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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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第75話『神話』

セヴィルは、血の匂いが嫌いではなかった。


研究院にいれば、血の匂いなど珍しくない。


魔物の解剖。


標本処理。


保存液に沈める前の臓器。


骨格を取り出すために削がれた肉。


若い研究員の中には、それだけで顔色を悪くする者もいる。


だが、セヴィルは違った。


血は情報だ。


肉は記録だ。


骨は過去だ。


死体は、そこに至るまでの生の結果であり、正しく見れば多くのことを語る。


だから、セヴィルは血を嫌わなかった。


けれど、その日の臨時拠点に残っていた血の匂いは、嫌だった。


研究対象の血ではない。


観測用の標本でもない。


人間の血だ。


負傷した魔導兵の血。


外縁部で崩れた黒岩に押し潰されかけた作業員の血。


灰の巣主と接触し、腕を裂かれた兵の血。


そして、灰の巣主ではなく、人間側の焦りが生んだ傷の血。


それは、セヴィルが好む情報ではなかった。


ただの失敗の匂いだった。


「二名重傷。五名軽傷。死者なし」


ミーリアは報告書を読み上げた。


臨時拠点の奥にある会議室。


夜明け前だというのに、誰も眠っていない。


机の上には地図と報告書が重なり、魔導灯の白い光が全員の顔を硬く照らしている。


アレンは壁際に立っていた。


剣は鞘に収まっているが、血を拭ったばかりの匂いが残っている。


エリシアは椅子に座り、両手を膝の上で握っていた。


治療術を使い続けたせいで顔色が悪い。


ロウは窓の近くで腕を組んでいる。


ラグドは地図の前に立ち、何度も同じ箇所を見ている。


防衛局の魔導兵は一人だけ出席していた。


さっきまで強硬派として声を上げていた男ではない。


その男は重傷者の一人になった。


火を使いかけ、混乱を広げ、最後は落石に巻き込まれた。


命は助かった。


だが、当分戦えない。


その事実が、部屋の空気を重くしていた。


ミーリアは続ける。


「外縁部侵入作戦は失敗。灰の巣主の中心部到達には至らず。眷属一体との接触。中心個体の出現を確認。追撃なし。人間側撤退」


「追撃なし」


セヴィルが小さく繰り返した。


ミーリアが視線を向ける。


「何か?」


「いえ。重要な記録です」


ラグドが低く言った。


「重要どころじゃねぇ」


全員が彼を見る。


ラグドは、地図の黒い印へ指を置いた。


「こっちは外縁で混乱した。負傷者も出た。あの状況なら、灰の巣主は追撃できた。やろうと思えば、あと二人は殺せた」


アレンの手がわずかに動く。


彼も同じことを考えていた。


あの時、灰の巣主は追ってこなかった。


背を向けた。


巣の奥へ戻った。


幼体の悲鳴が聞こえた方向へ。


それが、彼の中に残っている。


魔物が、敵を殺すより幼体を守ることを優先した。


その事実が、剣を握る手を鈍らせる。


だが、同時に、それでも討伐すべき理由が消えたわけではない。


むしろ、もっと複雑になっただけだ。


ミーリアは冷静に言った。


「追撃しなかった理由は不明です」


「幼生だ」


ラグドが言う。


「奥で幼生が鳴いた。それで戻った」


「推測です」


「現場にいた」


「それでも推測です」


ラグドは舌打ちした。


だが、ミーリアの言葉も正しい。


会議では推測と事実を分ける必要がある。


セヴィルは、そこで静かに口を開いた。


「観測記録としては、中心個体が眷属保護を優先した可能性が高い、と記載すべきでしょう」


防衛局の男が冷たく言う。


「それが何だというのです。保護行動があろうと、危険性は変わらない」


「その通りです」


セヴィルは頷いた。


「ですが、危険性の性質が変わります」


「性質?」


「捕食性の災害ではなく、防衛性の災害です」


部屋が静かになる。


セヴィルは続けた。


「灰の巣主は今のところ、明確に人間を狩る目的では動いていない。家畜被害は餌の確保。外縁部での攻撃は侵入への防衛。腐肉獣との戦闘は眷属保護。追撃しなかったのも同じ」


