第4話『共食い』
洞窟は静かだった。
いや、正確には違う。
静か“に聞こえるだけ”だった。
広い空間の奥では、常に何かが動いている。
水が流れる音。
壁を這う小さな虫の音。
遠くで肉を裂く音。
低い唸り声。
羽音。
呼吸。
骨が転がる乾いた音。
昨日までなら、それら全てがただ怖かった。
けれど今は違う。
主人公は、それぞれの音に意味があることを少しずつ理解し始めていた。
大きい音は危険。
軽い音は小型。
乾いた音は骨。
粘ついた音は死肉。
羽音は上。
足音は下。
音だけで、そこに何がいるのか少し分かる。
それは、この身体が勝手に学習しているのかもしれない。
あるいは。
自分が、この洞窟という環境へ適応し始めているのかもしれない。
主人公は岩陰の奥で身体を縮めていた。
失った脚の付け根は、昨日よりかなり塞がっている。
完全ではない。
だが、もう体液は漏れていなかった。
代わりに、傷口の周囲が少し硬くなっている。
殻のような感触。
そこに前脚を触れた時、ぞわりとした。
自分の身体が、また変わっている。
《再生能力の素質が微量上昇しました》
昨日、そう聞こえた。
再生。
つまり、この身体は失ったものを取り戻そうとしている。
普通じゃない。
そう思う。
だが、この洞窟に普通などあるのだろうか。
ここでは、死ぬ方が普通だ。
食われる方が自然だ。
なら、生き延びようとするこの身体も、ある意味では正しいのかもしれない。
主人公は外を見た。
光苔が薄暗く洞窟を照らしている。
青とも緑ともつかない鈍い光。
そのおかげで、ぼやけた視界でも輪郭くらいは分かる。
広い空間。
岩。
水。
死骸。
そして、動くもの。
小さな虫型魔物が、岩壁を這っている。
細長い身体。
薄い甲殻。
群れ。
昨日なら、あれを見ても逃げていた。
だが今は違う。
腹が減っている。
それもかなり。
昨日の戦いと移動で体力を使った。
再生にもエネルギーが必要なのだろう。
空腹が早い。
腹の奥がじくじく痛む。
食べろ、と身体が訴えている。
主人公は、じっと虫型魔物たちを見ていた。
数は三匹。
小さい。
だが群れている。
問題はそこだった。
一匹なら。
そう考える。
すると、自分が自然に“狩り”を前提にしていることへ気づいた。
狩る。
食う。
生きる。
その流れが、昨日よりずっと自然に頭へ浮かぶ。
嫌悪感はまだある。
だが、それより先に“効率”を考えている。
どの個体が弱そうか。
どの位置なら逃げやすいか。
どうすれば音を立てずに仕留められるか。
そんなことばかり考えていた。
主人公はゆっくりと岩陰から出た。
壁沿い。
低く。
音を立てずに。
足場を確認しながら進む。
乾いた骨を避ける。
水たまりを跨ぐ。
視線は常に虫型魔物へ。
まだ気づかれていない。
一匹が群れから少し離れた。
主人公の身体が反応する。
今。
そう本能が囁く。
だが、飛び出さない。
待つ。
もっと近く。
もっと確実に。
その感覚が、不思議だった。
焦っていない。
昨日までの自分なら、空腹に負けて突っ込んでいたかもしれない。
だが今は違う。
待てる。
獲物の動きを見ている。
それが、少し怖かった。
虫型魔物が岩陰へ入る。
群れから完全に離れた。
主人公は動いた。
音を殺して接近。
距離を詰める。
虫型魔物が何かを齧っている。
死肉だ。
こちらに気づいていない。
主人公はさらに近づく。
あと少し。
そこで、小石を踏みそうになった。
主人公は咄嗟に脚を止める。
危なかった。
ほんの小さな音でも、獲物は逃げる。
あるいは別の捕食者を呼ぶ。
主人公は呼吸を止めるようにして身体を低くした。
虫型魔物は気づかない。
食事を続けている。
今度こそ。
主人公は飛び出した。
距離は短い。
虫型魔物がこちらを見る。
遅い。
主人公は牙を首元へ突き立てた。
甲殻は薄い。
柔らかい部分に噛みつく。
虫型魔物が暴れた。
脚が主人公の顔を引っ掻く。
痛い。
だが離さない。
