第6話『空腹』
腹が減っていた。
目を覚ました瞬間、まずそれがあった。
暗闇。
湿った岩。
遠くの水音。
小さな虫が這う音。
そんなものより先に、腹の奥が空洞のように疼いていた。
昨日、食べたはずだった。
ケイブハウンドの血肉。
人間たちが切り取って残していった、温かい肉片。
焼けた皮。
内臓の一部。
それなりに食べた。
腹は確かに満ちた。
けれど、もう足りない。
満腹という感覚が短くなっている。
以前よりも、空腹が来るのが早い。
身体が多くを求めている。
傷を塞ぐためか。
失った脚を戻すためか。
それとも、単純にこの身体が大きくなろうとしているのか。
分からない。
ただ、腹が減っていた。
それだけは、どうしようもなく明確だった。
主人公は岩陰の奥で身体を起こした。
起こした、というより、丸めていた身体をほどいた。
柔らかい腹が岩に触れる。
細い脚が順番に地面を掴む。
失った脚の付け根を見る。
そこには、小さな突起が生えていた。
脚と呼ぶにはまだ短い。
だが、確かに何かが伸びてきている。
薄い膜に覆われた、白っぽい新しい器官。
主人公はそれを見て、しばらく動かなかった。
戻っている。
本当に。
自分で噛み千切った脚が。
戻ろうとしている。
普通なら、気味が悪いと思うべきだった。
いや、気味は悪い。
だが、それ以上に。
助かる。
そう思ってしまった。
脚が増えれば、動きやすい。
逃げやすい。
登りやすい。
狩りやすい。
その判断が先に来る。
主人公は、自分の中で嫌悪よりも生存が勝っていく感覚を、ぼんやりと見つめていた。
嫌ではある。
怖くもある。
だが、それで止まることはもうない。
止まれば死ぬ。
この洞窟は、止まったものから食われる。
それを知ってしまった。
主人公は岩陰の外を見た。
広い洞窟は薄暗い。
光苔がぼんやりと壁を照らしている。
遠くでは何かの骨が転がった。
その音に、近くの小さな魔物が反応して逃げる。
その逃げた先で、天井から黒い影が落ちた。
短い悲鳴。
潰れる音。
また一つ、何かが死んだ。
主人公は動かなかった。
もう驚かない。
洞窟ではよくあることだ。
音を立てたもの。
警戒を怠ったもの。
逃げる方向を間違えたもの。
そういうものから死ぬ。
自分もそうなるかもしれない。
だから見て、覚える。
どこに何がいる。
どんな音に反応する。
どの水場は危険か。
どの岩陰なら逃げ込めるか。
それを覚える。
覚えなければ死ぬ。
主人公は、自分の隠れ場所からゆっくりと這い出した。
腹が鳴る。
その音すら危険に思えて、身体を低くする。
音を出すな。
不用意に動くな。
だが、餌を探さなければならない。
昨日の人間たちが残していった血の匂いは、もう薄くなっている。
大半は他の魔物に食われたのだろう。
残っていても、今さら食べられる量ではない。
保存していた肉片もない。
同族を食べた時の残りも、虫型魔物の残骸も、もう食べ尽くした。
次の餌が必要だった。
主人公は壁沿いに進む。
広い場所の中央には出ない。
上も見る。
天井の魔物。
横も見る。
壁の亀裂。
下も見る。
骨。
糸。
毒の水たまり。
罠になるもの。
危険はどこにでもある。
その中で、自分が喰えるものを探す。
できれば死体。
できれば小さいもの。
できれば一匹。
できれば傷ついているもの。
そう考えている自分に、少しだけ嫌気が差す。
まるで、弱いものを探している。
いや。
実際そうだ。
強いものには勝てない。
だから弱いものを狙う。
それが今の自分の生き方だ。
主人公は進み続けた。
しばらくすると、狭い通路に出た。
以前通った道とは少し違う。
水の匂いが薄く、代わりに乾いた土の匂いが強い。
足場には細かい骨片が散らばっている。
踏めば音が出る。
主人公は慎重に骨を避けた。
身体を伸ばし、前脚を置く場所を選ぶ。
一歩。
また一歩。
そのたびに腹が疼く。
早く食べろと訴える。
だが焦ってはいけない。
