第3話『物音』
眠りは浅かった。
眠っていたのかどうかも、よく分からない。
意識が沈んだと思えば、すぐに浮かぶ。
暗闇の奥で何かが動く音。
遠くで骨が砕ける音。
水が落ちる音。
岩の隙間を何かが擦る音。
そのたびに、白い幼生はびくりと身体を震わせた。
眠っていても、完全には休めない。
この場所では、眠ることすら危険だった。
油断すれば死ぬ。
目を閉じれば、次に開いた時には腹を裂かれているかもしれない。
そう思うと、意識は何度も引き戻された。
だが、それでも身体は休息を求めた。
食べたものを消化するために。
傷を塞ぐために。
変わりかけた身体を馴染ませるために。
主人公は岩の隙間の奥で丸まっていた。
狭い。
湿っている。
臭い。
けれど、安心できる。
大きな魔物は入れない。
見つかりにくい。
死肉の臭いも近くにあるから、自分の匂いが紛れる。
それを理解して、この場所を選んだ。
いや、本当に理解して選んだのかは分からない。
身体が勝手にそうしただけかもしれない。
本能。
その言葉が、もう自分の中で重みを持ち始めていた。
前なら、そんなものを信用しなかったはずだ。
前なら。
そこで思考が止まる。
前とは何だ。
自分には前があるのか。
あるような気がする。
でも思い出せない。
名前も。
顔も。
何を大切にしていたのかも。
なのに、“前なら”という言葉だけは浮かぶ。
まるで、自分がどこかから来た存在であるかのように。
だが、それを示すものは何もない。
あるのはこの身体だけ。
白く、柔らかく、細い脚がいくつもある幼生の身体。
腐肉を食べれば喜び、敵を食べれば熱を得る身体。
主人公は、自分の前脚を見た。
昨日より少し色が濁っている。
白ではない。
灰色が混ざっている。
洞窟の岩肌と同じような、湿った灰色。
《暗所迷彩の素質が発現しかけています》
あの声が言っていた。
本当に変わっている。
隠れるために。
生きるために。
自分の意思とは関係なく。
いや、違う。
見つかりたくないと願った。
生きたいと思った。
だから身体が応えた。
その方が正しいのかもしれない。
「……」
小さく息を吐く。
息の仕方すら分からないのに、そうした気がした。
空腹は、まだ酷くない。
岩の隙間には、隠しておいた肉片がある。
腐った肉。
昨日、自分が前脚で引きずって隠したもの。
見るだけで嫌悪が込み上げる。
だが同時に、安心もする。
食料がある。
そう思える。
その感覚が、何より気持ち悪かった。
主人公はしばらく肉片を見つめていた。
食べるべきか。
今はまだ我慢できる。
だが、動くなら食べておいた方がいい。
体力が必要だ。
傷も完全ではない。
昨日、虫型の魔物に裂かれた背中がまだ痛む。
主人公は肉片へ近づいた。
腐臭が鼻を突く。
いや、鼻があるのかは分からない。
だが、匂いは分かる。
最初ほどの吐き気はない。
それが嫌だった。
嫌だと思う気持ちすら、最初より鈍い。
主人公は肉片を齧った。
冷たい。
腐っている。
だが食べられる。
飲み込むと、身体の奥が少し温かくなる。
それを何度か繰り返した。
必要な分だけ。
全部は食べない。
残す。
また後で食べるために。
そう考えた自分に、もうあまり驚かなかった。
それもまた嫌だった。
慣れている。
自分の変化に。
嫌悪にすら。
食事を終えた主人公は、岩の隙間から外を覗いた。
空洞は静かだった。
大きな魔物の気配はない。
死骸の山は、昨日より少し崩れている。
夜のうちに別の何かが来たのかもしれない。
洞窟に昼夜があるのかは分からないが、少なくとも時間は流れている。
流れている以上、餌は減る。
自分以外にも食べるものがいる。
同じ場所にい続ければ、やがて飢える。
それは分かった。
動くしかない。
主人公はゆっくりと岩陰から出た。
まず、周囲の音を聞く。
水滴。
風。
遠くの低い唸り。
近くには、小さな気配が一つ。
いや、二つ。
岩の裏。
壁の割れ目。
だが、すぐにこちらへ来る様子はない。
主人公は壁沿いに進んだ。
