第5話『音』
しばらく、動けなかった。
岩陰の奥。
狭く、湿った隙間。
白灰色の幼生は、そこで小さく身体を丸めていた。
外では水が流れている。
遠くで何かが鳴いている。
壁のどこかを、小さな虫が這っている。
洞窟はいつも通りだった。
何かが死んでも。
何かが喰われても。
何かが、同じ姿をしたものを喰っても。
洞窟は何も変わらない。
ただ静かに、次の飢えを待っている。
主人公は、口の周りについた黒い体液をようやく岩へ擦りつけた。
ぬめった感触が剥がれる。
だが、味は消えなかった。
口の奥に残っている。
同族の味。
自分と似たものの味。
濃く、熱く、身体に馴染みやすい味。
思い出しただけで、腹の奥がわずかに反応する。
それが嫌だった。
嫌なはずだった。
なのに、主人公はその味を完全には拒めなかった。
身体が覚えている。
あれは良い餌だったと。
あれを食えば効率がいいと。
その感覚が、頭のどこかにこびりついている。
「……違う」
小さく呟く。
相変わらず、声は歪んでいた。
湿った空気が喉のような器官を擦るだけの音。
言葉として形になっているのかも怪しい。
それでも、自分に言い聞かせたかった。
違う。
あれは餌ではない。
同じものだった。
生きたかったものだった。
怖がっていた。
自分と同じように。
でも。
最後には、食べた。
主人公は身体をさらに丸めた。
前脚で頭を覆うようにする。
目を閉じる。
だが、眠れなかった。
同族の幼生が見た最後の目が、頭の中から消えない。
黒い点のような目。
そこに浮かんだ恐怖。
主人公を見る目。
餌を見る目ではなく、捕食者を見る目。
自分は、あの瞬間、向こうにとって捕食者だった。
弱い幼生ではなく。
食う側だった。
その事実が、身体の奥へ沈んでいく。
嫌悪と、妙な確信を一緒に連れて。
食えば、生きられる。
殺せば、食える。
勝てば、奪える。
単純で、残酷で、分かりやすい。
この洞窟では、それがすべてだ。
主人公は、じっと息を潜めた。
外へ出る気になれなかった。
腹は満ちている。
傷も回復している。
失った脚の付け根は、昨日よりさらに膨らんでいた。
薄い膜の下で、何かが蠢いている。
新しい脚が生えてくるのかもしれない。
普通なら吐き気を覚える光景。
だが今の自分は、それを“助かる”と思っている。
脚が戻れば動きやすくなる。
逃げやすくなる。
狩りやすくなる。
そう考えてしまう。
主人公は、その考えを振り払うように身体を揺らした。
しかし、考えは消えない。
生きるための判断は、嫌悪より深い場所に根を張り始めている。
どれだけ嫌だと思っても、身体は必要なものを選ぶ。
そして自分は、少しずつそれに従うようになっている。
その時。
洞窟の奥で、大きな音がした。
ごう、と空気が震えるような音。
主人公の身体が硬直する。
聞いたことのない音だった。
岩が崩れたのかと思った。
だが違う。
続いて、また音がする。
今度は鋭い。
何かが弾けたような音。
その直後。
獣の悲鳴。
いや、魔物の悲鳴。
高く、短く、潰れる。
主人公は岩の隙間から外を覗いた。
広い洞窟の生き物たちがざわついている。
虫型魔物が岩陰へ逃げ込む。
天井のコウモリのような魔物が羽を畳んで奥へ移動する。
遠くの小型獣が身を伏せる。
洞窟全体が、何かを恐れている。
何かが来た。
主人公は反射的にさらに奥へ引っ込んだ。
だが、同時に気になった。
今の音は何だ。
この洞窟の魔物の音ではない。
爪でもない。
牙でもない。
骨が折れる音でも、肉が潰れる音でもない。
もっと乾いた、鋭い音。
そして。
声が聞こえた。
「奥に逃げたぞ!」
主人公は固まった。