空腹で急げば死ぬ。
昨日の人間たちを思い出す。
彼らは急ぎすぎなかった。
周囲を見ていた。
声をかけ合っていた。
役割があった。
主人公には仲間はいない。
声をかける相手もいない。
だが、警戒することはできる。
観察することはできる。
人間の動きから学べるものはある。
そう思った瞬間、少し奇妙な気分になった。
人間を食べ物として考えかけた自分が、人間から学ぼうとしている。
矛盾している。
だが、この洞窟では役に立つものなら何でも使う。
知識も。
恐怖も。
嫌悪も。
痛みも。
全部、生きるための材料になる。
通路の奥から、小さな音がした。
かり。
かり。
何かが硬いものを齧っている音。
主人公は止まった。
音は規則的だ。
大きくはない。
一匹か。
いや、二匹いるかもしれない。
匂いを探る。
腐肉。
骨。
そして、生きた肉。
主人公の腹が強く反応した。
食える。
たぶん小さい。
主人公は壁へ身体を寄せ、ゆっくり進んだ。
音が近づく。
かり。
かり。
骨を削る音。
通路の曲がり角の向こう。
主人公は、頭だけを少し出した。
そこには小さな魔物がいた。
鼠に似ている。
だが目が四つある。
背中には短い棘。
前歯が長い。
洞窟鼠。
そんな言葉が浮かぶ。
なぜ知っているのかは分からない。
一匹。
死骸の骨を齧っている。
小さい。
主人公より少し大きい程度。
だが、素早そうだ。
正面から行けば逃げられるか、逆に噛まれる。
主人公は考えた。
どうする。
距離はある。
飛びかかっても間に合わない。
音を立てれば逃げる。
なら、待つか。
洞窟鼠は骨を齧っている。
夢中になっているように見える。
だが耳がよく動いている。
警戒はしている。
主人公は、周囲を見た。
通路の壁に小さな亀裂がある。
上へ繋がっている。
自分なら入れる。
そこを通れば、鼠の背後に回れるかもしれない。
主人公はゆっくりと亀裂へ入った。
狭い。
だが前より慣れている。
身体を潰すようにして進む。
短い再生中の脚が引っかかり、痛みが走る。
それでも進む。
音を立てない。
岩の粒を落とさない。
腹が擦れても耐える。
亀裂は、通路の上側へ出ていた。
主人公はそこから下を覗く。
洞窟鼠がいる。
真下ではないが、近い。
今なら、上から落ちれば届くかもしれない。
主人公は身体を縮めた。
心臓のようなものが速く脈打つ。
怖い。
失敗すれば逃げられる。
あるいは噛まれる。
音を立てれば、他の捕食者も来る。
だが、食べなければならない。
空腹が、恐怖を押しのける。
主人公は落ちた。
いや、飛びかかった。
上から鼠の背中へ。
衝撃。
鼠が悲鳴を上げる。
主人公はその首元へ噛みつこうとした。
だが鼠は速かった。
体を捻り、牙を逃れる。
逆に主人公の腹へ噛みついた。
痛い。
鋭い前歯が皮膚を破る。
主人公は声を上げそうになる。
だが必死に飲み込んだ。
音を出すな。
悲鳴を上げれば死ぬ。
主人公は鼠の顔を前脚で押さえようとした。
しかし力が足りない。
鼠が暴れる。
棘が刺さる。
腹の傷が広がる。
痛い。
怖い。
でも離せない。
逃げられたら終わりだ。
主人公は鼠の前脚に噛みついた。
骨まで噛む。
鼠が体を跳ねさせる。
その隙に、主人公は身体を巻きつけるように絡みついた。
柔らかい身体。
気持ち悪いほど曲がる身体。
それを利用する。
鼠の動きを抑える。
牙を首の柔らかい部分へ滑り込ませる。
今度は逃がさない。
噛む。
深く。
鼠が必死に暴れる。
主人公の身体が岩へ叩きつけられる。
視界が揺れる。
それでも噛み続ける。
噛み千切るのではなく、離さない。
血が口に流れ込む。
熱い。
濃い。
生きた血。
主人公の中で、何かが熱くなる。
鼠の動きが少しずつ弱くなる。
脚が痙攣する。
鳴き声が小さくなる。
最後に一度大きく跳ねて、動かなくなった。
主人公は、しばらく噛みついたままだった。
離せなかった。
勝った。
自分から狩った。
