表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/46

第6話『空腹』

腹が減っていた。


目を覚ました瞬間、まずそれがあった。


暗闇。


湿った岩。


遠くの水音。


小さな虫が這う音。


そんなものより先に、腹の奥が空洞のように疼いていた。


昨日、食べたはずだった。


ケイブハウンドの血肉。


人間たちが切り取って残していった、温かい肉片。


焼けた皮。


内臓の一部。


それなりに食べた。


腹は確かに満ちた。


けれど、もう足りない。


満腹という感覚が短くなっている。


以前よりも、空腹が来るのが早い。


身体が多くを求めている。


傷を塞ぐためか。


失った脚を戻すためか。


それとも、単純にこの身体が大きくなろうとしているのか。


分からない。


ただ、腹が減っていた。


それだけは、どうしようもなく明確だった。


主人公は岩陰の奥で身体を起こした。


起こした、というより、丸めていた身体をほどいた。


柔らかい腹が岩に触れる。


細い脚が順番に地面を掴む。


失った脚の付け根を見る。


そこには、小さな突起が生えていた。


脚と呼ぶにはまだ短い。


だが、確かに何かが伸びてきている。


薄い膜に覆われた、白っぽい新しい器官。


主人公はそれを見て、しばらく動かなかった。


戻っている。


本当に。


自分で噛み千切った脚が。


戻ろうとしている。


普通なら、気味が悪いと思うべきだった。


いや、気味は悪い。


だが、それ以上に。


助かる。


そう思ってしまった。


脚が増えれば、動きやすい。


逃げやすい。


登りやすい。


狩りやすい。


その判断が先に来る。


主人公は、自分の中で嫌悪よりも生存が勝っていく感覚を、ぼんやりと見つめていた。


嫌ではある。


怖くもある。


だが、それで止まることはもうない。


止まれば死ぬ。


この洞窟は、止まったものから食われる。


それを知ってしまった。


主人公は岩陰の外を見た。


広い洞窟は薄暗い。


光苔がぼんやりと壁を照らしている。


遠くでは何かの骨が転がった。


その音に、近くの小さな魔物が反応して逃げる。


その逃げた先で、天井から黒い影が落ちた。


短い悲鳴。


潰れる音。


また一つ、何かが死んだ。


主人公は動かなかった。


もう驚かない。


洞窟ではよくあることだ。


音を立てたもの。


警戒を怠ったもの。


逃げる方向を間違えたもの。


そういうものから死ぬ。


自分もそうなるかもしれない。


だから見て、覚える。


どこに何がいる。


どんな音に反応する。


どの水場は危険か。


どの岩陰なら逃げ込めるか。


それを覚える。


覚えなければ死ぬ。


主人公は、自分の隠れ場所からゆっくりと這い出した。


腹が鳴る。


その音すら危険に思えて、身体を低くする。


音を出すな。


不用意に動くな。


だが、餌を探さなければならない。


昨日の人間たちが残していった血の匂いは、もう薄くなっている。


大半は他の魔物に食われたのだろう。


残っていても、今さら食べられる量ではない。


保存していた肉片もない。


同族を食べた時の残りも、虫型魔物の残骸も、もう食べ尽くした。


次の餌が必要だった。


主人公は壁沿いに進む。


広い場所の中央には出ない。


上も見る。


天井の魔物。


横も見る。


壁の亀裂。


下も見る。


骨。


糸。


毒の水たまり。


罠になるもの。


危険はどこにでもある。


その中で、自分が喰えるものを探す。


できれば死体。


できれば小さいもの。


できれば一匹。


できれば傷ついているもの。


そう考えている自分に、少しだけ嫌気が差す。


まるで、弱いものを探している。


いや。


実際そうだ。


強いものには勝てない。


だから弱いものを狙う。


それが今の自分の生き方だ。


主人公は進み続けた。


しばらくすると、狭い通路に出た。


以前通った道とは少し違う。


水の匂いが薄く、代わりに乾いた土の匂いが強い。


足場には細かい骨片が散らばっている。


踏めば音が出る。


主人公は慎重に骨を避けた。


身体を伸ばし、前脚を置く場所を選ぶ。


一歩。


また一歩。


そのたびに腹が疼く。


早く食べろと訴える。