言葉。
はっきりとした言葉。
意味が分かる。
奥に逃げた。
その言葉の意味が、頭に入ってくる。
主人公は息を止めた。
人間。
そう思った。
なぜ分かったのかは分からない。
だが、声を聞いた瞬間、頭の中にその単語が浮かんだ。
人間。
この洞窟の魔物とは違う存在。
二本の脚で立つ。
道具を使う。
火を使う。
言葉を話す。
知っている。
主人公は、人間を知っている。
だが。
懐かしくなかった。
そのことに、主人公は少し遅れて気づいた。
声を聞いても、胸が震えない。
温かい記憶が浮かばない。
誰かを思い出さない。
家も、街も、家族も、友人も、名前も。
何も浮かばない。
ただ、“人間という種”についての知識だけがある。
まるで、遠くから観察したことがあるだけの生き物みたいに。
「こっち、まだ足跡がある!」
別の声。
若い。
高い。
女かもしれない。
主人公は、声の違いも分かった。
男。
女。
若い。
年を取っている。
そういう区別はできる。
言葉も分かる。
それなのに、自分と結びつかない。
人間だった、という感覚がない。
不自然だ。
だが、今はそれ以上に危険だった。
人間が来ている。
何人も。
主人公は身体を岩の奥へ押し込んだ。
小さく。
さらに小さく。
音を立てるな。
動くな。
見つかるな。
広い洞窟の奥から、明かりが近づいてくる。
光。
主人公のぼやけた視界に、揺れる橙色が映った。
火。
その単語が浮かぶ。
熱。
危険。
燃える。
近づいてはいけない。
主人公の身体が、強く警戒した。
同時に、少し奇妙な感覚があった。
火を知っている。
だが、実際に見た記憶はない。
いや、記憶がないだけで、前に見たことがあるのかもしれない。
分からない。
光が近づく。
足音。
革が岩を踏む音。
金属が擦れる音。
人間の匂い。
それは洞窟の魔物とは違った。
血。
汗。
鉄。
布。
油。
火。
そして、肉。
主人公の腹が、わずかに鳴った。
その瞬間、全身が冷えた。
違う。
あれは食べ物ではない。
そう思う。
思うのに。
匂いの一部を、身体は“肉”として認識していた。
生きた、温かい肉。
主人公は口を固く閉じた。
牙が擦れる。
やめろ。
考えるな。
今は見つからないことだけ考えろ。
人間たちが広い洞窟へ入ってきた。
四人。
主人公は岩の隙間から、それを見ていた。
一人は前に出ている。
大きな盾と短い剣。
重そうな鎧。
一人はその後ろ。
長い槍。
軽い装備。
もう一人は弓を持っている。
最後の一人が火を掲げていた。
杖。
布の服。
魔法使い。
そんな言葉が自然に浮かぶ。
なぜ分かる。
主人公は自分の知識に戸惑った。
だが、四人の動きから目を離せなかった。
彼らは魔物と違う。
ただ餌を探しているのではない。
周囲を確認する。
互いに声をかける。
役割がある。
前に立つ者。
遠くを見る者。
火を持つ者。
背後を警戒する者。
群れ。
いや、仲間。
その言葉が浮かぶ。
仲間。
主人公は、その響きに少し引っかかった。
知っている言葉だ。
だが実感がない。
同族の幼生を食ったばかりの自分には、余計に分からなかった。
同じ姿でも、食う時は食う。
あの幼生も自分を食おうとした。
なら、なぜこの人間たちは互いを食わないのか。
なぜ弱い個体を置いていかないのか。
なぜ一人が前に立ち、他を守るように動くのか。
分からない。
だが、目が離せなかった。
「さっきのケイブハウンド、たぶんこの先だ」
槍を持った男が言った。
「深追いするな。ここ、妙に魔物が多い」
盾の男が返す。
「でも逃がしたら素材がもったいないよ。あの牙、結構いい値段になるし」
弓の女が軽く笑った。
