第1話『飢餓』
暗い。
いや、暗いという認識すら曖昧だった。
上下も分からない。
音もない。
冷たい。
湿っている。
ただ、それだけがある。
――腹が減っている。
その感覚だけが、異様なほど鮮明だった。
喉が焼ける。
身体の内側が空洞になっていく。
何かを入れろと、本能が叫んでいる。
「……」
声を出そうとして、違和感を覚えた。
音が変だ。
いや、そもそも口の形がおかしい。
舌の感覚も奇妙だった。
ぬるりとした細長い何かが動いている感触。
自分のものなのに、自分のものではないような感覚。
身体を動かそうとする。
ぐちゃり。
湿った音。
次の瞬間、身体が転がった。
視界が回る。
そこでようやく、自分の視界がまともではないことに気づく。
ぼやけている。
輪郭が曖昧だ。
色もよく分からない。
ただ、近くにあるものの温度や匂いだけは、妙にはっきり分かった。
腐臭。
湿った岩。
土。
カビ。
そして。
肉。
その瞬間、身体が勝手に動いた。
飢え。
それだけだった。
腹が減っている。
喰わなければならない。
理由もなく、確信していた。
ぬるりと身体を引きずる。
岩肌を擦る感触。
柔らかい身体。
妙に多い脚。
その感覚に、一瞬だけ嫌悪が走る。
気持ち悪い。
自分が。
だが、それ以上に空腹が強かった。
進む。
暗闇の先。
そこに“肉”がある。
腐っている。
死んでいる。
それでも、肉だ。
近づくにつれ、臭いが強くなる。
鼻が曲がりそうなほど酷い臭気。
なのに。
美味そうだ、と感じてしまった。
「……っ」
身体が止まる。
何だ、この感覚は。
おかしい。
腐っているんだぞ。
こんなものを食べたいと思うなんて。
だが。
腹が減っている。
身体の奥底から、喰えと命令される。
そこで初めて、自分の“手”を見た。
手ではなかった。
白い。
半透明。
細い脚。
先端が鉤爪のように尖っている。
ぶるりと身体が震えた。
なんだこれ。
なんなんだ、自分は。
記憶を探る。
名前。
顔。
場所。
何もない。
真っ白だ。
ただ、不思議と“知識”だけはあった。
岩。
肉。
腐敗。
痛み。
死。
そういう言葉だけが頭に浮かぶ。
なのに、自分が誰だったのかは分からない。
そもそも。
本当に“誰か”だったのかすら。
「……ぁ」
また変な声が漏れる。
喉がおかしい。
というより、人間の喉じゃない。
そこでようやく、自分が人間ではないことを理解した。
理解した瞬間、得体の知れない恐怖が込み上げる。
逃げたい。
でも、どこへ。
何から。
分からない。
腹が減っている。
それだけが現実だった。
腐肉へ近づく。
そこに転がっていたのは、小型の魔物だった。
犬にも似ている。
だが牙が異様に長い。
腹が裂け、内臓が飛び出している。
死んでから時間が経っているのだろう。
肉が黒ずんでいた。
普通なら吐き気を催す光景。
なのに。
美味そうだ。
喉が鳴る。
いや、喉ではない。
身体全体が飢えている。
「……やめろ」
自分に言い聞かせる。
何を?
分からない。
だが、これは駄目だと思った。
こんなものを食べてはいけない。
なぜ?
分からない。
なのに、そう感じた。
その時。
ぐうぅぅ、と腹が鳴った。
瞬間。
理性みたいなものが吹き飛ぶ。
身体が勝手に動いた。
牙が肉へ食い込む。
ぶちり、と腐った皮膚が裂ける。
鼻を刺す臭気。
ぬめった肉。
腐敗した液体。
最悪だった。
なのに。
美味い。
「……ぁ……」
夢中で喰らっていた。
肉を裂く。
飲み込む。
骨を噛み砕く。
腹へ流し込む。
空腹が満たされていく。
それが、とてつもなく気持ち良かった。
そこでようやく、主人公は気づく。
自分が“食っている”ことに。
「……っ!?」
慌てて離れる。
身体が震える。
口の周りに黒い血が付いていた。
吐きそうになる。
だが、吐けない。
むしろ。
もっと欲しい。
その欲求に、自分でゾッとした。
理解できない。
なぜこんなものを。
なぜ美味いと感じる。
だが、身体は正直だった。
空腹が消えている。
満たされている。
幸福感すらある。
その事実が恐ろしかった。
その時だった。
頭の奥で、何かが響く。
《腐敗耐性を獲得しました》
「……?」
何だ、今の。
機械的な声。
感情のない音。
だが、それを不思議と理解できた。
《腐肉適性を獲得しました》
《消化能力が僅かに向上しました》
意味が分からない。
理解できない。
なのに。
身体が少しだけ変わった感覚がある。
胃が熱い。
皮膚が痒い。
脚の感覚が変化している。
「っ、ぁ……」
苦しい。
だが同時に。
心地いい。
ぞわぞわと身体の内側が蠢く。
生きている。
強くなっている。
本能がそう理解していた。
そこで、不意に気配を感じた。
主人公の身体が硬直する。
何かいる。
暗闇の奥。
視界は悪い。
だが、分かる。
自分より大きい。
強い。
捕食者だ。
本能が警鐘を鳴らす。
逃げろ。
今すぐ。
主人公は反射的に岩陰へ潜り込んだ。
息を潜める。
身体を縮める。
気配を消す。
なぜそんなことが分かるのか、自分でも分からない。
だが、そうしなければ死ぬと理解していた。
ぬちゃり。
重い音が近づく。
何かが腐肉へ近づいた。
低い唸り声。
巨大な影。
ぼやけた視界でも分かる。
化け物だった。
四足。
異様に長い腕。
裂けた口。
複数の目。
主人公が食っていた死体へ喰らいつく。
肉を噛み千切る音。
骨が砕ける音。
そのたびに、主人公の身体が震えた。
怖い。
――怖い?
そこで主人公は、自分が“恐怖”を感じていることに気づく。
その感情だけは、妙に理解できた。
死にたくない。
その感情が、身体の全てを支配していた。
化け物がこちらを向く。
主人公は動かなかった。
動けなかった。
見つかったら終わる。
理解していた。
時間が異様に長く感じる。
だが。
化け物は主人公に気づかなかった。
やがて死体を咥え、暗闇の奥へ消えていく。
静寂。
主人公はしばらく動けなかった。
身体が震えている。
怖かった。
本当に。
だが同時に。
生き残った。
その事実に、安心している自分がいた。
「……生き、る」
初めて、はっきり言葉を発した。
掠れた。
歪んだ。
人間の声ではなかった。
それでも。
確かに、自分の意思だった。
生きたい。
その感情だけが、異様なほど鮮明だった。
暗闇の中。
白い幼生は、静かに蠢く。
まるで。
何かへ進化する途中の“胎児”のように。




