第2話『死肉』
暗闇は、変わらなかった。
冷たい岩。
湿った空気。
どこか遠くから落ちる水音。
腐った臭い。
血の臭い。
土の臭い。
それらが混ざった空間の中で、白い幼生はしばらく動かなかった。
動けなかった、という方が正しい。
腹は満ちていた。
さっきまで、身体の内側を削り取るように暴れていた飢えは、少しだけ静かになっている。
けれど、それが余計に気持ち悪かった。
満たされている。
腐った肉を食って。
死んだ魔物の腹を裂いて。
黒く濁った血を飲み込んで。
骨の欠片まで噛み砕いて。
それで自分は、今、確かに安堵している。
その事実が嫌だった。
「……」
声を出そうとした。
だが喉から漏れたのは、湿った空気が擦れるような音だけだった。
人間の声ではない。
そもそも、喉という器官が自分にあるのかも分からない。
口の中には、細かい牙が並んでいる。
それも、さっき肉を食った時に気づいた。
一本一本が小さい。
だが数が多い。
柔らかい肉を引っかけ、裂き、削るための歯。
食べるための形。
その形を理解するたびに、自分の中の何かが冷えていく。
俺は。
俺は、何だ。
記憶を探る。
けれど、やはり何もなかった。
名前がない。
顔がない。
住んでいた場所もない。
誰かの声もない。
大切だったものもない。
あるのは、言葉だけ。
肉。
死。
魔物。
洞窟。
痛み。
恐怖。
喰う。
そんな単語だけが、頭の中に浮かぶ。
まるで最初から、知識だけを適当に詰め込まれたみたいだった。
自分の過去がない。
なのに、自分以外のものの名前は分かる。
それが不自然だと感じた。
ただ、その不自然さについて考え続けるだけの余裕はなかった。
腹が、また鳴ったからだ。
「……は?」
満ちたはずだった。
確かに、さっきまでの飢えは消えていた。
それなのに、身体の奥がまだ何かを欲しがっている。
空っぽではない。
でも足りない。
そう訴えている。
おかしい。
さっき食った。
あんなに食った。
気持ち悪くなるくらい食ったはずだ。
なのに。
白い幼生の身体は、勝手に前へ進もうとした。
さっき化け物が持ち去った死体。
その残り。
地面にこびりついた肉片。
岩の隙間に飛び散った内臓の切れ端。
それらの匂いを、身体が拾っている。
いや、匂いだけではない。
どこに肉が残っているのか分かる。
暗くても。
目が悪くても。
鼻に当たる空気の流れ。
湿った岩肌に染み込んだ血。
わずかな腐敗の熱。
そういうものを、身体が勝手に読み取っている。
嫌だ。
そう思った。
それ以上食べたくない。
さっき、もう十分食った。
十分すぎるほど食った。
だが、身体は止まらない。
ぬるり、と前へ進む。
白い腹が岩に擦れる。
細い脚が地面を掴む。
主人公は、残っていた肉片の前で止まった。
小さい。
指先ほどの肉だ。
いや、指先というものが今の自分にないのだから、その例えも妙だった。
黒ずんだ肉片。
腐敗した臭い。
普通なら見向きもしないもの。
それを、主人公はじっと見つめていた。
そして。
食べた。
口が開く。
細かな牙が肉片を挟む。
ぶち、と繊維が切れる。
咀嚼する。
飲み込む。
「……っ」
まただ。
美味い。
嫌悪より先に、快感が来る。
胃の奥が温まる。
身体が喜ぶ。
もっと寄越せと、内側から声がする。
その瞬間、主人公は地面に口を擦りつけた。
血の染みた土を舐める。
岩にこびりついた脂を削る。
骨の欠片を探す。
自分でも分かっていた。
醜い。
これは、醜い。
でも止まらない。
生きるために必要だと、身体が知っている。
知ってしまっている。
どれほど頭が拒んでも、腹は拒まない。
むしろ、頭の方が邪魔だと言われているようだった。
しばらくして、周囲の食べられるものはほとんどなくなった。
それでも主人公は、岩陰に戻って身を丸めた。
腹は、今度こそ少し落ち着いていた。
だが気分は最悪だった。
自分の口の周りが汚れている。
黒い血。
脂。
腐った肉の汁。
それが皮膚に張りついている。
拭いたい。
そう思った。
しかし手はない。
あるのは、細い脚と柔らかい身体だけ。
前脚らしきものを口元へ持っていこうとする。
うまく動かない。
何本もある脚のうち、どれがどれなのか分からない。
動かしたつもりの脚とは別の脚が動く。
身体がひっくり返りそうになる。
主人公は小さく呻いた。
情けない。
それ以前に、気持ち悪い。
自分の身体なのに、自分の命令が通らない。
いや、命令は通っているのかもしれない。
ただ、自分が身体の使い方を知らないだけだ。
生まれたばかり。
その言葉が頭に浮かんだ。
生まれたばかり?