防衛局の男が苛立つ。


「だから無害だと?」


「逆です」


セヴィルの声は静かだった。


「防衛性の災害は、境界を侵された時に最大の反応を示します。そして問題は、灰の巣が拡大しているせいで、その境界線がどんどん外へ広がっていることです」


ロウが低く言った。


「つまり、あいつらが守る範囲が増えるほど、こっちとぶつかる場所も増える」


「ええ」


セヴィルは頷く。


「しかも、増殖が進めば守るべき対象も増える。必要な餌も増える。家畜被害は再発する可能性が高い」


エリシアが苦しそうに言った。


「それなら、やっぱり止めるしか……」


声が途中で消えた。


止める。


その言葉の中には、殺すという意味が含まれ始めている。


彼女自身も、それに気づいている。


だから言い切れない。


アレンは静かに口を開いた。


「俺は、昨日より迷っています」


全員が彼を見る。


勇者認定者。


討伐隊の中心。


彼がそう言うのは、危ういことだった。


だが、アレンは逃げなかった。


「でも、昨日より止めなければならないとも思っています」


その言葉に、エリシアが目を伏せる。


アレンは続けた。


「灰の巣主は、ただの化け物じゃない。幼体を守っている。迷いもあるのかもしれない。けど、村を襲った。巣は広がっている。昨日の外縁部だけで、俺たちは壊滅しかけた。あれが地上に出れば、もっと多くの人が死ぬ」


彼は、拳を握った。


「だから、止める。でも、何も知らないまま殺しに行けば、また失敗する」


ラグドがわずかに頷く。


セヴィルも同意する。


ミーリアは、そこで一冊の古い本を机に置いた。


重い音。


どさり。


全員の視線が向いた。


本は古かった。


表紙は黒ずみ、角は欠け、留め具は錆びている。


研究院の通常資料ではない。


もっと古い。


羊皮紙を綴ったような重厚な記録。


ミーリアは言った。


「研究院の禁書庫から出しました」


セヴィルの表情が、初めて変わった。


「禁書庫?」


「ええ」


「私にも許可が下りなかった区画ですか」


「あなたに許可を出すと危険なので」


「ひどいですね」


「事実です」


二人のやり取りには軽さがあったが、部屋の空気は軽くならなかった。


禁書庫。


それは、研究院の中でも限られた者しか入れない場所だ。


危険な魔物の記録。


失敗した魔導実験。


異端の神学。


過去に封印された研究。


国が公開を避けた災害記録。


そういうものが収められている。


ミーリアは本を開いた。


古い文字。


今の王都で使われる文字とは少し形が違う。


セヴィルが身を乗り出す。


ラグドは顔をしかめる。


アレンたちは黙っている。


ミーリアは、栞の挟まれたページを開いた。


「灰の巣主に直接該当する記録ではありません。ただ、似た記述があります」


セヴィルは目を細めた。


「似た記述」


「はい。神代末期の災害記録です」


防衛局の男が眉を寄せる。


「神代など、半分神話でしょう」


「だから今まで無視されてきました」


ミーリアは淡々と返した。


「ですが、現在の対象と複数の共通点があります」


彼女は古い文章を読み上げた。


「神は人を作り、人は人として増えた。されど、神は人の弱さを嘆き、次なる器を作らんとした。獣より強く、魔より賢く、人より生き延びるものを」


部屋の空気が変わった。


アレンがわずかに息を呑む。


エリシアが顔を上げる。


ラグドは眉を寄せる。


セヴィルは目を離さない。


ミーリアは続けた。


「されど、その器は人に非ず。獣にも非ず。飢えれば喰らい、傷つけば変じ、恐れれば増え、囲まれれば広がった。神はそれを失敗と呼び、地の底へ捨てた」


誰も何も言わなかった。


増え。


広がった。


その言葉が、灰の巣主と重なる。


ミーリアはさらに読み進める。


「器は名を持たず。ゆえに呼び名は変わる。ある時は灰。ある時は白。ある時は黒き群れ。されど本質は一つ。生きるために形を捨て、生きるために己を分け、生きるために世界の境を侵すもの」


