第12話『喰う』
暗闇が深くなっていく。
上にあった光苔の淡い明かりは、もうほとんど届かない。
岩肌の色も、床の凹凸も、目だけではよく分からなかった。
だが、グレイラーヴァは進めた。
脚の先が岩を掴む。
湿り気を読む。
わずかな振動を拾う。
空気の流れを感じる。
匂いを嗅ぐ。
視界が頼りなくても、世界は消えない。
むしろ、目に頼らない分だけ、別の情報が増えていく。
水の匂い。
鉱石の匂い。
苔の匂い。
古い血の匂い。
誰かが通った跡。
何かが死んだ場所。
何かが隠れている気配。
その一つ一つを拾いながら、グレイラーヴァは下へ向かった。
戻る場所はない。
巣は人間に見つかった。
骨を並べた入り口。
腐肉で匂いを隠した小部屋。
獣の肉を隠した割れ目。
自分の通り道。
小石の鳴子。
全部、荒らされた。
あの場所はもう安全ではない。
戻れば、人間が待っているかもしれない。
匂い粉が残っているかもしれない。
入口が塞がれているかもしれない。
だから捨てた。
生きるために。
それは正しい判断だった。
そう分かっている。
分かっているのに、奥の方が重かった。
巣。
ただの岩穴だった。
臭く、狭く、血に汚れた場所だった。
それでも、自分が初めて作った場所だった。
自分の匂いがある場所だった。
あそこに戻れば、少しだけ安心できた。
今は、ない。
グレイラーヴァは脚を止めた。
背後を振り返る。
上の方から、人間の気配はもうほとんど感じない。
足音も遠い。
声も届かない。
それでも、記憶の中には残っている。
グレイラーヴァ。
灰幼生。
討伐候補。
あの音。
あの言葉。
人間が自分を認識した音。
自分を呼ぶ音であり、自分を殺すための音。
不思議だった。
名前のようなものを得た途端、自分は追われるものになった。
いや、最初から追われる可能性はあった。
ただ、人間がそれに気づいただけ。
グレイラーヴァは再び下へ進んだ。
狭い通路は、少しずつ広くなっていた。
壁の質が変わっている。
湿った岩から、黒く硬い岩へ。
ところどころに赤い筋が走っている。
鉱石。
鉄。
血のような匂いがする石。
足元には細かな砂利が増えた。
踏むと音が出る。
グレイラーヴァは慎重に進んだ。
音を立てない。
この場所では、上層の洞窟とは違う音が響く。
遠くから、低い地鳴りのようなものが聞こえる。
水流か。
大型魔物か。
それとも洞窟そのものの音か。
分からない。
分からないものは危険だ。
だが、戻れない。
進むしかない。
しばらく下ると、空気が急に冷たくなった。
広い場所がある。
グレイラーヴァは壁に張りつき、頭だけを出した。
そこは大きな縦穴の横に開いた空洞だった。
上から細い水が落ち、下の暗闇へ消えている。
水音が反響している。
壁には光苔ではなく、青白く光る結晶が点々と生えていた。
その光で、空洞の輪郭がぼんやり見える。
岩棚。
崩れた足場。
割れ目。
そして、骨。
多い。
かなり多い。
小型魔物の骨だけではない。
大きな獣の骨。
甲殻の欠片。
翼の骨。
人間の骨らしきものも混ざっている。
グレイラーヴァは、岩陰に隠れたまま息を潜めた。
ここは危険だ。
骨が多い場所には理由がある。
誰かが食った。
あるいは、落ちて死んだ。
罠のような地形。
または、この場所を縄張りにする捕食者。
どれでも危険だった。
だが、水がある。
水音がする。
それに、骨の周囲には肉片も残っているかもしれない。
空腹はまだひどくない。
それでも、下り道で体力を使った。
毒の痺れも完全には抜けていない。
脚の打撲も痛む。
水と餌は必要だった。
グレイラーヴァは、すぐには動かなかった。
見る。
聞く。
嗅ぐ。
振動を拾う。
大きな気配は、今のところない。
だが、完全に安全とは言えない。
骨の山の奥から、かすかに生きた匂いがする。
小さい。
複数。
虫か。
死肉漁りだろう。
強い個体がいないなら、まず水。