「笑ってる場合じゃない。下層に繋がってるかもしれないんだから」
杖の少女らしき人間が火を掲げながら言う。
主人公は、会話の意味を理解していた。
ケイブハウンド。
牙。
素材。
値段。
下層。
単語が次々と頭に入ってくる。
分かる。
分かるのに、どこか遠い。
まるで、水の向こう側で見ているようだった。
彼らの世界が、理解できるのに、自分のものではない。
主人公は岩陰の奥で、さらに身を縮めた。
火の光が岩の隙間に差し込む。
熱がわずかに届く。
体表がひりつく。
怖い。
火は怖い。
それに、人間も怖い。
あの道具。
あの連携。
あの光。
今の自分が見つかれば、簡単に殺される。
虫型魔物と違う。
同族の幼生と違う。
彼らは弱そうに見えて、弱くない。
盾の男が近くへ歩いてきた。
主人公の隠れている岩陰から、そう遠くない場所。
足が見える。
革の靴。
泥。
擦り傷。
その足首の隙間に、肌が見えた。
柔らかそうな肉。
主人公の口の中に、唾液のようなものが溜まる。
違う。
違う。
違う。
喰えない。
喰うべきじゃない。
いや、そもそも喰えるわけがない。
今飛び出せば、殺される。
そう思うことで、主人公は自分を抑えた。
本能が完全に暴れ出す前に、恐怖が押し留めてくれた。
恐怖。
まだ消えていない。
今だけは、それがありがたかった。
「ん?」
盾の男が立ち止まった。
主人公の身体が凍る。
男が顔をこちらへ向ける。
「どうした?」
槍の男が聞く。
「いや……何か臭わないか」
臭い。
主人公は自分の体を意識した。
腐肉。
血。
同族の体液。
土。
洞窟の汚れ。
全部が混ざっている。
隠れているつもりでも、匂いは消えていない。
やばい。
見つかる。
主人公は反射的に、身体を岩の奥へさらに押し込んだ。
狭い。
皮膚が潰れる。
息が詰まる。
だが動くな。
音を立てるな。
盾の男が近づく。
一歩。
また一歩。
火の光が強くなる。
熱い。
体表が乾いていく。
怖い。
「死骸の臭いじゃない?」
弓の女が言う。
「この洞窟、そこら中にあるし」
「それにしては……」
盾の男が屈み込もうとした。
その時。
洞窟の奥で、獣の唸り声が響いた。
四人が一斉にそちらを向く。
「いた!」
槍の男が叫ぶ。
黒い影が奥の岩陰から飛び出した。
犬に似た魔物。
おそらく、彼らが追っていたケイブハウンド。
片脚を引きずっている。
傷を負っている。
それでも速い。
人間たちは瞬時に動いた。
盾の男が前に出る。
ケイブハウンドが飛びかかる。
盾にぶつかる重い音。
槍が横から突き出される。
魔物が避ける。
弓が鳴る。
矢が肩に刺さる。
杖の少女が何かを唱える。
「灯火よ、矢となれ!」
火が弾けた。
小さな炎の塊が飛び、ケイブハウンドの横腹に当たる。
焼ける臭い。
魔物の悲鳴。
主人公は、岩陰からその光景を見ていた。
圧倒された。
人間は、一匹ずつなら弱そうに見える。
肌は柔らかい。
牙も爪もない。
身体も、自分が見てきた大型魔物よりずっと小さい。
なのに、強い。
道具を使う。
役割を持つ。
声で連携する。
火を飛ばす。
魔物が一匹で暴れるのに対して、人間たちは四つの身体で一つの生き物みたいに動いている。
それが恐ろしかった。
ケイブハウンドは何度も逃げようとした。
だが、弓が進路を潰す。
盾が受ける。
槍が距離を取らせる。
火が追い立てる。
やがて、盾の男が一瞬の隙を作った。
槍が喉を貫く。
ケイブハウンドが倒れた。
血が広がる。
主人公の身体が反応する。
新鮮な血。
温かい肉。
焼けた皮。
濃い匂い。
腹が鳴りそうになって、主人公は必死に身体を丸めた。
今出たら死ぬ。