セヴィルが小さく呟いた。


「適応……」


ミーリアは頷いた。


「この記録では、それを《神造失敗種》と呼んでいます」


防衛局の男が鼻で笑おうとして、できなかった。


笑い飛ばすには、状況と重なりすぎている。


ラグドが低く言った。


「神が作った失敗作ってことか」


「神話上では、です」


ミーリアは強調した。


「これを事実として扱うには証拠が足りません。ですが、記述は不気味なほど一致します」


セヴィルは本へ手を伸ばしかけ、ミーリアに睨まれて止めた。


「すみません」


「触らないでください」


「読みたいだけです」


「後で写しを渡します」


セヴィルは不満そうだったが、従った。


アレンが聞いた。


「もし、その神造失敗種というものが灰の巣主だとしたら、何が変わるんですか」


ミーリアは少し黙った。


セヴィルが答えた。


「対処法が変わります」


「どう変わるんですか」


「普通の魔物として見てはいけない。進化種、希少種、群体種という分類でも不十分です。対象は、環境圧へ過剰適応する存在かもしれない」


ラグドが苦い顔をする。


「追い込めば追い込むほど変わるってことだろ」


「ええ」


「今まで散々見てきた」


「そして、その本が正しければ」


セヴィルは言葉を選ぶように続けた。


「生存本能そのものが、異常に肥大化している。倫理も、種の形も、繁殖の制限も、生き延びるためなら捨てる」


エリシアが震える声で言った。


「それって……悪なんですか」


誰もすぐには答えられなかった。


悪。


その言葉は、あまりにも人間的だった。


ラグドが低く言う。


「悪かどうかは知らねぇ。ただ、近くにいると全部巻き込む」


セヴィルも頷いた。


「ええ。悪意は必要ない。生き延びるためだけで、十分に災害になります」


ミーリアは本の別ページを開いた。


「続きがあります」


彼女は読み上げる。


「その器に心を与えてはならぬ。心を得れば、守るものを作る。守るものを作れば、境を作る。境を作れば、外を敵と呼ぶ」


ラグドが目を細める。


守るもの。


群れ。


巣。


幼体。


まさに今の灰の巣主だ。


ミーリアは読み続けた。


「ゆえに、器は孤であらねばならぬ。孤にして飢え、孤にして死ぬべし。増えた時、器は器に非ず。災いの母となる」


エリシアが顔を青くした。


「災いの母……」


アレンの拳が震える。


ロウは目を閉じる。


セヴィルだけが、深い息を吐いた。


「なるほど」


ラグドが睨む。


「なるほどじゃねぇだろ」


「いえ、非常に重要です。灰の巣主が危険化した要因は、単なる成長ではなく、守る対象の獲得にある」


「幼生か」


「ええ。眷属を得たことで、中心個体の行動原理が変わった。逃避から防衛へ。防衛から拡張へ。そして今、拡張から衝突へ向かっている」


ミーリアが補足する。


「神話記録では、神造失敗種は単体では短命だったとされています。増殖した個体群のみが災害化する」


ラグドは地図を見下ろした。


「つまり、もう遅いってことか」


セヴィルは答えない。


ミーリアも。


だが、その沈黙が答えに近かった。


もう灰の巣は増えた。


群れになった。


守るものを得た。


人間の所有物を奪った。


声を覚えた。


外側へ広がり始めた。


神話の言葉に照らせば、すでに危険な段階へ入っている。


防衛局の男が言った。


「なら、討伐しかありませんね」


その言葉は、今までより重かった。


誰も即座に反論できない。


セヴィルですら、沈黙した。


だが、ラグドは低く言った。


「討伐するにしても、やり方が問題だ」


防衛局の男は苛立つ。


「まだそんなことを」


「その本が本当なら、なおさらだろ」


ラグドはミーリアの本を指差した。


「追い込めば変わる。傷つけば変わる。囲めば増える。だったら、下手に攻めれば最悪の形に変わる」


セヴィルが頷く。


「同意します」


「じゃあ、どうする」


ラグドは全員を見る。