噛む。
さらに噛む。
ぶち、と肉が裂けた。
虫型魔物が痙攣する。
主人公は身体を捻り、相手を地面へ押し倒した。
そして、そのまま喉元を食い破る。
黒い体液が口へ流れ込む。
苦い。
だが、濃い。
熱がある。
主人公は夢中で飲み込んだ。
やがて虫型魔物は動かなくなった。
主人公はすぐに周囲を確認した。
音。
気配。
群れ。
まだ来ない。
なら、急いで食べる。
主人公は獲物を岩陰へ引きずった。
重い。
だが運べる。
そこで気づく。
自分は今、“持ち帰ろう”としている。
安全な場所で食べるために。
それがあまりにも自然で、主人公は少し黙った。
だが、手は止まらない。
岩陰へ運び込み、食らいつく。
殻を割る。
関節を裂く。
中の柔らかい部分を食べる。
腹の奥が熱くなる。
傷が疼く。
身体が喜んでいる。
《小型甲殻魔物を捕食しました》
《外皮硬化が微量上昇しました》
《脚力が微量上昇しました》
《捕食経験値を獲得しました》
声が響く。
主人公は咀嚼しながら、それを聞いた。
もう驚きは少ない。
代わりに理解が増えている。
食えば、変わる。
本当に。
食べたものが、自分になる。
虫を食べれば殻が硬くなる。
毒を飲めば耐性がつく。
傷を負えば再生が強くなる。
つまり。
この身体には“決まった形”がない。
そんな気がした。
環境。
餌。
傷。
恐怖。
それらに合わせて変化している。
どこまででも。
主人公はそこで思考を止めた。
考えたくなかった。
もし、本当にそうなら。
自分は最後に何になる。
その答えが怖かった。
食事を終え、主人公は死骸の残りを岩陰へ押し込んだ。
全部は食べない。
残す。
また後で食べるために。
完全に慣れてしまっていた。
餌を隠す行為に。
それが洞窟で生きるために必要だと理解している。
嫌悪はある。
だが、もう止まらない。
その時だった。
かさり。
背後で音がした。
主人公の身体が硬直する。
振り返る。
そこにいたのは。
白い幼生だった。
「……っ」
主人公は動けなかった。
自分と似ている。
いや。
ほとんど同じだった。
白い半透明の身体。
細い脚。
裂けた口。
黒い点のような目。
違うのは、向こうの方が少し小さいことくらい。
幼生は岩陰からこちらを見ていた。
じっと。
動かない。
主人公も動かなかった。
空気が張り詰める。
同種。
その言葉が浮かぶ。
自分と同じ生き物。
だが。
腹が鳴った。
主人公は、自分の身体が反応したことに気づく。
食える。
そう思った。
ぞわり、と全身が粟立つ。
違う。
違うだろ。
これは。
同じだ。
自分と。
なのに。
腹は、虫型魔物を見た時より強く反応していた。
熱い。
濃い。
栄養がある。
そんな感覚が、本能から流れ込んでくる。
気持ち悪い。
主人公は一歩下がった。
幼生も下がる。
互いに警戒している。
逃げるべきだ。
そう思った。
だが、同時に分かっていた。
向こうも同じことを考えている。
食える。
弱い。
腹が減っている。
この洞窟では、それだけで十分だ。
幼生が動いた。
逃げるのではない。
低く身体を構える。
主人公の身体も勝手に構えた。
喉が鳴る。
牙がむき出しになる。
やめろ。
そう思った。
だが。
幼生が飛びかかってきた。
反射だった。
主人公も動く。
ぶつかる。
柔らかい身体同士が絡み合う。
牙。
脚。
引っ掻き。
噛みつき。
ぐちゃぐちゃだった。
幼生の牙が主人公の首元を掠める。
痛み。
主人公は相手の脚へ噛みついた。
ぶち、と千切れる。
幼生が暴れる。
主人公の腹へ脚が突き刺さる。
熱い。
痛い。
それでも離さない。
噛む。
噛む。
噛む。
幼生の黒い目がこちらを見る。
そこに恐怖があった。
自分と同じ。
怖がっている。
生きたがっている。
その事実に、一瞬だけ主人公の動きが止まった。
同じだ。
こいつも。
生きたいだけだ。
そう思った瞬間。
幼生の牙が主人公の顔へ食い込んだ。
激痛。
