第13話『理解』
帰りたい。
その感情だけが、なかなか消えなかった。
暗い横穴の奥で、グレイラーヴァは身体を丸めていた。
岩肌は冷たい。
湿気がある。
空気は細く流れていて、奥には小さな隙間があるらしい。
身を隠すには悪くない場所だった。
だが、落ち着かない。
巣ではない。
自分の匂いも薄い。
餌もない。
入口に骨を置いてもいない。
逃げ道の確認も完全ではない。
ここはただの避難場所だ。
人間に追われ、縦穴を抜け、血の匂いから逃げるように潜り込んだだけの場所。
安全とは言えない。
それでも、今は動けなかった。
身体の痛みではない。
毒の痺れでもない。
腹の減りでもない。
頭の奥が、ずっとざわついている。
人間の血。
たった数滴。
それだけで、何かが入り込んだ。
言葉。
感情。
記憶の断片。
帰りたい。
助かりたい。
怖い。
痛い。
仲間。
名前。
手を伸ばす感覚。
誰かに呼ばれる感覚。
それらはグレイラーヴァのものではない。
自分の中に最初からあったものではない。
血に混じっていたもの。
若い人間のもの。
それを拾ってしまった。
食べたから。
いや、飲んだから。
同じことだ。
摂取した。
取り込んだ。
だから流れ込んだ。
グレイラーヴァは、口の中を何度も擦った。
もう血の味はほとんど残っていない。
水も飲んだ。
岩に口元を擦りつけた。
それでも消えない。
味ではなく、情報が残っている。
頭の奥に、薄い膜のように張りついている。
人間の感情。
帰りたい。
それが、分からない。
分かるのに、分からない。
“帰る”という言葉の意味は分かる。
元いた場所へ戻ること。
自分の場所へ戻ること。
安全な場所。
知っている場所。
誰かが待つ場所。
それが帰るということだ。
けれど、グレイラーヴァには帰る場所がない。
巣はあった。
だが、それは自分が作った隠れ場所だ。
失って痛みはあった。
戻りたいとも思った。
でも、人間の血にあった“帰りたい”は、それとは違った。
もっと深い。
もっと柔らかい。
もっと苦しい。
自分の匂いがついた巣へ戻りたいのではなく、自分を知っている誰かのところへ戻りたい。
そんな感情だった。
自分を知っている誰か。
グレイラーヴァには、いない。
同族はいた。
食った。
見逃した個体もいた。
すぐに他の魔物に食われた。
人間は自分に名をつけた。
グレイラーヴァ。
だが、それは呼ぶためではない。
探し、記録し、殺すための音だ。
自分を待つものなどいない。
だから“帰りたい”が分からない。
しかし、分からないのに痛かった。
それが気味悪かった。
グレイラーヴァは、横穴の奥で身体を起こした。
このままじっとしていても、頭のざわつきは消えない。
動くしかない。
水が必要だ。
餌も必要になる。
それに、この場所も長くは使えない。
入口が一つしかない。
奥の隙間は細いが、自分が通れるかはまだ確認していない。
安全な巣にするには向いていない。
一時的な休息場所。
それだけ。
グレイラーヴァは入口へ向かった。
慎重に外を覗く。
暗い通路。
青白い結晶の光は少ない。
足元の岩は黒く、硬い。
上層よりも音が響きやすい。
少し動いただけで、爪の音が遠くまで伝わりそうだった。
脚の先を置く位置に気をつける。
振動を拾う。
近くに大きな気配はない。
小さい気配がいくつか。
虫。
たぶん骨喰い。
それから、何か柔らかいものが壁の裏にいる。
水の匂いは薄い。
血の匂いも薄い。
人間の匂いは、遠い。
グレイラーヴァは外へ出た。
壁沿いに進む。
灰色の外皮は、黒い岩には少し浮く。
完全には馴染まない。
上層の岩とは色が違う。
そのことが不快だった。
自分の身体は、あの灰色の岩に合っていた。
ここでは、少し目立つ。
また変わる必要があるのかもしれない。
黒い岩。
青白い結晶。
鉱毒の水。
骨喰い虫。
この場所に合わせて。
