第11話『足音』
グレイラーヴァ。
その音は、巣へ戻ってからも消えなかった。
人間が勝手につけた呼び名。
灰色の幼生。
ただそれだけの意味。
本当の名前ではない。
誰かが優しく呼んだわけでもない。
親が与えたものでもない。
仲間が認めたものでもない。
調査のため。
分類のため。
危険な魔物を記録するため。
人間たちは、そういう理由でその音を使った。
それでも。
グレイラーヴァは、その音を何度も自分の内側で転がしていた。
グレイ。
ラーヴァ。
灰色の幼生。
自分を示す音。
何もなかった場所に、小さな杭が打たれたような感覚がある。
それが嬉しいのか、嫌なのかは分からない。
ただ、消えない。
巣の奥。
骨と腐肉と血の臭いに満ちた小部屋。
グレイラーヴァは、蛇型魔物の肉を割れ目へ押し込んだ。
毒の強そうな部位は入口近くへ。
食べられる部位は奥へ。
牙のある頭部は、さらに別の窪みに隠す。
毒腺。
そんな言葉が浮かんだ。
牙の根元に、危険な液体がある。
食べすぎれば死ぬかもしれない。
だが、少しずつ摂れば毒に慣れる。
グレイラーヴァは、蛇の頭部をしばらく見ていた。
以前なら、危険なものからは逃げるだけだった。
今は違う。
危険なものを、どう使うか考えている。
毒。
腐肉。
骨。
血。
匂い。
音。
巣。
全部、生きるための材料になる。
それが自分のやり方になりつつあった。
グレイラーヴァは、蛇の毒牙に少しだけ舌を触れさせた。
舌という器官が、自分にあるのかはまだよく分からない。
だが、口の中の柔らかい部分に痺れが走った。
苦い。
熱い。
危険。
身体が警告する。
それでも、ほんの僅かだけ飲み込む。
すぐに口を離した。
《微弱な毒性を摂取しました》
《毒性分解能力が微量反応しています》
いつもの声。
もう驚かない。
グレイラーヴァは、巣の奥で身体を丸めた。
毒が腹の奥で熱に変わる。
少し気分が悪い。
だが耐えられる。
こうして少しずつ慣れれば、次に毒蛇と戦った時、死ににくくなる。
そう理解している。
危険を避けるのではなく、危険を身体に入れて慣らす。
その考え方は、どこか歪んでいる気がした。
けれどこの身体は、その歪みによく馴染む。
グレイラーヴァは、脚を畳んだ。
脚。
昨日から、それがやけに気になる。
長くなった脚。
岩を掴む爪。
振動を拾う先端。
巣の床に触れているだけで、外の気配が少し分かる。
入口付近の骨が揺れれば分かる。
遠くで大型魔物が歩けば、岩を通じて微かに響く。
人間の足音も、魔物の足音とは違う。
重さ。
間隔。
硬い靴の音。
金属の微かな震え。
グレイラーヴァは目を閉じた。
巣の外。
遠く。
水場の方。
何かが歩いている。
小型魔物ではない。
獣でもない。
規則正しい。
複数。
人間。
グレイラーヴァの身体が、低く沈んだ。
人間がまた来た。
しかも、前より近い。
音を聞く。
三人。
いや、四人。
重い足音が一つ。
軽い足音が二つ。
硬い杖か棒が地面を叩く音が一つ。
それから、金属の擦れる音。
布の音。
瓶の中で液体が揺れる音。
調査班。
あの言葉が浮かぶ。
グレイラーヴァは巣の奥へ下がった。
入口からは見えない位置。
骨の影。
腐臭の中。
灰色の外皮を岩に合わせて動かない。
人間はまだ遠い。
だが、こっちへ来る可能性がある。
巣が見つかっているかもしれない。
人間たちは、骨の配置が不自然だと言っていた。
灰色の外皮片を見つけたとも言っていた。
そして、自分に呼び名をつけた。
グレイラーヴァ。
つまり、もうただの魔物として見逃されてはいない。
観察対象。
調査対象。
危険かもしれないもの。
そう認識されている。
グレイラーヴァは、入口の方を見た。
この巣は安全だ。
だが、完全ではない。
人間が火を使えば危険。
煙を入れられても危険。
入口を塞がれても終わる。
いや。
火は来ない。