俺が?
では、さっきまでの俺は何だった。
前は何だった。
本当に、前などあるのか。
考える。
考えようとする。
けれど答えは出ない。
暗闇の中で、ただ湿った空気が流れている。
その時、また頭の奥で声が響いた。
《腐敗耐性が安定しました》
びくり、と身体が跳ねる。
まただ。
さっきも聞いた。
感情のない、硬い声。
誰かが喋っているわけではない。
耳から聞こえている感じでもない。
頭の内側に、直接意味だけが落ちてくる。
《腐肉適性が微量上昇しました》
《消化能力が微量上昇しました》
《毒性分解能力が発現しかけています》
「……なん、だ」
言葉にしようとして、うまく発音できなかった。
なんだ。
これは。
ステータス。
そんな言葉が浮かぶ。
なぜ浮かぶのかは分からない。
だが、そういう仕組みがあるのだと、曖昧に理解している。
何かをすると、何かを得る。
食べる。
耐える。
逃げる。
そうすれば、自分の中に何かが増える。
変わる。
身体が変質する。
主人公は、腹のあたりに意識を向けた。
さっきより熱い。
腐った肉を食べたのに、気分が悪くない。
いや、精神的には最悪だ。
けれど身体は苦しんでいない。
普通なら、腐ったものを食べれば腹を壊す。
毒に当たる。
吐く。
そういう知識がある。
なのに、自分の身体はそれに適応し始めている。
腐ったものを食べるために。
死肉を喰らうために。
「……やめろ」
小さく呟く。
誰に向けた言葉なのか分からない。
身体にか。
この声にか。
それとも、自分自身にか。
分からなかった。
だが、その言葉にはほとんど力がなかった。
やめろと言いながら、次に腹が減ればまた食う。
それが分かってしまう。
だから余計に苦しかった。
主人公は、岩陰から外を見た。
暗い洞窟。
ぼやけた視界。
遠くは見えない。
だが、匂いと振動で周囲の気配は分かる。
さっきの大きな化け物は、もう近くにいない。
だが、別の何かが動いている。
小さい。
複数。
岩の隙間。
壁の裏。
地面の割れ目。
この洞窟は、静かに見えて生きていた。
いや、生き物で満ちていた。
自分も、その一つ。
そう考えた瞬間、妙な実感が湧いた。
ここでは、食うか食われるかだ。
それだけ。
死体も餌。
弱いものも餌。
隠れられないものから死ぬ。
その単純さが恐ろしい。
けれど同時に、妙に分かりやすくもあった。
余計なものがない。
強いものが生きる。
弱いものは喰われる。
それだけ。
主人公は、ゆっくりと岩陰から出た。
腹は満ちている。
だが、いつまた減るか分からない。
ここに残っていても、次の餌はない。
さっきのような大きな捕食者が戻ってくるかもしれない。
なら、動くしかない。
生きるために。
そう思った瞬間、自分の中の迷いが少しだけ薄くなった。
生きる。
そのために動く。
理由は、それだけでよかった。
白い幼生は、洞窟の壁沿いに進み始めた。
できるだけ音を立てないように。
身体を低く。
岩の影を選ぶ。
自分でも驚くほど、そういう動きが自然にできた。
隠れる。
逃げる。
気配を消す。
それが今の自分にできる唯一の武器だった。
しばらく進むと、空気が少し変わった。
湿り気が強い。
水の匂いがする。
主人公はそちらへ進んだ。
喉が渇いている感覚はあまりない。
だが、口の中の腐臭を消したかった。
体についた血を落としたかった。
何より、自分の姿を確認したかった。
怖かった。
見たくない気持ちもあった。
それでも、知らないままではいられなかった。
自分が何になっているのか。
それを見なければ、何も始まらない気がした。
水音は近づいていく。
ぽたり。
ぽたり。
岩の天井から落ちる水滴。
やがて、浅い水溜まりが見えた。
洞窟の窪みに溜まった小さな水。
濁っている。
だが、表面はわずかに光を反射していた。
光?