グレイラーヴァは岩陰から出た。
低く。
灰色の外皮を岩肌に溶け込ませる。
骨を避ける。
砂利を踏まない。
水が落ちる場所へ近づく。
そこには、岩の窪みに少しだけ水が溜まっていた。
透明ではない。
鉱石の色が混ざっているのか、青黒く濁っている。
匂いを嗅ぐ。
毒。
微弱。
だが、飲めないほどではない。
グレイラーヴァは迷った。
安全な水ではない。
けれど、この先にもっと安全な水がある保証はない。
毒に慣れる必要もある。
ほんの少しだけ飲む。
口をつける。
冷たい水が身体の奥へ落ちた。
すぐに苦味が広がる。
内側が軋む。
だが、耐えられる。
《微弱な鉱毒を摂取しました》
《毒性分解能力が反応しています》
《鉱毒耐性が微量発現しました》
やはり。
グレイラーヴァは、もう一口だけ飲んだ。
すぐに離れる。
飲みすぎれば危険だ。
耐性を得ることと、無謀に毒を浴びることは違う。
その違いを、少しずつ理解している。
水場を離れようとした時、骨の山の奥で音がした。
かり。
かり。
何かが骨を削っている。
グレイラーヴァは動きを止めた。
小さい。
一匹。
いや、二匹。
骨の影から、細長い虫型魔物が現れた。
白っぽい殻。
頭部に鋭い顎。
骨を食う魔物。
ボーンイーター。
そんな言葉が浮かぶ。
知っていたわけではない。
ただ、そう呼ぶのが自然に思えた。
骨喰い。
大きさはグレイラーヴァと同じくらい。
だが、顎が発達している。
骨を削るほどの顎なら、外皮も噛み砕かれるかもしれない。
正面からやり合うのは危険だ。
グレイラーヴァは岩陰へ下がった。
相手はこちらに気づいていない。
骨を食べている。
この空洞では、骨が餌なのだろう。
肉を食う自分とは違う。
だが、食えば何か得られるかもしれない。
顎。
骨を砕く力。
殻。
鉱毒への耐性。
そう考える。
危険を見て、まず利用価値を考える。
その癖はもう消えない。
グレイラーヴァは、骨喰いの動きを観察した。
二匹は骨の山の端で食事をしている。
距離が近い。
一匹を襲えば、もう一匹が反応する。
なら、引き離す必要がある。
どうする。
音。
骨。
ここは骨が多い。
音を立てれば、反応する。
グレイラーヴァは近くにあった小さな骨片を前脚で押した。
ころり。
骨片が斜面を転がる。
かつん。
少し離れた場所で音が鳴る。
骨喰いの一匹が顔を上げた。
もう一匹は食べ続ける。
顔を上げた個体が音の方へ向かう。
一匹、離れた。
グレイラーヴァは待つ。
骨喰いが岩の影を通る瞬間。
天井近くの壁から落ちる。
背後。
首の付け根。
殻の隙間。
牙を入れる。
だが、骨喰いは硬かった。
牙が入りきらない。
骨喰いが暴れる。
顎が開く。
グレイラーヴァはすぐに離れようとしたが、相手の顎が脚を掠めた。
外皮が削れる。
痛い。
思った以上に顎が強い。
長引けば危険。
グレイラーヴァは骨喰いの背に乗ったまま、前脚で相手の頭を押さえようとする。
顎だけは避ける。
首の横。
柔らかい部分。
そこへ牙を入れる。
少しずつ。
硬い殻の隙間を探る。
骨喰いが床に身体を叩きつける。
衝撃。
グレイラーヴァの外皮が軋む。
だが離さない。
ここで逃げれば、音に反応したもう一匹が来る。
素早く終わらせる必要がある。
グレイラーヴァは骨喰いの脚の付け根に噛みついた。
ぶち。
一本。
骨喰いが姿勢を崩す。
さらにもう一本。
動きが鈍る。
その隙に、首の隙間へ深く牙を入れる。
体液が口に広がる。
苦い。
石のような味。
骨の粉のようなざらつき。
骨喰いの動きが弱まる。
やがて止まった。
グレイラーヴァはすぐに死体を岩陰へ引きずり込んだ。
もう一匹はまだ気づいていない。
いや、気づきかけている。
触角が動いている。
匂いを拾っている。
グレイラーヴァは急いで骨喰いの柔らかい部分だけを食べた。
殻は硬すぎる。
顎も硬い。
だが、関節と腹の中身は食べられる。
《骨喰い虫を捕食しました》
