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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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12/54

第12話『喰う』

暗闇が深くなっていく。


上にあった光苔の淡い明かりは、もうほとんど届かない。


岩肌の色も、床の凹凸も、目だけではよく分からなかった。


だが、グレイラーヴァは進めた。


脚の先が岩を掴む。


湿り気を読む。


わずかな振動を拾う。


空気の流れを感じる。


匂いを嗅ぐ。


視界が頼りなくても、世界は消えない。


むしろ、目に頼らない分だけ、別の情報が増えていく。


水の匂い。


鉱石の匂い。


苔の匂い。


古い血の匂い。


誰かが通った跡。


何かが死んだ場所。


何かが隠れている気配。


その一つ一つを拾いながら、グレイラーヴァは下へ向かった。


戻る場所はない。


巣は人間に見つかった。


骨を並べた入り口。


腐肉で匂いを隠した小部屋。


獣の肉を隠した割れ目。


自分の通り道。


小石の鳴子。


全部、荒らされた。


あの場所はもう安全ではない。


戻れば、人間が待っているかもしれない。


匂い粉が残っているかもしれない。


入口が塞がれているかもしれない。


だから捨てた。


生きるために。


それは正しい判断だった。


そう分かっている。


分かっているのに、奥の方が重かった。


巣。


ただの岩穴だった。


臭く、狭く、血に汚れた場所だった。


それでも、自分が初めて作った場所だった。


自分の匂いがある場所だった。


あそこに戻れば、少しだけ安心できた。


今は、ない。


グレイラーヴァは脚を止めた。


背後を振り返る。


上の方から、人間の気配はもうほとんど感じない。


足音も遠い。


声も届かない。


それでも、記憶の中には残っている。


グレイラーヴァ。


灰幼生。


討伐候補。


あの音。


あの言葉。


人間が自分を認識した音。


自分を呼ぶ音であり、自分を殺すための音。


不思議だった。


名前のようなものを得た途端、自分は追われるものになった。


いや、最初から追われる可能性はあった。


ただ、人間がそれに気づいただけ。


グレイラーヴァは再び下へ進んだ。


狭い通路は、少しずつ広くなっていた。


壁の質が変わっている。


湿った岩から、黒く硬い岩へ。


ところどころに赤い筋が走っている。


鉱石。


鉄。


血のような匂いがする石。


足元には細かな砂利が増えた。


踏むと音が出る。


グレイラーヴァは慎重に進んだ。


音を立てない。


この場所では、上層の洞窟とは違う音が響く。


遠くから、低い地鳴りのようなものが聞こえる。


水流か。


大型魔物か。


それとも洞窟そのものの音か。


分からない。


分からないものは危険だ。


だが、戻れない。


進むしかない。


しばらく下ると、空気が急に冷たくなった。


広い場所がある。


グレイラーヴァは壁に張りつき、頭だけを出した。


そこは大きな縦穴の横に開いた空洞だった。


上から細い水が落ち、下の暗闇へ消えている。


水音が反響している。


壁には光苔ではなく、青白く光る結晶が点々と生えていた。


その光で、空洞の輪郭がぼんやり見える。


岩棚。


崩れた足場。


割れ目。


そして、骨。


多い。


かなり多い。


小型魔物の骨だけではない。


大きな獣の骨。


甲殻の欠片。


翼の骨。


人間の骨らしきものも混ざっている。


グレイラーヴァは、岩陰に隠れたまま息を潜めた。


ここは危険だ。


骨が多い場所には理由がある。


誰かが食った。


あるいは、落ちて死んだ。


罠のような地形。


または、この場所を縄張りにする捕食者。


どれでも危険だった。


だが、水がある。


水音がする。


それに、骨の周囲には肉片も残っているかもしれない。


空腹はまだひどくない。


それでも、下り道で体力を使った。


毒の痺れも完全には抜けていない。


脚の打撲も痛む。


水と餌は必要だった。


グレイラーヴァは、すぐには動かなかった。


見る。


聞く。


嗅ぐ。


振動を拾う。


