第72話『増殖』
その夜、グレイは村へ行かなかった。
地上には肉があった。
家畜がいた。
人間が守る火があり、柵があり、鈴があり、待ち伏せの匂いがあった。
一体目は何度も地上側を見た。
行ける。
奪える。
そういう感覚を流してきた。
だが、グレイは止めた。
「グ」
行かない。
何度も。
一体目は従った。
従いはした。
だが、完全に納得したわけではなかった。
群れの腹は、まだ完全に空ではない。
山羊の肉が残した満足が、わずかに巣の中へ残っている。
けれど、それはすぐに消える。
一体目はそれを知っている。
二体目も知っている。
新しい幼生たちも、まだ言葉にはできなくても知っている。
腹は、また減る。
減れば、動かなければならない。
動かなければ、弱いものから壊れる。
グレイは、そのことを誰よりも理解していた。
だから、地上へ行かなかった夜は、勝利ではなかった。
ただ、選択を先へ送っただけだった。
黒雨は、少し弱くなっていた。
ぽた。
ぽた。
以前より間隔が空いている。
腐肉獣の血が流れ切ったのか。
煙の煤が薄まったのか。
地下水脈の流れが変わったのか。
理由は分からない。
だが、水滴の黒さはまだ残っている。
二体目は、その水滴を受ける腐肉獣の皮を何度も確認していた。
危険な水。
飲んではいけない水。
触れすぎてはいけない水。
そうやって群れへ教えている。
新しい幼生たちのうち二体は、それを真似していた。
皮に近づき、匂いを嗅ぎ、すぐに顔を引く。
二体目の動きを見て覚えたのだ。
別の一体は、山羊の骨を入口近くへ運ぼうとしていた。
軽い骨を押し、鳴らし、位置を変える。
一体目の真似。
最後の一体は、まだグレイの近くから離れない。
煙で弱った個体。
呼吸はだいぶ戻ったが、臆病になっている。
骨が鳴るたびに震える。
人間の匂いが遠くで動くだけで、グレイの腹の下へ潜り込もうとする。
違いがはっきりしてきていた。
群れ。
だが、一つではない。
それぞれが違う。
違うまま、同じ巣にいる。
グレイはその様子を見ていた。
以前なら、ただ不気味だった。
今も不気味だ。
だが、それだけではない。
役割が増えている。
できることが増えている。
入口。
匂い。
黒雨。
骨。
警戒。
群れの中で、少しずつ分かれていく。
それは強さだった。
そして、危険だった。
グレイは身体を丸め、少しだけ目を閉じた。
眠るつもりはなかった。
だが、疲労が深かった。
村へ行かなかったこと。
地上の匂いを感じ続けたこと。
一体目を止め続けたこと。
群れの空腹を押さえ続けたこと。
それらが、思った以上に身体へ溜まっていた。
眠りに落ちる直前、遠くの地上の気配が薄く流れた。
人間たちはまだ待っている。
村の外。
森の影。
家畜小屋。
火。
剣。
弓。
祈り。
ラグド。
アレン。
エリシア。
ロウ。
セヴィル。
それらの匂いと音は、かなり遠い。
それでも、白鳴き種の感覚と、群れの緊張のせいで、うっすら届く。
人間は待っている。
グレイは行かなかった。
その二つが、夜の間ずっと向かい合っていた。
やがて、グレイは浅く眠った。
夢は見なかった。
あるいは、見たのかもしれない。
空腹の夢。
黒雨の夢。
村の火の夢。
だが、形になる前に消えた。
代わりに、腹の奥で熱が動いた。
最初は、空腹だと思った。
けれど違った。
それは以前にもあった。
一体目が生まれた時。
二体目が生まれた時。
四体が一度に生まれた時。
外皮の内側を、熱いものが這うような感覚。
痒み。
圧迫。
身体の奥で、別の命が形を持つ感覚。
グレイは目を開けた。
まだ暗い。
巣の中は静かだ。
幼生たちは眠っている。
一体目だけが入口で浅く眠っている。
二体目も、幼生たちのそばで丸まっている。
誰も気づいていない。
いや。
すぐに二体目が顔を上げた。
