第74話『崩れる線』
白い虫は、朝になっても減らなかった。
朝。
そう呼べるものが、地下の巣にあるわけではない。
だが、地上の空気が少し変わる時間がある。
夜の冷たさが薄れ、森の匂いが動き、遠くで鳥の声が増える。
白鳴き種の感覚を持つグレイには、それが微かに分かった。
地上が朝を迎える頃、地下水脈の仮巣では、白い虫がさらに増えていた。
黒雨避けの腐肉獣の皮の裏。
山羊の骨の隙間。
濡れた黒岩の裂け目。
幼生たちが通る細道の脇。
そこに、細い白い体がうごめいている。
一匹ずつは小さい。
牙も弱い。
踏めば潰れる。
だが、数が多い。
そして、柔らかいものへ寄る。
新生幼生の匂い。
血。
排泄。
食べ残し。
全部が白い虫を呼ぶ。
二体目は休む暇がなかった。
匂いを嗅ぎ、危険な場所から新生幼生を押し戻し、白い虫を払い、黒雨の水を避ける。
前の四体も手伝っている。
しかし、手伝いはまだ不完全だった。
骨を動かす個体は、虫を防ぐために骨を並べようとした。
だが隙間が大きすぎて、虫は簡単に抜けた。
臆病な個体は、新生幼生の前に立つだけで精一杯だった。
腐肉個体は、白い虫を食べ続けている。
それが助けになっているのか、危険を増やしているのか分からない。
虫を食べれば減る。
だが、腐肉個体の匂いはさらに変わる。
虫と腐肉と黒雨の匂いを体に溜めていく。
グレイは、それを見るたびに不安を覚えた。
群れの中に、違うものが混ざり始めている。
一体目は入口側にいた。
外の人間を見ている。
飽和した巣の中で、最も外へ向かっているのが一体目だった。
狭い。
臭い。
虫がいる。
幼生が多い。
餌が少ない。
なら、外へ出る。
そういう単純な判断が、一体目の中にある。
それは間違っていない。
むしろ、生存本能としては正しい。
だが、外には人間がいる。
待っている。
包囲している。
地上側にも、地下側にも。
グレイは、入口近くの黒岩へ身体を押しつけた。
外の振動を拾う。
人間は今日も来ている。
数は多い。
昨日より多い。
ラグド。
アレン。
エリシア。
ロウ。
セヴィル。
防衛局の魔導兵。
さらに作業班。
森側には別の人間もいる。
村の防衛班。
家畜小屋の見張り。
人間の線が広がっている。
それは見えない檻だった。
完全には閉じていない。
だが、逃げ道を一つずつ狭めている。
下層の封鎖。
地下水脈の監視。
地上の待ち伏せ。
村の警戒。
グレイは、その全てを一度に感じていた。
群れの内側は飽和し、外側は狭まる。
内から押す力と、外から押す力。
その二つが、巣を潰そうとしている。
二体目が鳴いた。
「グレ」
新生幼生の一体が、また虫に噛まれた。
グレイはすぐ戻った。
白い虫を踏み潰し、噛まれた脚を嗅ぐ。
浅い。
大丈夫。
だが、幼生は怯えている。
痛み。
空腹。
不安。
それが細かく刺さる。
グレイは柔らかい肉を探した。
ない。
山羊の肉は尽きた。
残っているのは骨に近い筋と、食べにくい皮。
新生幼生には向かない。
二体目が不安を流す。
餌。
必要。
グレイも分かっている。
分かっているが、外へ出れば人間がいる。
一体目が入口から低く鳴く。
「グレ」
外へ。
今。
その感覚。
グレイは返さない。
迷っていた。
迷いが群れに伝わる。
それが悪い。
一体目は、グレイが迷うたびに自分で判断しようとする。
二体目は、グレイが迷うたびに不安を増す。
新生幼生たちは、ただ鳴く。
前の四体は、それぞれ違う行動へ走る。
群れが一つにまとまりきれない。
グレイは、自分の中心が薄くなるのを感じていた。
増えすぎた。
近すぎる。
多すぎる。
全員を感じるには、巣が狭すぎる。
その時。
外側で、強い音がした。
かん。
金属。
続いて、ラグドの声。
「今日はこれ以上奥へ入るな。外縁の確認だけだ」
別の声。
防衛局の魔導兵。
