第7話『脱皮』
熱かった。
身体の内側が、ずっと熱い。
腹の奥。
傷口。
脚の付け根。
外皮の内側。
全部がじくじくと脈打っている。
主人公は狭い岩穴の中で身体を丸めていた。
空腹ではない。
むしろ腹は満ちている。
鼠型魔物。
目のない兎型魔物。
それらを食べたあとから、身体の感覚が変わっていた。
重い。
熱い。
皮膚が張る。
まるで身体の中に何かが詰まりすぎているような感覚。
主人公は何度も岩へ身体を擦りつけた。
だが収まらない。
むしろ擦るたびに、外皮の下で何かが軋む。
《進化条件への到達率が上昇しています》
頭の奥で声が響く。
進化。
その言葉を聞くたび、主人公の身体は妙に反応した。
怖い。
だが同時に、期待している。
変われば、生き残れる。
強くなれる。
もっと速く。
もっと硬く。
もっと隠れられる。
そう理解している。
それなのに、身体は恐怖でも震えていた。
変わるということは、今の自分が壊れるということでもある。
主人公は、自分がどこまで“自分”でいられるのか分からなかった。
岩穴の外では、水音が響いている。
遠くで何かが争っている。
低い唸り声。
骨が砕ける音。
悲鳴。
この洞窟では珍しくもない。
だが、今の主人公にはそれが遠かった。
意識の大半が、自分の身体へ向いている。
熱い。
重い。
苦しい。
腹の奥で何かが蠢いている。
主人公は、再生しかけている脚を見た。
昨日よりさらに伸びている。
細く、白く、柔らかい。
まだ完全ではないが、もう脚の形をしていた。
ありえない。
あんなふうに噛み千切ったのに。
戻っている。
戻ろうとしている。
主人公はその脚へ触れた。
感覚がある。
弱いが、確かに。
ぞわり、と背筋のような場所が震えた。
生き物として、おかしい。
だが。
この洞窟で“おかしくないもの”など見たことがない。
毒の水。
糸を吐く蜘蛛。
火を飛ばす人間。
死肉に群がる虫。
共食い。
全部がおかしい。
その中で、自分だけが普通でいられるわけがない。
主人公はゆっくりと身体を起こした。
じっとしている方が苦しい。
動けば少しだけ熱が散る気がした。
岩穴から外へ出る。
広い洞窟。
光苔の鈍い光。
湿った空気。
腐臭。
血の匂い。
全部が、以前より鮮明に感じられた。
嗅覚。
聴覚。
少しずつ鋭くなっている。
小さな水滴の落ちる場所すら分かる。
遠くの魔物の呼吸音も拾える。
その代わり、情報が多すぎて頭が疲れる。
主人公は壁沿いに進んだ。
足場を確認する。
骨を避ける。
乾いた石を踏まない。
動きは以前より滑らかだった。
失った脚も、ほとんど使えるようになっている。
まだ力は弱い。
だが、歩行の邪魔にはならない。
それどころか、以前より身体のバランスが良くなった気がした。
主人公は立ち止まり、自分の前脚を見た。
灰色が濃くなっている。
完全な白ではない。
岩肌に近い色。
外皮も少し厚くなった。
虫型魔物に噛まれた程度では、すぐに裂けないかもしれない。
変わっている。
確実に。
その時。
かさり。
主人公の身体が反応する。
通路の先。
小型の気配。
二つ。
虫型魔物。
以前見たものと似ている。
群れではない。
二匹。
主人公は壁へ身体を寄せた。
気配を薄くする。
呼吸を殺す。
自分でも分かる。
前より隠れるのが上手くなっている。
《気配希薄化が微量上昇しました》
頭の奥で声が響く。
主人公は、その声に以前ほど驚かなかった。
むしろ、“そうだろうな”と思ってしまった。
この身体は、生き残るために変わる。
隠れれば隠れるほど。
喰えば喰うほど。
耐えれば耐えるほど。
二匹の虫型魔物が近づいてくる。
甲殻が擦れる音。
脚が岩を叩く軽い音。
以前なら怖かった。
だが今は違う。
弱い。
そう思った。
その感覚に、主人公は少しだけ戸惑った。
自分が。
以前は逃げるしかなかった相手を、“弱い”と判断している。
腹は減っていない。
だが、身体が反応する。
いける。
勝てる。
狩れる。
主人公は低く身を伏せた。
虫型魔物たちはまだ気づいていない。
岩陰を通り過ぎる。
一匹目。
二匹目。
距離。
位置。
逃げ道。
全部が頭に入る。
主人公は動いた。
飛び出す。
前脚で一匹目を押し倒す。
虫型魔物が鳴く。
短い悲鳴。
主人公はその首元へ牙を突き立てた。
柔らかい部分を狙う。
以前より正確だった。
甲殻の隙間。
そこへ牙が入る。
虫型魔物が暴れる。
だが、弱い。
主人公はそのまま噛み千切った。
黒い体液が飛ぶ。
二匹目が逃げようとする。
主人公はすぐにそちらへ向いた。
速い。
以前より身体が軽い。
二匹目へ飛びつく。
虫型魔物が壁を登ろうとする。
主人公も壁へ脚をかけた。
岩へ吸いつくように身体が張りつく。
以前なら落ちていた。
だが今は違う。
脚が岩を掴む。
そのまま壁を這い、逃げる虫型魔物へ噛みついた。
落ちる。
二匹まとめて地面へ叩きつけられる。
衝撃。
だが、主人公はすぐに立ち上がった。
虫型魔物はまだ動いている。
主人公は迷わず頭を潰した。
静かになる。
終わった。
主人公は、その場でしばらく動かなかった。
速かった。
以前より。
迷いも少なかった。
狩り。
完全に、そういう動きだった。
