第73話『飽和』
最初に異変へ気づいたのは、二体目だった。
黒雨避けに使っていた腐肉獣の皮。
その下。
湿った黒岩の隙間。
そこへ、見慣れない白い虫が集まり始めていた。
以前から、小型の虫はいた。
骨喰い虫。
黒鼠を食う細い虫。
腐肉へ群がる幼い蛆のようなもの。
下層にはいくらでもいる。
だが、今集まっている白い虫は違った。
速い。
細い。
そして、巣へ寄りすぎている。
二体目が低く鳴いた。
「グレ」
警戒。
不安。
グレイは新生幼生たちのそばから顔を上げた。
八体は、まだ弱い。
だが、もう動き始めている。
前の四体が周囲をうろつき、新生幼生たちの匂いを覚えている。
一体目は入口で警戒を続けている。
その中で、二体目だけが別の方向を見ていた。
白い虫。
グレイは近づいた。
匂いを嗅ぐ。
弱い。
小さい。
脅威ではない。
だが、数が多い。
白い虫は、黒雨避けの皮の下へ潜り込み、湿った部分へ群がっている。
新生幼生のうち一体が、それを見て近づこうとした。
前の四体のうち、腐った死骸を食べた個体がさらに早かった。
白い虫を噛み潰す。
しゃり。
小さい音。
その個体は、白い虫を飲み込んだ。
グレイは止めなかった。
食えるかもしれない。
だが、二体目が強く不安を流す。
危険。
腐っている。
そういう感覚。
グレイは、白い虫の匂いをもう一度嗅いだ。
腐肉獣。
黒雨。
湿気。
そして、巣の匂い。
白い虫は、巣へ引き寄せられている。
餌があるから。
肉。
骨。
皮。
幼生の排泄。
血。
群れが増えたことで、巣の中に“残るもの”が増えた。
それに虫が集まる。
当たり前のこと。
だが、以前はここまでではなかった。
グレイは、巣の空気が変わっていることに気づき始めていた。
熱い。
湿っている。
匂いが濃い。
命が増えすぎている。
十六。
狭い巣に、十六の呼吸。
骨。
皮。
肉。
黒雨避け。
全部が以前より近い。
飽和。
その言葉を、レオンの記憶が浮かべた。
人間の酒場。
人が多すぎる時。
熱。
匂い。
空気の重さ。
そういう記憶。
今の巣は、それに似ている。
グレイは、新生幼生たちを見た。
まだ小さい。
だが、数が多い。
そして、もう腹を空かせ始めている。
山羊の肉は、ほとんど残っていない。
骨だけ。
柔らかい部分は全部食われた。
前の四体ですら、もう満腹ではない。
一体目は、入口側を見る回数が増えている。
地上。
肉。
家畜。
その感覚が強くなっている。
グレイは、それを感じながら白い虫を踏み潰した。
ぱき。
小さい。
弱い。
だが、また別の隙間から出てくる。
数。
数で来る。
グレイは、その動きが嫌だった。
自分たちに似ているから。
小さい。
弱い。
でも増える。
増えた数で空間を埋める。
それは、今の灰の巣そのものだった。
二体目が、新生幼生たちを少し奥へ押した。
虫から離す。
前の四体も、それを真似する。
不器用だ。
一体は逆に新生幼生を虫の近くへ押してしまう。
二体目がすぐ修正する。
グレイは、その様子を見ていた。
群れは学んでいる。
だが、学ぶ速度より増える速度の方が速い。
それが問題だった。
巣の奥で、小さな争いが起きた。
前の四体のうち、骨を動かす個体と、腐った死骸を食べた個体。
山羊の骨を巡って噛み合ったのだ。
きっ。
低い音。
骨を動かす個体が、入口用に使おうとしていた骨。
腐肉個体は、それを齧ろうとした。
ただそれだけ。
だが、以前なら起きなかった。
食い物が足りないからだ。
縄張りが狭いからだ。
巣の中で、物の取り合いが始まっている。
グレイはすぐに近づき、低く鳴いた。
「グ」
二体は止まる。
だが、完全には引かない。
特に腐肉個体。
空腹が強い。
白い虫を食べたせいか、以前より食への執着が強くなっている。
グレイは、その個体の匂いを嗅いだ。
微かに違う。
腐肉。
虫。
湿気。
混ざっている。
変化している。
グレイは、それが怖かった。
群れは同じではない。
増えたことで、違いが広がっている。
一体目は戦う方向へ。
二体目は守る方向へ。
骨個体は配置を覚える。
腐肉個体は、何でも食おうとする。
臆病な個体は、新生幼生を守ろうとする。
それぞれ違う。
違うまま増えている。
もし、この先さらに増えれば。
グレイ一体で止められなくなる。
その時。
遠くで、骨が鳴った。
から。
一体目。
入口側。
警戒。
グレイの身体が反応する。
人間。
多い。
以前より。
しかも近い。
ラグド。
アレン。
ロウ。
エリシア。
セヴィル。
全員いる。
それだけではない。
防衛局の魔導兵。
さらに別の匂い。
重い。
油。
鉄。
火薬。
新しい装備。
人間側も変わっている。
村襲撃の後、人間は待つだけではなくなった。
動き始めている。
グレイはすぐ入口側へ向かった。
一体目が低く唸る。
「グレ」
来る。
そういう感覚。
グレイは感覚を広げる。
地下水脈外縁。
人間たちは、以前より広く散っている。
封鎖だけではない。
道を探している。
別の入口。
横穴。
地上へ近い裂け目。
つまり。
巣への経路を増やそうとしている。
セヴィルの声が、遠く微かに響いた気がした。
「……群体規模が増えている可能性があります」
ラグドが低く返す。
「理由は」
「家畜被害後、痕跡量が増えました。足跡。排泄。鳴子の配置。以前より密度が高い」
ロウが言う。
「匂いも濃い」
アレンは静かだった。
だが、彼の緊張は伝わる。
村を襲った後から、彼は変わっている。
迷いが消えたわけではない。
むしろ増えている。
だが、剣を抜く覚悟だけは強くなった。
エリシアの気配は苦しかった。
巣を焼けば、この中にいる幼生も死ぬ。
それを想像している。
だが、村の子供も思い出している。
両方が彼女を引き裂いている。
グレイは、それらの気配を感じながら入口で止まった。
人間が近い。
だが、まだ突入ではない。
探っている。
包囲を広げている。
それはつまり、人間側も迷っているということだった。
一気に潰すべきか。
観測を続けるか。
封鎖するか。
待つか。
選びきれていない。
グレイは、その迷いを理解してしまった。
なぜなら、自分も同じだから。
地上へ行くべきか。
止めるべきか。
増えた幼生を守るか。
減らすか。
選びきれていない。
その時。
巣の奥から、小さな悲鳴が響いた。
きゅっ!