大きな気配は、今のところない。


だが、完全に安全とは言えない。


骨の山の奥から、かすかに生きた匂いがする。


小さい。


複数。


虫か。


死肉漁りだろう。


強い個体がいないなら、まず水。


グレイラーヴァは岩陰から出た。


低く。


灰色の外皮を岩肌に溶け込ませる。


骨を避ける。


砂利を踏まない。


水が落ちる場所へ近づく。


そこには、岩の窪みに少しだけ水が溜まっていた。


透明ではない。


鉱石の色が混ざっているのか、青黒く濁っている。


匂いを嗅ぐ。


毒。


微弱。


だが、飲めないほどではない。


グレイラーヴァは迷った。


安全な水ではない。


けれど、この先にもっと安全な水がある保証はない。


毒に慣れる必要もある。


ほんの少しだけ飲む。


口をつける。


冷たい水が身体の奥へ落ちた。


すぐに苦味が広がる。


内側が軋む。


だが、耐えられる。


《微弱な鉱毒を摂取しました》


《毒性分解能力が反応しています》


《鉱毒耐性が微量発現しました》


やはり。


グレイラーヴァは、もう一口だけ飲んだ。


すぐに離れる。


飲みすぎれば危険だ。


耐性を得ることと、無謀に毒を浴びることは違う。


その違いを、少しずつ理解している。


水場を離れようとした時、骨の山の奥で音がした。


かり。


かり。


何かが骨を削っている。


グレイラーヴァは動きを止めた。


小さい。


一匹。


いや、二匹。


骨の影から、細長い虫型魔物が現れた。


白っぽい殻。


頭部に鋭い顎。


骨を食う魔物。


ボーンイーター。


そんな言葉が浮かぶ。


知っていたわけではない。


ただ、そう呼ぶのが自然に思えた。


骨喰い。


大きさはグレイラーヴァと同じくらい。


だが、顎が発達している。


骨を削るほどの顎なら、外皮も噛み砕かれるかもしれない。


正面からやり合うのは危険だ。


グレイラーヴァは岩陰へ下がった。


相手はこちらに気づいていない。


骨を食べている。


この空洞では、骨が餌なのだろう。


肉を食う自分とは違う。


だが、食えば何か得られるかもしれない。


顎。


骨を砕く力。


殻。


鉱毒への耐性。


そう考える。


危険を見て、まず利用価値を考える。


その癖はもう消えない。


グレイラーヴァは、骨喰いの動きを観察した。


二匹は骨の山の端で食事をしている。


距離が近い。


一匹を襲えば、もう一匹が反応する。


なら、引き離す必要がある。


どうする。


音。


骨。


ここは骨が多い。


音を立てれば、反応する。


グレイラーヴァは近くにあった小さな骨片を前脚で押した。


ころり。


骨片が斜面を転がる。


かつん。


少し離れた場所で音が鳴る。


骨喰いの一匹が顔を上げた。


もう一匹は食べ続ける。


顔を上げた個体が音の方へ向かう。


一匹、離れた。


グレイラーヴァは待つ。


骨喰いが岩の影を通る瞬間。


天井近くの壁から落ちる。


背後。


首の付け根。


殻の隙間。


牙を入れる。


だが、骨喰いは硬かった。


牙が入りきらない。


骨喰いが暴れる。


顎が開く。


グレイラーヴァはすぐに離れようとしたが、相手の顎が脚を掠めた。


外皮が削れる。


痛い。


思った以上に顎が強い。


長引けば危険。


グレイラーヴァは骨喰いの背に乗ったまま、前脚で相手の頭を押さえようとする。


顎だけは避ける。


首の横。


柔らかい部分。


そこへ牙を入れる。


少しずつ。


硬い殻の隙間を探る。


骨喰いが床に身体を叩きつける。


衝撃。


グレイラーヴァの外皮が軋む。


だが離さない。


ここで逃げれば、音に反応したもう一匹が来る。


素早く終わらせる必要がある。


グレイラーヴァは骨喰いの脚の付け根に噛みついた。


ぶち。


一本。


骨喰いが姿勢を崩す。


さらにもう一本。


動きが鈍る。


その隙に、首の隙間へ深く牙を入れる。


体液が口に広がる。


苦い。


石のような味。


骨の粉のようなざらつき。


骨喰いの動きが弱まる。


やがて止まった。


グレイラーヴァはすぐに死体を岩陰へ引きずり込んだ。


もう一匹はまだ気づいていない。


いや、気づきかけている。


触角が動いている。


匂いを拾っている。