昨日より動きやすい。
脚の扱いに少し慣れた。
細かく動かすのではなく、身体全体を波打たせるようにして進むと速い。
足場の凹凸に前脚を引っかけ、腹を滑らせる。
気持ち悪い動きだと思った。
だが、効率は良い。
この身体にはこの身体の動きがある。
それを理解し始めている。
理解したくないのに。
空洞を抜け、細い通路へ入る。
湿った岩壁が両側から迫る。
広い場所より安心できる。
狭い方が、逃げ道は少ない。
だが、大きな敵も入りにくい。
今の自分にはそちらの方が重要だった。
通路を進むほど、音が変わった。
ぽたり、ぽたりという水音が遠ざかり、代わりにかさかさとした音が増える。
小さな脚が岩を擦る音。
虫。
複数。
主人公は足を止めた。
腹が反応する。
食べられるかもしれない。
だが、昨日の虫型魔物のことを思い出す。
小さいから弱いとは限らない。
水を飲みに来た獲物だと思ったものに襲われた。
油断すれば死ぬ。
主人公は通路の影へ身体を寄せた。
体表の灰色が岩と馴染む。
完全に消えているわけではない。
だが、ただ白く目立っていた昨日よりはマシだ。
音が近づく。
かさ、かさ。
三匹。
いや、四匹。
小さな虫型の魔物が列を作って通路を進んでいる。
大きさは主人公と同じくらい。
昨日のものより小さい。
甲殻も薄そうだ。
群れている。
一匹ならいけるかもしれない。
でも四匹は無理だ。
主人公は動かなかった。
虫型魔物たちは、すぐ近くを通り過ぎる。
一匹の触角が、主人公のすぐ前を掠めた。
息を止める。
匂いを消すように、身体をさらに岩へ押しつける。
見つかるな。
見つかるな。
祈るように思った。
祈る?
その言葉が浮かんだ瞬間、少し妙な感覚があった。
誰に祈るというのか。
助けてくれるものなど、この洞窟にはいない。
それでも、思考は勝手にそう表現した。
虫型魔物たちは通り過ぎていった。
主人公は動かない。
足音が十分に遠ざかるまで待つ。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
生き残った。
戦わずに。
食べずに。
逃げもせずに。
ただ隠れただけで。
それでも生き残った。
主人公の中で、何かが少し形になる。
戦う必要はない。
見つからなければいい。
強いものから逃げる。
数が多いものを避ける。
食べられるものだけを食べる。
それが今の自分の戦い方だ。
弱いなら、弱いなりに生きる。
その考えが、自分を少しだけ落ち着かせた。
だが、次の瞬間。
ごつん。
通路の奥で大きな音が響いた。
主人公の身体が硬直する。
音。
さっきの虫型魔物たちも止まった。
遠くで、かさかさという動きが乱れる。
何かが起きた。
次に聞こえたのは、潰れる音だった。
ぐしゃ。
一匹。
また一匹。
虫型魔物の気配が消えていく。
何かが、あの群れを襲っている。
主人公は反射的に後ずさった。
通路の奥から、重い気配が近づく。
遅い。
だが、確実に近づいてくる。
昨日の餌場の主ほど大きくはない。
けれど、今の主人公よりは遥かに強い。
逃げるべきだ。
主人公は来た道を戻ろうとした。
だが、その時、背後からも音がした。
かさり。
小さな魔物。
別の虫か。
戻れば出会う。
前からは捕食者。
後ろにも気配。
狭い通路。
逃げ場がない。
主人公は一瞬、混乱した。
どうする。
どうする。
どうする。
その時、壁の上に小さな亀裂があることに気づいた。
普通の身体なら入れない。
だが、今の自分なら。
主人公は壁へ這い上がろうとした。
前脚を岩の凹凸に引っかける。
身体を縮める。
腹を持ち上げる。
難しい。
だが、できる。
柔らかい身体が岩へ吸い付くように曲がる。
細い脚が思ったより強く岩を掴む。
一歩。
二歩。
背後の音が近づく。
前方からは、低い呼吸音。
逃げろ。
早く。
主人公は必死に壁を登った。
亀裂に頭を押し込む。
狭い。
皮膚が擦れる。
痛い。
だが入る。
肩のような部分が引っかかる。
肩?