そう考えた時、グレイラーヴァの身体の奥が、静かに反応した。
変われる。
そう言っている気がした。
グレイラーヴァは足を止めた。
変わることへの恐怖は、まだある。
だが、最初ほどではない。
変わらなければ死ぬ。
この単純な事実が、恐怖を鈍らせる。
そして、変わった結果、生き延びている。
それも事実だった。
白いままだったら死んでいた。
柔らかいままだったら死んでいた。
壁を登れなければ死んでいた。
毒に少しでも慣れなければ死んでいた。
巣を作れなければ死んでいた。
変わったから、ここまで来た。
なら次も変わる。
必要なら。
そう思った直後、人間の血の記憶が揺れた。
帰りたい。
人間は、変わりたくないのだろうか。
それとも、帰る場所があるから変わりすぎないのだろうか。
分からない。
グレイラーヴァは進み続けた。
通路の先から、低い声が聞こえた。
人間ではない。
魔物の唸り。
グレイラーヴァは岩陰へ身を沈める。
奥の広い場所に、何かがいる。
ゆっくり近づき、覗く。
そこは浅い窪地のような場所だった。
中央に、小さな水溜まり。
その周りに、三匹の魔物がいた。
一匹は骨喰い虫。
もう一匹は鼠型。
そして、もう一匹は大きな魔物だった。
痩せた四足。
上層で巣を奪いに来た獣に似ている。
だが、こちらの方が黒い。
皮膚が岩の色に近い。
目が退化しているのか、小さい。
代わりに鼻が大きく、耳がよく動いている。
水場を縄張りにしているのだろう。
骨喰い虫も鼠型魔物も、近づきすぎないように水を飲んでいる。
黒い獣は、動かない。
だが、周囲を支配している。
グレイラーヴァは身を低くした。
勝てない。
今の状態で戦う相手ではない。
水は欲しいが、近づけない。
待つしかない。
それとも、別の水場を探すか。
グレイラーヴァは、黒い獣を観察した。
あれは目に頼っていない。
匂いと音。
なら、近づくのは危険。
刺激性の粉で嗅覚を狂わされた時のことを思い出す。
人間は、匂いを壊す道具を使った。
もしあれがあれば、この獣にも効いたかもしれない。
だが、今はない。
代わりに使えるもの。
腐肉。
毒。
血。
音。
石。
周囲を見る。
水場の近くに小石が多い。
壁の上には脆い岩がある。
骨喰い虫は骨に反応する。
鼠型は音に敏感。
黒い獣は匂いに敏感。
どう使う。
考えている自分に、グレイラーヴァは少しだけ冷静な感覚を覚えた。
敵を見る。
性質を読む。
環境を探す。
利用する。
それが自分の生き方になっている。
黒い獣が水を飲むために頭を下げた。
その時、鼠型魔物が少し動いた。
不用意に、小石を鳴らす。
黒い獣の耳が動く。
次の瞬間、獣が跳ねた。
速い。
鼠型魔物が逃げるより早く、その首を噛み砕いた。
音は短かった。
血の匂いが広がる。
骨喰い虫はすぐに離れた。
グレイラーヴァも動かなかった。
強い。
やはり無理だ。
黒い獣は鼠型魔物を咥え、水場の横へ戻る。
食べ始める。
その動作に無駄がない。
目が小さくても、音と匂いで正確に捉えた。
もし自分が近づけば、同じように噛み砕かれる。
グレイラーヴァは、別の道を探すことにした。
水場は諦める。
欲張らない。
生き残るために。
その時、黒い獣がぴたりと動きを止めた。
鼻が動く。
こちらを向く。
グレイラーヴァの体が固まる。
匂い。
嗅がれた。
まだ距離はある。
だが、風の流れが悪かった。
自分の匂いが水場へ流れている。
黒い獣が低く唸る。
立ち上がる。
探している。
グレイラーヴァはゆっくり後退した。
走るな。
音を出すな。
だが、黒い獣は鼻で追っている。
じりじりと近づく。
こちらの位置まではっきり分かっているわけではない。
だが、方向は掴んでいる。
どうする。
逃げるか。
逃げれば足音で追われる。
壁を登るか。
あの獣は登れないかもしれない。
だが、跳躍力はある。
近い壁は低い。
隠れるか。
匂いでバレる。
匂いを誤魔化すもの。