そう思ったのは願望ではなかった。
聞こえる音から、人間たちは大きな火具を持っていない。
焦げた油の匂いもない。
代わりに、薬草の匂いが強い。
粉。
液体。
苦い匂い。
調査用の道具かもしれない。
グレイラーヴァは、巣の奥に隠してある蛇の毒牙を見た。
人間は道具を使う。
毒も、薬も、匂いも使うのかもしれない。
なら、火より厄介なものが来る可能性もある。
足音が近づいてきた。
声が聞こえる。
「ここだ。昨日の痕跡はこの先で見つけた」
低い男の声。
前に聞いた声だ。
笑わなかった男。
慎重な男。
「本当に幼生一匹にここまでする必要あるんですか?」
若い声。
「幼生一匹とは限らん」
低い男が答える。
「巣を作っている可能性がある。しかも、骨と腐肉の配置を変えていた。単純な本能行動じゃない」
「魔物が賢いのは珍しくないでしょう」
「幼生段階で、だ」
そこで少し間が空いた。
「それが問題なんだよ」
グレイラーヴァは、身体をさらに低くした。
問題。
自分が。
幼生段階で考えることが。
巣を作ることが。
人間にとって、問題。
怖い。
だが、同時に変な感覚がある。
自分の行動が、誰かに意味のあるものとして読まれている。
ただの食い跡ではない。
ただの移動痕ではない。
考えた結果だと、見抜かれている。
それは恐怖であり、認識でもあった。
「仮称グレイラーヴァ。灰幼生。昨日の報告と同じ個体なら、外皮変化、捕食選別、巣作成、罠もどきの配置を行う」
「罠もどきって」
「笑うな。小石や骨を鳴子みたいに使っていた。小型魔物相手なら十分だ」
グレイラーヴァは、入口に置いた骨を思い出した。
人間はやはり気づいている。
小さな工夫。
生きるための仕掛け。
それを、人間は言葉にする。
鳴子。
その言葉を覚える。
音を鳴らして知らせるもの。
自分がやっていたことに、名前がついた。
グレイラーヴァは、少しだけ不思議な気分になる。
自分は知らずにやっていた。
人間は、それを知識として持っている。
人間は弱い。
肌も柔らかい。
牙もない。
爪もない。
だが、見て、名づけて、理解する。
それが怖い。
足音は巣の入口近くで止まった。
グレイラーヴァの体表が冷える。
来た。
人間が、巣の前にいる。
入口の外から、明かりが差し込む。
火ではない。
光石の白い光。
熱はほとんどない。
だが眩しい。
巣の中の腐肉や骨が照らされる。
グレイラーヴァは骨の影に隠れた。
動かない。
灰色の外皮。
腐肉の匂い。
骨の影。
全てを使う。
「ひどい臭いだな」
若い声が言う。
「だから巣に向いてる」
低い男が言った。
「匂いで本体を隠せる。小型の捕食者も釣れる」
「魔物がそこまで考えますか?」
「考えているか、そういう本能かは分からん。だが結果は同じだ」
グレイラーヴァは、その言葉を聞いていた。
考えているか、本能か。
それは自分でも分からない。
巣を作った。
骨を置いた。
腐肉を配置した。
餌を隠した。
それは考えた結果だったのか。
身体が勝手にやったのか。
区別がつかない。
だが、結果は同じ。
人間の言う通りだった。
「入ります?」
「いや、まず揺らす」
揺らす。
その言葉の意味を考えるより早く、入口の外で何かが岩に押し当てられた。
次の瞬間。
ごん。
低い音。
巣全体が震えた。
グレイラーヴァの脚が一斉に反応する。
床から振動が伝わる。
骨が揺れる。
小石が転がる。
保存していた肉が割れ目から落ちる。
火ではない。
煙でもない。
人間は、巣を揺らしている。
中にいるものを動かすために。
驚かせるために。
反応を見るために。
ごん。
もう一度。
振動。
グレイラーヴァは動かなかった。
動けば見つかる。
揺れに反応して飛び出せば、人間の思う通りだ。
だが、身体は逃げろと叫んでいる。
洞窟の振動は危険だ。
崩落。
大型魔物。
そういうものを連想する。