主人公は顔を上げる。
遠く、洞窟の割れ目からわずかな光が差していた。
外の光なのか、光る鉱石なのかは分からない。
けれど、その薄い光のおかげで水面が見える。
主人公は、ゆっくりと水辺へ近づいた。
途中で止まる。
心臓があるのか分からない。
それでも、胸の奥が締めつけられる感覚があった。
見たくない。
そう思った。
だが見なければならない。
主人公は水面を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、白い虫だった。
細長い身体。
柔らかそうな半透明の皮膚。
内側に薄く見える臓器の影。
短く多い脚。
頭部らしき部分には、黒い点のような目がいくつかある。
口は横に裂け、細かな牙が密集していた。
血と肉片で汚れている。
幼虫。
あるいは蛆。
あるいは、そのどちらにも似ているが、どちらでもない何か。
主人公は、しばらくそれを見つめていた。
理解が追いつかなかった。
これが自分。
この気持ち悪い生き物が。
この死肉を喰らう小さな魔物が。
俺。
「……」
声が出なかった。
いや、出せなかった。
水面の中の白い虫が、同じように口を震わせる。
醜い。
弱そうだ。
簡単に潰せそうだ。
誰かに見つかれば、石で叩かれて終わる。
そう思った。
自分に対して。
その瞬間、激しい感情が込み上げた。
絶望。
嫌悪。
怒り。
恐怖。
それらが混ざり合い、ぐちゃぐちゃになる。
何で。
何でこんな姿なんだ。
何でここにいる。
何で記憶がない。
何で。
何で。
水面に映る自分を前脚で叩いた。
ぱしゃり、と水が跳ねる。
映像が崩れる。
だが、消えない。
波紋が収まれば、また白い幼生がそこにいる。
主人公は何度も水を叩いた。
叩く。
叩く。
叩く。
しかし、何も変わらない。
自分の姿は消えない。
現実は消えない。
やがて疲れて、水辺に身体を伏せた。
冷たい水が腹に触れる。
汚れた口元が少し洗われる。
血が水に溶け、ゆっくりと広がっていく。
その赤黒い色を、主人公はぼんやり見つめた。
涙は出なかった。
泣きたい、という感覚はある。
だが涙が出る器官がないのか、単に泣き方を知らないのか分からない。
ただ、身体は震えていた。
しばらくして、また頭の奥で声がした。
《水分を摂取しました》
《体表の汚染物質が一部除去されました》
《微弱な回復を確認》
主人公は、ぼんやりとその声を聞いた。
便利だな。
ふと、そんな感想が浮かんだ。
その自分に、また嫌悪した。
便利?
今、自分の状況を便利だと思ったのか。
こんな化け物になって。
腐肉を食って。
洞窟の底で震えているのに。
それでも、水を飲めば回復する。
腐肉を食えば耐性を得る。
食って、生きて、変わる。
その仕組みを少しずつ理解している自分がいる。
嫌だ。
でも、使える。
使わなければ死ぬ。
死にたくない。
その一つの欲求が、すべてを押し潰していく。
主人公は水を飲んだ。
恐る恐るではない。
今度は、自分から。
冷たい水が身体の奥へ入っていく。
腐った味が少し薄れる。
口元の血も落ちる。
少しだけ、楽になった。
その時、背後で小さな音がした。
かさり。
主人公の身体が固まる。
反射的に岩の影へ滑り込もうとする。
しかし、音の主は大きくなかった。
小さい。
自分と同じくらいか、少し大きい程度。
匂いがある。
生きた肉の匂い。
主人公の腹が、反応した。
さっきまで満ちていたはずなのに、奥がきゅうと鳴る。
食える。
その感覚が先に来た。
ぞっとした。
しかし身体は既に低く構えていた。
水辺の反対側。
岩の隙間から、小さな生物が出てきた。
丸い身体。
甲殻。
細い脚。
洞窟に住む虫のような魔物。
それは水を飲みに来たらしい。
警戒しながら、ゆっくりと水辺へ近づいている。
主人公は動かなかった。
隠れている。
相手はこちらに気づいていない。
今なら。
襲える。
そう思った瞬間、頭が冷えた。
違う。
襲う?
