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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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第77話『初食』

人間の血の匂いは、消えなかった。


二体目が何度も舐め取った。


黒岩粉を擦りつけた。


腐肉獣の皮で覆った。


水脈の湿った風へ晒した。


それでも消えなかった。


腐肉個体の口元。


外皮の隙間。


前脚の爪。


魔力網に絡まれた傷の周り。


そこに、薄く残っている。


人間の血。


少年の血。


濃くはない。


量も少ない。


ただ腕を噛んだだけ。


命を奪ったわけではない。


それでも、巣に入った瞬間から、その匂いは別のものだった。


黒鼠の血とは違う。


腐肉獣の血とも違う。


山羊の血とも違う。


ただの餌の匂いではない。


記憶を呼ぶ。


声を呼ぶ。


人間の火を呼ぶ。


レオンの最後を呼ぶ。


グレイは、巣の中央で腐肉個体を見ていた。


腐肉個体は震えている。


魔力網の跡がまだ痛むのか、時々脚を引き寄せる。


だが、震えの理由は痛みだけではない。


外の光。


人間の叫び。


鐘。


少年の血。


アレンの剣。


魔導兵の網。


グレイに咥えられて逃げた時の恐怖。


その全てが、腐肉個体の中で混ざっている。


そして、その奥に別のものがある。


空腹。


まだ消えていない。


人間の血を舐めたあとでも。


人間を噛んだあとでも。


むしろ、前より鋭くなっている。


グレイは、それが怖かった。


腐肉個体は、人間を食べたわけではない。


噛んだだけだ。


だが、血の味を知った。


ほんの少し。


それだけで十分だったのかもしれない。


グレイ自身が、最初に人間の血を舐めた時のことを思い出す。


レオン。


死にかけた人間。


血。


記憶。


言葉。


グレイという名。


あれからすべてが変わった。


人間の血は、ただの栄養ではなかった。


中に何かがある。


記憶。


感情。


言葉。


それを、グレイは知っている。


そして今、腐肉個体もその入口へ触れた。


触れてしまった。


二体目が、腐肉個体のそばで低く鳴く。


「グレ……」


不安。


近づくな。


それは腐肉個体へ向けているのか、他の幼生たちへ向けているのか分からない。


新生幼生たちは、腐肉個体の周りを気にしている。


人間の血の匂い。


珍しい匂い。


強い匂い。


それに引かれている。


グレイは低く鳴いた。


「グ」


新生幼生たちは止まる。


だが、完全には離れない。


空腹がある。


好奇心がある。


腐肉個体の匂いを覚えようとしている。


グレイは、それを見て理解した。


一体が知ったことは、群れに広がる。


血の味も。


恐怖も。


人間の柔らかさも。


少年の叫びも。


全部。


二体目が必死に隠そうとしている。


だが、隠しきれない。


匂いは、もう巣にある。


その日、巣はほとんど動かなかった。


人間が外側で大きく動いているのは分かっていた。


村の鐘。


怒鳴り声。


人を運ぶ足音。


泣き声。


エリシアの白い魔力の気配。


ラグドの硬い声。


アレンの沈黙。


防衛局の兵たちの怒り。


それらが、遠くから地下へ流れ込んでくる。


灰巣眷属が人間の子供を傷つけた。


その事実は、人間側を完全に変えた。


グレイには言葉は届かない。


だが、圧が変わったことは分かった。


もう、ただ待っていない。


もう、ただ迷っていない。


人間は、決め始めている。


殺すために。


守るために。


灰の巣を終わらせるために。


それでも、巣の中では空腹が消えない。


人間が怒っても、幼生は腹を空かせる。


村が泣いても、新生幼生は肉を求める。


その単純さが、グレイを苦しめた。


外で何が起きても、内側の空腹は変わらない。


生きるために食べる。


それだけ。


だが、その“それだけ”が、すべてを壊していく。


夜が来た。


地上の空気が冷える。


村の周囲には人間が多い。


火も多い。


金属も多い。


近づけない。


グレイは地上へ行くつもりはなかった。


行ってはいけない。


今行けば、戦いになる。


だが、巣の中の空腹はまた強くなっていた。


山羊の骨は空。


白い虫では足りない。