「巣が飽和しているなら、今が好機です。内部が乱れているうちに押し込むべきです」
「押し込むなと言ってる」
「村の被害を忘れたのですか」
沈黙。
アレンの声が続いた。
「ラグドさん。俺は、外縁確認には賛成です。でも、もし出てくるなら止めます」
「分かってる」
「止める、で済まなければ」
「その時は戦う」
それを聞いて、一体目の敵意が強くなった。
戦う。
外の人間もそう言っている。
なら、こちらも。
一体目はグレイを見る。
行こう。
先に。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
待て。
その瞬間、巣の奥で白い虫の群れが一斉に動いた。
黒雨避けの皮の裏に溜まっていたものが、何かに押されるように幼生側へ流れたのだ。
原因は小さな水流だった。
黒雨が溜まりすぎ、皮の端から溢れた。
湿った水が虫の巣を壊し、虫が逃げ、幼生のいる乾いた場所へ向かった。
二体目が悲鳴に近い声を出す。
「グレ!」
新生幼生たちが一斉に鳴いた。
きゅっ。
きゅ。
きゅ。
虫が脚へ、腹へ、柔らかい外皮へ群がる。
グレイは飛び込んだ。
踏み潰す。
払い落とす。
二体目も動く。
前の四体も。
だが、数が多い。
そして新生幼生も多い。
守るべき身体が多すぎる。
腐肉個体が虫を食べ続ける。
骨個体が骨を動かして虫を堰き止めようとする。
臆病個体が新生幼生の前に身体を広げる。
もう一体は混乱して走り回る。
巣の中が乱れた。
一体目が入口を離れ、奥へ戻ろうとした。
その瞬間、外縁の骨が鳴った。
からり。
人間が近づいた。
ラグドたちではない。
防衛局の魔導兵の一部。
命令を待たずに、外縁へ踏み込んだ。
グレイは、巣の奥と入口を同時に感じた。
奥では虫。
入口では人間。
選ばなければならない。
グレイは二体目へ感覚を送る。
幼生。
守れ。
一体目へ送る。
入口。
止めろ。
一体目が、待っていたかのように動いた。
その速度は、以前とは違った。
一体目はもう幼生ではない。
小さいが、戦える。
入口へ走る。
骨を鳴らさない道を選び、天井の低い岩へ跳び、外縁へ出る。
グレイは奥で虫を潰しながら、一体目の感覚を受け取っていた。
人間三。
魔導兵。
金属。
火薬。
狭い通路。
彼らは、巣の混乱を感じ取ったのか、慎重さを失っていた。
「奥が騒がしい」
「今なら近づける」
「巣主が奥へ引いたなら」
その言葉。
一体目には意味の全ては分からない。
だが、敵意は分かる。
一体目は天井から落ちた。
先頭の魔導兵の肩へ。
噛む。
深くはない。
だが、鎧の隙間へ牙が入る。
男が叫ぶ。
「来た!」
金属音。
魔力。
火花。
一体目はすぐ離れる。
グレイの動きを真似ている。
一撃で離れる。
正面から戦わない。
骨を鳴らす。
別方向で影を見せる。
魔導兵たちは混乱する。
一体目は単独で人間三人を殺せるほど強くはない。
だが、巣の中なら違う。
骨。
皮。
低い天井。
狭い道。
全てが一体目の味方になる。
魔導兵の一人が火を使おうとした。
小さな火球。
グレイは奥でそれを感じた瞬間、強烈な怒りを流した。
火。
煙。
幼生の咳。
黒雨。
それが一体目へ伝わる。
一体目の動きが変わった。
怒りに押され、火球を持つ魔導兵へ飛びかかる。
速い。
魔導兵が術を放つ前に、手首へ噛みつく。
火球が乱れる。
壁へ当たる。
熱。
煙。
小さいが、巣に火の匂いが入る。
新生幼生たちが奥で悲鳴を上げる。
グレイの怒りがさらに強くなる。
一体目は魔導兵を押し倒しかける。
その時、アレンが来た。
「下がれ!」
剣が閃く。
一体目は避けた。
完全には避けきれない。
外皮の一部が裂ける。
痛みがグレイへ走る。
奥でグレイは白い虫を潰しながら、身体が震えた。
一体目が傷ついた。
入口へ行きたい。