主人公は反射的に頭を振る。
そして。
相手の喉元へ牙を突き立てた。
柔らかい肉。
裂ける感触。
幼生の身体がびくりと震える。
そのまま、力が抜けた。
静かになる。
主人公はしばらく噛みついたままだった。
動かない。
目の前には、自分と同じもの。
いや。
同じだったもの。
死んでいる。
主人公が殺した。
「……ぁ」
掠れた声が漏れる。
身体が震える。
今までとは違う。
虫でもない。
死肉でもない。
自分と同じ。
同じ形。
同じ牙。
同じ目。
それを食おうとしている自分がいる。
腹が鳴った。
その瞬間、主人公は心底ゾッとした。
食いたい。
今、そう思った。
目の前の死体を。
自分と同じものを。
主人公は後ずさる。
だが、腹はさらに鳴る。
熱い。
喉が渇く。
口の中に唾液のようなものが溜まる。
身体が知っている。
これは栄養になる。
自分に近いほど、効率が良い。
そんな感覚がある。
「……やめろ」
誰に言っているのか分からない。
自分か。
身体か。
本能か。
幼生の死体から、まだ温かい匂いがする。
主人公は必死に目を逸らした。
だが、鼻は逸らせない。
匂いが入ってくる。
熱。
血。
肉。
生命。
それらが混ざっている。
腹が痛いほど空腹を訴える。
さっき食べたばかりなのに。
主人公は壁へ頭を押しつけた。
冷たい。
だが、少し落ち着く。
食うな。
食うな。
これは違う。
これは。
同じだ。
なのに。
腹は容赦なく訴えてくる。
生きるために。
食え。
主人公は震えながら、死体を見た。
幼生の黒い目。
開いたまま。
そこに自分が映っていた。
気持ち悪い。
醜い。
弱い。
食われる側の姿。
主人公はゆっくりと近づいた。
止まれなかった。
牙が死体へ触れる。
まだ柔らかい。
温かい。
その瞬間、身体が勝手に動いた。
噛む。
肉が裂ける。
熱い体液が口に広がる。
濃い。
今まで食べたどの肉より濃い。
主人公は目を見開いた。
美味い。
その感覚に、絶望した。
やめろ。
そう思う。
でも、身体は止まらない。
喰う。
喰う。
喰う。
自分と同じものを。
夢中で。
腹へ押し込む。
熱が広がる。
身体が震える。
力が満ちる。
そして同時に。
心の奥で、何かがひび割れる音がした。
《同種個体を捕食しました》
声が響く。
主人公の身体が止まる。
《適応効率が微量上昇しました》
《捕食効率が上昇しました》
《自己進化性質を確認》
《進化条件の一部を達成しました》
主人公は死体から離れた。
口の周りが黒い体液で汚れている。
吐き気がした。
だが、吐けなかった。
腹は満たされている。
身体が喜んでいる。
それが何より恐ろしかった。
主人公は震えながら、自分の前脚を見た。
灰色が濃くなっている。
傷が塞がっている。
失った脚の付け根が、少し膨らんでいる。
再生が始まっている。
同種を食べたことで。
主人公は岩陰へ下がった。
身体を縮める。
震えが止まらない。
共食い。
その言葉が頭に浮かぶ。
知っている。
それが“よくないこと”だという知識もある。
なのに。
身体は満足している。
生き残った。
強くなった。
そう理解している。
主人公は顔を伏せた。
自分が分からなくなる。
嫌悪しているのは確かだ。
怖がっているのも確かだ。
でも。
食べた時、自分は確かに“美味い”と思った。
それが消えない。
《恐怖耐性が微量上昇しました》
また声が響く。
主人公はゆっくりと目を閉じた。
恐怖。
それにも慣れていく。
死にも。
殺しにも。
共食いにも。
全部。
そうやって、自分は何か別のものになっていくのかもしれない。
暗い岩陰の中。
白灰色の幼生は、小さく身体を丸めた。
その口元には、まだ同族の黒い体液が残っている。
だが主人公は、それをすぐには拭えなかった。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ。
その味を、忘れたくないと思ってしまったから。