脚の先が勝手に動こうとする。
グレイラーヴァは、全身を岩へ押しつけた。
動くな。
骨になる。
石になる。
腐肉になる。
ごん。
三度目。
今度は入口付近の骨が崩れた。
かちゃかちゃと音が鳴る。
自分が置いた鳴子が、人間の手で鳴らされている。
逆に使われている。
グレイラーヴァは、初めて強い不快感を覚えた。
自分の巣。
自分の仕掛け。
それを、人間が外から理解し、壊し、試している。
怖いだけではない。
嫌だ。
荒らされている。
グレイラーヴァの中で、縄張り意識が熱くなる。
だが動かない。
今出れば死ぬ。
我慢。
我慢。
「反応なし」
若い声。
「中にいないんじゃ?」
「分からん。気配を消せる個体かもしれない」
低い男は慎重だった。
「匂い粉を使う」
匂い粉。
その言葉が聞こえた。
入口の外で、小さな袋が開く音。
粉が撒かれる。
ふわりと、苦い匂いが巣の中へ入ってきた。
薬草。
乾いた葉。
鼻を刺す刺激。
グレイラーヴァの身体が反応する。
くしゃみ。
そういう反射が起こりそうになる。
喉の奥が震える。
鼻という器官があるのか分からないが、匂いを感じる器官が痛い。
これは危険だ。
毒ではない。
だが、匂いを狂わせる。
腐肉の臭いが分からなくなる。
人間の匂いも、自分の匂いも、全部が苦い刺激に塗りつぶされる。
隠れるために使っていた匂いの世界が、壊される。
グレイラーヴァは目を細めた。
視界は頼りない。
匂いが狂うと、一気に情報が減る。
足元の振動だけが頼りになる。
人間は、それを分かっているのか。
それとも、魔物一般への対策なのか。
どちらにせよ厄介だった。
《刺激性粉末を吸入しました》
《嗅覚阻害を確認》
《刺激耐性が反応しています》
頭の奥で声が響く。
グレイラーヴァは、身体を小さく丸める。
耐える。
出るな。
今出れば待ち構えられている。
匂いが駄目なら、振動を拾え。
脚を使え。
入口の外。
四人。
一人は入口近くにしゃがんでいる。
一人は少し後ろ。
二人は左右。
武器を持っている。
足の重心で分かる。
踏み込みやすい姿勢。
待っている。
中から何かが出てくるのを。
グレイラーヴァは、巣の奥でじっとしていた。
粉がさらに入る。
苦しい。
喉が震える。
音を出すな。
だが、身体のどこかが痙攣する。
刺激が強い。
このままでは動いてしまう。
グレイラーヴァは、奥の割れ目へ少しだけ身体をずらした。
そこには、蛇の毒牙を隠した場所がある。
その横に、湿った腐肉。
さらに奥に、狭い逃げ道。
人間は入口を見ている。
奥の亀裂には気づいていないかもしれない。
いや、気づいている可能性もある。
だが、今の振動からすると、人間の一人は入口付近を重点的に調べている。
奥までは入っていない。
なら、逃げるなら今か。
しかし動けば音が出る。
骨は避けてある。
自分の通路なら静かに動ける。
そう作った。
自分の巣だ。
自分の道だ。
グレイラーヴァは、静かに後退した。
一脚ずつ。
床に触れる場所を選ぶ。
粉で嗅覚は鈍っている。
だから、脚の感覚に集中する。
骨のない場所。
湿った土。
平たい岩。
自分が何度も通った道。
入口の外で声がする。
「何か動いたか?」
グレイラーヴァは止まる。
人間の一人が気づいた。
音か。
振動か。
それとも光の揺れか。
「奥だ」
低い男が言った。
「やっぱりいる」
グレイラーヴァの全身が冷えた。
見つかった。
完全ではない。
だが、気づかれた。
「出すぞ」
その言葉と同時に、入口から長い棒のようなものが差し込まれた。
槍ではない。
先端に刃はない。
ただ、長い木の棒。
人間はそれで巣の中を突いてきた。
骨を崩す。
腐肉を動かす。
保存していた肉が潰れる。
巣が荒らされる。
グレイラーヴァの中で、不快感が一気に膨れ上がった。
やめろ。
それは自分の餌だ。
自分の場所だ。
自分が作った。