今の身体に肩があるのかは分からない。
とにかく引っかかる。
主人公は身体をひねった。
柔らかい肉が潰れる。
内臓が押される感覚。
吐きそうになる。
でも、抜けた。
ぬるりと亀裂の中へ滑り込む。
直後。
通路の下を、何かが通った。
主人公は亀裂の奥で身体を縮めた。
下を見る。
ぼやけた視界。
巨大な顎。
硬い甲殻。
複数の脚。
ムカデのような魔物だった。
長い身体をくねらせながら、通路を進んでいる。
その口には、さっき見た虫型魔物の一匹が挟まっていた。
ばき、と噛み砕く。
甲殻が割れる音。
肉が潰れる音。
主人公の身体が震える。
もし下にいたら、自分もああなっていた。
ムカデ型の魔物は、通路の中で頭を持ち上げた。
何かを探すように触角を動かす。
主人公は動かなかった。
亀裂の奥。
狭い。
暗い。
自分の灰色がかった体表が岩と同化していることを願う。
音を立てるな。
動くな。
存在するな。
主人公は、自分の鼓動のようなものすら邪魔に感じた。
鼓動があるのかも分からない。
だが、身体の内側が脈打っている。
それが外に聞こえるのではないかと怖くなる。
ムカデ型の魔物はしばらくその場にいた。
そして、何も見つけられなかったのか、ゆっくり通路の奥へ進んでいった。
遠ざかる。
まだ動かない。
さらに遠ざかる。
まだ。
完全に気配が消えるまで、主人公は亀裂の中で固まっていた。
やがて、通路には静寂が戻った。
主人公は力が抜けたように、その場に沈んだ。
助かった。
また。
だが、今回はただの偶然ではなかった。
自分は亀裂を見つけた。
登った。
身体を潰して入り込んだ。
隠れた。
それで生き残った。
逃げるための選択ができた。
主人公は、その事実に小さな満足を覚えた。
自分は弱い。
だが無力ではない。
そう思った。
その時、頭の奥で声が響く。
《壁面移動の素質が発現しかけています》
《狭所潜伏の素質が発現しかけています》
《隠密行動により、気配希薄化が微量上昇しました》
《恐怖耐性が微量上昇しました》
恐怖耐性。
その言葉に、主人公は少し引っかかった。
恐怖。
さっきまで確かに怖かった。
死ぬと思った。
身体が震えた。
それなのに、耐性が上がったという。
怖さに慣れていく。
その意味を理解して、ぞっとする。
怖いものを怖いと感じなくなれば、楽かもしれない。
だが、それは本当に良いことなのか。
恐怖は、自分を守るためにあるのではないか。
怖いから逃げる。
怖いから隠れる。
怖いから生き残れる。
それが薄れていったら、自分はどうなる。
考えようとしたが、すぐにやめた。
今はまだ怖い。
十分に怖い。
なら、それでいい。
主人公は亀裂の中を進んだ。
入ってきた場所から戻るのは危険だ。
ムカデ型の魔物がいるかもしれない。
亀裂は奥へ続いている。
狭く、暗い。
だが、今の自分には進める。
身体を縮め、岩の隙間を這う。
所々で石が皮膚を削る。
痛い。
だが、致命傷ではない。
この体は柔らかく、潰れても戻る。
それが便利で、嫌だった。
亀裂の中には小さな生物がいた。
白い虫。
透明な蛆のようなもの。
それらは主人公に気づくと、逃げようとした。
主人公は一瞬迷った。
食べるか。
小さい。
弱い。
自分より弱い。
追えば捕まえられるかもしれない。
だが、今はやめた。
音を立てたくない。
体力を使いたくない。
それに、腹はまだ耐えられる。
主人公は進むことを選んだ。
それでも、その白い虫たちが逃げる姿を見て、自分と似ていると思った。
弱いものは逃げる。
逃げられなければ食われる。
自分もそうだ。
違いは、ほんの少し運が良かっただけ。
亀裂は次第に広くなった。
やがて、主人公は別の小さな空間に出た。
そこは低い天井の部屋のようだった。
岩の窪み。
薄い水溜まり。