匂いで気づいたのだ。
グレイの身体の変化。
増殖の匂い。
二体目から強い不安が流れてくる。
「グレ……」
グレイは動けなかった。
腹の奥だけではない。
背の節。
脇腹。
後ろ脚の付け根。
外皮の継ぎ目。
複数の場所で熱が蠢く。
多い。
前より多い。
グレイは黒岩に爪を立てた。
駄目だ。
そう思った。
また増える。
群れが、さらに。
今でも餌が足りない。
今でも人間が待っている。
今でも巣は狭い。
今でも一体目を止めきれるか分からない。
それなのに、増える。
身体は、グレイの意思など聞いていない。
山羊の肉。
久しぶりの大量の栄養。
幼生たちが満ちた。
群れが一時的に安定した。
だから、身体は判断した。
増やせる。
増やすべき。
群れを拡大できる。
グレイは、それを本能の奥で理解してしまった。
生存本能。
適応。
増殖。
食べたから増える。
守るために増える。
危険が増したから、数を増やす。
封鎖されたから。
追われたから。
人間が待っているから。
群れを大きくして対応しようとしている。
それは理屈として間違っていないのかもしれない。
けれど、グレイには恐ろしかった。
今以上に増えれば、もう隠れきれない。
餌も足りない。
声も広がる。
地上へ行きたがる個体も増える。
人間の骨を動かす個体も、言葉を真似る個体も、勝手に動く個体も出るかもしれない。
止められない。
グレイは強く黒岩を掴んだ。
ぬる。
最初の膜が破れた。
濡れた小さな塊が、黒岩へ落ちる。
一体。
小さい。
だが、前の四体が生まれた時より、外皮が少し硬い。
生まれた瞬間から、脚が動いている。
二体目がびくりと震えた。
一体目も目を覚ました。
入口から振り返る。
そして、すぐに警戒ではない感情を流す。
増えた。
また。
ぬる。
二体目。
ぬる。
三体目。
グレイは歯を食いしばる。
止まらない。
ぬる。
四体目。
ぬる。
五体目。
巣の中の幼生たちが、次々に目を覚ます。
新しく生まれた個体の匂いに反応する。
興味。
不安。
空腹。
守る。
それぞれの感情が重なる。
ぬる。
六体目。
グレイは黒岩に身体を押しつけた。
まだ終わらない。
熱が残っている。
ぬる。
七体目。
ぬる。
八体目。
巣の中に、湿った音が続く。
新しい命が落ちる音。
小さな呼吸が増える音。
世界が重くなる音。
グレイの外皮が震えた。
八体。
一度に。
前回の倍。
巣の中の音が、一気に変わった。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
まだ弱い声。
しかし、八つ。
それが同時に空腹を持つ。
同時に寒さを感じる。
同時にグレイの匂いを探す。
グレイの中へ、細かい針のような感覚が一斉に刺さった。
食わせろ。
温めろ。
隠せ。
守れ。
グレイ。
グレイ。
グレイ。
まだ名前を知らないはずなのに、中心を求める感覚だけはある。
新しく生まれた八体は、濡れた身体を震わせながら、グレイの方へ這おうとした。
古い幼生たちが反応する。
前にいた四体。
もう“新しい”とは呼べない。
彼らは一斉に戸惑った。
自分たちより小さいもの。
弱いもの。
守るもの。
餌を奪い合うもの。
その全部。
腐った死骸を食べた個体が、一番早く近づいた。
新しく生まれた一体の匂いを嗅ぐ。
食べようとはしない。
だが、空腹と興味が強い。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
その個体は止まる。
二体目がすぐに新生幼生たちへ近づいた。
濡れた外皮を舐めるように触れ、匂いを整える。
前より手際がいい。
以前、四体が生まれた時に覚えたのだ。
一体目も入口から戻ってきた。
新しい幼生たちの周りを回り、外側を見る。
守る位置。
さらに、前の四体のうち二体が二体目の真似を始める。
