第8話『嫌悪感』
目を覚ました時、最初に感じたのは空腹ではなかった。
静けさだった。
洞窟の音は相変わらずある。
水滴。
岩を擦る脚。
遠くの唸り。
腐った肉の匂いに引き寄せられて集まる小さな魔物たち。
何かが逃げる音。
何かが追う音。
何かが食われる音。
それらはずっと鳴っている。
けれど、主人公の中は妙に静かだった。
昨日までのように、目覚めた瞬間から腹の奥を爪で引っ掻かれるような飢えはない。
いや、腹は減っている。
減ってはいる。
だが、狂うほどではない。
それより先に、身体の感覚が気になった。
軽い。
前よりも、ずっと。
主人公は岩の亀裂の奥で、ゆっくりと身体を伸ばした。
新しい外皮が岩に触れる。
灰色の外皮。
以前より硬く、以前より薄く、以前より自分の身体に馴染んでいる。
柔らかい白い肉がむき出しだった頃とは違う。
岩に擦れても、すぐには痛まない。
細い脚は長くなっていた。
完全に戻った脚も含め、以前より動きが揃う。
一本ずつ意識しなくても、身体が勝手に足場を選び、重心をずらし、音を殺してくれる。
そのことが、少し気味悪かった。
自分の身体なのに、前よりも自分の知らないところで上手く動いている。
まるで、身体の方がこの洞窟に詳しいみたいだった。
主人公は亀裂から外を覗いた。
外は薄暗い。
光苔がぼんやりと青緑色の光を放っている。
以前なら、その光に照らされることさえ怖かった。
白い身体が目立つから。
けれど今は、そこまで怖くない。
灰色の外皮は、岩肌の色に近い。
じっとしていれば目立たない。
その自信があった。
自信。
その言葉が浮かんで、主人公は少しだけ戸惑った。
自信など、昨日まで持てなかった。
逃げる。
隠れる。
喰う。
怯える。
それだけだった。
なのに今は、自分が少しだけ“できる”ことを知っている。
壁を登れる。
狭い場所へ潜れる。
音を殺せる。
小さな魔物なら狩れる。
脱皮もした。
身体が変わった。
以前より、強い。
その実感がある。
主人公は亀裂から這い出した。
地面に降りる。
脚が岩を掴む。
音はほとんどない。
数歩進んで、止まる。
周囲の匂いを嗅ぐ。
腐肉。
土。
水。
虫。
獣。
古い血。
そして、遠くに新しい死体の匂い。
主人公の腹が反応した。
だが、その反応は昨日までより落ち着いていた。
飛びつけ。
喰え。
今すぐ。
そういう暴力的な命令ではない。
ただ、あそこに餌がある、と教えてくれる。
主人公はそちらへ向かった。
壁沿いに。
影を選んで。
骨を避けて。
水たまりを迂回して。
その動きは、自分でも驚くほど自然だった。
広い洞窟の中央には出ない。
天井の魔物が狙っている場所は避ける。
糸が張られている場所には近づかない。
強い匂いの近くには強い魔物がいる可能性がある。
そういう判断が、いちいち言葉にしなくても浮かぶ。
学習している。
適応している。
主人公は、その事実をもう否定できなかった。
しばらく進むと、岩陰の奥に死体があった。
小型の獣型魔物。
ケイブハウンドよりずっと小さい。
細長い口。
薄い毛。
腹が裂けている。
食い残しだ。
誰かが殺し、必要な部分だけ食って去ったのだろう。
死んでから少し時間が経っている。
肉は冷え、血は黒く固まり始めていた。
腐敗も始まっている。
主人公はそれを見下ろした。
最初なら、吐き気のようなものがあった。
初めて死肉を食べた時。
腐った臭い。
ぬめる肉。
黒ずんだ血。
それらに嫌悪した。