絶対に死ぬ。
人間たちは魔物の死体を囲んだ。
「よし、仕留めた」
「思ったより奥まで逃げたな」
「血抜きだけして、早めに戻ろう。ここ、嫌な感じがする」
杖の少女が周囲を見回した。
その視線が、主人公の隠れる岩陰の近くを通る。
主人公は動かない。
ただの石になれ。
ただの影になれ。
そう思った。
「嫌な感じって?」
弓の女が聞く。
「分からないけど……何か、見られてる気がする」
主人公の内側が冷たくなる。
見られている。
その言葉が、自分へ向けられたものだと分かった。
主人公は、目を閉じた。
見ない。
見れば、視線が返る。
そんな気がした。
盾の男が魔物の死体へ刃を入れる。
血の匂いが広がる。
耐えがたい。
主人公の口がわずかに開く。
牙が鳴りそうになる。
抑える。
抑えろ。
今は駄目だ。
今は食べる時ではない。
生きるために、食べてはいけない時もある。
その矛盾した判断を、主人公は初めて強く理解した。
喰うことが生存なら、喰わないことも生存だ。
焦って飛びつけば死ぬ。
待て。
我慢しろ。
人間たちは、しばらく魔物の処理をしていた。
牙を抜く。
皮を剥ぐ。
使えそうな部位を切り取る。
主人公はそれを見て、奇妙な感覚を覚えた。
彼らも食うのだろうか。
いや、素材と言っていた。
値段とも言っていた。
つまり、肉や牙を別の価値に変える。
ただ食べるだけではない。
生き物の死体を、道具や金にする。
それは主人公にとって、少し理解しにくい行為だった。
死体は餌。
そう考える自分と違う。
人間は、死体を別のものとして扱う。
それが少し不気味だった。
自分から見ても、人間は不気味だった。
やがて、人間たちは立ち上がった。
「戻るぞ」
「了解」
「ねえ、ほんとにまだ見られてる感じするんだけど」
「気のせいだ。長居しない方がいいのは確かだがな」
四人は来た道を戻り始めた。
火の光が遠ざかる。
足音。
金属音。
声。
それらが少しずつ小さくなっていく。
主人公は、完全に聞こえなくなるまで動かなかった。
長い時間が過ぎた。
洞窟に再び暗さが戻る。
人間の匂いだけが残っていた。
汗。
火。
鉄。
血。
そして、ケイブハウンドの死体の残り。
主人公は岩陰から出なかった。
まだ危険だ。
戻ってくるかもしれない。
他の魔物が寄ってくるかもしれない。
待つ。
ただ待つ。
待って、待って、周囲の気配が落ち着くのを確認する。
ようやく、主人公は岩陰から這い出した。
身体が強張っている。
だが生きている。
見つからなかった。
人間に。
主人公は、ケイブハウンドの死体があった場所へ近づいた。
人間たちが持ち去ったため、残っている部分は少ない。
血。
肉片。
内臓の一部。
骨の欠片。
それでも、十分な餌だった。
主人公は近づき、口をつけた。
温かい。
さっきまで生きていたものの名残。
味が濃い。
焼けた部分は苦い。
だが、それも食べられた。
《獣型魔物の血肉を摂取しました》
《筋力が微量上昇しました》
《嗅覚が微量上昇しました》
《火傷耐性の素質が発現しかけています》
火傷耐性。
主人公は、焼けた肉を見た。
人間の火。
魔法。
あれに触れれば焼ける。
でも、その焼けた肉を食べることで、火への耐性が発現しかけている。
まただ。
危険が力になる。
敵の攻撃すら、自分を変える材料になる。
主人公は、焼けた肉をもう一口食べた。
苦い。
熱はもうない。
だが、身体の中で何かが反応する。
怖い。
でも必要だ。
もし次に火を向けられた時、少しでも耐えられれば生き残れる。
だから食べる。
その判断は、以前よりずっと自然だった。
食事を終えた主人公は、地面に残った人間の足跡を見た。