グレイラーヴァは急いで骨喰いの柔らかい部分だけを食べた。


殻は硬すぎる。


顎も硬い。


だが、関節と腹の中身は食べられる。


《骨喰い虫を捕食しました》


《顎力が微量上昇しました》


《外皮硬化が微量上昇しました》


《鉱物消化の素質が発現しかけています》


顎力。


外皮硬化。


鉱物消化。


グレイラーヴァは、骨喰いの顎を見た。


強い顎。


骨を削る器官。


今すぐ同じものが生えるわけではない。


だが、素質として得た。


食べたものが自分の中に入ってくる。


骨を食う虫を食べれば、骨に近づく。


蛇を食えば毒へ。


獣を食えば筋力へ。


同族を食えば適応効率へ。


自分は、食べたものからできていく。


その事実は、もはや疑いようがなかった。


残りの骨喰いが近づいてきた。


グレイラーヴァは戦わなかった。


すでに一匹食べた。


傷もある。


水も飲んだ。


ここで欲張れば死ぬかもしれない。


グレイラーヴァは岩陰を伝って離れた。


骨喰いは仲間の残骸を見つけると、それを食べ始めた。


同族を食っている。


グレイラーヴァはそれを見て、以前ほど強い嫌悪を覚えなかった。


そういう生き物なのだ。


洞窟では、死んだものは餌になる。


それだけ。


そう思った後で、自分がまた何かを失った気がした。


だが、もう立ち止まらなかった。


空洞を抜けるには、縦穴の横を通る必要があった。


足場は狭い。


下は暗く、どこまで続いているのか分からない。


水が落ちる音が、ずっと下で反響している。


落ちれば死ぬ。


いや、落ちても生き残るかもしれない。


この身体なら、どこかに引っかかる可能性がある。


でも、試す気はない。


グレイラーヴァは壁に脚をかけ、慎重に進んだ。


足場が崩れやすい。


砂利が落ちる。


小さな石が暗闇へ消えていく。


遅れて、かなり下からかすかな音が返ってきた。


深い。


危険。


その時、上の方から声がした。


人間。


グレイラーヴァは即座に壁へ張りついた。


空洞の入口側。


遠いが、確かに足音がある。


人間が下りてきている。


早い。


いや、追ってきたわけではないのかもしれない。


調査範囲を広げただけか。


それでも、同じことだ。


見つかれば危険。


グレイラーヴァは縦穴の壁へ移動し、岩の出っ張りの影に身体を隠した。


声が近づく。


「この下か?」


「足跡は途切れてる。いや、足跡じゃないな。擦った跡だ」


「逃げた個体か?」


「可能性は高い」


低い男の声。


また、あの男だ。


グレイラーヴァは動かない。


人間たちは空洞へ入ってきた。


光石の明かりが揺れる。


縦穴の水が白く光る。


足音は三つ。


前より少ない。


低い男。


若い男。


それから、別の一人。


歩き方が重い。


防具を着ている。


「ここ、危ないですね」


若い男が言う。


「足場が悪い。戦闘は避ける」


低い男が答える。


「見つけたら?」


「無理に追うな。観察優先。だが近づかれたら殺せ」


殺せ。


その言葉に、グレイラーヴァの脚が岩を強く掴んだ。


怖い。


だが、怒りもある。


まただ。


人間は、自分を殺すものとして見ている。


当然だ。


自分もまた、彼らを危険として見ている。


そして、どこかで餌としても見ている。


それを否定できない。


人間たちは骨の山へ近づいた。


「骨喰い虫の死骸があります」


若い男。


「食われてるな」


低い男。


「この齧り方……」


間。


「グレイラーヴァだ」


その音を聞いた瞬間、グレイラーヴァの内側が微かに震えた。


呼ばれた。


自分ではなく、痕跡を見て。


それでも、呼ばれた。


「本当に下りてきてるんですね」


「巣を捨てたか。追い立てた形になったな」


「よかったんですか?」


「よくはない。追い詰めた魔物は、行動を変える」


低い男は、静かに言った。


「それに、こいつは変わるのが早い」


グレイラーヴァは、その言葉を聞いていた。


変わるのが早い。


人間にも分かるのか。


自分が異常なほど速く変化していることが。


「捕まえられませんか? 研究素材としては貴重ですよ」


重い足音の男が言った。


研究素材。


グレイラーヴァは、その意味を完全には理解できなかった。


だが、自分を何かに使うという意味だと感じた。