死肉でもない。
残飯でもない。
向こうから襲ってきた敵でもない。
餌を探し、狙い、回り込み、飛びかかり、殺した。
自分で。
主人公は鼠から口を離した。
血が糸を引く。
腹の傷が痛む。
だが、目の前には餌がある。
温かい死体。
自分が作った死体。
その事実が、重かった。
そして、腹が歓喜していた。
主人公は迷った。
短く。
ほんの短く。
そして食べた。
皮を裂く。
肉を引き出す。
内臓へ牙を立てる。
鼠の肉は、虫より柔らかく、獣に近い味がした。
昨日のケイブハウンドに少し似ている。
だが小さい分、食べやすい。
主人公は夢中で食べた。
急ぎすぎないように気をつけながらも、止められなかった。
空腹が満たされていく。
腹の傷の痛みが鈍くなる。
身体に熱が戻る。
《小型獣魔物を捕食しました》
《筋力が微量上昇しました》
《嗅覚が微量上昇しました》
《跳躍行動の素質が発現しかけています》
《捕食経験値を獲得しました》
跳躍。
主人公は、さっき上から落ちた瞬間を思い出した。
あれも力になるのか。
やったこと。
耐えたこと。
食べたもの。
全部が、身体の変化に繋がる。
本当に、この身体は何にでも反応する。
何でも取り込む。
何でも、自分の一部にしようとする。
主人公は食べながら、自分の身体が少し膨らんでいることに気づいた。
栄養が入る。
傷が塞がる。
脚が伸びる。
外皮が硬くなる。
少しずつ、昨日とは違う形になっていく。
怖い。
けれど今は、ありがたかった。
この強さがなければ、鼠一匹にも殺されていたかもしれない。
主人公は食べ終えた後、骨の一部を岩陰へ隠そうとした。
だが、途中で止まる。
ここは危険だ。
血の匂いが強い。
長くいれば他の魔物が来る。
隠すより、移動した方がいい。
主人公は食べ残しを少しだけ引きずり、近くの亀裂へ押し込んだ。
完全に保存するためではない。
他の魔物の目を少しでも誤魔化すため。
それから、血のついた場所を土で擦った。
匂いは消えない。
だが少しは散る。
そうやっている自分が、妙に手慣れている。
主人公は少しだけ黙った。
狩り。
捕食。
隠蔽。
逃走。
学んでいる。
早すぎるくらいに。
普通の幼生なら、こんなふうに考えるのだろうか。
考えない気がする。
だが、普通の幼生というものを知らない。
比べる相手は、もう食べてしまった同族だけだ。
あれも、自分を食おうとした。
あれも、同じように考えていたのだろうか。
それとも、ただ本能だけで動いていたのか。
分からない。
主人公は通路から離れた。
腹は少し満たされた。
だが、まだ完全ではない。
むしろ、一度食べたことで身体がさらに求め始めている。
もっと。
もっと栄養を。
もっと強く。
もっと安全に。
そんな欲求が奥から湧いてくる。
主人公は、それに抗おうとした。
食べたばかりだ。
今は休むべきだ。
傷もある。
狩りの後は危険。
分かっている。
それでも、鼻が匂いを探す。
耳が音を拾う。
脚が次の獲物を探して動こうとする。
空腹は、単なる腹の減りではなかった。
この身体全体の命令だった。
成長しろ。
変われ。
適応しろ。
そのために喰え。
主人公は壁にもたれるように身体を止めた。
息を整える。
いや、整えているつもりになる。
自分に言い聞かせる。
焦るな。
今は一度、隠れ場所に戻る。
そう決めた。
その時。
かすかな音がした。
ひっ。
そんな、短い声。
主人公は動きを止めた。
魔物の鳴き声ではない。
人間の声でもない。
いや、声に近い。
怯えた音。
通路の横穴の奥。
主人公はそちらを見た。
匂いがする。
生きた肉。
小さい。
弱い。
血の匂いも混ざっている。
怪我をしている。
主人公の腹が強く鳴った。
駄目だ。
そう思うより早く、身体が横穴へ向かっていた。
狭い道。
薄暗い。
奥からまた音がする。
ひっ。
ひっ。
震えるような呼吸。
主人公は慎重に近づいた。
そこにいたのは、小さな魔物だった。