壁には苔のようなものが生えている。
淡く光っている。
緑とも青ともつかない光。
そのおかげで、少しだけ視界が明るい。
主人公は慎重に周囲を確認した。
大きな気配はない。
小さな虫が数匹。
壁を這っている。
危険は少なそうだ。
主人公は水溜まりへ近づいた。
口をつける。
冷たい。
昨日の水より、少し苦い。
だが飲める。
《微弱な鉱毒を摂取しました》
突然の声に、主人公は水から顔を上げた。
毒。
飲んだのか。
一瞬、身体が硬直する。
だがすぐに、続きの声が響く。
《毒性分解能力が発現しかけています》
《微弱な耐性獲得を開始》
身体の奥が熱くなる。
胃がきしむ。
気分が悪い。
だが、死ぬほどではない。
主人公は水溜まりを見た。
毒がある。
だが飲める。
飲めば耐性がつく。
飲まなければ安全。
どちらを選ぶべきか。
普通なら飲まない。
危険だから。
だが、ここでは水が貴重だ。
他の水場が安全とは限らない。
毒に少しでも慣れれば、生存率が上がる。
主人公は迷った。
そして、ほんの少しだけもう一度飲んだ。
すぐに離れる。
胃がさらに熱くなる。
苦しい。
だが耐えられる。
《毒性分解能力が微量上昇しました》
主人公は、じっと水面を見た。
まただ。
危険に触れる。
身体が適応する。
痛い。
苦しい。
でも、生きるための力になる。
なら、やるべきだ。
そう思ってしまった。
ためらいはある。
怖さもある。
でも、その奥で、自分の何かが喜んでいる。
毒でもいい。
腐肉でもいい。
傷でもいい。
逃走でもいい。
全部、自分を変える材料になる。
その感覚が、主人公を不安にさせた。
自分はどこまで変われるのだろう。
どこまで変わってしまうのだろう。
水溜まりに映る自分を見る。
薄暗い光の中で、白い幼生の姿が揺れている。
昨日より少し灰色。
皮膚の一部が硬い。
背中の傷は塞がりかけている。
目の黒い点が増えたようにも見える。
いや、そう見えるだけかもしれない。
主人公は水面から目を逸らした。
見ていると、自分が自分でなくなっていくようだった。
その時。
ぴちょん。
水滴の音とは違う、小さな音がした。
主人公は即座に身体を低くする。
空間の奥。
苔の光が届かない影。
そこに何かがいる。
小さい。
でも、さっきまで気配を感じなかった。
隠れていた。
主人公と同じように。
かさ。
音。
何かが這う。
主人公は壁際に移動しようとした。
だが、その瞬間、影から細い何かが飛んできた。
糸。
主人公は反射的に横へ転がる。
糸は水辺の岩に貼りついた。
粘ついている。
触れれば動けなくなる。
壁の影から現れたのは、蜘蛛のような魔物だった。
小さい。
主人公より少し大きいくらい。
だが、細い脚と膨らんだ腹を持ち、口元には牙がある。
昨日見た糸の主とは違うのかもしれない。
あるいは、その幼体か。
蜘蛛型魔物は、音もなく壁を移動している。
主人公は距離を取る。
勝てるか。
分からない。
甲殻虫とは違う。
糸がある。
動きを止められたら終わる。
逃げ道は、入ってきた亀裂。
だがそこへ向かうには、蜘蛛の横を通る必要がある。
蜘蛛はそれを分かっているように、出口側へ寄った。
賢い。
そう思った。
ただの虫ではない。
狩る側の動きだ。
主人公は身体を低くした。
逃げる。
戦わない。
それが基本。
だが、逃げ道を塞がれている。
なら、隙を作るしかない。
蜘蛛型魔物が糸を飛ばす。
主人公は横へ避ける。
糸が背中を掠めた。
粘つく感覚。
まずい。
少し付着しただけで、動きが鈍る。
主人公は岩に身体を擦りつけて糸を剥がす。
その隙に蜘蛛が近づく。
速い。
主人公は水溜まりへ向かって転がった。
浅い水が跳ねる。
蜘蛛の足が水を嫌ったのか、一瞬止まった。
今。
主人公は水溜まりの縁に前脚を突っ込み、水を跳ね上げた。