周囲を探る。
腐肉はない。
骨はある。
鉱毒の水もない。
自分の身体にあるもの。
蛇毒の残り。
口の中。
毒腺ではないが、蛇肉を食べた後の痺れた体液が少しある。
使えるか。
グレイラーヴァは、近くの岩へ口元を擦りつけた。
薄い唾液のようなものが岩に付く。
毒の匂い。
自分の匂いも混ざる。
それを一つ置き、すぐ横へ移動する。
さらに別の岩にも擦りつける。
匂いを分ける。
自分の位置を散らす。
黒い獣が近づく。
鼻を鳴らす。
一つ目の岩へ向かう。
毒の匂いを嗅ぎ、顔を引く。
警戒した。
効いている。
グレイラーヴァは、その隙に壁へ登った。
音を立てず、ゆっくり。
しかし黒い獣はすぐに反応した。
顔を上げる。
跳ぶ。
前脚が壁を叩く。
グレイラーヴァの後ろ脚を掠める。
痛み。
外皮が削れる。
だが、届かない。
グレイラーヴァはさらに上へ登る。
黒い獣が下で唸る。
強い。
だが登れない。
しばらく睨み合いが続いた。
グレイラーヴァは壁に張りついたまま動かない。
黒い獣は下で鼻を鳴らしている。
こちらを見失っていない。
しかし、攻撃は届かない。
このまま待つしかない。
黒い獣が諦めるまで。
時間が過ぎる。
脚が疲れる。
壁を掴む爪が痛む。
再生した脚が震える。
それでも離せない。
落ちれば死ぬ。
黒い獣はしつこかった。
水場を離れない。
自分の縄張りに侵入したものを許さないのだろう。
グレイラーヴァは、その感覚を理解できた。
巣を荒らされた時の怒り。
あれと似ている。
自分の場所。
自分の水。
自分の獲物。
それを守る。
魔物の感覚。
グレイラーヴァは、それを理解できる。
人間の帰りたいより、ずっと自然に。
そのことが、少しだけ嫌だった。
やがて、遠くから別の音がした。
人間の足音。
グレイラーヴァだけでなく、黒い獣も反応した。
人間は近い。
水場の方へ来ている。
黒い獣は低く唸り、グレイラーヴァから視線を外した。
縄張りに入ってくる新しい気配。
より大きな危険。
人間。
グレイラーヴァは壁に張りついたまま、音を聞いた。
二人。
いや、三人。
足音の乱れがある。
一人は怪我をしている。
昨日、縦穴で傷ついた若い人間か。
血の匂い。
薄いが覚えている。
同じ匂いだ。
人間たちが近づく。
「止まれ」
低い男の声。
また、あの男。
「水場に何かいる」
黒い獣が唸る。
人間たちが武器を構える音。
グレイラーヴァは壁の上で動かない。
黒い獣。
人間。
自分。
三つの危険が一つの水場に集まっている。
「ブラックハウンドだ」
若い男の声が震える。
肩を傷つけられた人間だ。
生きている。
「下がれ。足場を確認しろ」
低い男が言う。
「こいつと戦うのはまずい」
「水だけ取って戻るんじゃなかったんですか」
「予定は変わる」
黒い獣が動いた。
人間へ向かって跳ぶ。
速い。
だが人間たちは反応した。
重装の男が前に出る。
盾。
黒い獣の爪が盾を叩く。
金属音。
グレイラーヴァの身体が震える。
大きい音。
洞窟に響く。
他の魔物が寄ってくるかもしれない。
人間たちはそれを分かっているのか、短く動く。
低い男が横へ回る。
若い男は後ろへ下がり、何かの瓶を投げた。
瓶が割れる。
苦い匂いが広がる。
刺激性の粉か液体。
黒い獣が顔を振る。
嗅覚を乱された。
グレイラーヴァは、以前自分がやられたものだと理解した。
人間は同じ道具を使う。
匂いに頼る魔物へ。
黒い獣が混乱する。
動きが乱れる。
重装の男が盾で押す。
低い男が脚を狙う。
刃が入る。
黒い獣が怒りで跳ねる。
水場に血が飛ぶ。
グレイラーヴァはそれを見ていた。
人間は弱い。
だが、道具がある。
連携がある。
そして、相手の性質を見て戦う。
黒い獣が匂いに頼ると分かれば、匂いを壊す。
足場が悪ければ、盾で押して姿勢を崩す。
殺せないなら、逃げ道を作る。
あの戦い方は、自分に似ている。
