仕掛けが、昨日から何度か役に立った。


小型の虫が一匹。


鼠型魔物が一匹。


それから、よく分からない柔らかい魔物が一匹。


全部、音で気づいて仕留めた。


食べた。


保存した。


また食べた。


この巣は、餌も運んでくる。


血の匂いに釣られて入ってくる小型魔物を、自分が狩る。


待つ。


殺す。


食う。


そういう場所になっている。


その事実に、幼生は静かに恐怖した。


自分は、巣を作った。


それだけではない。


巣を使って、餌を狩るようになった。


逃げるための場所が、狩るための場所になりつつある。


弱いから隠れる。


隠れるから、奇襲できる。


奇襲できるから、殺せる。


殺せるから、食える。


食えるから、変われる。


全部繋がっている。


嫌なほど綺麗に。


幼生は、自分の脚を見た。


脚。


それが今日、一番気になっているものだった。


以前より長い。


細いが、しなやかだ。


先端には小さな鉤のような爪がある。


岩を掴む。


骨を引く。


肉を押さえる。


壁を登る。


天井に張りつく。


できることが増えた。


脱皮前の脚とは違う。


再生した脚も、もう他とほとんど変わらない。


むしろ、一度失ったせいか、その脚だけ少し感覚が鋭い気がする。


岩のざらつき。


骨の硬さ。


肉の柔らかさ。


空気の振動。


そういうものを、脚の先で感じ取れる。


便利だった。


あまりにも。


幼生は、ゆっくりと巣の壁へ近づいた。


前脚をかける。


中脚をかける。


後ろの脚が自然に地面を押す。


身体が持ち上がる。


壁を登る。


音はほとんどない。


光苔の薄い光が入り口からわずかに差し込み、灰色の外皮を鈍く照らした。


幼生は壁から天井へ移動した。


逆さになる。


以前なら恐怖があったかもしれない。


落ちる。


動けない。


危ない。


そう思っただろう。


だが今は、恐怖より先に安定感がある。


脚が岩を掴んでいる。


身体が軽い。


落ちない。


天井から巣を見下ろす。


骨。


肉。


石。


入口。


逃げ道。


全部の位置が分かる。


上から見ると、さらに理解できた。


ここは、自分のための空間だ。


自分が小さいから使える。


自分が壁を登れるから有利になる。


自分が灰色だから隠れられる。


自分の身体に合っている。


そう思った瞬間、少しだけ喜びのようなものが湧いた。


その直後、幼生は自分でその感情を嫌悪した。


嬉しいのか。


この身体が。


この脚が。


この巣が。


魔物として上手く生きられることが。


本当に?