靴の跡。
四人分。
重いもの。
軽いもの。
歩幅の違い。
主人公はそれを観察した。
人間。
言葉が分かる。
道具を使う。
群れで動く。
火を使う。
魔物を殺し、死体を利用する。
怖い。
だが、興味もある。
なぜだろう。
主人公は、人間をただの敵とは思えなかった。
餌とも思いたくなかった。
だが仲間でもない。
懐かしくもない。
自分と同じでもない。
分からない。
人間という生き物が、分からない。
けれど、理解したいと思った。
その感情は、空腹とは違った。
生存とも少し違う。
ただ、知りたい。
なぜ声をかけ合うのか。
なぜ一人が前に立つのか。
なぜ仲間を置いて逃げないのか。
なぜ、弱い肉体でこの洞窟に入ってこられるのか。
知りたい。
その思考が浮かんだ瞬間、主人公は自分で少し驚いた。
知りたい。
食べたいでも、逃げたいでもなく。
知りたい。
そんな欲求が、まだ自分の中にある。
それに安心した。
少なくとも、自分はまだただの飢えではない。
そう思いたかった。
だが、その安心はすぐに薄れた。
なぜなら、主人公は人間たちが去った方向を見ながら、ほんの一瞬だけ考えてしまったからだ。
あの肉は、どんな味がするのだろう。
主人公はその場で動きを止めた。
今の思考を、すぐに否定する。
違う。
違う。
違う。
人間は駄目だ。
なぜ駄目なのかは分からない。
でも、駄目だと思った。
その感覚だけは、まだ残っている。
主人公は人間たちの足跡から離れた。
追ってはいけない。
今は追えないし、追うべきでもない。
見つかれば死ぬ。
それだけではない。
何かが壊れる。
そう感じた。
主人公は、岩陰へ戻った。
人間の火の匂いが、まだ空気に残っている。
その匂いは怖く、少し眩しく、そして妙に頭から離れなかった。
岩の隙間に身体を押し込み、主人公はじっと外を見た。
洞窟はまた暗くなった。
魔物たちは少しずつ動き始める。
何事もなかったように。
だが、主人公の中には何かが残っていた。
声。
言葉。
火。
仲間。
人間。
それらは、腐肉や毒や虫の殻とは違うものとして、主人公の奥に沈んだ。
食べて得たものではない。
見て、聞いて、残ったもの。
《言語理解が微量安定しました》
頭の奥で声が響いた。
主人公は目を閉じる。
言語理解。
やはり、自分は人間の言葉を理解している。
最初から。
あるいは、最初からその素質があった。
でも、なぜ。
人間だったからか。
そう考えた。
だがすぐに、違和感が返ってくる。
もし人間だったなら、なぜ懐かしくない。
なぜ声を聞いても、帰りたいと思わない。
なぜ人間を見た最初の感想が、“脆そう”だったのか。
答えは出ない。
主人公は、身体を丸めた。
火の光を思い出す。
四人の声を思い出す。
仲間という言葉を思い出す。
そして、同族の幼生の目を思い出す。
同じ姿のものを、自分は食べた。
人間たちは、同じ姿のものを守っていた。
その違いが、頭の中で何度も揺れた。
分からない。
なぜ、そんなことをするのか。
だが。
分からないからこそ、知りたい。
白灰色の幼生は、洞窟の暗闇に身を潜めたまま、遠ざかっていった人間たちの足音を思い出していた。
もう音は聞こえない。
それでも、その声だけはしばらく消えなかった。
「奥に逃げたぞ」
ただそれだけの言葉。
けれど主人公にとって、それは初めて聞いた“魔物ではない音”だった。
喰う音でもない。
逃げる音でもない。
死ぬ音でもない。
意味を持つ音。
誰かが誰かへ伝える音。
主人公は、それを不思議に思った。
少しだけ、怖いと思った。
そして。
ほんの少しだけ。
羨ましいと思った。