俺が?
生きている相手を?
さっき食べたのは死体だった。
もう死んでいた。
だからまだ、言い訳ができた。
でもこれは違う。
生きている。
動いている。
水を飲もうとしている。
それを殺して食べるのか。
「……」
主人公は動けなかった。
虫型の魔物は水を飲み始める。
無防備。
近い。
今ならいける。
喰える。
腹が疼く。
牙がむずむずする。
身体が前へ出ようとする。
だが、主人公は必死に抑えた。
まだ。
まだ駄目だ。
何が駄目なのか分からない。
だが、ここで襲えば何かが決定的に変わる気がした。
死肉を食べた時よりも、もっと。
その迷いが命取りになった。
虫型の魔物が、ぴたりと動きを止めた。
触角のようなものがこちらを向く。
気づかれた。
次の瞬間、虫型の魔物が跳ねた。
逃げるのではなく、こちらへ向かってきた。
速い。
主人公は咄嗟に横へ転がる。
虫の鋭い顎が、さっきまでいた場所を抉った。
岩に傷がつく。
こいつも捕食者だ。
水を飲みに来た獲物ではない。
獲物を探していた。
主人公は岩陰から飛び出す。
逃げようとした。
しかし虫型の魔物は追ってくる。
速い。
自分よりずっと速い。
逃げきれない。
背中に衝撃。
皮膚が裂ける。
痛みが走る。
「ぎ、っ」
変な声が出た。
痛い。
熱い。
死ぬ。
そう思った瞬間、主人公の中で何かが切り替わった。
考えるより先に、身体が反転する。
虫型の魔物がもう一度噛みつこうとした。
その顎の隙間に、主人公は自分の頭を押し込むように突っ込んだ。
怖い。
だが、逃げるより早かった。
細かな牙が、虫の柔らかい関節部分に食い込む。
噛む。
噛む。
噛む。
虫型の魔物が暴れる。
甲殻は硬い。
だが関節は柔らかい。
そこに牙を立てる。
黒っぽい体液が口に広がった。
まずい。
苦い。
でも、栄養の味がした。
主人公は離さなかった。
虫が暴れる。
前脚で引っ掻かれる。
皮膚が裂ける。
痛い。
それでも離さない。
離せば殺される。
なら喰うしかない。
喰う。
喰う。
喰う。
やがて虫型の魔物の動きが鈍った。
脚が痙攣する。
顎が開いたまま止まる。
主人公はそれでも噛み続けた。
完全に動かなくなるまで。
静かになった。
水音だけが響く。
主人公は、虫型の魔物の死体に噛みついたまま固まっていた。
勝った。
生き残った。
その実感が、遅れてやってくる。
同時に、口の中の味を理解する。
生きた肉。
さっきまで動いていた肉。
自分を殺そうとしたもの。
それを、自分が殺して食っている。
主人公は牙を離した。
後ずさる。
身体が震える。
「……違う」
何が違うのか分からない。
でも言った。
「違う」
そう言いながら、目の前の死体を見た。
黒い体液が流れている。
まだ温かい。
その匂いが、信じられないほど強く主人公を引きつけた。
傷が痛む。
体力が減っている。
食べなければ。
回復するには食べるしかない。
その理屈が、あまりにも自然に頭へ入ってくる。
主人公はしばらく抵抗した。
そして、負けた。
虫型の魔物へ近づく。
甲殻の割れ目から肉を引きずり出す。
食べる。
苦い。
だが、悪くない。
腐肉よりずっと濃い。
熱がある。
生命の味がある。
そう感じた瞬間、主人公はまた自分に怯えた。
生命の味。
なんだ、その感想は。
けれど止まらない。
傷が少しずつ塞がっていく感覚がある。
腹の奥が熱くなる。
身体に力が戻る。
食えば治る。
食えば強くなる。
その単純な仕組みが、あまりにも強い誘惑だった。
《小型甲殻魔物を捕食しました》
《甲殻耐性を微量獲得しました》
《外皮硬化の素質が発現しかけています》
《捕食経験値を獲得しました》
主人公は食べながら、その声を聞いた。
もう驚きは少なかった。
代わりに、理解が増えている。
喰ったものから、何かを得る。
腐肉から腐敗への耐性。
虫から硬さへの素質。
つまり。
食えば、変われる。