だが焦ってはいけない。


空腹で急げば死ぬ。


昨日の人間たちを思い出す。


彼らは急ぎすぎなかった。


周囲を見ていた。


声をかけ合っていた。


役割があった。


主人公には仲間はいない。


声をかける相手もいない。


だが、警戒することはできる。


観察することはできる。


人間の動きから学べるものはある。


そう思った瞬間、少し奇妙な気分になった。


人間を食べ物として考えかけた自分が、人間から学ぼうとしている。


矛盾している。


だが、この洞窟では役に立つものなら何でも使う。


知識も。


恐怖も。


嫌悪も。


痛みも。


全部、生きるための材料になる。


通路の奥から、小さな音がした。


かり。


かり。


何かが硬いものを齧っている音。


主人公は止まった。


音は規則的だ。


大きくはない。


一匹か。


いや、二匹いるかもしれない。


匂いを探る。


腐肉。


骨。


そして、生きた肉。


主人公の腹が強く反応した。


食える。


たぶん小さい。


主人公は壁へ身体を寄せ、ゆっくり進んだ。


音が近づく。


かり。


かり。


骨を削る音。


通路の曲がり角の向こう。


主人公は、頭だけを少し出した。


そこには小さな魔物がいた。


鼠に似ている。


だが目が四つある。


背中には短い棘。


前歯が長い。


洞窟鼠。


そんな言葉が浮かぶ。


なぜ知っているのかは分からない。


一匹。


死骸の骨を齧っている。


小さい。


主人公より少し大きい程度。


だが、素早そうだ。


正面から行けば逃げられるか、逆に噛まれる。


主人公は考えた。


どうする。


距離はある。


飛びかかっても間に合わない。


音を立てれば逃げる。


なら、待つか。


洞窟鼠は骨を齧っている。


夢中になっているように見える。


だが耳がよく動いている。


警戒はしている。


主人公は、周囲を見た。


通路の壁に小さな亀裂がある。


上へ繋がっている。


自分なら入れる。


そこを通れば、鼠の背後に回れるかもしれない。


主人公はゆっくりと亀裂へ入った。


狭い。


だが前より慣れている。


身体を潰すようにして進む。


短い再生中の脚が引っかかり、痛みが走る。


それでも進む。


音を立てない。


岩の粒を落とさない。


腹が擦れても耐える。


亀裂は、通路の上側へ出ていた。


主人公はそこから下を覗く。


洞窟鼠がいる。


真下ではないが、近い。


今なら、上から落ちれば届くかもしれない。


主人公は身体を縮めた。


心臓のようなものが速く脈打つ。


怖い。


失敗すれば逃げられる。


あるいは噛まれる。


音を立てれば、他の捕食者も来る。


だが、食べなければならない。


空腹が、恐怖を押しのける。


主人公は落ちた。


いや、飛びかかった。


上から鼠の背中へ。


衝撃。


鼠が悲鳴を上げる。


主人公はその首元へ噛みつこうとした。


だが鼠は速かった。


体を捻り、牙を逃れる。


逆に主人公の腹へ噛みついた。


痛い。


鋭い前歯が皮膚を破る。


主人公は声を上げそうになる。


だが必死に飲み込んだ。


音を出すな。


悲鳴を上げれば死ぬ。


主人公は鼠の顔を前脚で押さえようとした。


しかし力が足りない。


鼠が暴れる。


棘が刺さる。


腹の傷が広がる。


痛い。


怖い。


でも離せない。


逃げられたら終わりだ。


主人公は鼠の前脚に噛みついた。


骨まで噛む。


鼠が体を跳ねさせる。


その隙に、主人公は身体を巻きつけるように絡みついた。


柔らかい身体。


気持ち悪いほど曲がる身体。


それを利用する。


鼠の動きを抑える。


牙を首の柔らかい部分へ滑り込ませる。


今度は逃がさない。


噛む。


深く。


鼠が必死に暴れる。


主人公の身体が岩へ叩きつけられる。


視界が揺れる。


それでも噛み続ける。


噛み千切るのではなく、離さない。


血が口に流れ込む。


熱い。


濃い。


生きた血。


主人公の中で、何かが熱くなる。


鼠の動きが少しずつ弱くなる。


脚が痙攣する。


鳴き声が小さくなる。


最後に一度大きく跳ねて、動かなくなった。


主人公は、しばらく噛みついたままだった。


離せなかった。


勝った。


