第76話『空腹』
空腹は、声より先に広がった。
最初は小さかった。
新生幼生の腹の奥で鳴る、かすかな震え。
それが一体。
また一体。
八つの小さな飢えが、巣の底から泡のように浮かび上がる。
前の四体も、それを受けて落ち着かなくなる。
二体目は、残っている肉の匂いを何度も嗅ぐ。
一体目は入口を見る。
グレイは中央で、その全部を感じていた。
空腹。
空腹。
空腹。
ただ腹が減った、ではない。
群れが大きくなりすぎたことで、空腹そのものが巣の中の空気になっている。
黒雨の湿りより濃く。
腐肉の匂いより強く。
骨の音より深く。
それは巣全体を圧迫していた。
山羊の肉は、もう骨に近い部分しか残っていない。
硬い筋。
乾いた皮。
幼生が食べられる柔らかい部分はない。
白い虫は食える。
だが、弱い。
腹は満たせない。
黒鼠を狩れば少しは持つ。
だが、数が足りない。
骨喰い虫の中身も同じ。
以前なら十分だった餌が、今は足りない。
十六の命。
それを支えるには、巣は小さすぎた。
グレイは、新生幼生たちを見た。
八体。
まだ柔らかく、小さく、頼りない。
だが、目に当たる感覚器が開き始めている。
脚も動く。
匂いに反応する。
そして、声を真似る。
「グ……」
「グ……」
時々、そう鳴く。
中には、人間の声に似た音を喉の奥で転がす個体もいる。
二体目がそのたびに震える。
グレイも止める。
だが、止めても根は残る。
巣にはもう、音が多すぎる。
グレイ。
助けて。
来ないで。
人間の声。
幼生の声。
骨の音。
警鐘。
全部が混ざり、次の世代へ流れている。
二体目が、残った硬い筋を一つ新生幼生へ押した。
新生幼生は噛もうとする。
噛めない。
顎が弱い。
すぐに鳴く。
きゅ。
二体目はそれを柔らかくしようと噛み砕く。
だが、二体目自身も食べていない。
動きが鈍い。
一体目もそうだ。
入口で警戒しているが、外皮の下に疲労がある。
昨日の戦闘で傷もある。
癒やすには餌が必要だ。
グレイは、自分の腹の空きも感じた。
だが、それは遠い。
自分の空腹より、群れの空腹がうるさい。
自分が食べることなど、後回しになる。
それは自然だった。
自然になっていた。
その自然さが怖い。
一体だった頃なら、考えられなかった。
まず自分が食う。
逃げる。
隠れる。
生きる。
それだけだった。
今は、群れが先に来る。
それをグレイはもう否定できない。
二体目がまた鳴いた。
「グレ」
餌がない。
そういう感覚。
グレイは巣の入口側へ顔を向けた。
外には人間がいる。
村は警戒している。
森にも見張りがいる。
地下側にも封鎖線がある。
どこへ行っても危険。
だが、行かなければ飢える。
一体目が立ち上がった。
「グレ」
行く。
その感覚は、以前より強い。
命令を求めているのではない。
確認に近い。
行くべきだ。
自分は行ける。
そう思っている。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
待て。
一体目は止まらなかった。
一歩進む。
その瞬間、巣の中の空気が変わった。
二体目が顔を上げる。
前の四体も。
新生幼生たちは意味を分かっていないが、不安を感じて鳴く。
一体目が、グレイの制止にすぐ従わなかった。
初めてではない。
だが、今回は違う。
強い。
一体目の中にあるのは、反抗ではない。
空腹への答え。
群れを生かすための判断。
グレイが迷うなら、自分が動く。
その感覚。
グレイは、低く強く鳴いた。
「グ!」
一体目の身体が震えた。
止まる。
だが、牙が鳴っている。
苛立ち。
焦り。
空腹。
そして、責任に似たもの。
一体目も、群れを守ろうとしている。
それがグレイには分かる。
だから、余計に難しい。
ただの勝手なら抑えればいい。
だが、群れのために動こうとしているものを、どう止める。
グレイは一体目へ近づいた。
頭を低くし、匂いをぶつける。
待て。
まだ。
人間がいる。
危険。
一体目は、それを受け取る。
分かっている。
だが、飢えも分かっている。
その返答。
その時、巣の奥で別の動きがあった。
腐肉個体。
前の四体のうち、最も食への執着が強い個体。
白い虫を食べ、腐った死骸を食べ、空腹の時に真っ先に動く個体。