殺すのではなく、捕まえる。


調べる。


切る。


閉じ込める。


そういう想像が、頭に浮かぶ。


火よりも、毒よりも、牙よりも、嫌な感覚だった。


「やめておけ」


低い男が言う。


「幼生の段階でこれだ。下手に生かして持ち帰れば、何に適応するか分からん」


「檻に入れれば」


「檻に適応するかもしれない」


その言葉に、グレイラーヴァ自身も少しだけ冷えた。


檻に適応。


閉じ込められても、それに慣れる。


鉄を噛めるようになる。


暗闇に慣れる。


飢えに慣れる。


毒に慣れる。


人間の観察に慣れる。


そして、出る。


あり得る。


自分でも否定できなかった。


この身体なら、何かしてしまうかもしれない。


低い男は、それを恐れている。


「じゃあどうします?」


「見失わない程度に追う。危険度を確定させる。上に報告する」


「討伐隊ですか?」


「そうなる可能性はある」


討伐隊。


複数の人間。


武器。


火。


薬。


知識。


自分を殺すために来る集団。


グレイラーヴァは、岩に張りついたまま動かなかった。


今すぐここを離れるべきだ。


だが、人間がいる。


動けば見つかる。


待つしかない。


人間たちは縦穴の近くへ進む。


足場が狭いので、慎重だ。


光石の光が岩壁を照らす。


グレイラーヴァの隠れている場所にも、少しずつ近づく。


まずい。


このままでは見られる。


灰色の外皮は岩に馴染む。


だが完全ではない。


光が直接当たれば見つかる。


グレイラーヴァは、縦穴の壁を少しずつ下へ移動した。


音を立てずに。


水音に紛れるように。


脚の先で岩を掴む。


濡れた岩は滑る。


少しでも力を入れすぎれば小石が落ちる。


人間たちが近づく。


低い男が光石を掲げる。


光が上から滑ってくる。


グレイラーヴァは動きを止めた。


近い。


光が外皮を掠めた。


「待て」


低い男が言った。


グレイラーヴァの全身が硬直する。


見つかったか。


「何かいます?」


若い男。


「今、壁が動いた」


グレイラーヴァは動かない。


岩になれ。


影になれ。


水の跡になれ。


低い男が一歩近づく。


足場の狭い縦穴の縁。


危ない位置。


もし押せば。


その思考が浮かんだ瞬間、グレイラーヴァ自身が驚いた。


押せば。


人間は落ちる。


下は深い。


死ぬ。


餌になるかもしれない。


危険な人間を減らせる。


理屈は通っている。


だが、それは人間を殺すということだ。


今まで、人間を直接殺したことはない。


人間の残した魔物の肉は食べた。


人間を餌として見かけたことはある。


だが、殺していない。


まだ。


低い男がさらに近づいた。


光が強くなる。


グレイラーヴァの隠れる岩の影が薄くなる。


見つかる。


殺される。


捕まる。


研究素材。


檻。


討伐隊。


言葉が頭を過ぎる。


生きるために。


グレイラーヴァは動いた。


壁から小さな石を脚で弾いた。


石は低い男の反対側へ落ちる。


かつん。


人間たちの視線がそちらへ向く。


「そっちか!」


若い男が叫ぶ。


その一瞬。


グレイラーヴァは低い男の足元へ向かって壁を走った。


攻撃ではない。


足場の脆い岩を狙う。


骨喰い虫を誘った時のように。


巣で獣を滑らせた時のように。


環境を使う。


低い男の足元の岩には、ひびが入っている。


水で濡れている。


グレイラーヴァはそこへ体当たりした。


小さい身体。


だが、岩はもろかった。


ぱき。


音。


低い男が気づく。


「下がれ!」


男は叫び、自分も後ろへ跳ぼうとした。


だが足場が崩れる。


若い男が手を伸ばす。


重装の男が低い男の腕を掴む。


低い男は落ちなかった。


だが、崩れた岩と一緒に、若い男の足が滑った。


「うわっ!」


若い男が体勢を崩す。


縦穴へ傾く。


低い男が手を伸ばす。


間に合う。


そう思った瞬間、天井から何かが落ちた。


コウモリ型の魔物。


音と混乱に誘われたのだ。


若い男の肩に爪を立てる。


叫び声。


重装の男が剣を振る。


コウモリ型魔物が飛ぶ。


若い男の足が完全に滑る。


「掴まれ!」


低い男が叫ぶ。


若い男は縁に手をかけた。