答えは出ない。


ただ、脚は岩をしっかり掴んでいた。


落ちない。


それは確かだった。


しばらくして、入口の骨が鳴った。


かつん。


幼生の身体は、ほとんど反射で動きを止めた。


音。


小さい。


軽い。


入口。


一匹。


幼生は天井に張りついたまま、入口の方を見る。


何かが入ってきた。


小型の虫型魔物。


甲殻は薄い。


昨日食べたものより少し大きい。


血の匂いに釣られたのだろう。


虫型魔物は慎重に中へ入る。


触角を動かし、腐肉の匂いを探っている。


上は見ていない。


幼生は動かなかった。


待つ。


もっと奥へ。


もっと逃げにくい位置へ。


虫型魔物が入口から二歩、三歩と進む。


小石が鳴る。


止まる。


また進む。


餌に意識が向いている。


幼生は天井から落ちた。


音は小さい。


虫型魔物の背に乗る。


前脚で甲殻の縁を掴み、首の隙間へ牙を入れる。


正確に。


迷いなく。


虫型魔物が暴れる前に、柔らかい肉を裂く。


黒い体液が流れる。


虫型魔物が脚をばたつかせる。


だが短い。


幼生は体重をかけ、牙を深く沈める。


やがて動かなくなる。


幼生はすぐに死体を奥へ引きずった。


入口に血を残しすぎない。


匂いは使う。


だが強すぎると、大きな魔物を呼ぶ。


その加減も少しずつ覚えている。


死体を奥へ置き、必要な分だけ食べる。


甲殻の隙間から肉を引き出す。


味は慣れた。


苦く、濃く、少し泥臭い。


だが食べられる。


身体に入る。


栄養になる。


《小型甲殻魔物を捕食しました》


《脚力が微量上昇しました》


《壁面移動能力が微量上昇しました》


《奇襲行動を確認》


《静音移動が微量上昇しました》


声が響く。


幼生は咀嚼しながら、それを受け入れた。


もう、その声に驚くことはほとんどない。


それどころか、少しだけ待っている自分すらいる。


何が上がったのか。


何を得たのか。


この行動に意味があったのか。


それを知りたい。


声は、答えをくれる。


そのことに依存し始めているのかもしれない。


幼生は食事を止めた。


声を待っている。


それもまた、変化なのではないか。


この声が何なのか、まだ分からない。


誰のものなのか。


神なのか。


世界なのか。


自分の内側なのか。


ただの仕組みなのか。


分からない。


それでも、この声は淡々と告げる。


食った。


得た。


変わった。


まるで、それが当然であるかのように。


幼生は虫型魔物の残りを保存場所へ押し込んだ。


すると、奥の割れ目の中から腐った肉片が転がり出た。


以前隠したものだ。


かなり傷んでいる。


だがまだ食べられる部分がある。


幼生はそれを見て、自然に状態を判別した。


ここはもう駄目。


ここは食べられる。


ここは匂い消しに使える。


そこで、また動きが止まる。


まただ。


死肉への嫌悪より先に、利用方法が浮かぶ。


だが昨日ほど衝撃はない。


嫌悪が薄れたことにすら、慣れ始めている。


幼生は腐った肉片を入口の近くへ移動させた。


強い臭いで、奥の保存肉と自分の匂いを隠すために。


そうしていると、ふと自分がこの巣の中で何をしているのか分からなくなった。


餌を分ける。


罠を作る。


敵を待つ。


死体を利用する。


入口の匂いを調整する。


まるで、本当に魔物だ。


いや。


魔物なのだ。


そう受け入れるしかない。


幼生は巣の出口へ向かった。


中にいるだけでは、餌は限られる。


それに、水が必要だった。


巣に水場はない。


ここが唯一の欠点だ。


水は外へ飲みに行かなければならない。


危険だが、仕方ない。


幼生は入口の骨を避けて外へ出た。


洞窟の空気は巣の中より少し冷たい。


匂いも広い。


情報が一気に増える。


水の匂い。


小型魔物。


糸。


人間の古い匂い。


血。


石。


幼生は壁沿いに進んだ。


脚の感覚が昨日より鋭い。


地面の振動が分かる。


遠くで大型魔物が歩いた時、岩を通して微かな震えが伝わる。


左奥。


距離はある。


近づかない方がいい。


右側の狭い通路からは、小さな気配が複数。


虫の群れ。


避ける。


正面には水の匂い。


だが、水場には危険が集まる。


慎重に。


幼生は低く進む。


途中、壁に古い爪痕があった。


大きい。


自分の身体など簡単に裂けるだろう。


その爪痕を見て、以前ならただ恐怖したはずだ。


今は、まず考えた。


この高さ。


この幅。


この爪の角度。


相手は四足か。


前脚が大きい。


爪を振るうタイプ。


入口の狭い巣には入れない。


だが、外で会えば終わり。


だから匂いを覚える。


避けるために。