それが、細い通路を抜けようとしていた。
誰も気づかない隙を狙って。
いや、二体目は気づいていた。
だが、新生幼生の世話で手が離せなかった。
グレイも一体目に意識を向けていた。
そのわずかな隙。
腐肉個体は、外縁へ向かっていた。
グレイの外皮が硬くなる。
「グ!」
呼び止める。
腐肉個体が振り返る。
一瞬。
その目に当たる点が、グレイを見た。
空腹。
肉。
外。
それだけ。
グレイの命令も感じている。
恐怖もある。
だが、空腹が勝っている。
そして、腐肉個体は走った。
初めてだった。
明確に。
グレイの制止を振り切った。
小さな黒灰色の身体が、骨の隙間を抜ける。
一体目が反応し、追おうとする。
グレイは一体目より先に動いた。
天井。
壁。
細道。
腐肉個体は速い。
小さいから、人間が通れない隙間を抜けられる。
グレイは大きすぎて同じ道は通れない。
回り込むしかない。
その間に、腐肉個体は外縁へ出た。
グレイの感覚へ、その視界が薄く流れてくる。
低い。
暗い。
骨が大きい。
匂いが強い。
人間の匂い。
遠く。
肉の匂い。
もっと近い。
人間ではない。
小型の獣。
いや、村の外に捨てられた家畜の残骸。
昨日の被害後、村人が処分した山羊の内臓か。
いや、別の家畜の餌屑か。
人間の匂いがついている。
だが、腐肉個体にはそんなことは関係ない。
肉。
それだけ。
外縁の先。
地上側へ近づく狭い裂け目。
そこに、匂いがある。
グレイは追った。
だが、腐肉個体の方が先に地上近くへ出た。
夜ではない。
薄暗い朝。
人間が動き始める時間。
最悪だった。
地上側では、ラグドたちが配置を確認していた。
村の一時避難が始まり、家畜の移動も進められている。
だが、全てを一度に動かせるわけではない。
村の外れには、まだ荷車がある。
家畜の餌。
血のついた藁。
前夜の片づけで出た汚れた布。
人間にとっては残骸。
腐肉個体にとっては餌。
腐肉個体は、裂け目から外へ出た。
草の匂い。
朝の空気。
人間の匂い。
強すぎる光。
一瞬怯える。
だが、肉の匂いが勝つ。
荷車の陰へ走る。
そこには、血のついた藁と、捨てられた内臓片があった。
腐肉個体は迷わず噛みついた。
その瞬間、村の少年がそれを見た。
彼は、家畜の餌を運ぶ手伝いをしていた。
避難の準備で、大人たちが忙しかった。
ほんの短い時間、荷車のそばに一人でいた。
そこへ、黒灰色の小さな魔物が現れた。
少年は、最初、それが何か分からなかった。
猫ほどではない。
犬ほどでもない。
だが、多脚で、外皮があり、口元に血のついた藁をくわえている。
村で噂されていた灰の巣の幼体。
それだと理解した時、少年は息を吸い込んだ。
叫ぼうとした。
腐肉個体が振り返る。
恐怖。
驚き。
人間。
腐肉個体は、人間を襲うつもりはなかった。
ただ食べに来ただけ。
だが、少年の叫びが巣へ届きそうなほど鋭くなる前に、腐肉個体の中で別の音が動いた。
二体目から広がった声。
人間を止める音。
迷わせる音。
「こないで」
腐肉個体は言った。
歪んだ声だった。
高く。
かすれ。
人間の子供の声に少し似ていた。
少年は叫べなかった。
固まった。
目の前の魔物が、人間の言葉を言ったからだ。
こないで。
助けてではない。
来るな。
少年は一歩下がった。
だが、足元の木箱につまずいた。
倒れる。
大きな音。
がたん。
その音に、大人たちが振り返る。
「どうした!」
腐肉個体は驚いた。
人間が増える。
足音。
声。
恐怖。
腐肉個体は逃げようとした。
しかし、少年が倒れた拍子に、手に持っていた小さな刃物が地面へ落ちていた。
肉を切るためのもの。
腐肉個体には、それが武器に見えた。
光る。
危険。
人間。
敵。
空腹。
恐怖。
全部が混ざる。
腐肉個体は、少年へ飛びかかった。
噛むためではない。
退かすため。
だが、少年の腕に牙が入った。
浅い。
しかし、血が出た。
少年が叫んだ。
今度は、声が出た。
「うわああああ!」
村が動いた。
男たちが走る。
鐘が鳴る。
カン。
カン。
カン。
森の外で待機していたアレンが振り返る。
ラグドが目を見開く。
「早すぎる……!」
ロウが木の上から叫ぶ。