自分から狩った。


死肉でもない。


残飯でもない。


向こうから襲ってきた敵でもない。


餌を探し、狙い、回り込み、飛びかかり、殺した。


自分で。


主人公は鼠から口を離した。


血が糸を引く。


腹の傷が痛む。


だが、目の前には餌がある。


温かい死体。


自分が作った死体。


その事実が、重かった。


そして、腹が歓喜していた。


主人公は迷った。


短く。


ほんの短く。


そして食べた。


皮を裂く。


肉を引き出す。


内臓へ牙を立てる。


鼠の肉は、虫より柔らかく、獣に近い味がした。


昨日のケイブハウンドに少し似ている。


だが小さい分、食べやすい。


主人公は夢中で食べた。


急ぎすぎないように気をつけながらも、止められなかった。


空腹が満たされていく。


腹の傷の痛みが鈍くなる。


身体に熱が戻る。


《小型獣魔物を捕食しました》


《筋力が微量上昇しました》


《嗅覚が微量上昇しました》


《跳躍行動の素質が発現しかけています》


《捕食経験値を獲得しました》


跳躍。


主人公は、さっき上から落ちた瞬間を思い出した。


あれも力になるのか。


やったこと。


耐えたこと。


食べたもの。


全部が、身体の変化に繋がる。


本当に、この身体は何にでも反応する。


何でも取り込む。


何でも、自分の一部にしようとする。


主人公は食べながら、自分の身体が少し膨らんでいることに気づいた。


栄養が入る。


傷が塞がる。


脚が伸びる。


外皮が硬くなる。


少しずつ、昨日とは違う形になっていく。


怖い。


けれど今は、ありがたかった。


この強さがなければ、鼠一匹にも殺されていたかもしれない。


主人公は食べ終えた後、骨の一部を岩陰へ隠そうとした。


だが、途中で止まる。


ここは危険だ。


血の匂いが強い。


長くいれば他の魔物が来る。


隠すより、移動した方がいい。


主人公は食べ残しを少しだけ引きずり、近くの亀裂へ押し込んだ。


完全に保存するためではない。


他の魔物の目を少しでも誤魔化すため。


それから、血のついた場所を土で擦った。


匂いは消えない。


だが少しは散る。


そうやっている自分が、妙に手慣れている。


主人公は少しだけ黙った。


狩り。


捕食。


隠蔽。


逃走。


学んでいる。


早すぎるくらいに。


普通の幼生なら、こんなふうに考えるのだろうか。


考えない気がする。


だが、普通の幼生というものを知らない。


比べる相手は、もう食べてしまった同族だけだ。


あれも、自分を食おうとした。


あれも、同じように考えていたのだろうか。


それとも、ただ本能だけで動いていたのか。


分からない。


主人公は通路から離れた。


腹は少し満たされた。


だが、まだ完全ではない。


むしろ、一度食べたことで身体がさらに求め始めている。


もっと。


もっと栄養を。


もっと強く。


もっと安全に。


そんな欲求が奥から湧いてくる。


主人公は、それに抗おうとした。


食べたばかりだ。


今は休むべきだ。


傷もある。


狩りの後は危険。


分かっている。


それでも、鼻が匂いを探す。


耳が音を拾う。


脚が次の獲物を探して動こうとする。


空腹は、単なる腹の減りではなかった。


この身体全体の命令だった。


成長しろ。


変われ。


適応しろ。


そのために喰え。


主人公は壁にもたれるように身体を止めた。


息を整える。


いや、整えているつもりになる。


自分に言い聞かせる。


焦るな。


今は一度、隠れ場所に戻る。


そう決めた。


その時。


かすかな音がした。


ひっ。


そんな、短い声。


主人公は動きを止めた。


魔物の鳴き声ではない。


人間の声でもない。


いや、声に近い。


怯えた音。


通路の横穴の奥。


主人公はそちらを見た。


匂いがする。


生きた肉。


小さい。


弱い。


血の匂いも混ざっている。


怪我をしている。


主人公の腹が強く鳴った。


駄目だ。


そう思うより早く、身体が横穴へ向かっていた。


狭い道。


薄暗い。


奥からまた音がする。


ひっ。


ひっ。


震えるような呼吸。


主人公は慎重に近づいた。


そこにいたのは、小さな魔物だった。