幼生は爪痕へ近づき、周囲の匂いを嗅いだ。


古い。


だが獣臭が残っている。


強い個体。


覚える。


その瞬間、頭の奥で声がした。


《危険察知の素質が微量上昇しました》


幼生は、少しだけ目を細めた。


見る。


嗅ぐ。


覚える。


それだけでも力になる。


なら、やはり無駄なものはない。


この洞窟の全てが、自分を変える。


傷も。


匂いも。


死体も。


恐怖も。


知識も。


すべて。


それが怖くもあり、少しだけ頼もしくもあった。


水場に近づくと、先客がいた。


小さな魔物が二匹。


一匹は鼠型。


もう一匹は、細長い蛇のような魔物。


互いに距離を取って水を飲んでいる。


幼生は岩陰に隠れた。


水を飲みたい。


だが、今出れば戦闘になるかもしれない。


鼠は狩れるかもしれない。


蛇は分からない。


毒がある可能性もある。


しかし毒なら、食えば耐性が得られるかもしれない。


そう考えた自分に、幼生は少しだけ冷えた。


危険を見て、回避より先に利用を考える。


この癖が強くなっている。


生きるためには役立つ。


だが、いつかそのせいで死ぬかもしれない。


いや。


死ぬかもしれない行動でも、身体は適応の材料と見る。


この性質そのものが危険だ。


幼生は岩陰で待った。


鼠型魔物が先に水場を離れる。


蛇型魔物はまだいる。


細い舌を出し、空気を舐めている。


こちらには気づいていない。


幼生は動かない。


蛇が水から離れるまで待つ。


待てる。


空腹ではないからか。


それとも、以前より我慢が効くようになったのか。


分からない。


しばらくして、蛇型魔物も岩の隙間へ消えた。


幼生は周囲を確認してから水場へ近づいた。


水面が揺れている。


主人公だったものの姿が映る。


幼生は水を飲む前に、少しだけ自分を見た。


灰色の身体。


長い脚。


少し硬い外皮。


目は増えたように見える。


口元の牙も、前より整っている。


いや、整っているという表現はおかしい。


肉を裂くのに向いた形へ、より鋭くなっている。


白い幼生では、もうない。


では何なのか。


分からない。


魔物。


幼生。


灰色の虫。


洞窟の何か。


自分を呼ぶ言葉がない。


それが、以前より気になった。


人間には名前がある。


昨日聞いた人間たちも、互いに呼び合っていた気がする。


はっきりした名は聞き取れなかった。


だが、声には相手を示す響きがあった。


こっち。


おい。


待て。


そういう呼びかけ。


誰かが誰かを認識する音。


自分にはそれがない。


自分を呼ぶものがない。


だから、いつまでも“自分”としか思えない。


幼生は水を飲んだ。


冷たい。


口の中の血の味が薄くなる。


その時、遠くから人間の声が聞こえた。


幼生の身体が即座に伏せる。


人間。


また。


声は遠いが、複数いる。


幼生は水場から離れ、岩陰へ潜った。


人間の匂いもする。


火。


鉄。


汗。


薬草。


革。


昨日とも、一昨日とも違う匂い。


別の人間たち。


「この辺りだ。昨日の調査班が妙な痕跡を見つけたって言ってた」


男の声。


低い。


慎重。


「幼生系だろ? 放っておいてもいいんじゃないのか」


別の男。


少し軽い。


「ただの幼生ならな」


足音が近づく。


幼生は岩陰で動かない。


体表の灰色が岩と馴染む。


水場の近くは危険だ。


だが、今動く方が危険。


人間は三人か、四人。


装備の音が多い。


金属。


革。


瓶の揺れる音。


調査班。


痕跡。


妙な。


幼生は言葉を聞きながら、身体を硬くした。


何を見つけた。


自分か。


巣か。


食べ跡か。


「これだ」


人間の一人が言う。


幼生の視界には直接見えない。


だが水場の近く、昨日同族が食われた場所あたりだ。


「幼生の食い残し?」


「いや、見ろ。上から裂かれた跡はバット系だ。問題はこっちだ」


「下から齧った跡……か」


「そうだ。幼生系が幼生を食ってる」


幼生の身体がわずかに震えた。


見られている。


食べた痕跡を。


人間は、そこから自分の行動を読んでいる。


「共食いくらい珍しくないだろ」


「珍しくはない。だが、この齧り方が妙なんだよ。食べる部位を選んでいる。適当に食い散らかしてない」


幼生は、息を潜めた。


食べる部位を選んだ。


その通りだった。


食える場所を判断した。


効率の良い場所を食べた。


人間はそれを見抜く。


怖い。


「それと、昨日見つけた中型獣の死骸。あれも変だった。部屋の中の骨の配置が不自然だった」


「配置?」


「誰かが動かしたみたいだった」


幼生は、巣のことを思い出した。


見つかったのか。


いや、昨日?