「小型だ! 一体だけ!」
エリシアが走り出す。
「怪我人が!」
防衛局の魔導兵が声を張る。
「灰巣眷属を確認! 交戦許可を!」
アレンは剣を抜いた。
迷う暇がなかった。
子供が血を流している。
小型の灰巣眷属が近くにいる。
人間を噛んだ。
それだけで、もう判断は決まる。
アレンは走った。
腐肉個体は、完全に混乱していた。
食べ物。
人間。
血。
叫び。
鐘。
火。
全部が一気に来る。
逃げ道が分からない。
グレイは地下から追っていた。
だが、間に合わない。
グレイの感覚に、腐肉個体の恐怖が流れ込む。
人間。
多い。
怖い。
肉。
血。
逃げる。
その混乱。
グレイは裂け目を駆け上がる。
一体目も後ろから来ている。
二体目の不安も遠くから強くなる。
巣全体が、腐肉個体の恐怖に揺れる。
地上では、アレンが腐肉個体の前へ立った。
腐肉個体は、小さい。
幼体。
だが、少年の血を口につけている。
アレンの目が揺れた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
しかし、少年の泣き声がその迷いを押し潰した。
アレンは剣を構えた。
「下がれ!」
村人たちへ叫ぶ。
腐肉個体は、その声にさらに怯える。
そして、また言った。
「こないで」
アレンの身体が止まりかけた。
人間の言葉。
しかし、止まるわけにはいかない。
その一瞬に、腐肉個体は逃げようと横へ跳んだ。
ロウの矢が地面へ刺さる。
殺すためではない。
進路を塞ぐため。
腐肉個体が方向を変える。
そこへ、防衛局の魔導兵が魔力の網を放った。
捕獲用。
研究院が準備していたものだ。
網は腐肉個体の脚に絡む。
腐肉個体が転ぶ。
悲鳴。
きゅっ。
その声が、グレイへ刺さった。
グレイは裂け目を抜けた。
地上の光。
朝。
村の匂い。
人間。
多い。
そして、網に絡まった腐肉個体。
グレイの中で、何かが赤くなる。
群れの一体。
捕まった。
傷ついた。
人間に。
一体目が隣で唸る。
飛び出そうとする。
グレイは一瞬で判断した。
行けば、戦いになる。
人間は多い。
アレン。
ロウ。
魔導兵。
ラグド。
エリシア。
村人。
火。
武器。
全部ある。
でも、放っておけば腐肉個体は捕まる。
殺されるかもしれない。
研究されるかもしれない。
二体目の不安が巣から流れる。
新生幼生たちも震えている。
腐肉個体の恐怖が強い。
グレイは、もう止まれなかった。
森の影から飛び出した。
「来た!」
誰かが叫ぶ。
アレンが振り返る。
灰の巣主。
大きな黒い影。
その後ろに一体目。
村人たちが悲鳴を上げる。
エリシアが少年を抱えて下がる。
ラグドが叫ぶ。
「村人を下げろ! 火は使うな!」
防衛局の魔導兵は魔力を練る。
「中心個体確認!」
グレイはまっすぐ腐肉個体へ向かった。
人間を襲うためではない。
助けるため。
だが、人間側から見れば違う。
灰の巣主が村へ突入してきた。
血を流した子供のそばへ。
それだけで十分な脅威だった。
アレンが前に立つ。
剣。
グレイは止まらない。
アレンが斬る。
グレイは避け、体当たりで弾く。
殺さない。
だが、強い衝撃。
アレンが後退する。
ロウの矢がグレイの脚元へ飛ぶ。
一体目がロウのいる木へ向かおうとする。
ラグドが石を投げて一体目の進路を逸らす。
「こっちだ!」
一体目がラグドを見る。
敵。
覚えた匂い。
何度も止めた人間。
強い。
一体目が飛びかかる。
ラグドは避ける。
短剣を抜く。
一体目の外皮をかすめる。
一体目がさらに怒る。
村の外れが一気に戦場になった。
グレイは腐肉個体へ到達する。
魔力網を噛み切ろうとする。
硬い。
魔力が外皮に絡む。
痛み。
腐肉個体が鳴く。
「グ……!」
グレイ。
助けて。
言葉ではない。
だが、はっきり届く。
グレイは牙に力を込めた。
網が裂ける。
その瞬間、防衛局の魔導兵が叫ぶ。
「捕獲阻止! 対象を攻撃!」
光弾。
複数。
グレイの背に当たる。
痛み。
外皮が焼ける。
煙の匂い。
グレイの怒りが爆発しそうになる。
だが、まだ殺さない。
腐肉個体を咥え、森へ向かう。
一体目へ感覚を送る。
戻れ。
一体目はラグドと戦っている。
まだ戻らない。
グレイは強く送る。
戻れ!