こんなものを食べてはいけないと思った。
食べたいと感じる自分に怯えた。
だが今は。
主人公は、死体へ近づいた。
匂いを嗅ぐ。
食べられる。
まだ腐りすぎていない。
内臓の一部は駄目だ。
そこは毒が強いかもしれない。
だが肩の肉は残っている。
骨髄も取れる。
皮の下の脂も少しある。
そう判断した。
その判断の後で、主人公は固まった。
気持ち悪いと思わなかった。
いや、まったく思わないわけではない。
醜い。
臭い。
汚い。
そういう認識はある。
しかし、最初に浮かんだのは嫌悪ではなく、食べられる部位の選別だった。
主人公は死体の前で動けなくなった。
自分が怖かった。
腐肉を見て、まず“餌”だと思った。
死体を見て、まず“使える”と思った。
そこにあったはずの拒絶が、薄くなっている。
《腐肉適性が安定しています》
頭の奥で声が響いた。
主人公は、その声を聞きながら死体を見つめた。
安定。
つまり、この身体はもう腐肉に慣れた。
食べてもおかしくならない。
むしろ食べられるものとして認識している。
そして、その変化は身体だけではない。
心の方にも及んでいる。
嫌悪が薄い。
主人公は、ゆっくりと牙を立てた。
肉が裂ける。
冷たい。
少し酸っぱい匂い。
だが問題なく飲み込める。
腹の奥が温かくなる。
食べられる。
食べている。
自分は今、死体を食べている。
それを理解している。
それでも、手が止まらない。
主人公は静かに食事を続けた。
急がない。
周囲を警戒しながら。
一口食べて、音を聞く。
もう一口食べて、匂いを確認する。
大きな気配はない。
なら、少し多めに食べていい。
そう判断する。
冷えた肉を裂く。
骨の隙間へ牙を入れる。
硬い部分は避ける。
柔らかい部分を選ぶ。
以前より、食べ方が上手くなっていた。
無駄が少ない。
そのことに気づいた時、主人公はまた動きを止めた。
上手くなっている。
死体を食べることが。
腐肉を選ぶことが。
効率よく栄養を取ることが。
主人公は口を離した。
黒い血が牙から落ちる。
腹は少し満たされた。
だが、心は落ち着かない。
嫌悪が薄れている。
それは、強くなったことなのか。
壊れたことなのか。
分からない。
分からないが、怖かった。
主人公は死体を見下ろした。
もう半分近く食べている。
残りはどうする。
持ち帰るか。
隠すか。
ここで食べ尽くすか。
自然にそんな選択肢が浮かぶ。
吐き出したい、逃げたい、忘れたい。
そういう選択肢は浮かばない。
主人公は、残った肉を岩の隙間へ押し込んだ。
保存。
後で食べるために。
手慣れた動作。
迷いはない。
その自分を見ている自分が、どこか遠くにいるようだった。
「……俺は」
声が漏れる。
かすれた音。
人間の言葉として成立しているかも分からない。
それでも主人公は続けた。
「俺は、何だ」
答えはない。
洞窟は答えない。
返ってくるのは、水滴の音だけだった。
主人公は壁沿いに移動した。
食後の身体は少し重い。
だが動ける。
むしろ力が戻っている。
灰色の外皮の下で、筋肉のようなものが熱を持っている。
獣型魔物の肉を食べたからか、脚の動きがさらに安定していた。
匂いもよく分かる。
血の跡。
魔物の通った跡。
古い死体。
毒のある水。
糸の気配。
主人公は、それらを避けながら進む。
やがて、小さな水場に出た。
以前、毒を含んだ水を飲んだ場所とは違う。
流れがあり、匂いは比較的薄い。
水面に光苔の色が揺れている。