兎のような形。
長い耳。
だが目がなく、鼻先が裂けている。
後ろ脚に怪我をしている。
岩の隙間に挟まったのか、血が滲んでいる。
逃げられない。
主人公を見て、そいつは身体を震わせた。
弱い。
明らかに。
主人公は止まった。
これは、勝てる。
ほとんど抵抗されない。
食べられる。
食べれば回復する。
さらに強くなる。
生き残れる。
頭の中で、理由が並ぶ。
綺麗に。
合理的に。
けれど、その魔物は怯えていた。
昨日の同族の幼生と同じように。
いや、もっと分かりやすく。
逃げたいのに逃げられない。
死にたくない。
それだけが全身から出ている。
主人公は動けなかった。
さっき鼠を殺した時とは違う。
あれは戦った。
襲ったのは自分だが、向こうも噛みついてきた。
生きるための戦いだったと言える。
これは違う。
ただ怪我をしているだけ。
逃げられないだけ。
それを食うのか。
主人公は、白い前脚を地面に押しつけた。
腹が鳴る。
兎のような魔物が震える。
食え。
身体が言う。
やめろ。
頭が言う。
どちらも自分だ。
どちらも嘘ではない。
しばらく、洞窟の狭い横穴で、二つの命が向かい合っていた。
やがて、主人公は一歩近づいた。
兎の魔物が身を縮める。
主人公は止まる。
また一歩。
止まる。
喉が渇く。
牙が疼く。
その瞬間、遠くで大きな音がした。
何かが通路に落ちた音。
主人公は振り返った。
別の捕食者の気配。
近い。
血の匂いを嗅ぎつけたのかもしれない。
この横穴にいるのは危険だ。
今すぐ逃げるべきだ。
だが、目の前には餌がいる。
怪我をして動けない餌。
持っていけるか。
主人公は兎の魔物を見た。
小さいが、自分よりは大きい。
運ぶには時間がかかる。
ここで食べれば捕食者に見つかるかもしれない。
捨てるべきか。
逃げるべきか。
食うべきか。
判断が一瞬で巡る。
そして、主人公は動いた。
兎の魔物の首へ噛みつく。
一撃。
できるだけ音を出させないように。
悲鳴が漏れる前に喉を潰す。
温かい血が溢れた。
兎の魔物が数度痙攣し、動かなくなる。
主人公はそのまま喉を噛み続けた。
静かになるまで。
完全に。
終わった。
主人公は死体を見下ろした。
自分がやった。
迷った。
でも、やった。
理由はある。
捕食者が近づいていた。
このまま放置すれば別の魔物に食われる。
逃げられないなら死ぬだけ。
自分が食えば、自分が生きられる。
理由はある。
いくらでもある。
だが、本当のところは分かっていた。
腹が減っていたからだ。
主人公は食べた。
急いで。
音を立てずに。
肉は柔らかかった。
鼠よりも食べやすい。
血は温かく、甘さに似たものがあった。
内臓は濃い。
主人公は、自分がその味を冷静に判別していることに気づいた。
気づいたが、止まらなかった。
食べなければならない。
できるだけ早く。
捕食者が来る前に。
《小型草食魔物を捕食しました》
《脚力が微量上昇しました》
《聴覚が微量上昇しました》
《逃走行動の素質を獲得しました》
逃走行動。
主人公は食べながら、少しだけ笑いそうになった。
逃げられなかったものを食べて、逃げる力を得る。
この世界は、あまりにも分かりやすく残酷だった。
食事の途中で、通路側の気配が近づいた。
主人公は全てを食べ切ることを諦めた。
肉の一部だけを口で引き裂き、飲み込む。
残りを横穴の奥へ押し込む。
そして、自分は天井近くの小さな裂け目へ潜った。
体を圧縮し、石の間へ入り込む。
腹が膨れていて苦しい。
だが入る。
入れ。
生きるために。
直後、通路から大きな魔物が入ってきた。
長い舌を持つ、痩せた獣。
鼻を鳴らしながら、血の匂いを追ってくる。
主人公は裂け目の奥で動かなかった。
獣は兎の魔物の残骸を見つける。
食らいつく。
骨を砕く。
残しておいた肉が食われていく。
もったいない。
最初に浮かんだ感情がそれだった。
主人公は、自分で自分に驚いた。
怖いより先に、惜しいと思った。