「俺たちは、普通の魔物討伐をやろうとして失敗した。外縁で壊滅しかけた。相手は巣ごと動く。だったら、こっちも考え方を変えるしかない」


アレンが静かに問う。


「具体的には?」


ラグドは答える前に、少しだけ迷った。


そして言った。


「巣主を外へ誘い出す」


部屋の空気が変わる。


エリシアが顔を上げる。


セヴィルは目を細める。


防衛局の男が聞く。


「囮ですか」


ラグドは首を振る。


「家畜を餌にするんじゃない。幼生を脅かすんでもない。そんなことをすれば暴走する」


「では」


「逃げ道を作る」


全員が黙った。


ラグドは地図を指差す。


「完全封鎖じゃなく、こちらが選んだ方向に開ける。村から遠い。王都からも遠い。深部へも逃げすぎない。開けた場所へ誘導する」


ロウが言う。


「戦場を選ぶってことか」


「そうだ」


セヴィルが考え込む。


「理論上は悪くありません。対象は圧迫から逃れる方向へ動く。なら、最も抵抗の少ない経路を用意すれば、誘導できる可能性があります」


防衛局の男が言った。


「逃がすのですか?」


「逃がすんじゃねぇ。散らさずに動かすんだ」


ラグドは強く言った。


「巣の奥で戦えば負ける。村で戦えば被害が出る。なら、その間に引きずり出す」


アレンは地図を見つめた。


「そこで、戦う」


「必要なら」


「幼体も出てきます」


エリシアの声だった。


「巣ごと動かすなら、幼体も」


ラグドは答えられなかった。


セヴィルが低く言う。


「それは避けられないでしょう」


エリシアは唇を噛んだ。


アレンも目を伏せる。


神話の本には、災いの母と書かれていた。


増えた器は災害になる。


なら、幼体を残すことはできない。


そんな結論が、部屋の中に落ち始めている。


まだ誰も明言しない。


だが、全員が感じている。


エリシアは、それに耐えられなかった。


「本当に、他に方法はないんですか」


ミーリアは静かに言った。


「研究院としては、捕獲案も検討しています」


防衛局の男が失笑する。


「この状況で?」


「成功率は低いでしょう」


「低いどころではない」


「分かっています」


ミーリアの声は冷静だ。


しかし、目は疲れていた。


「ですが、全個体討伐が最善とも限らない。灰の巣主が神造失敗種に類する存在なら、殺害時の変化も未知数です」


ラグドが顔をしかめる。


「死ぬ時にも何かあるってことか」


セヴィルが小さく言った。


「あり得ます」


防衛局の男は怒りを抑えながら言う。


「つまり何もできないと?」


「いいえ」


ミーリアは本を閉じた。


「できることはあります。ただし、普通の討伐ではなく、災害対応として」


彼女は地図の上に新しい紙を置く。


「村の一時避難。封鎖線の再編。選定戦場への誘導。研究院による抑制薬の準備。討伐隊による中心個体の制圧。眷属の分断。これらを同時に行う必要があります」


ラグドは目を閉じた。


大規模になる。


もう、下層の一個体への対応ではない。


災害対応。


灰の巣主は、完全にその段階へ入った。


アレンは静かに言った。


「やります」


エリシアが彼を見る。


アレンは続ける。


「迷いはあります。でも、村の人たちを守らなきゃいけない。これ以上増えれば、もっと苦しくなる」


ロウが頷いた。


「やるなら、早い方がいい」


エリシアは苦しそうに俯いた。


だが、やがて小さく頷いた。


「……私も、やります」


ラグドは、彼らを見た。


若い。


善良だ。


だからこそ、これから汚れる。


守るために、殺すかもしれない。


それでも、やるしかない。


ラグドは静かに言った。


「俺が先頭に立つ」


防衛局の男が驚く。


「あなたが?」


「あいつを一番見てるのは俺だ」


「情が移っているのでは?」


ラグドは睨んだ。


「だからこそ、俺がやる」


その言葉に、誰も何も言えなかった。


ラグドは情がないわけではない。


むしろ、現場で見すぎたせいで迷っている。


だが、その迷いを持ったまま先頭に立つと言っている。