主人公は水辺へ近づき、周囲を確認した。
危険な気配は少ない。
水を飲む。
冷たい。
口の中の血の味が薄まる。
主人公は水面を見た。
そこに映る自分の姿。
白い幼生ではない。
灰色の外皮。
細長い身体。
いくつもの脚。
黒い点のような目は、以前より増えている気がする。
口は裂け、牙は細かく並んでいる。
人間どころか、獣ですらない。
虫。
いや、虫とも少し違う。
魔物。
その言葉が一番近い。
主人公は、水面の自分を見つめた。
以前ほどの絶望はない。
それが、怖かった。
第2話の時。
初めて自分の姿を見た時。
叫び出したいほどの嫌悪があった。
水面を叩いた。
消えろと思った。
こんなものが自分であるはずがないと思った。
なのに今は。
気持ち悪いとは思う。
醜いとも思う。
だが、同時に。
この脚は便利だ。
この外皮は隠れやすい。
この口は肉を裂きやすい。
この目は暗闇に向いている。
そんなふうに考えている。
自分の異形を、性能として見ている。
主人公は水面から目を逸らした。
嫌だった。
醜さに慣れるのが。
自分を道具として見るのが。
身体を、ただ生き残るための器官の集まりとして理解してしまうのが。
その時。
水場の向こう側で、小さな音がした。
かちゃ。
硬いものが岩に当たる音。
主人公はすぐに身を低くする。
獲物か。
敵か。
水を飲みに来た小型魔物か。
そう判断しようとして、音の主を見た瞬間、動きが止まった。
同族だった。
白い幼生。
いや、主人公よりかなり白い。
小さく、柔らかく、頼りない。
第4話で食べたものと似ている。
その幼生は、水場へ近づこうとしていた。
動きがぎこちない。
周囲を警戒しているつもりなのだろう。
だが、隠れ方が甘い。
音も出ている。
主人公から見れば、あまりにも危うい。
白い幼生は水辺へ近づき、身体を低くして水を飲み始めた。
主人公は岩陰からそれを見ていた。
腹は減っている。
さっき食べたが、まだ入る。
同族の味を、身体は覚えている。
効率がいい。
栄養が濃い。
進化に近づく。
その感覚が、静かに湧き上がる。
主人公は牙を噛み合わせた。
違う。
あれは食べるべきではない。
なぜ?
同じだから。
同じ姿だから。
自分もああだったから。
では、あれは自分なのか。
違う。
あれは別個体だ。
この洞窟では、別個体は敵にも餌にもなる。
現に、前の同族は自分を食おうとした。
だから、こちらが食ってもおかしくはない。
そこまで考えて、主人公はぞっとした。
言い訳が上手くなっている。
同族を食うことへの抵抗が、理屈で削れていく。
最初は、ただ嫌だった。
絶対に嫌だと思った。
今は違う。
食べない理由を探さないと、食べてしまいそうになる。
白い幼生が顔を上げた。
主人公の方を見た。
気づいたのか。
いや、完全には気づいていない。
ただ、何かの気配を感じ取っただけ。
主人公は動かない。
灰色の身体は岩陰に溶けている。
白い幼生は、しばらくこちらを見ていた。
そして、危険はないと判断したのか、水を飲み続けた。
主人公は、ゆっくりと一歩踏み出しそうになった。
その瞬間。
天井から黒い影が落ちた。
主人公の身体が反射的に硬直する。
コウモリ型の魔物。
以前、小型魔物を一瞬でさらったやつだ。
白い幼生の上へ落ちる。
白い幼生は反応できなかった。
短い音。
潰れるような悲鳴。
コウモリ型魔物が幼生を爪で掴む。
主人公は動かなかった。
いや、動けなかった。
助ける?