兎のような形。


長い耳。


だが目がなく、鼻先が裂けている。


後ろ脚に怪我をしている。


岩の隙間に挟まったのか、血が滲んでいる。


逃げられない。


主人公を見て、そいつは身体を震わせた。


弱い。


明らかに。


主人公は止まった。


これは、勝てる。


ほとんど抵抗されない。


食べられる。


食べれば回復する。


さらに強くなる。


生き残れる。


頭の中で、理由が並ぶ。


綺麗に。


合理的に。


けれど、その魔物は怯えていた。


昨日の同族の幼生と同じように。


いや、もっと分かりやすく。


逃げたいのに逃げられない。


死にたくない。


それだけが全身から出ている。


主人公は動けなかった。


さっき鼠を殺した時とは違う。


あれは戦った。


襲ったのは自分だが、向こうも噛みついてきた。


生きるための戦いだったと言える。


これは違う。


ただ怪我をしているだけ。


逃げられないだけ。


それを食うのか。


主人公は、白い前脚を地面に押しつけた。


腹が鳴る。


兎のような魔物が震える。


食え。


身体が言う。


やめろ。


頭が言う。


どちらも自分だ。


どちらも嘘ではない。


しばらく、洞窟の狭い横穴で、二つの命が向かい合っていた。


やがて、主人公は一歩近づいた。


兎の魔物が身を縮める。


主人公は止まる。


また一歩。


止まる。


喉が渇く。


牙が疼く。


その瞬間、遠くで大きな音がした。


何かが通路に落ちた音。


主人公は振り返った。


別の捕食者の気配。


近い。


血の匂いを嗅ぎつけたのかもしれない。


この横穴にいるのは危険だ。


今すぐ逃げるべきだ。


だが、目の前には餌がいる。


怪我をして動けない餌。


持っていけるか。


主人公は兎の魔物を見た。


小さいが、自分よりは大きい。


運ぶには時間がかかる。


ここで食べれば捕食者に見つかるかもしれない。


捨てるべきか。


逃げるべきか。


食うべきか。


判断が一瞬で巡る。


そして、主人公は動いた。


兎の魔物の首へ噛みつく。


一撃。


できるだけ音を出させないように。


悲鳴が漏れる前に喉を潰す。


温かい血が溢れた。


兎の魔物が数度痙攣し、動かなくなる。


主人公はそのまま喉を噛み続けた。


静かになるまで。


完全に。


終わった。


主人公は死体を見下ろした。


自分がやった。


迷った。


でも、やった。


理由はある。


捕食者が近づいていた。


このまま放置すれば別の魔物に食われる。


逃げられないなら死ぬだけ。


自分が食えば、自分が生きられる。


理由はある。


いくらでもある。


だが、本当のところは分かっていた。


腹が減っていたからだ。


主人公は食べた。


急いで。


音を立てずに。


肉は柔らかかった。


鼠よりも食べやすい。


血は温かく、甘さに似たものがあった。


内臓は濃い。


主人公は、自分がその味を冷静に判別していることに気づいた。


気づいたが、止まらなかった。


食べなければならない。


できるだけ早く。


捕食者が来る前に。


《小型草食魔物を捕食しました》


《脚力が微量上昇しました》


《聴覚が微量上昇しました》


《逃走行動の素質を獲得しました》


逃走行動。


主人公は食べながら、少しだけ笑いそうになった。


逃げられなかったものを食べて、逃げる力を得る。


この世界は、あまりにも分かりやすく残酷だった。


食事の途中で、通路側の気配が近づいた。


主人公は全てを食べ切ることを諦めた。


肉の一部だけを口で引き裂き、飲み込む。


残りを横穴の奥へ押し込む。


そして、自分は天井近くの小さな裂け目へ潜った。


体を圧縮し、石の間へ入り込む。


腹が膨れていて苦しい。


だが入る。


入れ。


生きるために。


直後、通路から大きな魔物が入ってきた。


長い舌を持つ、痩せた獣。


鼻を鳴らしながら、血の匂いを追ってくる。


主人公は裂け目の奥で動かなかった。


獣は兎の魔物の残骸を見つける。


食らいつく。


骨を砕く。


残しておいた肉が食われていく。


もったいない。


最初に浮かんだ感情がそれだった。


主人公は、自分で自分に驚いた。


怖いより先に、惜しいと思った。


餌を奪われたと。


