第78話『宣告』
兵は、生きていた。
それが最初に広がった情報だった。
灰巣眷属に襲われた。
腕を噛まれた。
肉を裂かれた。
だが、生きている。
エリシアの治療が間に合った。
アレンたちが到着した時、まだ息があった。
大量出血こそしたものの、腕を失うほどではない。
命も助かった。
だから、人間側の中には「まだ最悪ではない」と言う者もいた。
しかし、その希望は長く続かなかった。
問題は、傷ではなかった。
兵が、治療中に繰り返し叫んだからだ。
「食われた」
何度も。
震えながら。
「食われたんだ」
その声は、周囲の兵士たちへ広がった。
村人へ広がった。
防衛局へ広がった。
そして、夜になる頃には、話は少し形を変えていた。
灰の巣が人間を食った。
その言葉へ。
事実としては、まだ違う。
兵は生きている。
肉も少し裂かれただけだ。
完全な捕食ではない。
だが、人間はそうは受け取らない。
噛みついた。
血を啜った。
肉を裂こうとした。
それで十分だった。
境界は消えた。
村では、子供たちが外へ出なくなった。
夜だけではない。
昼も。
荷車を運ぶ時ですら、大人が二人以上つく。
家畜は中央へ集められた。
窓は閉じられた。
火は絶やさない。
森へ近づくな。
地下へ近づくな。
灰色を見たら逃げろ。
子供たちは、もう灰の巣を“地下の化け物”とは呼ばなかった。
人食い。
そう呼び始めた。
それが、グレイには遠くからでも分かった。
人間側の感情が変わった。
恐怖だけではない。
怒りが混ざった。
憎しみが混ざった。
殺意が混ざった。
人間は、守るためだけではなく、終わらせるために動き始めている。
地下の巣でも、空気は変わっていた。
腐肉個体は、巣の奥に隔離されていた。
完全に閉じ込めているわけではない。
そんな場所は、この狭い巣にはない。
だが、グレイと二体目が、他の幼生を近づけないようにしていた。
腐肉個体の周囲には、人間の血の匂いが濃く残っている。
乾いている。
それでも残る。
腐肉個体自身も、変わっていた。
以前より静かだ。
以前より目が動く。
以前より、人間の気配へ敏感に反応する。
そして時々、ぼそりと音を漏らす。
「いたい」
「やだ」
「たすけて」
それが、自分の感情なのか。
兵の記憶なのか。
グレイには分からない。
ただ、他の幼生たちが、その声を聞いてしまう。
一体目は、腐肉個体を見るたびに唸るようになった。
敵意ではない。
警戒。
群れの一部なのに、違う匂いが強すぎる。
二体目は逆だった。
怖がりながらも、腐肉個体から離れない。
まるで、新生幼生を守る時のように。
壊れかけたものを、支えようとしている。
グレイは、その両方を感じていた。
一体目の正しさ。
二体目の弱さ。
どちらも理解できる。
だから苦しい。
腐肉個体を殺せば、危険は減るかもしれない。
だが、群れはまた一つ壊れる。
生かせば、人間の血の匂いと記憶が広がる。
そのどちらも、もう“正しい”とは思えなかった。
新生幼生たちは、空腹で鳴いている。
人間の血の匂いに反応する個体もいる。
白い虫へ飛びつく個体もいる。
骨を噛む個体もいる。
群れは成長している。
止まらない。
グレイが迷っている間にも。
その頃、人間側では“宣告”が下されようとしていた。
臨時拠点の会議室。
空気は重かった。
誰も疲れを隠していない。
ラグドは目の下が深い。
アレンは眠っていない。
エリシアは、治療で魔力を削りすぎて手が震えている。
ロウは無言で矢を削っている。
セヴィルは、机の上の記録を何度も読み返していた。
ミーリアは、本を閉じたまま黙っている。
防衛局の責任者が、正式な書状を机へ置いた。
赤い封蝋。
王都防衛局本部。
それだけで、全員が嫌な予感を覚える。
男は短く言った。
「中央判断が下りました」
誰も口を挟まない。
封が切られる。
紙が開かれる。
読み上げられた内容は、短かった。
《地下水脈灰巣群体を、局地災害級脅威として認定する》
エリシアが小さく息を呑む。
防衛局の男は続けた。
《対象は人間への直接捕食行動を確認。群体拡大および知能適応の危険性あり。よって、即時殲滅作戦を許可する》
殲滅。
その言葉が、部屋に落ちた。
誰もすぐには動かなかった。
ラグドだけが、ゆっくり目を閉じた。
来たか。
そんな顔だった。
防衛局の男はさらに続ける。
《必要に応じ、封鎖区域ごとの焼却、崩落誘導、毒煙投入を認可する》
エリシアが顔を上げた。
「毒煙……?」
「はい」
「そんなことしたら、幼体も……!」
「当然です」
男の声は冷たかった。
「人間を食った時点で、あれは討伐対象です」
エリシアは言葉を失う。
セヴィルが静かに口を開いた。
「異議を申し立てます」
防衛局の男が睨む。
「理由は」
「対象は通常魔物ではありません。過剰刺激による変異可能性がある。毒煙や焼却は、最悪の場合、群体暴走を引き起こします」
「すでに暴走している」
「いいえ。まだ局所的です」
セヴィルの声は鋭かった。