小さい新生幼生を黒雨の落ちない場所へ押す。
まだ不器用だ。
押しすぎて、新生幼生が小さく鳴く。
きゅ。
すると、二体目がその二体を押し戻す。
強くではない。
だが、確かに指示のような行動だった。
群れが、群れの中で幼生を扱い始めている。
グレイは、その光景を見ていた。
自分が動かなくても、群れが動いている。
新しい命を守ろうとしている。
それは頼もしい。
それは恐ろしい。
もう完全にグレイ一体の手で育てているわけではない。
群れが、群れを育てる。
増えるための仕組みが、巣の中にでき始めている。
《眷属幼体の大量孵化を確認》
《群体規模が拡大しました》
《二次保護行動を確認》
《群体内育成分担が進行しています》
《増殖適応が加速しています》
声が響いた。
頭の奥。
冷たいようで、熱い声。
グレイはその声を聞きながら、身体を動かせなかった。
増殖適応が加速。
その言葉が、巣全体へ染みるようだった。
加速。
止まらない。
むしろ速くなっている。
山羊を食った。
群れが満ちた。
だから増えた。
増えたから、また食わなければならない。
食うために地上へ出る。
地上へ出れば人間が来る。
人間が来れば危険が増える。
危険が増えれば、さらに適応する。
さらに増える。
輪。
終わらない輪。
グレイは、初めてその形をはっきり感じた。
これは、ただの繁殖ではない。
危機への返答だ。
人間が強くなるほど。
巣が狭まるほど。
群れは増えようとする。
数で補う。
役割を増やす。
感覚を増やす。
道を増やす。
声を増やす。
それが、この身体の答え。
グレイは、胸の奥が冷えていくのを感じた。
もう止められない。
そう思った。
八体の新生幼生は、まだ弱い。
しかし、すぐに動くようになる。
すぐに食べる。
すぐに学ぶ。
すぐに真似る。
前の四体がそうだったように。
いや、それより早いかもしれない。
なぜなら、もう教える個体がいる。
一体目。
二体目。
前の四体。
彼らが新しい八体へ、グレイの行動を伝える。
骨の鳴らし方。
黒雨の避け方。
肉の分け方。
人間の匂い。
そして、声。
声まで広がる。
グレイは二体目を見た。
二体目もこちらを見ている。
不安。
罪悪感。
守る意志。
その全部。
二体目も分かっている。
増えたものへ、自分の知識が移ることを。
助けて、という声も。
来ないで、という声も。
いずれ誰かが真似る。
新生幼生の一体が、まだ目もまともに開かないまま、小さく口を動かした。
「グ……」
グレイの名の欠片。
生まれてすぐに。
群れの音に反応して。
二体目が震える。
一体目は静かに見ている。
前の四体も、その音を聞いている。
グレイは、低く返した。
「グレイ」
すると、一体目が返す。
「グレ」
二体目も。
「グレ」
前の四体も、不揃いに。
「グ……」
「グレ……」
「グ……」
「グ……」
そして、新しい八体が、意味も知らずに震えながら音を出す。
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
巣の中に、十五の声が重なった。
グレイを含めれば、十六。
音が多すぎる。
呼吸が多すぎる。
匂いが多すぎる。
空腹が多すぎる。
グレイは、その中心で意識が沈みかけた。
一匹だった頃が遠い。
死肉を探していた頃。
骨喰い虫から逃げていた頃。
自分の身体を守るだけでよかった頃。
もう、そこへ戻る道はない。
巣は、完全に別のものになった。
群れ。
いや、群れ以上。
生まれ、育て、役割を分け、学び、広がるもの。
災害の芽。
人間がそう呼ぶなら、たぶん間違っていない。
グレイは、新しく生まれた八体の空腹を感じた。
まだ小さい。
だが、すぐに餌がいる。
今すぐ柔らかい肉がいる。
山羊の残りはほとんどない。
地下の小型魔物では足りない。