人間が巣の近くまで来ていたのか。


背中の外皮が冷える。


「魔物が罠でも作ったって言いたいのか?」


軽い声の男が笑う。


「幼生が?」


「だから妙だと言ってる」


低い声の男は笑わなかった。


「白い幼生がいるはずなんだが、灰色の外皮片も見つかった。脱皮してる。短期間で性質が変わってる可能性がある」


灰色。


脱皮。


外皮片。


幼生は、古い外皮を食べ残した欠片を思い出した。


全部食べたと思った。


だが、残っていたのかもしれない。


「呼び名、付けとくか?」


別の声が言った。


「報告書に書くなら必要だろ。未確定幼生じゃ長い」


幼生の中で、何かが止まった。


呼び名。


名前。


人間たちは、自分の話をしている。


自分を呼ぶ音を作ろうとしている。


「灰色の外皮で、洞窟に潜む幼生……グレイラーヴァとか?」


「雑だな」


「分かりやすいだろ」


グレイラーヴァ。


その音が、幼生の頭の中に残った。


人間の言葉。


ただの仮称。


報告書に書くための便宜上の呼び名。


それでも。


幼生は、その音を何度も頭の中で反芻した。


グレイラーヴァ。


自分を示す音。


初めて聞いた。


「まあ仮称ならそれでいい。灰幼生、とでも書いておけ」


「はいはい。灰幼生ね」


灰幼生。


グレイラーヴァ。


人間たちは軽く言う。


自分たちがどれほど大きなものを投げたのかも知らずに。


幼生は岩陰で動けなかった。


名前ではない。


本当の名前ではない。


人間が勝手につけた分類名。


獣や虫につけるような呼び名。


それでも。


それでも、自分には何もなかった。


名前も。


過去も。


呼ばれる音も。


だから、その音は妙に重かった。


グレイラーヴァ。


灰幼生。


自分は、それなのか。


それだけなのか。


分からない。


けれど、その音を聞いた瞬間、胸の奥の空洞に何かが落ちた気がした。


「気をつけろよ。もし本当に罠を使う幼生なら、普通じゃない」


「幼生相手に大げさだな」


「普通じゃない魔物ほど、最初は小さい」


低い声の男が言った。


その言葉に、幼生はなぜか強く反応した。


普通じゃない。


小さい。


自分のことだ。


人間がそう言った。


怖い。


見つかれば殺されるかもしれない。


調査されるかもしれない。


追われるかもしれない。


だが、同時に別の感情が湧いた。


認識された。


自分は、ただ洞窟の底にいる無名の幼生ではなくなった。


人間が痕跡を見て、呼び名をつけた。


灰幼生。


グレイラーヴァ。


それが、自分を示す音になった。


人間たちはしばらく周囲を調べていた。


幼生は動かなかった。


グレイラーヴァという音を頭の奥で繰り返しながら。


やがて、人間たちは水場を離れた。


足音が遠ざかる。


声が小さくなる。


気配が消える。


それでも幼生はしばらく動かなかった。


完全に安全になるまで待つ。


待つ間も、その音は消えなかった。


灰幼生。


グレイラーヴァ。


どちらがいいのか。


そもそも、いいも悪いもない。


人間が付けた仮称だ。


自分の意思ではない。


だが。


ないよりは、あった。


幼生は水場へ戻り、自分の姿を見た。


灰色の外皮。


長い脚。


暗い目。


裂けた口。


白い幼生ではない。


なら、灰幼生。


確かに、そう呼ぶのは間違っていない。


「……グレイ」


声に出してみた。


喉から漏れた音は歪んでいた。


人間の発音とは違う。


だが、近い。


「グレイ……ラーヴァ」


うまく言えない。


舌が違う。


喉が違う。


口の形が違う。


それでも、その音を出そうとする。


グレイ。


ラーヴァ。


灰色の幼生。


自分の音。


幼生は水面の自分を見つめた。


名前を得たわけではない。


人間に呼ばれただけ。


それも、魔物として。


危険かもしれない未確定個体として。


それでも、自分を示す音がある。


それは、不思議だった。


嬉しいのか。


怖いのか。


分からない。


ただ、胸の空洞が少しだけ形を持った気がした。


その時、水面の奥で小さな波紋が広がった。


蛇型魔物。


水中に潜んでいたのか。