黒鼠も少ない。


地下の小型魔物は、人間の封鎖と巣の圧で移動してしまった。


残っているのは、危険な大型か、食えない虫か、黒雨に濡れた腐った肉だけ。


それでも探すしかない。


グレイは一体目を連れて、地下側へ出ることにした。


地上ではなく、下層深部。


腐肉獣の縦穴近く。


危険だが、人間は少ない。


グレイは二体目へ感覚を送る。


守れ。


声を出すな。


誰も外へ出すな。


二体目は強く返した。


「グレ」


分かった。


不安。


特に腐肉個体へ向けた不安。


グレイも腐肉個体を見た。


まだ弱っている。


外へ出る余裕はないはずだ。


そう思った。


その判断が、甘かった。


グレイと一体目が外へ出た後、巣の中は二体目が守っていた。


新生幼生たちは奥。


前の四体のうち三体は近く。


腐肉個体だけが、少し離れていた。


人間の血の匂いを残したまま、黒岩の陰で丸まっている。


二体目は何度もそちらを見た。


動くな。


近づくな。


そう感覚を送る。


腐肉個体は返さない。


眠っているように見える。


だが、その内側では空腹が動いていた。


グレイの制止は強い。


二体目の警戒も強い。


だが、巣は広がっている。


隙間がある。


白い虫が通る細道。


幼生だけが抜けられる裂け目。


人間の崩落で生まれた新しい割れ目。


二体目は、その全てを一度に見られない。


新生幼生が鳴いた。


きゅ。


二体目がそちらへ向く。


黒雨避けの皮の端がずれて、黒い水が溢れそうになっていた。


二体目は急いで直す。


その間に、腐肉個体が動いた。


静かに。


骨を鳴らさず。


以前、外へ出た時より慎重だった。


学んでいる。


入口ではない。


横の細道。


新生幼生用の細い逃げ道。


そこを抜ける。


二体目が気づいた時には、腐肉個体はもう外縁へ出ていた。


「グレ!」


二体目が強く鳴く。


巣の中が揺れる。


グレイへも、その不安は遠く届いた。


だが、グレイは縦穴側にいた。


すぐには戻れない。


一体目が反応する。


腐肉個体。


外。


危険。


グレイは引き返そうとした。


その時、縦穴の奥から腐肉獣の気配が上がった。


前方に危険。


後方に危険。


また選択。


グレイは一瞬迷った。


その一瞬の間に、腐肉個体はさらに進んだ。


腐肉個体は、地上へ向かったわけではなかった。


最初は。


人間の血の匂いに引かれ、外縁部へ向かった。


昨日、捕獲網に絡まった場所。


そこには、人間の匂いが濃く残っている。


魔力網の切れ端。


少年の血が落ちた土。


エリシアの治療術の残り香。


アレンの足跡。


ラグドの汗。


防衛局の兵の怒り。


腐肉個体は、その匂いを嗅いだ。


怖い。


でも、引かれる。


肉ではない。


血。


記憶に近いもの。


グレイがレオンの血へ引き寄せられたように。


腐肉個体も、人間の血へ引き寄せられていた。


外縁部の先に、負傷者を運ぶ時に落とされた布があった。


血がついている。


少年のものではない。


昨日の混乱で負傷した魔導兵の血。


量は少ない。


乾きかけ。


それでも、人間の血だった。


腐肉個体はそれに噛みついた。


布ごと。


噛む。


舐める。


飲む。


その瞬間、腐肉個体の中で何かが弾けた。


味。


血。


熱。


そして、微かな断片。


声。


怒鳴り声。


恐怖。


火を放とうとした記憶。


落石の痛み。


鎧の重さ。


仲間の名前。


断片。


本物の記憶ではない。


薄い。


壊れた欠片。


だが、腐肉個体にとっては初めての感覚だった。


餌が、声を持っている。


血が、映像を持っている。


人間は、食べると何かが入ってくる。


その感覚。


腐肉個体は震えた。


恐怖ではない。


空腹が、別の形へ変わる。


もっと。


もっと欲しい。


血。


人間の血。


そこへ、人間が来た。


監視兵だった。


若い男ではない。


中年の兵。


単独ではないはずだったが、見回りの途中で少しだけ列から離れていた。


理由は簡単だった。


血のついた布を回収し忘れていたことに気づいた。


魔物を引き寄せるかもしれない。


だから取りに来た。


彼は慎重だった。


一人で奥へ行くなという命令も分かっていた。


だが、ほんの数歩の距離だと思った。


布が見えている。


拾って戻るだけ。


それだけ。


その布のそばに、黒灰色の小さな個体がいた。