それは、誰よりも重い選択だった。


会議が終わった後、セヴィルは一人、禁書庫の写しを読んでいた。


神造失敗種。


器。


灰。


生きるために形を捨てるもの。


心を得れば守るものを作る。


守るものを作れば境を作る。


境を作れば外を敵と呼ぶ。


セヴィルは、その文章に指を置いた。


「外を敵と呼ぶ、か」


彼は小さく笑った。


苦い笑いだった。


人間も同じではないか。


そう思った。


村を守るために、灰の巣を敵と呼ぶ。


灰の巣は幼体を守るために、人間を敵と呼び始めている。


境界を作れば、外は敵になる。


なら、この神話は灰の巣主だけの話ではない。


人間の話でもある。


セヴィルは、そう思ってしまった。


だが、その考えは報告書には書けない。


書けば、危険思想扱いされるだろう。


彼は代わりに、別の一文を書いた。


《対象は既存分類に収まらない可能性あり。神代記録における神造失敗種との類似性を確認。ただし現時点では仮説段階。対応においては、過剰刺激による形質変化および群体拡大に最大限注意すること》


そこまで書いて、ペンを止める。


そして、最後に小さく追記した。


《中心個体は単なる捕食個体ではなく、守る対象を持つ》


その一文は、学術報告としては少し曖昧だった。


しかし、どうしても必要に思えた。


同じ頃。


地下の巣では、グレイが眠っていない幼生たちを見ていた。


白い虫は少し減った。


腐肉個体が食べ、二体目が匂いを整え、グレイが皮を移動させたからだ。


だが、問題は消えない。


新生幼生は八体。


前の四体。


一体目。


二体目。


グレイ。


巣は命で満ちている。


餌は少ない。


外には人間がいる。


グレイは、遠くの人間の気配が変わったことを感じていた。


ただ待っているのではない。


ただ封鎖するのでもない。


もっと大きな動き。


村から人が減っていく音。


荷物を運ぶ音。


地図を広げる音。


鉄を磨く音。


祈る声。


人間の群れが、何かを決めた。


グレイには言葉は分からない。


だが、圧が変わったことだけは分かる。


一体目が低く鳴く。


「グレ」


来る。


グレイは返した。


「グ」


来る。


二体目が幼生たちを奥へ寄せる。


新生幼生の一体が、不完全に鳴く。


「グ……」


別の一体が真似る。


「た……」


グレイは静かに目を向ける。


その声はすぐに止まった。


だが、消えてはいない。


巣は、すでに多くのものを覚えすぎている。


骨。


火。


黒雨。


村。


家畜。


人間の声。


そして、恐怖。


グレイは、黒岩の天井を見上げた。


そこには空はない。


けれど、記憶の中には空がある。


一体目が見た空。


村の上にあった夜空。


星。


火。


人間の暮らし。


その全てが、群れの中に薄く残っている。


グレイはまだ知らない。


自分たちのことが、神話の失敗作に重ねられ始めていることを。


神が作った失敗した器。


人になれなかったもの。


生きるために変わり続けるもの。


そう呼ばれ始めていることを。


ただ、感じていた。


人間は、次に大きく動く。


そしてその時。


自分たちも、また変わらざるを得ない。


グレイは低く、自分の名を呼んだ。


「グレイ」


一体目が返す。


「グレ」


二体目も。


「グレ」


前の四体。


新しい八体。


ばらばらの声が返ってくる。


「グ……」


「グレ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


巣が鳴る。


多すぎる声。


生きている声。


守るべき声。


グレイは、その中心で静かに目を閉じた。


神話など知らない。


失敗作など知らない。


ただ、生きたいだけだった。


けれど、その願いが世界を動かし始めていることだけは、もう否定できなかった。

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