落ちていない。


だが、血が流れている。


肩を裂かれている。


人間の血の匂いが、空洞に広がった。


グレイラーヴァの腹が反応した。


強く。


今までのどの肉よりも、匂いが鮮明だった。


人間の血。


温かい。


濃い。


生きている。


グレイラーヴァは岩壁の影で固まった。


喰いたい。


その感覚が来た。


はっきりと。


否定しようとした。


人間は駄目だ。


まだ駄目だ。


なぜ駄目なのか。


分からない。


けれど、駄目だ。


しかし血の匂いは強い。


人間たちは混乱している。


若い男は縁にぶら下がっている。


肩から血が落ちている。


その血が、縦穴の壁を伝って下へ流れる。


グレイラーヴァの近くを通る。


一滴。


岩に落ちる。


グレイラーヴァは、それを見た。


赤い。


魔物の黒い体液とは違う。


明るく、熱のある色。


身体が動いた。


ほんの少し。


血へ口を近づける。


駄目だ。


そう思った。


だが、舐めた。


一滴だけ。


人間の血が口に入る。


その瞬間、頭の奥が弾けた。


味。


濃い。


異常なほど濃い。


肉の味だけではない。


何かが流れ込む。


音。


言葉。


光。


恐怖。


痛み。


仲間。


名前。


短い断片。


若い男のものか。


それとも、人間というものに含まれる何かなのか。


分からない。


だが、明らかに違った。


魔物の肉とは違う。


情報がある。


意味がある。


グレイラーヴァは身体を震わせた。


《人族の血液を摂取しました》


《言語理解が上昇しました》


《記憶片への接触を確認》


《適応異常》


適応異常。


初めて聞く響き。


声が、ほんのわずかに乱れた気がした。


グレイラーヴァは口を押さえるように前脚を動かした。


喰ったわけではない。


血を一滴舐めただけ。


それだけで、何かが違う。


人間。


やはり他の魔物とは違う。


血に、情報がある。


声がある。


グレイラーヴァの中で、人間への興味が一気に強くなった。


同時に、飢えも。


もっと。


もっと知りたい。


もっと飲めば、もっと分かる。


肉を食えば。


骨を砕けば。


脳を食えば。


その思考が浮かんだ瞬間、グレイラーヴァは自分自身に恐怖した。


違う。


違う。


知りたいと、食いたいが混ざっている。


若い男は仲間に引き上げられた。


「戻るぞ!」


低い男が叫ぶ。


「血の匂いで集まる!」


重装の男が若い男を担ぐ。


人間たちは撤退を始めた。


低い男が最後に縦穴の壁を見た。


グレイラーヴァは影で動かない。


見つかっていない。


いや。


低い男の視線が、一瞬だけこちらを掠めた。


見えたのか。


分からない。


ただ、男は何も言わずに仲間を追った。


人間の足音が遠ざかる。


血の匂いも遠ざかる。


だが、岩に残った一滴の味は消えない。


グレイラーヴァは、しばらく動けなかった。


口の中に、人間の血の感覚が残っている。


言葉が頭の中で以前よりはっきりする。


さっきの人間たちの会話。


その意味だけでなく、感情の揺れまで少し分かる。


若い男の恐怖。


低い男の焦り。


重装の男の苛立ち。


それらが音の奥にあったことを、今なら分かる。


血を舐めただけで。


こんなにも。


グレイラーヴァは、縦穴の壁から降りた。


水場の近くに、人間の血が少し残っている。


ごくわずか。


グレイラーヴァは近づいた。


止まる。


駄目だ。


飲むな。


だが、身体は欲しがっている。


情報を。


味を。


力を。


理解を。


グレイラーヴァは長い時間、血の前で動かなかった。


そして。


舐めた。


二滴目。


熱が走る。


頭の奥に断片が流れる。


薄暗い部屋。


誰かの笑い声。


手。


名前を呼ぶ声。


それは若い男の記憶なのか。


それとも、血に混ざったただの反応なのか。


分からない。


だが、その中で一つだけはっきりした感情があった。


帰りたい。


グレイラーヴァは固まった。


帰りたい。


その感情を、自分は持ったことがない。


少なくとも、覚えていない。


巣を失った時に戻りたいとは思った。


だが、それとは違う。


人間の血にあった“帰りたい”は、もっと柔らかく、もっと痛かった。