《顎力が微量上昇しました》
《外皮硬化が微量上昇しました》
《鉱物消化の素質が発現しかけています》
顎力。
外皮硬化。
鉱物消化。
グレイラーヴァは、骨喰いの顎を見た。
強い顎。
骨を削る器官。
今すぐ同じものが生えるわけではない。
だが、素質として得た。
食べたものが自分の中に入ってくる。
骨を食う虫を食べれば、骨に近づく。
蛇を食えば毒へ。
獣を食えば筋力へ。
同族を食えば適応効率へ。
自分は、食べたものからできていく。
その事実は、もはや疑いようがなかった。
残りの骨喰いが近づいてきた。
グレイラーヴァは戦わなかった。
すでに一匹食べた。
傷もある。
水も飲んだ。
ここで欲張れば死ぬかもしれない。
グレイラーヴァは岩陰を伝って離れた。
骨喰いは仲間の残骸を見つけると、それを食べ始めた。
同族を食っている。
グレイラーヴァはそれを見て、以前ほど強い嫌悪を覚えなかった。
そういう生き物なのだ。
洞窟では、死んだものは餌になる。
それだけ。
そう思った後で、自分がまた何かを失った気がした。
だが、もう立ち止まらなかった。
空洞を抜けるには、縦穴の横を通る必要があった。
足場は狭い。
下は暗く、どこまで続いているのか分からない。
水が落ちる音が、ずっと下で反響している。
落ちれば死ぬ。
いや、落ちても生き残るかもしれない。
この身体なら、どこかに引っかかる可能性がある。
でも、試す気はない。
グレイラーヴァは壁に脚をかけ、慎重に進んだ。
足場が崩れやすい。
砂利が落ちる。
小さな石が暗闇へ消えていく。
遅れて、かなり下からかすかな音が返ってきた。
深い。
危険。
その時、上の方から声がした。
人間。
グレイラーヴァは即座に壁へ張りついた。
空洞の入口側。
遠いが、確かに足音がある。
人間が下りてきている。
早い。
いや、追ってきたわけではないのかもしれない。
調査範囲を広げただけか。
それでも、同じことだ。
見つかれば危険。
グレイラーヴァは縦穴の壁へ移動し、岩の出っ張りの影に身体を隠した。
声が近づく。
「この下か?」
「足跡は途切れてる。いや、足跡じゃないな。擦った跡だ」
「逃げた個体か?」
「可能性は高い」
低い男の声。
また、あの男だ。
グレイラーヴァは動かない。
人間たちは空洞へ入ってきた。
光石の明かりが揺れる。
縦穴の水が白く光る。
足音は三つ。
前より少ない。
低い男。
若い男。
それから、別の一人。
歩き方が重い。
防具を着ている。
「ここ、危ないですね」
若い男が言う。
「足場が悪い。戦闘は避ける」
低い男が答える。
「見つけたら?」
「無理に追うな。観察優先。だが近づかれたら殺せ」
殺せ。
その言葉に、グレイラーヴァの脚が岩を強く掴んだ。
怖い。
だが、怒りもある。
まただ。
人間は、自分を殺すものとして見ている。
当然だ。
自分もまた、彼らを危険として見ている。
そして、どこかで餌としても見ている。
それを否定できない。
人間たちは骨の山へ近づいた。
「骨喰い虫の死骸があります」
若い男。
「食われてるな」
低い男。
「この齧り方……」
間。
「グレイラーヴァだ」
その音を聞いた瞬間、グレイラーヴァの内側が微かに震えた。
呼ばれた。
自分ではなく、痕跡を見て。
それでも、呼ばれた。
「本当に下りてきてるんですね」
「巣を捨てたか。追い立てた形になったな」
「よかったんですか?」
「よくはない。追い詰めた魔物は、行動を変える」
低い男は、静かに言った。
「それに、こいつは変わるのが早い」
グレイラーヴァは、その言葉を聞いていた。
変わるのが早い。
人間にも分かるのか。
自分が異常なほど速く変化していることが。
「捕まえられませんか? 研究素材としては貴重ですよ」
重い足音の男が言った。
研究素材。
グレイラーヴァは、その意味を完全には理解できなかった。
だが、自分を何かに使うという意味だと感じた。