いや、自分が人間の戦い方に似てきたのかもしれない。
環境利用。
観察。
弱点を突く。
グレイラーヴァは、壁の上から人間の動きを記憶した。
黒い獣が反撃する。
重装の男の盾を押しのけ、若い男へ向かう。
若い男の動きが遅い。
肩の傷のせいだ。
逃げきれない。
低い男が叫ぶ。
「伏せろ!」
若い男が伏せる。
黒い獣の牙が空を噛む。
その背に、低い男の刃が入る。
浅い。
だが血が出る。
黒い獣が低い男へ向く。
その瞬間、重装の男が横から体当たりした。
黒い獣が水場へ落ちる。
水が跳ねる。
苦い刺激液が水に混ざる。
黒い獣はさらに混乱する。
人間たちは畳みかけない。
逃げ道を開けた。
黒い獣が唸りながら水場から飛び出し、奥の通路へ逃げていく。
殺さなかった。
追わなかった。
若い男が息を切らす。
「追わないんですか」
「追えば死ぬ」
低い男が言った。
「目的は水だ。素材じゃない」
目的。
グレイラーヴァはその言葉を覚えた。
人間は、必ずしも殺すために戦わない。
目的が違えば、殺せる相手も逃がす。
それは不思議だった。
洞窟なら、弱った相手は食う。
逃がせば次に敵になる。
それでも人間は追わない。
なぜ。
危険だから。
必要ないから。
仲間を守るため。
若い男が怪我をしているから。
そう考えれば分かる。
だが、感覚としてはまだ遠い。
グレイラーヴァは、壁の上でじっと人間たちを見ていた。
水場の周囲は、黒い獣の血と、人間の道具の匂いが混ざっている。
人間たちは水を汲む。
その間も低い男は周囲を警戒している。
ふと、その視線が壁の上へ向いた。
グレイラーヴァは動かない。
しかし、低い男の目が細くなった。
見えている。
完全ではないかもしれない。
だが、何かいると分かっている。
「……いたな」
低い男が小さく言った。
若い男が顔を上げる。
「え?」
「動くな」
低い男は剣を構えなかった。
ただ、壁の影を見ている。
グレイラーヴァも動かない。
距離がある。
人間は登れない。
今すぐ戦闘にはならない。
だが、互いに認識している。
低い男は、静かに言った。
「グレイラーヴァ」
呼ばれた。
今度は、痕跡ではなく。
自分を見て。
その音が洞窟に響いた。
グレイラーヴァの中で、何かが震える。
名前ではない。
仮称だ。
分類だ。
危険対象の呼び名だ。
それでも、今この瞬間、その音は自分へ向けられていた。
低い男は続けた。
「見ていたのか」
グレイラーヴァは答えない。
答えられない。
人間の言葉は理解できる。
だが、この喉で返せる言葉は歪みすぎている。
それに、何を言えばいいのか分からない。
見ていた。
学んでいた。
理解しようとしていた。
お前たちの血を舐めた。
お前たちの帰りたいという感情を知った。
そんなこと、言えるはずもない。
低い男は、しばらくグレイラーヴァを見ていた。
若い男が震える声で言う。
「殺しますか」
低い男は即答しなかった。
グレイラーヴァの身体が緊張する。
殺すなら逃げる。
壁を走り、縦穴の方へ。
あるいは天井へ。
人間の動きより早く。
だが、低い男は剣を上げなかった。
「今はいい」
若い男が驚く。
「え?」
「こいつは襲ってこなかった。ブラックハウンドにも手を出していない。俺たちにもだ」
「でも危険個体でしょう」
「危険だ。だからこそ、無理に刺激しない」
低い男は静かに言った。
「水を取ったら戻る」
グレイラーヴァは、その言葉を理解しようとした。
殺せるかもしれない。
少なくとも攻撃する機会はある。
なのにしない。
なぜ。
危険だから。
目的が水だから。
仲間が怪我をしているから。
それだけか。
それとも。
分からない。
人間たちは水を取り、ゆっくり後退した。
低い男は最後まで壁の上を見ていた。
グレイラーヴァも動かなかった。
やがて、人間たちの足音が遠ざかる。
水場には、黒い獣の血と刺激液の匂いが残っている。