《小型甲殻魔物を捕食しました》
《壁面移動能力が微量上昇しました》
《反応速度が微量上昇しました》
《捕食経験値を獲得しました》
主人公は虫型魔物を食べなかった。
腹は減っていない。
それでも、匂いは魅力的だった。
黒い体液。
柔らかい肉。
以前より美味そうに感じる。
だが、今は違う。
身体の熱の方が強かった。
熱い。
内側が。
主人公は身体を震わせた。
突然、外皮の一部が軋む。
びき。
小さな音。
主人公は固まった。
もう一度。
びき。
今度は背中。
何かが割れた。
「……っ」
主人公は反射的に岩陰へ走った。
危険。
本能がそう叫ぶ。
隠れろ。
今、外にいるな。
身体が動かなくなる。
そんな感覚があった。
主人公は狭い亀裂へ身体を押し込んだ。
ぎりぎり入れる場所。
暗い。
狭い。
だが安全。
そこでようやく、自分の背中を見た。
外皮が裂けている。
細く。
白い線のように。
そこから、新しい皮膚が覗いていた。
主人公は動けなかった。
割れている。
自分の身体が。
痛みは少ない。
だが、気持ち悪い。
外側が壊れて、中から別のものが出てくる。
まるで、自分の中にもう一匹いるみたいだった。
《進化前兆反応を確認》
《外皮更新を開始します》
外皮更新。
意味は分かる。
脱皮。
その言葉が浮かんだ。
主人公は息を呑む。
脱皮。
虫。
蛇。
そういう生き物がする行為。
古い皮を脱ぎ、新しくなる。
それを、自分がやる。
主人公は身体を縮めた。
嫌だ。
気持ち悪い。
だが、止められない。
背中の裂け目が広がる。
びき。
びき。
音がする。
身体のあちこちが軋む。
脚の付け根。
首。
腹。
古い外皮が耐えきれなくなっている。
熱い。
痒い。
苦しい。
主人公は岩へ身体を擦りつけた。
すると、外皮が少し剥がれる。
灰色の皮。
その下から、濃い色の新しい外皮が見えた。
主人公は震えた。
本当に変わっている。
ただの成長じゃない。
身体そのものが作り変わっている。
主人公は必死に外皮を擦った。
剥がれる。
べり、と。
背中。
腹。
脚。
古い皮が裂け、落ちていく。
気持ち悪い。
だが同時に、身体が軽くなる。
視界が鮮明になる。
空気の流れが分かる。
匂いが強い。
音が近い。
全部が以前よりはっきりしている。
主人公は喘ぐように身体を動かした。
古い皮が岩へ引っかかる。
脚が抜ける。
腹が抜ける。
最後に頭。
ぐちゃり、と湿った音を立てて、主人公は古い外皮から這い出た。
その瞬間。
全身に冷たい空気が触れる。
主人公はしばらく動けなかった。
感覚が違う。
身体が違う。
以前より、少し大きい。
脚が長い。
外皮が硬い。
そして色。
白ではない。
灰色がさらに濃くなっている。
岩陰に溶け込む色。
主人公は、自分の身体を見下ろした。
気持ち悪い。
でも。
強い。
そう感じた。
古い外皮を見る。
そこには、“以前の自分”が残っていた。
白っぽく、柔らかく、脆そうな幼生。
少し前まで、自分だったもの。
主人公はそれを見つめた。
そして、腹が鳴った。
「……」
主人公は目を逸らした。
まさか。
そう思った。
だが、匂いがする。
自分の匂い。
肉。
殻。
栄養。
この身体は理解している。
あれも餌になると。
主人公は後ずさった。
違う。
これは自分だ。
自分だったものだ。
食うな。
そう思う。
だが。
以前の同族を食べた時と同じ感覚が、腹の奥で蠢いていた。
食べれば力になる。
脱ぎ捨てた殻。
そこに栄養がある。
主人公は、古い外皮を見た。
そして。
少しだけ迷ってから、口をつけた。
硬い。
だが噛める。
殻の内側には柔らかい部分も残っている。
味は薄い。
しかし、自分の身体に馴染む感覚があった。
主人公は無言で食べ続けた。
気持ち悪い。
だが、止まらない。
《外皮更新に伴う栄養補填を確認》
《外皮硬化が上昇しました》
《擬態適性が微量上昇しました》
擬態。
主人公は、その言葉に少し引っかかった。
擬態。
隠れる。
周囲に溶け込む。
そういう意味だ。
主人公は自分の新しい外皮を見た。
灰色。
以前より岩肌に近い。
光を反射しにくい。
じっとしていると、影に溶ける。
本当に変わっている。
環境へ合わせて。
生きるために。
主人公は食べ終えた古い殻を見た。
ほとんど残っていない。
自分だったものを、自分で食べた。
その事実に、少しだけ頭がぼんやりする。
共食い。
脱皮殻。
再生。
進化。
全部が混ざって、自分が何なのか分からなくなっていく。
でも。
生きている。
以前より強い。
その実感だけは確かだった。
主人公は亀裂の奥で身体を丸めた。
脱皮した直後だからか、疲労が強い。
だが、感覚は冴えていた。
遠くの水音。
通路を通る小型魔物。
天井を這う何か。
全部が分かる。
以前の自分なら気づかなかったもの。
それが聞こえる。
見える。
嗅げる。
身体が変わった。
そして、その変化は止まらない。
主人公はゆっくりと目を閉じた。
眠る前、頭の奥で最後に声が響く。
《進化条件達成まで、残り僅かです》
主人公は、その言葉を聞きながら、小さく身体を震わせた。
怖かった。
だが。
少しだけ。
楽しみでもあった。