殺すのではなく、捕まえる。
調べる。
切る。
閉じ込める。
そういう想像が、頭に浮かぶ。
火よりも、毒よりも、牙よりも、嫌な感覚だった。
「やめておけ」
低い男が言う。
「幼生の段階でこれだ。下手に生かして持ち帰れば、何に適応するか分からん」
「檻に入れれば」
「檻に適応するかもしれない」
その言葉に、グレイラーヴァ自身も少しだけ冷えた。
檻に適応。
閉じ込められても、それに慣れる。
鉄を噛めるようになる。
暗闇に慣れる。
飢えに慣れる。
毒に慣れる。
人間の観察に慣れる。
そして、出る。
あり得る。
自分でも否定できなかった。
この身体なら、何かしてしまうかもしれない。
低い男は、それを恐れている。
「じゃあどうします?」
「見失わない程度に追う。危険度を確定させる。上に報告する」
「討伐隊ですか?」
「そうなる可能性はある」
討伐隊。
複数の人間。
武器。
火。
薬。
知識。
自分を殺すために来る集団。
グレイラーヴァは、岩に張りついたまま動かなかった。
今すぐここを離れるべきだ。
だが、人間がいる。
動けば見つかる。
待つしかない。
人間たちは縦穴の近くへ進む。
足場が狭いので、慎重だ。
光石の光が岩壁を照らす。
グレイラーヴァの隠れている場所にも、少しずつ近づく。
まずい。
このままでは見られる。
灰色の外皮は岩に馴染む。
だが完全ではない。
光が直接当たれば見つかる。
グレイラーヴァは、縦穴の壁を少しずつ下へ移動した。
音を立てずに。
水音に紛れるように。
脚の先で岩を掴む。
濡れた岩は滑る。
少しでも力を入れすぎれば小石が落ちる。
人間たちが近づく。
低い男が光石を掲げる。
光が上から滑ってくる。
グレイラーヴァは動きを止めた。
近い。
光が外皮を掠めた。
「待て」
低い男が言った。
グレイラーヴァの全身が硬直する。
見つかったか。
「何かいます?」
若い男。
「今、壁が動いた」
グレイラーヴァは動かない。
岩になれ。
影になれ。
水の跡になれ。
低い男が一歩近づく。
足場の狭い縦穴の縁。
危ない位置。
もし押せば。
その思考が浮かんだ瞬間、グレイラーヴァ自身が驚いた。
押せば。
人間は落ちる。
下は深い。
死ぬ。
餌になるかもしれない。
危険な人間を減らせる。
理屈は通っている。
だが、それは人間を殺すということだ。
今まで、人間を直接殺したことはない。
人間の残した魔物の肉は食べた。
人間を餌として見かけたことはある。
だが、殺していない。
まだ。
低い男がさらに近づいた。
光が強くなる。
グレイラーヴァの隠れる岩の影が薄くなる。
見つかる。
殺される。
捕まる。
研究素材。
檻。
討伐隊。
言葉が頭を過ぎる。
生きるために。
グレイラーヴァは動いた。
壁から小さな石を脚で弾いた。
石は低い男の反対側へ落ちる。
かつん。
人間たちの視線がそちらへ向く。
「そっちか!」
若い男が叫ぶ。
その一瞬。
グレイラーヴァは低い男の足元へ向かって壁を走った。
攻撃ではない。
足場の脆い岩を狙う。
骨喰い虫を誘った時のように。
巣で獣を滑らせた時のように。
環境を使う。
低い男の足元の岩には、ひびが入っている。
水で濡れている。
グレイラーヴァはそこへ体当たりした。
小さい身体。
だが、岩はもろかった。
ぱき。
音。
低い男が気づく。
「下がれ!」
男は叫び、自分も後ろへ跳ぼうとした。
だが足場が崩れる。
若い男が手を伸ばす。
重装の男が低い男の腕を掴む。
低い男は落ちなかった。
だが、崩れた岩と一緒に、若い男の足が滑った。
「うわっ!」
若い男が体勢を崩す。
縦穴へ傾く。
低い男が手を伸ばす。
間に合う。
そう思った瞬間、天井から何かが落ちた。
コウモリ型の魔物。
音と混乱に誘われたのだ。
若い男の肩に爪を立てる。
叫び声。
重装の男が剣を振る。
コウモリ型魔物が飛ぶ。
若い男の足が完全に滑る。
「掴まれ!」
低い男が叫ぶ。