あれは自分が殺したものなのに、と。


縄張り。


所有。


そんな言葉が浮かぶ。


良くない。


そう思った。


だが、洞窟の獣が肉を喰う音を聞いていると、腹の奥で怒りのようなものが小さく燃えた。


自分の餌。


そう感じている。


主人公はそれを押し殺した。


今出れば死ぬ。


あの獣には勝てない。


餌を取られても、生きている方がいい。


そう判断する。


獣は残骸を食べ終えると、しばらく周囲を嗅ぎ回った。


主人公のいる裂け目にも鼻先を向ける。


主人公は、体表を岩に押しつけた。


匂いを殺す。


気配を殺す。


音を殺す。


自分の存在を、限りなく薄くする。


獣の鼻息が近い。


熱い。


臭い。


だが、届かない。


やがて獣は諦めたように横穴を出ていった。


主人公は、しばらく動かなかった。


完全に気配が消えるまで。


そして、ようやく裂け目から這い出した。


横穴には、骨の欠片と血の染みだけが残っていた。


主人公はそれを見た。


食べ残しはない。


自分が殺したものを、別の魔物が持っていった。


それだけ。


洞窟ではよくあること。


だが、胸の奥が少しざらついた。


悔しい。


そう思った。


もっと強ければ。


あの獣が来ても追い払えた。


もっと速く食べられれば。


もっと大きければ。


もっと強ければ。


主人公は、初めてはっきりと“強さ”を欲した。


ただ生きたいだけではない。


逃げるためでもない。


奪われないために。


自分の餌を守るために。


次に似たことがあった時、隠れて見ているだけで終わらせないために。


強くなりたい。


そう思った。


その感情は熱かった。


空腹によく似ていて、それよりも少し鋭かった。


主人公は横穴を出た。


腹は満ちているはずだった。


鼠と兎の魔物を食べた。


十分な量ではないが、死ぬほどの空腹は収まっている。


それなのに、まだ欲しい。


食べ物だけではない。


力。


器官。


耐性。


速さ。


硬さ。


隠れる能力。


狩る能力。


生きるためのすべてが欲しい。


この洞窟で奪われないために。


食われないために。


食う側でいるために。


主人公は壁沿いに進んだ。


もう隠れ場所に戻る気は半分消えていた。


今ならまだ動ける。


傷も塞がり始めている。


獲物を探せる。


そう思ってしまう。


危険だ。


分かっている。


だが、空腹が理性を削る。


強くなりたいという感情が、恐怖を押す。


その時、頭の奥で声が響いた。


《捕食経験値が一定値に近づいています》


主人公は止まった。


一定値。


近づいている。


それはつまり。


何かが起きる。


進化。


その言葉が浮かぶ。


まだ聞いたことはない。


だが、分かる。


この身体は変わる。


小さな変化ではなく、もっと大きく。


食べ続ければ。


生き残り続ければ。


何か別のものになれる。


主人公の腹の奥が、また熱くなった。


怖い。


でも、欲しい。


変われば生きられる。


今の弱い身体では、いつか死ぬ。


ムカデ型魔物。


蜘蛛型魔物。


人間。


痩せた獣。


自分より強いものは山ほどいる。


このままでは、いつか見つかって喰われる。


それが嫌なら、変わるしかない。


何になっても。


主人公は、その思考に自分で怯えた。


何になっても。


今、そう思った。


本当に?


本当に、何になってもいいのか。


虫でも。


獣でも。


化け物でも。


同族を食うものでも。


人間を食うものでも。


主人公は答えられなかった。


ただ、腹が鳴った。


その音が答えのようだった。


生きる。


そのために必要なら。


必要なら。


主人公は暗い通路を進んだ。


音を殺し、影に溶け、匂いを追う。


もうただ逃げるだけの幼生ではなかった。


弱い。


小さい。


簡単に死ぬ。


それでも、獲物を探している。


自分より弱いものを。


食えるものを。


変わるための材料を。


通路の先から、また小さな気配がした。


主人公は低く身を伏せる。


腹の奥で、飢えが笑った気がした。


今度は逃がさない。


そう思ってしまった自分に、主人公はもう驚かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