だが、新生幼生に虫が群がっている。
二体目だけでは足りない。
選べない。
群れが多すぎる。
グレイは初めて、中心であることの限界を感じた。
一体目はアレンと向かい合っていた。
アレンの剣は速い。
強い。
だが、迷いがある。
目の前の一体目を、幼体と見るか、敵と見るか。
その迷い。
一体目は理解しない。
ただ、剣の動きだけを見る。
強い。
危険。
避ける。
骨を鳴らす。
影へ入る。
アレンは追いすぎない。
「深追いするな!」
ラグドの声が響く。
彼も来た。
ロウも。
エリシアも。
外縁部が一気に人間で満ちた。
狭い通路に、討伐隊と魔導兵。
一体目は退路を探す。
だが、魔導兵三人が奥へ入りすぎている。
そのうち一人は負傷。
もう一人は火の術を準備しようとしている。
ラグドが怒鳴る。
「火を使うな!」
「囲まれています!」
「火を使うなって言ってんだろ!」
混乱。
人間側も一つではない。
命令が割れる。
恐怖が勝つ者がいる。
慎重な者がいる。
アレンは一体目を殺さずに止めようとしている。
魔導兵は殺そうとしている。
ラグドは全体を止めようとしている。
ロウは射線を探している。
エリシアは負傷者へ手を伸ばすべきか迷っている。
その迷いと混乱が、巣へ流れ込む。
グレイは、奥で虫を潰しながら、その全てを感じた。
人間も飽和している。
恐怖。
命令。
善意。
殺意。
全部が狭い通路に詰まっている。
そして、崩れ始めている。
グレイは二体目へ新生幼生を任せ、入口へ向かった。
奥の虫は完全には止まっていない。
だが、これ以上入口を任せれば一体目が危険だ。
グレイが動くと、巣全体が震えたように感じた。
新生幼生たちが鳴く。
一体目が痛みを返す。
二体目が不安を返す。
人間の心音が近づく。
グレイは天井を走った。
外縁部へ出る。
そこは混乱の中心だった。
魔導兵の火球が壁に残した焦げ跡。
負傷者の血。
アレンの剣。
ロウの矢。
ラグドの怒声。
エリシアの白い魔力。
一体目の黒灰色の影。
グレイは、天井から落ちた。
誰も殺さない位置へ。
だが、全員の視線を奪う位置へ。
黒い外皮。
長い脚。
灰の匂い。
人間たちが一斉に止まる。
「灰の巣主……!」
誰かが叫んだ。
アレンの剣が構えられる。
ロウの矢が向く。
魔導兵が魔力を練る。
エリシアが息を呑む。
ラグドだけが、低く言った。
「撃つな」
グレイは人間たちを見た。
一体目が負傷している。
人間が巣へ踏み込んだ。
火が使われた。
奥では幼生が虫に襲われている。
グレイの中で、怒りが膨らむ。
殺せる。
ここで飛び込めば、少なくとも一人は殺せる。
アレン以外の魔導兵なら、喉を裂ける。
エリシアなら近い。
セヴィルは後方だが届くかもしれない。
だが、殺せば血が増える。
人間がさらに来る。
火が来る。
巣が終わる。
グレイは、怒りを押さえた。
代わりに、声を出した。
「グル……」
低い。
腹の奥から響く威嚇。
人間ではない。
しかし、意味は伝わった。
近づくな。
出ていけ。
これ以上、巣へ入るな。
アレンが一歩も動かない。
彼はグレイを見ていた。
その目に恐怖がある。
だが、それ以上に決意がある。
「退きます」
アレンは言った。
魔導兵が驚く。
「何を!」
「この状況で戦えば、壊滅します」
ラグドが即座に言う。
「全員下がれ!」
魔導兵の一人が叫ぶ。
「ここまで来て!」
その瞬間、一体目が低く唸った。
負傷しているが、まだ動ける。
グレイも前脚を一歩出す。
人間側の空気が凍る。
ラグドが怒鳴った。
「死にてぇのか! 下がれ!」
ようやく魔導兵も後退を始めた。
だが、遅い。
退路には骨がある。
皮がある。
焦げた煙で視界が悪い。
負傷者を運ぶ必要もある。
人間の列が乱れる。
そこへ、巣の奥から新生幼生の悲鳴が響いた。
きゅう!