つまり。
また地上。
また村。
また人間の領域。
グレイは目を閉じた。
昨夜、行かないと選んだ。
それは正しかった。
だが、今、状況が変わった。
八体増えた。
選択は、すぐにまた迫ってくる。
人間は村で待っている。
ラグドたちは、森にいる。
きっと今夜も、明日も、待つ。
そこへ群れが行けば、戦いになる。
だが行かなければ、飢える。
この新しい八体のうち、弱いものから死ぬ。
その想像が、グレイの中を重くした。
殺せるか。
増えすぎたものを。
今なら。
そう考えた。
前にも考えた。
そして食べなかった。
今回も、理屈は同じだ。
数を減らせば餌が足りる。
危険も減る。
声も広がりにくい。
人間に見つかりにくい。
合理的。
グレイは、新生幼生の一体へ顔を近づけた。
濡れている。
小さい。
弱い。
牙を立てれば終わる。
その瞬間。
前の四体のうち、臆病な個体が、グレイと新生幼生の間に身体を滑り込ませた。
震えている。
怖がっている。
それでも、入った。
守るように。
一体目ほど強くない。
二体目ほど分かっているわけでもない。
ただ、小さいものが怖がっているから。
自分より弱いから。
守ろうとした。
グレイは動きを止めた。
次に、二体目が新生幼生を奥へ押した。
一体目がグレイを見た。
責めているわけではない。
だが、止めている。
群れが、またグレイを止めた。
グレイ自身から。
前と同じ。
だが今回は、もっと多い。
一体目。
二体目。
前の幼生。
みんなが、新しい八体を守る側へ回り始めている。
グレイは、牙を閉じた。
食べない。
また。
食べられない。
もう、食べ物として見られない。
群れの一部として見てしまう。
それが、グレイの弱さなのか。
それとも、群れの強さなのか。
分からない。
ただ、これで決まった。
八体は生かす。
生かすなら、食わせる。
食わせるなら、狩る。
狩るなら、地上へ近づく。
人間とぶつかる。
グレイは、ゆっくりと身体を起こした。
二体目が新生幼生をまとめている。
一体目が入口へ戻る。
前の四体が、不器用に世話を手伝う。
八体の新生幼生が、小さく震えながら群れの匂いを覚える。
その光景は、奇妙なほど静かだった。
まるで、巣が自分で次の段階へ進んだようだった。
遠く。
地上の方で、人間の気配が動いている。
村の外。
待機する討伐隊。
彼らはまだ知らない。
灰の巣が、今夜さらに増えたことを。
最低六体だった眷属が、もうその数ではないことを。
巣の中で、育成分担が始まっていることを。
声も、骨も、匂いも、次の世代へ移り始めていることを。
グレイは、黒雨の音を聞いた。
ぽた。
ぽた。
その音の間に、新しい呼吸が混ざる。
八つ。
細く。
弱く。
だが確かに。
グレイは低く鳴いた。
「グレイ」
今度は、返事が多かった。
一体目。
二体目。
前の四体。
新しい八体。
不完全な声が、巣の中で重なっていく。
「グレ」
「グレ」
「グ……」
「グレ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
巣が鳴っているようだった。
グレイは、その中心で理解した。
もう、一匹の意思では止まらない。
群れは増える。
飢える。
学ぶ。
外へ広がる。
そして、人間はそれを止めに来る。
なら、次に来るのは選択ではない。
衝突だ。
グレイは、新しい幼生たちを見下ろした。
小さく、弱く、まだ何も知らない命。
だが、その存在だけで、世界はさらに動く。
グレイは目を閉じた。
生きたいだけだった。
最初から。
それだけだった。
だが、生きたいという願いが増えれば、それは災害になる。
黒雨の音が落ちる。
ぽた。
ぽた。
巣の中で、十六の命が呼吸している。
そして灰の巣は、もう誰にも止められない速度で増え始めていた。