若い男は縁に手をかけた。
落ちていない。
だが、血が流れている。
肩を裂かれている。
人間の血の匂いが、空洞に広がった。
グレイラーヴァの腹が反応した。
強く。
今までのどの肉よりも、匂いが鮮明だった。
人間の血。
温かい。
濃い。
生きている。
グレイラーヴァは岩壁の影で固まった。
喰いたい。
その感覚が来た。
はっきりと。
否定しようとした。
人間は駄目だ。
まだ駄目だ。
なぜ駄目なのか。
分からない。
けれど、駄目だ。
しかし血の匂いは強い。
人間たちは混乱している。
若い男は縁にぶら下がっている。
肩から血が落ちている。
その血が、縦穴の壁を伝って下へ流れる。
グレイラーヴァの近くを通る。
一滴。
岩に落ちる。
グレイラーヴァは、それを見た。
赤い。
魔物の黒い体液とは違う。
明るく、熱のある色。
身体が動いた。
ほんの少し。
血へ口を近づける。
駄目だ。
そう思った。
だが、舐めた。
一滴だけ。
人間の血が口に入る。
その瞬間、頭の奥が弾けた。
味。
濃い。
異常なほど濃い。
肉の味だけではない。
何かが流れ込む。
音。
言葉。
光。
恐怖。
痛み。
仲間。
名前。
短い断片。
若い男のものか。
それとも、人間というものに含まれる何かなのか。
分からない。
だが、明らかに違った。
魔物の肉とは違う。
情報がある。
意味がある。
グレイラーヴァは身体を震わせた。
《人族の血液を摂取しました》
《言語理解が上昇しました》
《記憶片への接触を確認》
《適応異常》
適応異常。
初めて聞く響き。
声が、ほんのわずかに乱れた気がした。
グレイラーヴァは口を押さえるように前脚を動かした。
喰ったわけではない。
血を一滴舐めただけ。
それだけで、何かが違う。
人間。
やはり他の魔物とは違う。
血に、情報がある。
声がある。
グレイラーヴァの中で、人間への興味が一気に強くなった。
同時に、飢えも。
もっと。
もっと知りたい。
もっと飲めば、もっと分かる。
肉を食えば。
骨を砕けば。
脳を食えば。
その思考が浮かんだ瞬間、グレイラーヴァは自分自身に恐怖した。
違う。
違う。
知りたいと、食いたいが混ざっている。
若い男は仲間に引き上げられた。
「戻るぞ!」
低い男が叫ぶ。
「血の匂いで集まる!」
重装の男が若い男を担ぐ。
人間たちは撤退を始めた。
低い男が最後に縦穴の壁を見た。
グレイラーヴァは影で動かない。
見つかっていない。
いや。
低い男の視線が、一瞬だけこちらを掠めた。
見えたのか。
分からない。
ただ、男は何も言わずに仲間を追った。
人間の足音が遠ざかる。
血の匂いも遠ざかる。
だが、岩に残った一滴の味は消えない。
グレイラーヴァは、しばらく動けなかった。
口の中に、人間の血の感覚が残っている。
言葉が頭の中で以前よりはっきりする。
さっきの人間たちの会話。
その意味だけでなく、感情の揺れまで少し分かる。
若い男の恐怖。
低い男の焦り。
重装の男の苛立ち。
それらが音の奥にあったことを、今なら分かる。
血を舐めただけで。
こんなにも。
グレイラーヴァは、縦穴の壁から降りた。
水場の近くに、人間の血が少し残っている。
ごくわずか。
グレイラーヴァは近づいた。
止まる。
駄目だ。
飲むな。
だが、身体は欲しがっている。
情報を。
味を。
力を。
理解を。
グレイラーヴァは長い時間、血の前で動かなかった。
そして。
舐めた。
二滴目。
熱が走る。
頭の奥に断片が流れる。
薄暗い部屋。
誰かの笑い声。
手。
名前を呼ぶ声。
それは若い男の記憶なのか。
それとも、血に混ざったただの反応なのか。
分からない。
だが、その中で一つだけはっきりした感情があった。
帰りたい。
グレイラーヴァは固まった。
帰りたい。
その感情を、自分は持ったことがない。
少なくとも、覚えていない。
巣を失った時に戻りたいとは思った。
だが、それとは違う。