そんな発想が一瞬浮かぶ。
だが、身体は動かない。
助けてどうする。
相手は自分を食うかもしれない。
それに、天井の魔物は強い。
今出れば、自分も捕まる。
なら隠れる。
生きるために。
白い幼生が暴れる。
だが力が弱い。
コウモリ型魔物は牙を突き立て、首元を裂いた。
黒い体液が垂れる。
主人公の鼻先に匂いが届く。
同族の血。
濃い。
美味そうだ。
その瞬間、主人公は自分の中で何かが冷たくなるのを感じた。
白い幼生が死んでいる。
自分と似たものが、目の前で食われている。
それを見て、最初に湧いたのは恐怖でも哀れみでもなかった。
匂いへの反応だった。
コウモリ型魔物が幼生の一部を食い、残りを爪に掴んで飛び上がる。
だが、全部は持っていけなかった。
小さな肉片と体液が水辺に残る。
天井へ消えていく羽音。
主人公はしばらく動かなかった。
助けられなかった。
いや、助ける気が本当にあったのか。
分からない。
ただ、同族が死んだ。
洞窟ではよくあることだ。
弱いものが食われた。
それだけ。
主人公は水辺に残った肉片を見た。
食べるか。
その選択肢が自然に浮かぶ。
嫌悪が来る前に。
主人公は動けなかった。
食べるべきではない。
そう思う。
だが、捨てる理由もない。
死んでいる。
放っておけば他の魔物が食う。
なら、自分が食っても同じだ。
生きるために。
また言い訳が浮かぶ。
主人公はゆっくり近づいた。
水面に黒い体液が広がっている。
肉片は小さい。
まだ温かい。
主人公はそれを見下ろした。
かつての自分に似た白い肉。
柔らかい。
弱い。
すぐに死ぬ。
自分も、少し前はあれだった。
そう考えて。
主人公は食べた。
一口。
小さな肉片を噛む。
濃い味。
身体に馴染む感覚。
やはり、同族は効率がいい。
主人公はすぐに飲み込んだ。
吐き気は来なかった。
そのことに、主人公は絶望した。
来ない。
嫌悪が。
第4話の時のように、震えるほどの拒絶が来ない。
あるのは鈍い罪悪感らしきもの。
そして、それより強い納得。
死んだものを食べた。
それだけ。
洞窟では当然。
そう思えてしまう。
《同種組織を摂取しました》
《適応効率が微量上昇しました》
《捕食効率が微量上昇しました》
主人公は水辺で固まった。
同種組織。
声は淡々としている。
感情などない。
そこには禁忌も罪もない。
ただ、摂取したものと得たものを告げているだけ。
この声にとって、自分が何を食ったかなど関係ない。
同族だろうと、虫だろうと、腐肉だろうと、毒だろうと。
すべて材料。
自分を変えるための材料。
主人公は水面を見た。
そこに映る灰色の幼生。
口元には、同族の体液がついている。
主人公はそれを見て、嫌悪しようとした。
しなければならないと思った。
だが、嫌悪は薄かった。
怖いほどに。
主人公は前脚で口元を擦った。
体液を落とす。
それでも、味は残る。
自分と似たものの味。
もう知っている味。
主人公は水を飲んだ。
冷たい水が口を洗う。
味が薄まる。
だが、完全には消えない。
その時、遠くから人間の声が聞こえた。
主人公の身体が硬直する。
「こっちに血の跡がある」
人間。
昨日の四人か。
違うかもしれない。
声は少し遠い。
複数いる。
主人公は即座に岩陰へ移動した。
水場から離れる。
口元の匂いを岩へ擦りつける。
身体を低くし、影に溶ける。
人間の声が近づく。
「昨日のケイブハウンドの残りか?」
「いや、もっと小さい。幼生系の魔物だと思う」
「幼生? こんなところにもいるのか」
「下層に近いからな。何がいてもおかしくない」
主人公は岩陰で息を潜めた。
言葉が分かる。
昨日より、さらに分かる気がする。
言葉の意味だけではない。
声の調子。
警戒。
面倒くささ。
恐怖を誤魔化す軽口。
そういうものまで少しだけ分かる。
人間は三人だった。
昨日の四人とは違う。
革鎧の男。
短剣を持った女。
大きな荷物を背負った小柄な男。
冒険者。
またその言葉が浮かぶ。
彼らは水場へ近づき、周囲を調べている。
主人公は動かない。
自分の身体が岩陰に馴染んでいることを願う。
「うわ、食い残し」
短剣の女が水辺の肉片を見た。
「コウモリか何かにやられたんだろ」
「でもこれ、ちょっと変だな」