誰かが待つ場所。


自分の名前を呼ぶ声がある場所。


そこへ戻りたいという感情。


グレイラーヴァにはないもの。


知らないもの。


だからこそ、強烈だった。


《言語理解が上昇しました》


《感情情報への接触を確認》


《共感反応、微弱》


共感。


その言葉が響いた。


グレイラーヴァは、理解できなかった。


いや、言葉の意味は分かる。


他者の感情を、自分の中に感じること。


だが、その感覚は薄い。


遠い。


自分のものではない。


血から流れ込んだ感情として、そこにあるだけ。


それでも、確かに揺れた。


若い男は帰りたかった。


死にたくなかった。


仲間に助けられて安心した。


その感情が、わずかに分かった。


グレイラーヴァは、血の残りを見た。


もっと飲めば、もっと分かる。


もっと人間を理解できる。


そう思う。


同時に、それは喰うこととほとんど同じだと気づく。


理解したい。


だから食べたい。


食べれば分かる。


それはあまりにも危険な思考だった。


グレイラーヴァは血から離れた。


全部は飲まなかった。


飲めた。


飲みたかった。


だが離れた。


なぜかは分からない。


ただ、これ以上飲めば何かが決定的に変わる気がした。


その時、空洞の奥から複数の気配が近づいてきた。


血の匂いに釣られた魔物たち。


コウモリ型。


骨喰い虫。


小型獣。


もっと大きなものもいる。


ここに残れば危険だ。


グレイラーヴァはすぐに動いた。


縦穴の横道を抜ける。


暗い通路へ。


人間とは逆方向。


下へ。


さらに下へ。


口の中に人間の血の味を残したまま。


進むほど、頭の中で言葉が鮮明になっていく。


討伐。


捕獲。


研究素材。


危険度。


帰りたい。


助けて。


仲間。


名前。


それらが、ばらばらに浮かぶ。


名前。


若い男にも名前があったのだろう。


低い男にも。


重装の男にも。


人間は互いを呼ぶ。


失えば悲しむ。


帰る場所を持つ。


それが、血から少し分かった。


グレイラーヴァは下り道の途中で立ち止まった。


自分には巣があった。


失った。


だから、少しだけ痛かった。


人間にはもっと多くのものがあるのだろう。


名前。


仲間。


帰る場所。


それを失うのは、どんな感覚なのか。


知りたい。


そう思った。


だが同時に、腹の奥が囁いた。


食えば分かる。


グレイラーヴァは、牙を噛み合わせた。


違う。


そのために食うのは違う。


なぜ違うのかは分からない。


しかし、まだ違うと思えた。


その感覚だけは、まだ残っていた。


通路の奥に、小さな横穴があった。


狭く、湿っていて、入口が曲がっている。


一時的に隠れるには悪くない。


グレイラーヴァはそこへ潜り込んだ。


身体を奥へ押し込み、外から見えない位置で丸まる。


腹は空いていない。


毒の熱も少し落ち着いた。


脚の痛みも鈍い。


だが、頭が熱い。


人間の血。


あれは危険だ。


魔物の肉よりも、ずっと。


力になる。


知識になる。


理解になる。


だから危険だ。


もっと欲しくなる。


グレイラーヴァは、岩に頭を押しつけた。


冷たい。


少し落ち着く。


頭の奥で、最後に声が響いた。


《人族摂取による変異経路を検出》


《条件未達成》


《進化条件の一部を更新しました》


進化条件。


人間の血が、それに関わる。


グレイラーヴァは、暗闇の中で目を開けた。


今までは、魔物を食べて変わってきた。


腐肉。


虫。


獣。


蛇。


同族。


毒。


骨喰い。


それらが身体を変えた。


だが人間は、身体だけではなかった。


言葉。


感情。


記憶。


そういうものに触れた。


もし人間を喰えば。


自分は、何になる。


その問いに答えはない。


ただ、口の中に残った血の味だけが、静かに答えを待っていた。


グレイラーヴァは身体を丸める。


眠ろうとした。


だが、眠る直前まで、若い男の感情が消えなかった。


帰りたい。


その感情。


自分にはないはずのもの。


それがなぜか、ひどく痛かった。

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