蜘蛛の顔へ毒混じりの水がかかる。
蜘蛛が小さく震えた。
怯んだ。
効いたのかは分からない。
だが一瞬の隙ができた。
主人公は出口へ向かう。
しかし、蜘蛛はすぐに追ってくる。
出口直前。
糸が飛ぶ。
今度は避けきれなかった。
後ろ脚に絡みつく。
身体が引かれる。
主人公は転倒した。
蜘蛛が近づく。
牙が開く。
死ぬ。
その瞬間、主人公は自分の後ろ脚に噛みついた。
正確には、糸が絡んだ脚の付け根。
痛み。
激痛。
だが、噛み千切る。
自分の脚を。
細い脚が一本、糸と一緒に切り離される。
身体が軽くなる。
主人公は残った脚で必死に出口へ滑り込んだ。
背後で蜘蛛の牙が空を噛む。
間に合った。
亀裂の中へ逃げ込む。
蜘蛛は追ってこようとしたが、腹が引っかかって入れない。
糸を飛ばしてくる。
主人公はさらに奥へ逃げた。
痛い。
脚が一本なくなった。
痛い。
痛い。
痛い。
でも、生きている。
生きている。
亀裂の奥まで逃げ込み、主人公はそこで倒れた。
切れた脚の付け根から体液が滲む。
白っぽい液体。
血なのか分からない。
痛みで身体が震える。
だが、頭の奥で声がした。
《自切行動を確認》
《損傷部位の封鎖を開始》
《再生能力の素質が発現しかけています》
自切。
再生。
主人公は震えながら、その意味を理解した。
自分の脚を捨てた。
逃げるために。
生きるために。
それによって、また身体が変わろうとしている。
異常だ。
おかしい。
でも。
あのままなら死んでいた。
切るしかなかった。
選んだのは自分だ。
主人公は、岩の隙間の暗闇で小さく呻いた。
痛みに耐えながら、ふと思う。
躊躇しなかった。
ほんの一瞬だった。
脚を失えばどうなるか。
そんなことを考えるより先に、噛み千切っていた。
生きるためなら、自分の身体すら捨てる。
その判断ができた。
そのことが、怖かった。
しかし同時に、誇らしさにも似た感覚があった。
生き残った。
また。
どんな形でも。
どんな方法でも。
主人公は、切れた脚の付け根を岩に押しつけた。
体液が止まる。
痛みはまだある。
だが少しずつ鈍くなっていく。
《痛覚鈍化が微量発現しました》
「……やめろ」
主人公は掠れた声で言った。
痛みまで、薄れるのか。
怖さに慣れ、痛みに慣れ、腐肉に慣れ、毒に慣れる。
そうやって、何も感じなくなっていくのか。
嫌だ。
そう思う。
けれど、痛みが薄れると楽だった。
その楽さを、身体は歓迎していた。
嫌だと思う心と、助かったと思う身体。
どちらが本当の自分なのか、分からなくなる。
亀裂の奥は静かだった。
蜘蛛型魔物は追ってこない。
ただ、出口側でしばらく待っている気配があった。
狩りを諦めていないのかもしれない。
主人公はさらに奥へ進むことにした。
戻れない。
あの蜘蛛がいる。
なら、別の出口を探すしかない。
脚が一本足りない身体で、主人公は這った。
遅い。
バランスが悪い。
だが、進める。
一本失っても動ける。
脚が多い身体でよかった。
そんな感想が浮かび、主人公は少しだけ黙った。
まただ。
嫌っていた身体の特徴を、生きるために評価している。
醜い。
気持ち悪い。
でも役に立つ。
役に立つなら、必要だ。
その考えが、自分の中に根を張り始めている。
亀裂は長く続いた。
途中、細い道がいくつも分かれていた。
主人公は匂いと空気の流れで進む道を選んだ。
風がある方。
腐臭が薄い方。
大きな気配がしない方。
何度か行き止まりにぶつかった。
そのたびに引き返す。
痛みと疲労で意識が霞む。
それでも進む。
止まれば死ぬ。
そう思っていた。
やがて、前方から冷たい空気が流れてきた。
広い空間がある。
主人公は慎重に近づいた。
亀裂の出口から覗く。
そこは、今までより広い洞窟だった。
天井が高い。