小柄な男がしゃがむ。
主人公の身体が強張る。
「何が?」
「食われ方が二種類ある。上から裂かれた跡と、下から齧られた跡。別の何かが後から食ってる」
主人公は、自分の口元を意識した。
まさか。
分かるのか。
人間は、死体の食われ方からそんなことまで読むのか。
「近くにいるってこと?」
短剣の女が警戒する。
革鎧の男が剣を抜いた。
「気をつけろ。幼生系は弱いが、毒持ちや寄生持ちもいる」
幼生系。
弱い。
主人公はその言葉を聞いて、少しだけ内側がざらついた。
弱い。
その通りだ。
少し前なら、見つかれば一瞬で殺された。
今でも、人間三人を相手にできるとは思えない。
逃げるべきだ。
だが。
弱いと言われたことが、どこか不快だった。
その感情に、主人公は驚く。
何だ今のは。
怒りか。
誇りか。
そんなものを持っていたのか。
人間たちは水場の周囲を探る。
火は持っていない。
だが、手元に小さな光石のようなものがある。
その光が岩陰を撫でる。
主人公は動かない。
気配を殺す。
灰色の外皮が岩と同化する。
《擬態適性が微量反応しています》
頭の奥で声がする。
今は黙れ。
そう思った。
声は外には聞こえない。
分かっていても、緊張する。
小柄な男がこちらへ近づいた。
あと少しで見つかる距離。
主人公は身体をさらに低くする。
腹が岩に押しつけられる。
脚を畳む。
目も閉じかける。
存在するな。
ただの岩になれ。
男の靴が目の前を通る。
主人公のすぐ近く。
足首。
柔らかい肉。
血管。
そこを噛めば。
そんな思考が一瞬浮かんだ。
主人公は自分の牙を噛み合わせた。
違う。
噛むな。
今噛めば死ぬ。
それ以前に。
人間はまだ駄目だ。
なぜ駄目かは分からない。
だが、駄目だと思う感覚はまだある。
それだけが、わずかな歯止めだった。
「何もいないな」
小柄な男が言った。
「じゃあ行こう。下層に用はないし」
三人は水場を離れていく。
足音が遠ざかる。
声が小さくなる。
主人公はまだ動かない。
完全に気配が消えるまで待つ。
長い時間。
やがて、洞窟にはまた水音だけが戻った。
主人公はようやく身体を起こした。
生き残った。
見つからなかった。
擬態が効いた。
隠れられた。
その事実に、安堵する。
そして、少しの高揚。
人間の目を欺いた。
自分より大きく、道具を使い、言葉を話す生き物を。
見つからずにやり過ごした。
主人公は、自分の灰色の外皮を見た。
この身体は役に立つ。
醜いけれど。
気持ち悪いけれど。
生きるためには、とても役に立つ。
そう思った瞬間、嫌悪感がまた少し遠ざかった。
主人公はそれに気づいた。
気づいてしまった。
醜い身体を嫌うより、便利な身体だと認める方が楽だった。
死肉を嫌うより、餌だと割り切る方が楽だった。
同族を食ったことを責めるより、効率が良かったと考える方が楽だった。
人間の足を見て餌だと思ったことも、危険な思考だと処理すれば済む。
全部、楽な方へ流れている。
嫌悪を失えば、生きやすい。
罪悪感を失えば、食べやすい。
恐怖を失えば、動きやすい。
痛みを失えば、戦いやすい。
この身体は、そういう方向へ自分を連れていこうとしている。
主人公は、水辺から離れた。
残った同族の肉片はもう食べなかった。
食べられた。
だが、あえて残した。
理由は分からない。
罪悪感か。
抵抗か。
自分がまだ完全には変わっていないと確かめたかったのか。
分からない。
ただ、その場を離れた。
しばらく進んでから、振り返る。
水場には、白い肉片がまだ残っていた。
やがて別の魔物が来て食うだろう。
それだけだ。
主人公は前を向いた。
腹は満ちている。
身体は軽い。
外皮は岩に馴染む。
匂いも音も、以前より分かる。
確実に強くなっている。
そして、確実に何かを失っている。
主人公は、暗い通路を進みながら小さく呟いた。
「……嫌だ」
その言葉は、まだ出た。
まだ言えた。
だが、その声は弱かった。
本当に嫌なのか、自分でも分からなかった。
ただ、嫌だと言えなくなる日が来ることだけは怖かった。
だから主人公は、もう一度言った。
「嫌だ」
洞窟は答えない。
ただ奥で、何かが肉を裂く音がした。
主人公の腹は、それに静かに反応した。