荒らすな。
怒り。
その感情がはっきりと湧いた。
恐怖ではない。
嫌悪でもない。
怒り。
だが、怒りに従えば死ぬ。
グレイラーヴァは奥へ下がる。
棒が近づく。
床を探るように動く。
逃げ道の方向へ。
まずい。
このままだと亀裂が見つかる。
グレイラーヴァは、奥の割れ目に押し込んでいた蛇の頭部を見た。
毒牙。
人間の棒。
その位置。
考えるより早く、身体が動いた。
グレイラーヴァは蛇の頭部を前脚で引き出し、棒の進路へ押し出した。
棒の先端が蛇の頭部に触れる。
ぐにゃり。
その拍子に、毒牙が棒の側面へ引っかかった。
毒液が染みる。
直接の攻撃ではない。
だが、棒に毒がついた。
人間がそれに気づくかは分からない。
次の瞬間、棒がさらに押し込まれる。
グレイラーヴァは蛇の頭部ごと棒を横へ押した。
重い。
だが動く。
棒の軌道が逸れ、骨の山に当たる。
骨が崩れる。
大きな音。
人間たちが反応する。
「動いた!」
「奥にいる!」
「引きずり出せ!」
グレイラーヴァは、その隙に亀裂へ向かって走った。
静かさは捨てる。
今は速度。
棒が追ってくる。
入口の外から人間が何か叫ぶ。
光が揺れる。
粉の匂いがさらに濃くなる。
グレイラーヴァは亀裂へ頭を押し込んだ。
狭い。
だが通れる。
身体を潰す。
脚を畳む。
背中の外皮が岩に擦れる。
棒が後ろを突いた。
ぎりぎりで外れる。
だが、再生した脚の一本に当たった。
痛み。
脚が痺れる。
グレイラーヴァは声を出しかけた。
飲み込む。
音を出すな。
人間に位置を教えるな。
奥へ。
さらに奥へ。
亀裂の中を進む。
後ろから棒が入ってくるが、途中で引っかかった。
人間の身体は入れない。
棒も奥までは届かない。
グレイラーヴァは亀裂の奥で止まらず、さらに進んだ。
この道は以前確認した。
完全な出口ではない。
だが、横へ抜ける小さな隙間がある。
そこから別の細道へ出られる。
苦しい。
粉の匂いがまだ残っている。
脚が痛い。
だが生きている。
背後から人間の声が遠くなる。
「逃げ道がある!」
「塞ぐか?」
「無理だ。奥へ続いてる。下手に手を入れるな。毒持ちの可能性がある」
低い男の声が言った。
「毒?」
「棒の先に何かついてる。蛇毒かもしれん。あの幼生、巣に蛇の頭を残していた」
少しの沈黙。
「利用したってことですか?」
「たぶんな」
グレイラーヴァは、亀裂の奥で動きを止めた。
荒い呼吸のようなもの。
人間はまた読んだ。
蛇の頭を使ったことを。
毒を利用したことを。
怖い。
この人間は怖い。
ただ強いだけではない。
見て、考える。
こちらの行動を言葉にする。
「やっぱり普通じゃない」
低い男が言った。
「灰幼生じゃ足りないな」
灰幼生じゃ足りない。
グレイラーヴァは、その言葉を聞いた。
「じゃあ何て呼びます?」
若い声。
「まだ仮称でいい。グレイラーヴァ。だが報告には危険度を上げておけ」
低い男の声は冷静だった。
「幼生段階で道具的利用をする個体。巣を持ち、毒を利用し、逃走経路を確保している。捕獲は推奨しない。見つけ次第、討伐候補だ」
討伐。
その意味は分かった。
殺す。
人間は、自分を殺す候補にした。
グレイラーヴァは亀裂の奥で、じっと動かなかった。
怖い。
だが、その奥に別の感情がある。
巣を荒らされた。
餌を潰された。
逃げ道を暴かれた。
そして、殺すと言われた。
人間。
理解したいと思った存在。
声を持つ存在。
仲間を守る存在。
だが彼らは、自分にとって危険だ。
当然だ。
自分もまた、彼らにとって危険なのだから。
グレイラーヴァは、ゆっくりと奥へ進んだ。
巣には戻れない。
少なくとも、今は。
人間が見張っているかもしれない。
入口を調べているかもしれない。
匂い粉も残っている。
自分の居場所は暴かれた。
初めて作った巣。
自分の場所。
それを捨てるしかない。