監視兵は固まった。


腐肉個体も固まった。


距離は近い。


近すぎる。


兵は槍へ手を伸ばす。


腐肉個体は血のついた布を咥えたまま、低く鳴いた。


「こないで」


兵の動きが一瞬止まる。


報告で聞いていた。


人間の声を使う。


分かっていた。


分かっていたのに、止まった。


目の前の小さな魔物が、人間の声で言ったから。


こないで。


その一瞬。


腐肉個体は逃げればよかった。


しかし、逃げなかった。


兵の手から、血の匂いがした。


昨日の傷。


手の甲に小さな切り傷がある。


乾きかけている。


それでも人間の血。


腐肉個体の空腹が、一気に跳ねた。


飛びかかる。


兵は槍を構えようとする。


間に合わない。


腐肉個体は手首へ噛みついた。


兵が叫ぶ。


「うあっ!」


腐肉個体は離れない。


血が口へ入る。


熱い。


濃い。


布の血とは違う。


生きている血。


そこに、強い断片が流れ込む。


妻。


子。


村ではない別の町。


兵士としての訓練。


灰の巣主への恐怖。


昨日の戦闘。


火を使うなというラグドの声。


仲間の負傷。


死にたくない。


痛い。


離せ。


その全部が、ぐちゃぐちゃに腐肉個体へ流れた。


腐肉個体は混乱した。


でも、離れなかった。


もっと。


その感覚が勝った。


兵は必死に振りほどこうとする。


槍が落ちる。


腐肉個体の身体を殴る。


一撃。


二撃。


腐肉個体は小さい。


吹き飛ばされそうになる。


だが、歯だけは離さない。


兵は叫ぶ。


仲間を呼ぶ。


その声が外へ響く。


グレイは、遠くでそれを聞いた。


人間の叫び。


腐肉個体の興奮。


血の味。


グレイの身体が凍る。


まずい。


何が起きているのか、完全に分からなくても分かった。


腐肉個体が人間に噛みついている。


そして。


食べている。


グレイは縦穴側の腐肉獣を無視して走った。


一体目も続く。


二体目の不安が巣から流れる。


新生幼生たちもざわつく。


全てが一つの方向へ引っ張られる。


人間の血。


腐肉個体の初食。


外縁部に戻った時、兵は倒れていた。


まだ生きている。


だが、腕は深く噛まれ、血が流れている。


腐肉個体は、その腕にしがみついていた。


口元を赤く染めて。


ただ血を舐めているのではない。


肉を裂こうとしている。


小さい牙で。


必死に。


食べようとしている。


グレイの中で、時間が止まった。


人間を食べている。


眷属が。


自分ではない。


グレイが止められなかった。


兵の目がグレイを見た。


恐怖。


痛み。


助けを求める目。


レオンの記憶が激しく揺れた。


やめろ。


そう思った。


グレイは腐肉個体へ飛びつき、兵から引き剥がした。


腐肉個体は暴れた。


「グ……!」


抵抗。


まだ食べたい。


血。


もっと。


その感覚が流れ込む。


グレイは強く噛みつかないようにしながら、腐肉個体を咥えて引き離す。


兵は腕を押さえて呻く。


足音が近づく。


人間たちが来る。


ラグド。


アレン。


ロウ。


エリシア。


魔導兵。


今度は逃げるしかない。


だが、兵が目の前に倒れている。


殺せる。


食べられる。


腐肉個体の感覚が、グレイにも流れ込む。


人間の血の味。


記憶の欠片。


熱。


強い栄養。


その誘惑。


グレイは一瞬、動けなかった。


自分も知っている。


人間を食べると変わる。


血が記憶を運ぶ。


肉が力を運ぶ。


あの時のレオンが、今の自分を作った。


では、群れが人間を食べればどうなる。


もっと賢くなるのか。


もっと言葉を覚えるのか。


もっと人間を理解するのか。


そして、もっと人間から遠ざかるのか。


足音が近い。


アレンの声。


「負傷者!」


エリシアの叫び。


「まだ生きています!」


ロウの矢が構えられる音。


ラグドの怒声。


「撃つな! 巣主がいる!」


グレイは腐肉個体を咥えたまま、兵から離れた。


兵を殺さない。


食べない。


だが、もう遅い。


腐肉個体は食べた。


少しだけ。


血と肉を。


人間を。


アレンがグレイを見た。


その視線は、今までと違った。


迷いはあった。


だが、その奥に怒りがある。


倒れた兵。


血。


腐肉個体の赤い口。


それを見れば、もう当然だった。