どんな姿にも。
どんな性質にも。
その考えが浮かんだ瞬間、主人公の身体の奥がぞわりと震えた。
恐怖ではない。
興奮に似ていた。
そして、すぐに嫌悪した。
何を喜んでいる。
こんな状況で。
だが本能は答えた。
生きられるからだ。
生きる方法を見つけたからだ。
主人公は虫型の魔物を食べ尽くした。
殻の硬い部分は食べられなかった。
だが、関節の肉と体液はほとんど飲み込んだ。
水辺には、死体の残骸と黒い液体だけが残った。
主人公はまた水面を見た。
そこに映る白い幼生は、さっきより少し違って見えた。
皮膚の一部が薄く硬化している。
裂かれた傷が閉じかけている。
口元の牙が、少しだけ鋭くなった気がする。
変わっている。
食べたことで。
戦ったことで。
ほんのわずかに。
主人公は水面から目を逸らした。
見たくなかった。
でも、完全に目を逸らすこともできなかった。
変われば生きられる。
その事実を知ってしまったから。
しばらくして、主人公は水辺を離れた。
同じ場所に長くいるのは危険だ。
血の匂いがある。
死体の匂いがある。
他の捕食者が来る。
それくらいは分かる。
主人公はまた壁沿いに進んだ。
今度は、少しだけ動きやすかった。
脚の扱いにも慣れてきた。
岩の隙間を抜ける時、身体が自然に縮む。
狭い場所にも入れる。
柔らかい身体は気持ち悪い。
だが、逃げるには役に立つ。
そう考えた自分に、また複雑な気分になる。
気持ち悪い身体。
でも便利な身体。
弱い身体。
でも適応できる身体。
嫌いなのに、頼るしかない。
その矛盾を抱えたまま、主人公は進んだ。
途中、壁に白いものが付着しているのを見つけた。
糸。
蜘蛛の巣のようなもの。
だが太い。
粘ついている。
主人公は近づきすぎないようにした。
危険だ。
理由は分からない。
ただ、触れればまずいと本能が告げている。
その近くには、干からびた小型魔物の死骸がぶら下がっていた。
中身を吸われている。
主人公はそれを見上げる。
食べられるだろうか。
一瞬、そう考えた。
だがすぐにやめた。
ここには、それを食べたものがいる。
いや、殺したものがいる。
今の自分では危険だ。
主人公は遠回りした。
食えるものがあっても、すぐには飛びつかない。
それを学んだ。
餌の近くには、餌を狙うものがいる。
そして自分もまた、誰かにとって餌だ。
洞窟の奥へ進むにつれ、空気が重くなっていく。
死臭が濃い。
主人公にとって、それは不快であり、同時に道標だった。
死体がある。
食べ物がある。
けれど危険もある。
しばらく進むと、広い空洞に出た。
そこには、いくつもの死骸が散らばっていた。
小型魔物。
虫。
獣。
骨。
腐った肉。
何かの食べ残し。
主人公は息を呑んだ。
いや、呼吸の仕方すら曖昧な身体で、それでも息を呑んだ気がした。
餌場。
そう思った。
同時に、処刑場、とも思った。
ここで何かが食事をしている。
なら、その何かが戻ってくる可能性がある。
逃げるべきだ。
そう頭では分かる。
だが。
腹が鳴った。
さっき食べたばかりなのに。
目の前の死肉の量を見た瞬間、身体が歓喜していた。
主人公は迷った。
危険だ。
でも食べたい。
食べれば強くなる。
強くなれば、生き残れる。
食べなければ、次の戦いで死ぬかもしれない。
迷いは、長く続かなかった。
主人公は空洞の端にある小さな死骸へ近づいた。
できるだけ大きな死体には近づかない。
中央にも行かない。
逃げ道を確認する。
岩の隙間。
横穴。
影。
それらを頭に入れながら、死骸へ口をつけた。
腐っている。
だが、最初ほどの抵抗はなかった。
そのことに気づいた瞬間、食べる動きが止まった。
抵抗が、薄れている。
さっきまでは、死肉を前にして吐き気のような嫌悪があった。
今も嫌ではある。
だが、食べられる。
我慢できる。
いや、我慢というほどでもない。
慣れている。