遠くで水が流れている。
壁には光る苔が点々と生えている。
そして、何より。
音が多い。
水の流れ。
虫の脚。
小型魔物の鳴き声。
遠くの唸り。
骨の転がる音。
この洞窟は、さっきの狭い通路よりもずっと生き物が多い。
危険だ。
だが、餌も多い。
主人公は亀裂の出口でしばらく考えた。
戻れない。
ここに出るしかない。
なら、まず隠れ場所を探す。
次に水。
次に餌。
その順番。
戦わない。
目立たない。
音を立てない。
主人公はゆっくりと外へ出た。
欠けた脚のせいで動きはぎこちない。
それでも、岩の影を選んで進む。
音を立てないように。
地面の小石を避ける。
乾いた骨を踏まない。
水たまりには直接入らない。
一歩ごとに周囲を確認する。
今までは、ただ怖くて動いていた。
だが今は違う。
何が危険か、少しずつ分かってきている。
音。
匂い。
光。
気配。
これらが命を左右する。
大きな声を出せば死ぬ。
骨を踏めば死ぬ。
水を跳ねれば死ぬ。
死肉に飛びつけば死ぬ。
ほんの小さな音が、捕食者を呼ぶ。
この世界では、音が命を奪う。
主人公はそれを理解した。
その時、近くで小さな魔物が鳴いた。
甲高い声。
直後、天井から何かが落ちた。
ばさり。
翼のある魔物。
コウモリに似ているが、頭が大きく、口が裂けている。
鳴いた小型魔物を一瞬で捕まえ、天井へ戻っていく。
悲鳴は途中で潰れた。
主人公は動かなかった。
ほんの数秒の出来事。
音を立てたものが死んだ。
分かりやすいほどに。
主人公は、自分の喉を意識した。
もう無駄に声を出してはいけない。
痛くても。
怖くても。
驚いても。
音を出したら死ぬ。
それを身体に刻み込む。
《隠密行動の理解が進行しました》
《気配希薄化が微量上昇しました》
《静音移動の素質が発現しかけています》
声が響く。
主人公は、それを静かに受け止めた。
今は嫌悪よりも、必要性が勝っていた。
静かに動けるようになるなら、それでいい。
生きられるなら、それでいい。
広い洞窟の端に、岩が重なった場所があった。
小さな隙間。
主人公はそこへ入った。
狭いが、悪くない。
外が見える。
逃げ道もある。
大きな魔物は入れない。
一時的な巣にできる。
巣。
その言葉が浮かんだ時、少し嫌だった。
だが、否定しなかった。
必要だからだ。
主人公は中で身体を丸めた。
失った脚の付け根は、薄い膜で塞がっていた。
痛みは鈍い。
おそらく、休めばもう少し動けるようになる。
腹も減り始めている。
次は餌を探さなければならない。
だが、焦ってはいけない。
音を立てずに。
見つからずに。
弱いものだけを狙う。
または、死んだものを拾う。
そうやって生きる。
主人公は、岩の隙間から外を見た。
広い洞窟。
無数の音。
無数の気配。
その全てが怖い。
だが、昨日ほどではない。
少しだけ理解できる。
理解できれば、対処できる。
対処できれば、生きられる。
生きられれば、変われる。
また。
どこまでも。
暗い岩陰の中で、白灰色の幼生は静かに身を潜めた。
その姿は、洞窟の影に少しずつ溶け始めている。
弱い。
小さい。
醜い。
だが、まだ生きている。
そして初めて、主人公ははっきりと思った。
生きたい。
ただ死にたくないのではない。
生きたい。
この暗闇の中で。
この醜い身体で。
何を食べてでも。
何を失ってでも。
生きていたい。
その感情は、恐怖よりも強かった。
主人公は、口を閉じる。
音を消す。
気配を殺す。
広い洞窟の奥で、また何かが鳴いた。
悲鳴。
それに続く捕食音。
主人公は動かなかった。
今はまだ、見るだけでいい。
覚えるだけでいい。
この場所で生きるために。
音を聞け。
気配を読め。
不用意に動くな。
そして、喰える時だけ喰え。
それが、幼生の最初の掟だった。