幼生は反応が遅れた。


蛇が水面から飛び出し、牙を向ける。


毒。


そう思う。


幼生は横へ跳んだ。


前より速い。


脚が地面を蹴る。


蛇の牙が空を噛む。


幼生は着地と同時に壁へ駆け上がる。


自分でも驚くほど滑らかだった。


蛇が追う。


水から出た蛇の動きは速いが、壁は登れない。


幼生は壁の上から蛇を見下ろした。


グレイラーヴァ。


灰幼生。


その音が頭に残っている。


自分は今、その名で呼ばれる魔物として、人間に警戒されている。


なら。


弱いままではいられない。


蛇が再び跳ねる。


幼生は壁から落ちるように回避し、蛇の背へ噛みついた。


鱗は硬い。


だが隙間がある。


牙をねじ込む。


蛇が暴れる。


毒牙が近い。


幼生は離れ、すぐに距離を取る。


正面から戦わない。


蛇が頭を上げる。


牙から液体が滴る。


あれを受ければ危険だ。


だが、食えば毒耐性が得られるかもしれない。


その考えが浮かんだ。


幼生は、もう否定しなかった。


危険だ。


だが、毒への耐性は欲しい。


水場で生きるなら。


蛇型魔物と戦うなら。


いつか人間が毒を使うなら。


必要になる。


蛇が飛びかかる。


幼生は横へ避け、尾へ噛みついた。


硬い。


だが噛み切れないほどではない。


蛇が体を巻きつけようとする。


幼生は脚で岩を掴み、身体を低くして抜ける。


蛇の胴に浅い傷。


血が出る。


幼生はその血を舐めた。


苦い。


舌が痺れる。


毒だ。


《微弱な毒性を摂取しました》


《毒性分解能力が反応しています》


頭の奥で声が響く。


痺れが広がる。


危険。


だが耐えられる。


幼生は距離を取った。


蛇は傷ついているが、まだ元気だ。


無理に殺す必要はない。


毒の血は少し摂取した。


今は逃げてもいい。


だが蛇は逃がしてくれない。


水場を縄張りにしているのか、しつこく追ってくる。


幼生は壁へ移動した。


蛇が跳ぶ。


届かない。


また跳ぶ。


届かない。


何度も。


そのたびに、幼生は少しずつ位置を変える。


蛇を疲れさせる。


水から離す。


乾いた場所へ誘導する。


蛇の動きが鈍る。


幼生は待った。


焦らない。


さっき人間が言っていた。


普通じゃない魔物ほど、最初は小さい。


なら、小さいなりに戦う。


蛇が動きを鈍らせた瞬間、幼生は上から落ちた。


狙いは首の後ろ。


牙を突き立てる。


蛇が暴れる。


身体を巻きつける。


幼生の外皮が軋む。


締めつけられる。


苦しい。


だが、牙は離さない。


首の柔らかい場所を探る。


そこへさらに深く噛む。


毒の味。


血の味。


生命の味。


蛇の力が少しずつ弱くなる。


やがて、動かなくなった。


幼生は蛇の死体から離れた。


身体が痺れている。


締めつけられた場所が痛い。


だが生きている。


毒も回っているが、意識はある。


《蛇型魔物を捕食可能》


《毒耐性が微量上昇しました》


《柔軟回避の素質が発現しかけています》


幼生は、蛇の肉に牙を立てた。


毒のある部位は避ける。


だが、少しは食べる。


耐性のために。


苦い。


舌が痺れる。


喉が焼ける。


それでも飲み込む。


食べながら、幼生は心の中で音を繰り返した。


グレイラーヴァ。


灰幼生。


自分を指す音。


人間が勝手につけた音。


だが今は、それでいい。


少なくとも、自分はもう何もないものではない。


洞窟の底で腐肉を漁るだけの白い幼生でもない。


巣を持ち、罠を使い、壁を走り、蛇を殺し、毒を食う。


灰色の幼生。


グレイラーヴァ。


幼生は蛇の肉を飲み込んだ。


身体の奥で毒が熱に変わっていく。


痛い。


苦しい。


だが、それすら自分を変える。


水面に映る灰色の影が、ゆらりと揺れた。


もう白くはない。


もう、ただ逃げるだけでもない。


グレイラーヴァは、音もなく水場を離れた。


巣へ戻るために。


自分の場所へ。


自分の名らしきものを、胸の奥に抱えたまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