たった数回食べただけで。
《腐肉適性が微量上昇しました》
まるで答え合わせのように、声が響いた。
主人公は死骸から口を離した。
嫌な予感がした。
このまま食べ続ければ、いつか何も感じなくなるのではないか。
腐った肉も。
生きた獲物も。
同族も。
人間も。
何でも同じ“餌”に見えるようになるのではないか。
人間。
その単語が浮かんだ時、妙な違和感があった。
人間を知っている。
言葉も知っている。
形も知っている気がする。
だが、そこに懐かしさはない。
自分が人間だったという感覚もない。
ただ、知識として知っている。
それだけ。
主人公はしばらく考えた。
そして、考えるのをやめた。
今はそんなことより、食べる方が大事だった。
食べなければ死ぬ。
その現実の前で、疑問はあまりにも弱い。
主人公は再び死肉を喰らった。
今度は、ゆっくりと。
周囲を警戒しながら。
少し食べては止まり、音を聞く。
また少し食べては、匂いを確認する。
そうして、必要な分だけを腹に入れる。
全部は食べない。
食べきれないし、長居は危険だ。
その判断ができる自分に、少しだけ安心した。
まだ考えられる。
まだ自分は、ただの獣ではない。
そう思いたかった。
だが、食べ終えた後、主人公は自分が食べ残しを岩陰に隠そうとしていることに気づいた。
前脚で肉片を引きずる。
岩の隙間へ押し込む。
後で食べるために。
自然な動作だった。
あまりにも自然すぎた。
主人公は固まった。
今、何をした。
保存?
餌を隠した?
誰に教わったわけでもない。
考えてやったわけでもない。
身体が勝手にやった。
本能だ。
その言葉が浮かぶ。
主人公は、岩の隙間に隠した肉片を見つめた。
嫌だ。
そう思う。
だが同時に、正しいとも思う。
次に腹が減った時、これがあれば生きられる。
なら、正しい。
生きるためには。
主人公はゆっくりと後ずさった。
自分の中で、何かが少しずつずれている。
最初からずれていたのかもしれない。
それが食べるたびに、表へ出てきているだけなのかもしれない。
分からない。
分からないが、怖かった。
その時、空洞の奥で低い音がした。
ぐるる、と地鳴りのような唸り。
主人公の身体が一瞬で凍りつく。
戻ってきた。
この餌場の主。
考えるより先に、身体が動いた。
岩陰へ走る。
いや、走るというより這う。
腹を擦り、脚を必死に動かし、影へ滑り込む。
匂いを消すために、腐肉の汁がついた身体を土へ擦りつける。
息を殺す。
動かない。
空洞へ、巨大な影が入ってきた。
さっき死体を持ち去った化け物とは違う。
もっと低い。
重い。
無数の脚を持っている。
視界が悪くて全体は分からない。
だが、圧倒的に大きい。
その魔物は空洞の中央へ進み、死骸の山に顔を突っ込んだ。
肉を漁る音。
骨を砕く音。
主人公は岩陰で縮こまった。
体が震えている。
今見つかれば終わり。
戦うどころではない。
虫型の魔物とは違う。
あれは無理だ。
絶対に勝てない。
だから隠れる。
ただ隠れる。
主人公は、自分の白い身体が目立つことを意識した。
暗闇ではまだいい。
だが、光があればすぐに見つかる。
白い。
柔らかい。
弱い。
この身体は、洞窟の底ではあまりにも頼りない。
その時、頭の奥で小さく声がした。
《環境適応の兆候を確認》
《暗所迷彩の素質が発現しかけています》
主人公は目を見開いた。
発現しかけている。
まただ。
身体が変わろうとしている。
隠れるために。
生きるために。
適応しようとしている。
化け物が近づく。
主人公は必死に岩肌へ身体を押しつけた。
白い皮膚が、じわりと冷える。
湿った土と腐肉の汚れが体表に馴染む。
自分の匂いが薄れていく感覚。
皮膚の色が、少し濁っていくような感覚。
怖い。
自分の身体が勝手に変わっていく。
でも、今はありがたかった。
見つかりたくない。
生きたい。
その願いに、身体が応えている。