「……退け」


アレンの声は低かった。


グレイへ向けたのか。


仲間へ向けたのか。


自分へ向けたのか。


分からない。


グレイは退いた。


一体目も近くに来ていたが、戦わせない。


腐肉個体を咥え、暗闇へ下がる。


ロウの矢が飛んだ。


警告ではない。


殺すため。


グレイの脚を掠める。


痛み。


だが、止まらない。


ラグドが追うなと叫ぶ。


エリシアは兵の治療へ飛びつく。


アレンは追いたそうに一歩出たが、兵の声で止まった。


「助け……」


その声。


助けて。


人間の本当の声。


二体目の模倣ではない。


死にかけた人間の声。


アレンは振り返った。


そして、グレイは逃げた。


巣へ戻る道で、腐肉個体は暴れなくなった。


口元には人間の血。


目に当たる感覚器は、ぼんやりしている。


何かを見ている。


人間の記憶の欠片を。


グレイは、それを感じた。


兵の家族。


訓練。


恐怖。


痛み。


命乞い。


それらが腐肉個体の中で砕けたまま漂っている。


腐肉個体は小さい。


それを受け止めきれない。


巣へ戻ると、二体目が強く反応した。


人間の血。


肉。


記憶。


それが腐肉個体から溢れている。


新生幼生たちも寄ろうとする。


グレイは強く鳴いた。


「グル!」


全員が止まる。


二体目も震える。


一体目も。


グレイは腐肉個体を巣の中央から離れた場所へ置いた。


隔離。


そんな言葉を知らない。


だが、そうした。


近づけてはいけない。


この匂いを広げてはいけない。


それでも、もう遅い。


巣全体が知ってしまった。


人間は食べられる。


人間の血は強い。


人間の中には記憶がある。


腐肉個体がそれを持ち帰った。


初食。


眷属による、人間の初めての捕食。


ほんの少し。


致命傷ではないかもしれない。


兵は生きるかもしれない。


だが、意味は変わらない。


灰の巣は、人間を食べた。


グレイは、黒岩へ爪を立てた。


止められなかった。


自分は止められなかった。


レオンを食べたのは自分だ。


あの時は、生きるためだった。


死にかけた人間だった。


言い訳のように、そう思っていた。


だが今、眷属が生きている人間に噛みつき、血を飲み、肉を裂こうとした。


グレイは止めた。


でも、遅かった。


巣の中で、腐肉個体が小さく呟いた。


「たす……け……」


それは兵の記憶から拾ったのか。


二体目の声を真似たのか。


自分の恐怖なのか。


分からない。


グレイは動けなかった。


その声に、巣の中の幼生たちが反応する。


人間の声。


人間の血。


それが結びついてしまう。


グレイは、低く自分の名を呼ぼうとした。


「グ……」


声が掠れた。


一体目が返す。


「グレ」


二体目も、震えながら。


「グレ」


新生幼生たちも、ばらばらに。


「グ……」


「グ……」


その中で、腐肉個体だけが、もう一度違う声を出した。


「たすけて」


巣の中が静まり返った。


黒雨の音だけが落ちる。


ぽた。


ぽた。


グレイは理解した。


もう、完全に越えた。


家畜ではない。


罠の獣ではない。


人間の血。


人間の肉。


人間の声。


それが、眷属の中に入った。


外では、負傷した兵が運ばれているだろう。


人間たちは報告するだろう。


灰巣眷属が人間を捕食したと。


たとえ兵が生きていても、そう言うだろう。


そして、その報告が届けば。


討伐に反対する声は、もうほとんど残らない。


グレイは、腐肉個体を見た。


小さな群れの一体。


守るべきもの。


だが、人間を食べたもの。


その二つは、同時に存在している。


どうすればいい。


殺すか。


隔離するか。


守るか。


分からない。


何も分からない。


ただ、巣はまだ空腹だった。


その事実が一番恐ろしかった。


人間を食べても。


血を持ち帰っても。


最悪の線を越えても。


空腹は、まだ終わらない。


グレイは目を閉じた。


黒雨が落ちる。


人間の血の匂いが巣に残る。


腐肉個体が震える。


遠くで、人間たちの怒りが大きくなっていく。


そして、灰の巣は静かに次の形へ進もうとしていた。


望んでいなくても。


止められなくても。


生きるために。


その言葉だけを理由にして。

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