一体目がようやく離れる。
ラグドは追わない。
アレンは追おうとする。
だが、エリシアの叫びが止めた。
「少年の止血を!」
アレンは一瞬迷う。
グレイを追うか。
少年を守るか。
選ぶ。
彼は少年の方へ戻った。
グレイは、その選択を見た。
人間も、守るものを選んだ。
だから追ってこない。
グレイは腐肉個体を咥え、一体目と共に森へ逃げた。
背後で鐘が鳴り続ける。
カン。
カン。
カン。
今度は、昨日よりずっと重い音だった。
家畜ではない。
子供が傷ついた。
人間の血が流れた。
もう、線は消えた。
地下へ戻るまで、腐肉個体は震え続けた。
腕。
いや、前脚。
身体。
魔力網の跡。
少年の血の匂い。
自分の血。
恐怖。
全部が混ざっている。
グレイは、その震えを感じながら走った。
巣へ戻ると、二体目が飛び出してきた。
「グレ!」
腐肉個体を嗅ぐ。
傷。
血。
人間の匂い。
少年の血。
二体目が強い恐怖を流す。
新生幼生たちも一斉に鳴く。
きゅ。
きゅ。
一体目は傷ついている。
グレイも背に焼け跡がある。
巣の中に人間の血の匂いが入った。
子供の血。
レオンの記憶が、強く揺れた。
人間の子供。
泣き声。
血。
グレイは、腐肉個体を置いた。
腐肉個体は震えながら、小さく鳴いた。
「こ……ないで……」
それは人間へ向けた声だったのか。
グレイへ向けたものだったのか。
自分自身へ向けたものだったのか。
分からない。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
落ち着け。
だが、落ち着けるはずがなかった。
群れの一体が勝手に出た。
人間の子供を傷つけた。
捕まりかけた。
グレイが助けに出た。
人間と衝突した。
もう、隠れ続ける道は壊れた。
巣の中では空腹がまだある。
新生幼生たちは餌を求めて鳴いている。
何も解決していない。
ただ、状況だけが悪くなった。
二体目が、腐肉個体の口元についた人間の血を舐め取ろうとして、途中で止まった。
食べてはいけない。
そう感じたのだろう。
グレイも同じだった。
人間の血。
それは、もう危険すぎる。
記憶を呼ぶ。
変化を呼ぶ。
人間を呼ぶ。
グレイは、巣の黒岩へ爪を立てた。
空腹が、ついに群れを外へ押し出した。
グレイの意思ではなく。
一体の眷属の行動として。
これからは、もっと起こる。
止めきれない。
群れは多すぎる。
飢えは強すぎる。
外の肉は近すぎる。
人間は守ろうとする。
灰の巣も守ろうとする。
だから、ぶつかる。
グレイは低く、自分の名を呼んだ。
「グレイ」
返事は乱れていた。
一体目は傷の痛みで荒い。
「グレ」
二体目は不安で震えている。
「グレ……」
前の四体は混乱している。
新生幼生たちは空腹で鳴く。
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「た……」
その中に、人間の声の欠片が混ざる。
グレイは目を閉じた。
外では、人間の子供が泣いているだろう。
村は怒り、恐怖し、討伐を求めるだろう。
アレンはもう迷いを捨てるかもしれない。
ラグドも、止めきれないかもしれない。
そして、グレイ自身も。
もう、自分の群れを止めきれない。
黒雨の音が落ちる。
ぽた。
ぽた。
空腹は、まだ巣の中にあった。
だが今は、それ以上に重いものがあった。
人間の血の匂い。
それが、灰の巣の未来を決定的に変えてしまった。