「現時点では、群れは防衛反応を中心に動いている。全面刺激を与えれば、地上側へ一斉侵出する可能性が高い」
「なら、どうしろと?」
「誘導案を優先すべきです」
ラグドが低く言う。
「戦場を選ぶ」
防衛局の男は不満を隠さない。
「悠長すぎる」
「逆だ」
ラグドが睨み返した。
「焦った結果が、今の状況だろうが」
男は机を叩く。
「兵が食われたんだぞ!」
ラグドも怒鳴り返した。
「死んでねぇ!」
空気が止まる。
ラグドは、拳を握ったまま続けた。
「俺は、あいつらを庇ってるんじゃねぇ。だが、今ここで感情だけで突っ込めば、もっと死ぬ」
アレンが、静かに口を開いた。
「……俺も、誘導案に賛成です」
防衛局の男が驚く。
「勇者認定者が?」
「はい」
アレンの目は疲れていた。
だが、揺れていない。
「灰の巣は危険です。止めなきゃいけない。でも、あの巣は普通じゃない。追い込めば、もっと悪くなる」
男は言う。
「人間が食われたのですよ」
アレンは、少しだけ黙った。
兵の顔を思い出したのだろう。
血。
叫び。
恐怖。
そして、腐肉個体の赤い口。
それでも、彼は言った。
「だからこそです」
部屋が静かになる。
アレンは続けた。
「もし、あれが本当に神造失敗種みたいなものなら、怒りだけで動けば、取り返しがつかなくなる」
防衛局の男は、しばらく何も言わなかった。
やがて、冷たく言う。
「中央命令は変わりません。殲滅許可は下りた」
それは、宣告だった。
灰の巣は、正式に“滅ぼすべき災害”として扱われ始めた。
もう、地下の異変ではない。
研究対象でもない。
局地災害。
人食いの群れ。
人間社会が、そう定義した。
会議後。
エリシアは一人で外へ出た。
夜風が冷たい。
村の方角には、まだ火が多い。
人々は眠れていない。
彼女も眠れない。
毒煙。
焼却。
殲滅。
その言葉が頭から離れない。
幼生たちの姿を、彼女は見てしまっている。
完全に化け物として見切れない。
だから苦しい。
足音。
振り返ると、アレンだった。
「休まないのか」
エリシアが聞く。
アレンは首を振った。
「無理だ」
彼は隣へ立った。
しばらく、二人とも喋らない。
遠くで鐘が鳴る。
見張り交代。
その音。
エリシアが小さく言う。
「アレンは……どう思ってるの」
彼はすぐ答えなかった。
やがて、低く言った。
「分からない」
正直な声だった。
「止めなきゃいけない。でも、全部殺せばいいとも思えない」
エリシアは頷く。
同じだった。
アレンは続ける。
「でも、もう人間が食われた。ここから先、誰かが死ねば、中央はもっと強く動く」
「うん」
「だから、その前に終わらせるしかない」
終わらせる。
優しい言葉に聞こえる。
だが、その意味は重い。
エリシアは唇を噛んだ。
「……救えないのかな」
アレンは答えられなかった。
その沈黙が、答えに近かった。
地下では、グレイが腐肉個体を見ていた。
腐肉個体は眠っていない。
目が動いている。
時々、身体を震わせる。
人間の記憶の欠片が流れている。
兵の子供。
食卓。
訓練。
血。
恐怖。
全部が壊れたまま混ざっている。
グレイは、それを感じていた。
人間を食べれば、人間に近づく。
だが、人間にはなれない。
むしろ、もっと遠ざかる。
腐肉個体は、その途中にいる。
新生幼生の一体が、遠くから小さく声を漏らした。
「たす……」
二体目がすぐに止める。
「グ!」
だが、もう広がっている。
声。
血。
記憶。
人間。
全部。
グレイは、自分の身体の奥が冷えていくのを感じた。
もし、このまま群れが増えれば。
全員が人間を食べれば。
もっと言葉を覚えるのか。
もっと人間を理解するのか。
そして、その果てに何になる。
人間でも魔物でもない何か。
神話の失敗作。
その言葉が、グレイには分からないまま、それでも巣の中に近づいていた。
その時。
遠くから、地面の振動が来た。
重い。
多い。
人間。
しかも、昨日までと違う。
大量の荷物。
薬品。
火薬。
鉄。
崩落用の杭。
そして、毒。
グレイは顔を上げた。
人間が来る。
大きく。
本気で。
巣を終わらせるために。
一体目も反応する。
低く唸る。
二体目は、新生幼生たちを集め始める。
腐肉個体は、ぼんやりした目で天井を見る。
そして、小さく呟いた。
「こわい」
それは、兵の感情か。
腐肉個体自身の感情か。
もう、境目が分からなかった。
グレイは低く鳴いた。
「グレイ」
返事は乱れている。
一体目は戦意。
「グレ」
二体目は不安。
「グレ……」
新生幼生たちは空腹。
「グ……」
腐肉個体だけが、違う声を混ぜる。
「やだ……」
グレイは目を閉じた。
人間は宣告を下した。
灰の巣を滅ぼすと。
なら、自分たちはどうする。
逃げるか。
戦うか。
広がるか。
分からない。
ただ一つだけ確かなのは。
もう、人間も灰の巣も、後戻りできない場所まで来てしまったということだった。
黒雨が落ちる。
ぽた。
ぽた。
その音の下で、十六の命が震えている。
終わりが近づいているのを、全員が本能で感じ始めていた。