餌を奪われたと。
あれは自分が殺したものなのに、と。
縄張り。
所有。
そんな言葉が浮かぶ。
良くない。
そう思った。
だが、洞窟の獣が肉を喰う音を聞いていると、腹の奥で怒りのようなものが小さく燃えた。
自分の餌。
そう感じている。
主人公はそれを押し殺した。
今出れば死ぬ。
あの獣には勝てない。
餌を取られても、生きている方がいい。
そう判断する。
獣は残骸を食べ終えると、しばらく周囲を嗅ぎ回った。
主人公のいる裂け目にも鼻先を向ける。
主人公は、体表を岩に押しつけた。
匂いを殺す。
気配を殺す。
音を殺す。
自分の存在を、限りなく薄くする。
獣の鼻息が近い。
熱い。
臭い。
だが、届かない。
やがて獣は諦めたように横穴を出ていった。
主人公は、しばらく動かなかった。
完全に気配が消えるまで。
そして、ようやく裂け目から這い出した。
横穴には、骨の欠片と血の染みだけが残っていた。
主人公はそれを見た。
食べ残しはない。
自分が殺したものを、別の魔物が持っていった。
それだけ。
洞窟ではよくあること。
だが、胸の奥が少しざらついた。
悔しい。
そう思った。
もっと強ければ。
あの獣が来ても追い払えた。
もっと速く食べられれば。
もっと大きければ。
もっと強ければ。
主人公は、初めてはっきりと“強さ”を欲した。
ただ生きたいだけではない。
逃げるためでもない。
奪われないために。
自分の餌を守るために。
次に似たことがあった時、隠れて見ているだけで終わらせないために。
強くなりたい。
そう思った。
その感情は熱かった。
空腹によく似ていて、それよりも少し鋭かった。
主人公は横穴を出た。
腹は満ちているはずだった。
鼠と兎の魔物を食べた。
十分な量ではないが、死ぬほどの空腹は収まっている。
それなのに、まだ欲しい。
食べ物だけではない。
力。
器官。
耐性。
速さ。
硬さ。
隠れる能力。
狩る能力。
生きるためのすべてが欲しい。
この洞窟で奪われないために。
食われないために。
食う側でいるために。
主人公は壁沿いに進んだ。
もう隠れ場所に戻る気は半分消えていた。
今ならまだ動ける。
傷も塞がり始めている。
獲物を探せる。
そう思ってしまう。
危険だ。
分かっている。
だが、空腹が理性を削る。
強くなりたいという感情が、恐怖を押す。
その時、頭の奥で声が響いた。
《捕食経験値が一定値に近づいています》
主人公は止まった。
一定値。
近づいている。
それはつまり。
何かが起きる。
進化。
その言葉が浮かぶ。
まだ聞いたことはない。
だが、分かる。
この身体は変わる。
小さな変化ではなく、もっと大きく。
食べ続ければ。
生き残り続ければ。
何か別のものになれる。
主人公の腹の奥が、また熱くなった。
怖い。
でも、欲しい。
変われば生きられる。
今の弱い身体では、いつか死ぬ。
ムカデ型魔物。
蜘蛛型魔物。
人間。
痩せた獣。
自分より強いものは山ほどいる。
このままでは、いつか見つかって喰われる。
それが嫌なら、変わるしかない。
何になっても。
主人公は、その思考に自分で怯えた。
何になっても。
今、そう思った。
本当に?
本当に、何になってもいいのか。
虫でも。
獣でも。
化け物でも。
同族を食うものでも。
人間を食うものでも。
主人公は答えられなかった。
ただ、腹が鳴った。
その音が答えのようだった。
生きる。
そのために必要なら。
必要なら。
主人公は暗い通路を進んだ。
音を殺し、影に溶け、匂いを追う。
もうただ逃げるだけの幼生ではなかった。
弱い。
小さい。
簡単に死ぬ。
それでも、獲物を探している。
自分より弱いものを。
食えるものを。
変わるための材料を。
通路の先から、また小さな気配がした。
主人公は低く身を伏せる。
腹の奥で、飢えが笑った気がした。
今度は逃がさない。
そう思ってしまった自分に、主人公はもう驚かなかった。