その事実が、思った以上に痛かった。
身体の傷よりも、奥に響く。
巣を失う。
ただの場所なのに。
血と骨と腐肉の小部屋なのに。
あそこは自分の場所だった。
グレイラーヴァは亀裂の奥で、一度振り返った。
人間の声はもう遠い。
光も届かない。
だが、巣の方向が分かる。
自分の匂い。
血の匂い。
荒らされた骨の音。
それらがまだ残っている。
戻りたい。
そう思った。
けれど戻れば危険だ。
生きるためには捨てる。
餌も。
巣も。
名前のようなものをくれた人間への興味も。
必要なら。
捨てる。
その判断が、あまりにも自然に出た。
グレイラーヴァは、また少し自分が嫌になった。
だが止まらない。
生きるために進む。
狭い亀裂を抜けると、別の暗い通路に出た。
以前来たことのない場所。
空気が冷たい。
水の匂いは薄い。
代わりに、鉱石のような硬い匂いがある。
生き物の気配は少ない。
少なくとも、今は。
グレイラーヴァはそこで身体を休めた。
脚の一本が痛む。
棒に打たれた場所が痺れている。
外皮が少し割れている。
だが動ける。
致命傷ではない。
頭の奥で声が響く。
《刺激性粉末への耐性が微量発現しました》
《振動感知が微量上昇しました》
《道具的利用行動を確認》
《危険対象として認識されました》
最後の言葉に、グレイラーヴァは身体を硬くした。
危険対象として認識された。
誰に。
人間に。
世界に。
それとも、この声そのものに。
分からない。
だが、意味は理解した。
もう、隠れて腐肉を漁るだけの幼生ではいられない。
人間が探す。
調べる。
記録する。
殺そうとする。
なら、もっと隠れなければならない。
もっと賢くならなければならない。
もっと強くならなければならない。
グレイラーヴァは、痛む脚を引きずりながら進んだ。
新しい巣を探す必要がある。
今度は、もっと深く。
もっと複雑で。
人間が入りにくく。
逃げ道が複数ある場所。
そして、できれば水場に近い場所。
そう考えている自分に、グレイラーヴァは少しだけ苦くなった。
巣を失ったばかりなのに、もう次の巣を考えている。
悲しむより先に、生存を選ぶ。
それが自分だ。
それが、この身体だ。
通路の奥から、かすかな音がした。
水音ではない。
虫の脚でもない。
低い、震えるような音。
地面の奥から響く。
グレイラーヴァは脚を岩に押しつけた。
振動。
何かがいる。
大きい。
遠い。
だが、洞窟のさらに下。
下層。
人間がそう言っていた。
そこへ繋がる道が近いのかもしれない。
危険。
そう思う。
だが同時に、別の思考が浮かぶ。
人間は上から来る。
なら、下へ行けば遠ざかれる。
強い魔物がいるかもしれない。
毒もあるかもしれない。
食えないものも増えるかもしれない。
だが。
生きる場所を奪われたなら、別の場所へ適応すればいい。
グレイラーヴァは、暗い下り道を見た。
怖い。
だが、戻れない。
巣はもう安全ではない。
人間は自分を覚えた。
グレイラーヴァ。
灰幼生。
討伐候補。
その呼び名が、胸の奥で重く響く。
名前のようで、呪いのようだった。
グレイラーヴァは、ゆっくりと下へ進み始めた。
脚が岩を掴む。
痛む脚も、なんとか動く。
暗闇が濃くなる。
匂いが変わる。
音が遠のく。
そして、下から漂う未知の気配が濃くなる。
怖い。
けれど。
生きるためなら、どこへでも行く。
何にでも慣れる。
何にでも変わる。
人間が巣を暴いたのなら。
自分は、人間の届かない場所へ潜るだけだ。
グレイラーヴァは、音もなく暗闇へ消えた。
その背後で、遠く人間の足音がまだ響いていた。
追ってくる音。
自分を探す音。
自分を殺そうとする音。
それを聞きながら、グレイラーヴァは初めて思った。
あの音を、いつか恐れなくなる日が来るのだろうか。
その日が来た時。
自分は、何になっているのだろうか。