二体目が虫に追われている。
グレイの意識が一瞬奥へ向いた。
その隙に、魔導兵の一人が恐怖で術を放った。
小さな光弾。
狙いはグレイ。
だが、焦りで外れた。
光弾は天井に当たり、砕けた黒岩が落ちる。
落石。
人間側の退路へ。
ロウが叫ぶ。
「伏せろ!」
石が降る。
魔導兵の一人が倒れる。
エリシアが駆け寄る。
アレンが防ぐ。
ラグドが負傷者を引きずる。
一気に壊滅寸前の混乱になった。
グレイは動けた。
ここで追撃すれば、人間を何人も殺せた。
巣を荒らした敵。
火を使った敵。
一体目を傷つけた敵。
殺せばいい。
一体目もそれを求めている。
殺せ。
追え。
排除。
その感情。
だが、奥から幼生の悲鳴がまた聞こえた。
虫。
新生幼生。
二体目。
グレイは人間ではなく、奥へ向かった。
追撃しない。
殺さない。
今は群れ。
グレイが背を向けたことで、人間たちは救われた。
ラグドはそれを見た。
灰の巣主が追わなかった。
人間を殺せる状況で、追撃しなかった。
巣の奥へ戻った。
幼生の声がした方向へ。
ラグドは歯を食いしばった。
まただ。
こいつは、いつもそうだ。
人間を襲うためではなく、巣を守るために動く。
だからこそ厄介だ。
人間側は撤退した。
負傷者二名。
魔導兵一人重傷。
死者なし。
だが、壊滅寸前だった。
巣の外縁で。
まだ中心部ですらない場所で。
その事実が、全員の心を折りかけていた。
アレンは、血のついた剣を握りしめたまま撤退した。
彼はグレイの背中を見た。
追わなかった背中を。
そして思った。
次に戦えば、自分は本当に斬れるのか。
迷っている暇はない。
それでも、迷いは消えない。
グレイは奥へ戻り、虫を蹴散らした。
二体目は新生幼生を抱えるようにしていた。
一体、脚を深く噛まれている。
死んではいない。
だが、弱い。
グレイはその幼生を嗅いだ。
生きている。
まだ。
二体目が震えている。
一体目が傷を抱えて戻ってくる。
グレイの外皮にも、光弾の破片で浅い傷がついていた。
巣の中は乱れていた。
骨は崩れ、皮は破れ、白い虫はまだ少し残り、人間の火の匂いが入り込んでいる。
飽和した巣に、外からの圧が加わった。
線は崩れた。
内側と外側。
防衛と攻撃。
人間の慎重さと恐怖。
グレイの制御と群れの反応。
全部が、一度に崩れかけた。
それでも、今日は誰も死ななかった。
人間も。
群れも。
それが救いなのか、先延ばしなのか、グレイには分からない。
グレイは低く鳴いた。
「グレイ」
一体目が返す。
「グレ」
二体目も震えながら。
「グレ」
前の四体。
新しい八体。
声がばらばらに返る。
多い。
乱れている。
それでも、生きている。
黒雨の音が、また落ち始めた。
ぽた。
ぽた。
巣の外では、人間たちが撤退していく。
巣の中では、群れが傷を舐め合っている。
どちらも壊れかけた。
だが、どちらもまだ壊れていない。
だから、次が来る。
もっと大きな次が。
グレイは、火の匂いが残る外縁を見た。
人間はまた来る。
今度は、もっと覚悟して。
そして自分たちもまた、変わる。
飽和した巣は、もう内側だけでは耐えられない。
広がるか。
崩れるか。
そのどちらかしか残っていなかった。