グレイは振り返った。
新生幼生の一体。
白い虫へ噛みつかれていた。
小さい虫だ。
だが数が多い。
新生幼生の柔らかい脚へ群がっている。
二体目がすぐ払い落とす。
前の四体も反応する。
腐肉個体は虫を食べ始めた。
骨個体は新生幼生を奥へ押す。
臆病個体は身体を盾にする。
グレイは戻った。
白い虫を踏み潰す。
ぱき。
ぱき。
だが、また出てくる。
巣の熱と匂いへ引き寄せられて。
飽和。
命が増えすぎた場所へ、別の命も集まる。
グレイは、その現実を突きつけられていた。
群れが増えれば、群れだけでは済まない。
虫も来る。
腐臭も増える。
別の魔物も来る。
人間も来る。
巣が“場所”になり始めている。
ただの隠れ家ではない。
周囲を変える空間。
それは、以前セヴィルが言っていたことに近かった。
グレイは言葉として知らない。
だが、本能で理解し始めていた。
灰の巣は、もう一匹の巣ではない。
環境だ。
その時。
新生幼生の一体が、小さく口を開いた。
「た……」
グレイの身体が止まる。
また。
声。
しかも今回は、新生幼生。
まだ生まれたばかり。
それなのに。
二体目が強く震えた。
前の四体も反応する。
一体目が入口から振り返る。
群れ全体が、その音を聞いていた。
新生幼生は、自分でも意味を理解していない。
ただ、巣の中にある音を真似しただけ。
それでも。
それが怖かった。
声が、世代を越え始めている。
グレイは、その新生幼生へ近づいた。
小さい。
柔らかい。
白い虫に噛まれた脚を震わせている。
痛み。
恐怖。
それが、声を引き出したのかもしれない。
たす。
まだ続かない。
でも、前より早い。
グレイは、その個体をじっと見た。
もし、このまま育てば。
さらに次が生まれれば。
声を使う個体が増える。
人間を呼ぶ。
止める。
迷わせる。
群れの中で、それが当たり前になる。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
新生幼生は静かになる。
だが、もう遅い。
前の四体のうち二体が、その音を覚えてしまった。
真似しようと口を動かす。
「た……」
「た……」
二体目が強く鳴く。
「グレ!」
止めろ。
その感情。
珍しく強い。
群れの中で、二体目だけが“声の危険”を深く理解している。
グレイも同じだった。
だが、止まらない。
真似は広がる。
群れは学ぶ。
増えれば増えるほど。
その時、外側で人間の気配がさらに動いた。
火薬。
杭。
油。
封鎖線が広がる。
ラグドが低く言う。
「匂いが変わった」
セヴィルが返す。
「ええ。以前より……生物密度が高い」
ロウが木箱を開ける音。
新しい矢。
火矢。
エリシアが小さく息を呑む。
アレンが静かに剣へ手を置く。
人間も感じ始めている。
巣が膨れていることを。
グレイは、入口と巣の奥を交互に見た。
人間。
白い虫。
新生幼生。
空腹。
骨。
声。
全部が増えている。
全部が狭い場所へ詰まり始めている。
飽和。
このままでは、どこかで破裂する。
グレイは、その未来を感じた。
そして、その時は近い。
一体目が低く唸る。
地上へ出たい。
肉が必要。
二体目は逆。
隠れたい。
守りたい。
前の四体も、それぞれ違う方向へ揺れている。
新生幼生たちは、ただ空腹で鳴く。
グレイは、その中心で目を閉じた。
静かにしていれば、生き延びられると思っていた。
だが、群れは静かになれない。
増えるから。
腹が減るから。
命だから。
黒雨が落ちる。
ぽた。
ぽた。
白い虫が群がる。
新生幼生が震える。
人間が外で動く。
灰の巣は、もう限界へ近づき始めていた。
そして、グレイは理解していた。
次に必要なのは、餌だけではない。
場所だ。
もっと広い場所。
もっと深い場所。
あるいは――
地上。
その考えが浮かんだ瞬間、グレイ自身が一番強く恐怖した。