巨大な魔物の頭が、すぐ近くを通った。
臭い。
熱い。
呼吸だけで岩の隙間の空気が震える。
主人公は動かなかった。
長い時間が過ぎる。
やがて、魔物は食事を終えたのか、空洞の奥へ戻っていった。
足音が遠ざかる。
気配が薄れる。
完全に消えるまで、主人公は動かなかった。
やっと身体の力を抜いた時、全身が痺れていた。
生き残った。
また。
それだけで、腹の奥から熱いものが込み上げる。
嬉しい。
生きているのが嬉しい。
その感情は、とても単純だった。
そして、少しだけ怖いほど強かった。
主人公は岩陰から出た。
空洞には、まだ死骸が残っている。
巨大な魔物が食い散らかした後の残り。
普通なら、惨めな残飯。
だが今の主人公にとっては十分だった。
近づく。
食べる。
さっきより迷いは少なかった。
危険が去った後の餌。
食べなければ損だ。
そう考えた。
その思考が嫌で、しかし否定できなかった。
主人公は食べた。
腐った肉。
砕けた骨の髄。
虫の殻の内側。
食べられるものを選び、飲み込み、消化する。
その間にも、頭の奥の声は何度か響いた。
《腐敗耐性が微量上昇しました》
《消化能力が微量上昇しました》
《隠密行動により、気配希薄化の素質が発現しかけています》
《捕食経験値を獲得しました》
気配希薄化。
暗所迷彩。
腐敗耐性。
消化能力。
一つ一つが、生き残るための道具に思えた。
道具が増える。
できることが増える。
生存率が上がる。
主人公は、それを理解していた。
そして同時に、別のことも理解していた。
この声に従い続ければ、自分は変わり続ける。
食べるものに合わせて。
逃げる場所に合わせて。
敵に合わせて。
環境に合わせて。
どんどん。
どんどん。
元の形が何だったのか分からなくなるくらいに。
そもそも、元の形などあったのかも分からないが。
食事を終えた主人公は、岩陰に戻った。
今度は、水辺ではなく、さっき餌を隠した岩の隙間の近く。
そこが少しだけ安全に思えた。
狭い。
大きな魔物は入れない。
匂いも死臭に紛れている。
しばらく休むには悪くない。
主人公はそこへ身体を押し込んだ。
狭い隙間に、柔らかい身体がぴったりと収まる。
気持ち悪いほど都合が良かった。
自分の身体が、隠れるために作られているみたいだった。
いや。
作られている?
誰に。
何のために。
その疑問が浮かんだ瞬間、頭の奥が少し痛んだ。
何かを思い出しそうな感覚。
白い場所。
光。
巨大な影。
見下ろす目。
だが、次の瞬間には消えた。
記憶なのか、妄想なのかも分からない。
主人公はしばらく動かなかった。
疲れていた。
食べて、逃げて、戦って、また食べた。
たったそれだけ。
それだけなのに、意識が沈みそうだった。
眠るのは危険だ。
そう思った。
だが、身体は休息を求めている。
傷も完全には癒えていない。
消化も必要だ。
眠らなければ、次に動けない。
主人公は、岩の隙間の奥へさらに潜った。
身体を丸める。
脚を畳む。
頭を腹側へ寄せる。
まるで幼虫そのものの姿勢。
いや、実際に幼虫なのだから当然か。
その事実に少しだけ笑いそうになった。
笑い方は分からなかった。
代わりに、小さく息のような音が漏れただけだった。
眠る直前。
主人公は、最後に一つだけ考えた。
自分は何者なのか。
答えは出ない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
食えば、生きられる。
生きれば、変われる。
変われば、また生きられる。
その繰り返し。
その先に何があるのかは分からない。
だが今は、それしかない。
暗闇の奥。
岩の隙間で、白い幼生は静かに目を閉じた。
その体表は、ほんのわずかに灰色を帯び始めていた。
腐肉を喰らい。
敵を喰らい。
洞窟の闇に馴染むために。
少しずつ。
少しずつ。
その身体は、変わり始めていた。