グレイラーヴァはしばらくそのままだった。
呼ばれた。
グレイラーヴァ。
そして、殺されなかった。
それが頭に残る。
人間は分からない。
殺すと言った。
討伐候補だと言った。
捕獲を否定した。
危険だと言った。
それでも今は殺さなかった。
行動が一つではない。
単純ではない。
魔物のように、空腹だから食う、危険だから殺す、というだけではない。
目的。
状況。
仲間。
判断。
そういうものが重なっている。
グレイラーヴァは、少しだけ人間を理解した気がした。
いや、理解ではない。
輪郭に触れただけ。
それでも、以前よりは近い。
グレイラーヴァは壁を降りた。
水場にはまだ水がある。
刺激液が混ざっている場所は避ける。
黒い獣の血が薄く混じった水も避ける。
比較的きれいな端から、少しだけ飲む。
苦い。
だが飲める。
その後、黒い獣の血が落ちた岩へ近づいた。
嗅ぐ。
強い獣の血。
食べれば筋力になるかもしれない。
しかし、刺激液が混ざっている。
危険。
グレイラーヴァは少しだけ舐めた。
苦味。
血。
薬品。
身体が反応する。
《刺激性薬液を微量摂取しました》
《嗅覚阻害耐性が微量上昇しました》
《黒獣の血液を摂取しました》
《筋力が微量上昇しました》
人間の道具すら、摂れば耐性になる。
グレイラーヴァは思った。
人間は道具を使う。
なら、自分はその道具に適応する。
それしかない。
戦い方を見た。
薬液を知った。
目的という考えを知った。
血から帰りたいを知った。
そして、呼ばれた。
グレイラーヴァ。
理解したい。
その欲求が、腹の奥に沈んでいる。
食欲と似ている。
だが、少し違う。
グレイラーヴァは水場を離れた。
黒い獣が逃げた方とは逆へ進む。
人間が去った方でもない。
別の暗い通路へ。
新しい巣を探さなければならない。
水に近く。
逃げ道があり。
人間に見つかりにくく。
強い魔物の縄張りではない場所。
考えることは多い。
生きるには、考え続けなければならない。
通路を進みながら、グレイラーヴァはふと、低い男の声を思い出した。
見ていたのか。
その問いへの答えを、今さら考える。
見ていた。
人間を。
魔物を。
戦いを。
助けるという行動を。
逃がすという判断を。
殺さないという選択を。
そして、少しだけ理解した。
人間は弱い。
だが弱いから、考える。
弱いから、守る。
弱いから、目的を決める。
弱いから、仲間を連れて帰ろうとする。
帰りたい。
その感情の意味が、ほんの少しだけ近づいた。
完全には分からない。
自分には帰る場所も、待つものもない。
それでも。
巣を失った痛みを思い出すと、人間の帰りたいは、少しだけ形を持った。
グレイラーヴァは、暗い通路の途中で立ち止まった。
自分は魔物だ。
死肉を食う。
毒を飲む。
同族も食った。
人間の血も舐めた。
それでも、人間を理解したいと思っている。
その欲求が何なのか、まだ分からない。
食べたいのか。
知りたいのか。
近づきたいのか。
それとも、ただ生きるために利用したいだけなのか。
分からない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
人間を理解することは、危険だ。
人間の血を欲しがることと、とても近い場所にある。
いつか、その二つを間違えるかもしれない。
グレイラーヴァは牙を噛み合わせた。
まだ駄目だ。
そう思った。
人間を喰うのは、まだ駄目だ。
理由は曖昧だ。
だが、その曖昧な拒絶が残っているうちは、まだ止まれる。
グレイラーヴァは再び歩き出した。
脚が黒い岩を掴む。
振動を拾う。
遠くで、何かが水を飲む音がした。
さらに遠くで、人間の足音が上へ戻っていく。
その音はもう、ただの危険音ではなかった。
意味を持つ音。
誰かが誰かと共に帰る音。
グレイラーヴァは、その音が消えるまで、しばらく耳を澄ませていた。