人間の血にあった“帰りたい”は、もっと柔らかく、もっと痛かった。
誰かが待つ場所。
自分の名前を呼ぶ声がある場所。
そこへ戻りたいという感情。
グレイラーヴァにはないもの。
知らないもの。
だからこそ、強烈だった。
《言語理解が上昇しました》
《感情情報への接触を確認》
《共感反応、微弱》
共感。
その言葉が響いた。
グレイラーヴァは、理解できなかった。
いや、言葉の意味は分かる。
他者の感情を、自分の中に感じること。
だが、その感覚は薄い。
遠い。
自分のものではない。
血から流れ込んだ感情として、そこにあるだけ。
それでも、確かに揺れた。
若い男は帰りたかった。
死にたくなかった。
仲間に助けられて安心した。
その感情が、わずかに分かった。
グレイラーヴァは、血の残りを見た。
もっと飲めば、もっと分かる。
もっと人間を理解できる。
そう思う。
同時に、それは喰うこととほとんど同じだと気づく。
理解したい。
だから食べたい。
食べれば分かる。
それはあまりにも危険な思考だった。
グレイラーヴァは血から離れた。
全部は飲まなかった。
飲めた。
飲みたかった。
だが離れた。
なぜかは分からない。
ただ、これ以上飲めば何かが決定的に変わる気がした。
その時、空洞の奥から複数の気配が近づいてきた。
血の匂いに釣られた魔物たち。
コウモリ型。
骨喰い虫。
小型獣。
もっと大きなものもいる。
ここに残れば危険だ。
グレイラーヴァはすぐに動いた。
縦穴の横道を抜ける。
暗い通路へ。
人間とは逆方向。
下へ。
さらに下へ。
口の中に人間の血の味を残したまま。
進むほど、頭の中で言葉が鮮明になっていく。
討伐。
捕獲。
研究素材。
危険度。
帰りたい。
助けて。
仲間。
名前。
それらが、ばらばらに浮かぶ。
名前。
若い男にも名前があったのだろう。
低い男にも。
重装の男にも。
人間は互いを呼ぶ。
失えば悲しむ。
帰る場所を持つ。
それが、血から少し分かった。
グレイラーヴァは下り道の途中で立ち止まった。
自分には巣があった。
失った。
だから、少しだけ痛かった。
人間にはもっと多くのものがあるのだろう。
名前。
仲間。
帰る場所。
それを失うのは、どんな感覚なのか。
知りたい。
そう思った。
だが同時に、腹の奥が囁いた。
食えば分かる。
グレイラーヴァは、牙を噛み合わせた。
違う。
そのために食うのは違う。
なぜ違うのかは分からない。
しかし、まだ違うと思えた。
その感覚だけは、まだ残っていた。
通路の奥に、小さな横穴があった。
狭く、湿っていて、入口が曲がっている。
一時的に隠れるには悪くない。
グレイラーヴァはそこへ潜り込んだ。
身体を奥へ押し込み、外から見えない位置で丸まる。
腹は空いていない。
毒の熱も少し落ち着いた。
脚の痛みも鈍い。
だが、頭が熱い。
人間の血。
あれは危険だ。
魔物の肉よりも、ずっと。
力になる。
知識になる。
理解になる。
だから危険だ。
もっと欲しくなる。
グレイラーヴァは、岩に頭を押しつけた。
冷たい。
少し落ち着く。
頭の奥で、最後に声が響いた。
《人族摂取による変異経路を検出》
《条件未達成》
《進化条件の一部を更新しました》
進化条件。
人間の血が、それに関わる。
グレイラーヴァは、暗闇の中で目を開けた。
今までは、魔物を食べて変わってきた。
腐肉。
虫。
獣。
蛇。
同族。
毒。
骨喰い。
それらが身体を変えた。
だが人間は、身体だけではなかった。
言葉。
感情。
記憶。
そういうものに触れた。
もし人間を喰えば。
自分は、何になる。
その問いに答えはない。
ただ、口の中に残った血の味だけが、静かに答えを待っていた。
グレイラーヴァは身体を丸める。
眠ろうとした。
だが、眠る直前まで、若い男の感情が消えなかった。
帰りたい。
その感情。
自分にはないはずのもの。
それがなぜか、ひどく痛かった。




