↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
72/88

第72話『増殖』

その夜、グレイは村へ行かなかった。


地上には肉があった。


家畜がいた。


人間が守る火があり、柵があり、鈴があり、待ち伏せの匂いがあった。


一体目は何度も地上側を見た。


行ける。


奪える。


そういう感覚を流してきた。


だが、グレイは止めた。


「グ」


行かない。


何度も。


一体目は従った。


従いはした。


だが、完全に納得したわけではなかった。


群れの腹は、まだ完全に空ではない。


山羊の肉が残した満足が、わずかに巣の中へ残っている。


けれど、それはすぐに消える。


一体目はそれを知っている。


二体目も知っている。


新しい幼生たちも、まだ言葉にはできなくても知っている。


腹は、また減る。


減れば、動かなければならない。


動かなければ、弱いものから壊れる。


グレイは、そのことを誰よりも理解していた。


だから、地上へ行かなかった夜は、勝利ではなかった。


ただ、選択を先へ送っただけだった。


黒雨は、少し弱くなっていた。


ぽた。


ぽた。


以前より間隔が空いている。


腐肉獣の血が流れ切ったのか。


煙の煤が薄まったのか。


地下水脈の流れが変わったのか。


理由は分からない。


だが、水滴の黒さはまだ残っている。


二体目は、その水滴を受ける腐肉獣の皮を何度も確認していた。


危険な水。


飲んではいけない水。


触れすぎてはいけない水。


そうやって群れへ教えている。


新しい幼生たちのうち二体は、それを真似していた。


皮に近づき、匂いを嗅ぎ、すぐに顔を引く。


二体目の動きを見て覚えたのだ。


別の一体は、山羊の骨を入口近くへ運ぼうとしていた。


軽い骨を押し、鳴らし、位置を変える。


一体目の真似。


最後の一体は、まだグレイの近くから離れない。


煙で弱った個体。


呼吸はだいぶ戻ったが、臆病になっている。


骨が鳴るたびに震える。


人間の匂いが遠くで動くだけで、グレイの腹の下へ潜り込もうとする。


違いがはっきりしてきていた。


群れ。


だが、一つではない。


それぞれが違う。


違うまま、同じ巣にいる。


グレイはその様子を見ていた。


以前なら、ただ不気味だった。


今も不気味だ。


だが、それだけではない。


役割が増えている。


できることが増えている。


入口。


匂い。


黒雨。


骨。


警戒。


群れの中で、少しずつ分かれていく。


それは強さだった。


そして、危険だった。


グレイは身体を丸め、少しだけ目を閉じた。


眠るつもりはなかった。


だが、疲労が深かった。


村へ行かなかったこと。


地上の匂いを感じ続けたこと。


一体目を止め続けたこと。


群れの空腹を押さえ続けたこと。


それらが、思った以上に身体へ溜まっていた。


眠りに落ちる直前、遠くの地上の気配が薄く流れた。


人間たちはまだ待っている。


村の外。


森の影。


家畜小屋。


火。


剣。


弓。


祈り。


ラグド。


アレン。


エリシア。


ロウ。


セヴィル。


それらの匂いと音は、かなり遠い。


それでも、白鳴き種の感覚と、群れの緊張のせいで、うっすら届く。


人間は待っている。


グレイは行かなかった。


その二つが、夜の間ずっと向かい合っていた。


やがて、グレイは浅く眠った。


夢は見なかった。


あるいは、見たのかもしれない。


空腹の夢。


黒雨の夢。


村の火の夢。


だが、形になる前に消えた。


代わりに、腹の奥で熱が動いた。


最初は、空腹だと思った。


けれど違った。


それは以前にもあった。


一体目が生まれた時。


二体目が生まれた時。


四体が一度に生まれた時。


外皮の内側を、熱いものが這うような感覚。


痒み。


圧迫。


身体の奥で、別の命が形を持つ感覚。


グレイは目を開けた。


まだ暗い。


巣の中は静かだ。


幼生たちは眠っている。


一体目だけが入口で浅く眠っている。


二体目も、幼生たちのそばで丸まっている。


誰も気づいていない。


いや。


すぐに二体目が顔を上げた。


匂いで気づいたのだ。


グレイの身体の変化。


増殖の匂い。


二体目から強い不安が流れてくる。


「グレ……」


グレイは動けなかった。


腹の奥だけではない。


背の節。


脇腹。


後ろ脚の付け根。


外皮の継ぎ目。


複数の場所で熱が蠢く。


多い。


前より多い。


グレイは黒岩に爪を立てた。


駄目だ。


そう思った。


また増える。


群れが、さらに。


今でも餌が足りない。


今でも人間が待っている。


今でも巣は狭い。


今でも一体目を止めきれるか分からない。


それなのに、増える。


身体は、グレイの意思など聞いていない。


山羊の肉。


久しぶりの大量の栄養。


幼生たちが満ちた。


群れが一時的に安定した。


だから、身体は判断した。


増やせる。


増やすべき。


群れを拡大できる。


グレイは、それを本能の奥で理解してしまった。


生存本能。


適応。


増殖。


食べたから増える。


守るために増える。


危険が増したから、数を増やす。


封鎖されたから。


追われたから。


人間が待っているから。


群れを大きくして対応しようとしている。


それは理屈として間違っていないのかもしれない。


けれど、グレイには恐ろしかった。


今以上に増えれば、もう隠れきれない。


餌も足りない。


声も広がる。


地上へ行きたがる個体も増える。


人間の骨を動かす個体も、言葉を真似る個体も、勝手に動く個体も出るかもしれない。


止められない。


グレイは強く黒岩を掴んだ。


ぬる。


最初の膜が破れた。


濡れた小さな塊が、黒岩へ落ちる。


一体。


小さい。


だが、前の四体が生まれた時より、外皮が少し硬い。


生まれた瞬間から、脚が動いている。


二体目がびくりと震えた。


一体目も目を覚ました。


入口から振り返る。


そして、すぐに警戒ではない感情を流す。


増えた。


また。


ぬる。


二体目。


ぬる。


三体目。


グレイは歯を食いしばる。


止まらない。


ぬる。


四体目。


ぬる。


五体目。


巣の中の幼生たちが、次々に目を覚ます。


新しく生まれた個体の匂いに反応する。


興味。


不安。


空腹。


守る。


それぞれの感情が重なる。


ぬる。


六体目。


グレイは黒岩に身体を押しつけた。


まだ終わらない。


熱が残っている。


ぬる。


七体目。


ぬる。


八体目。


巣の中に、湿った音が続く。


新しい命が落ちる音。


小さな呼吸が増える音。


世界が重くなる音。


グレイの外皮が震えた。


八体。


一度に。


前回の倍。


巣の中の音が、一気に変わった。


きゅ。


きゅ。


きゅ。


きゅ。


まだ弱い声。


しかし、八つ。


それが同時に空腹を持つ。


同時に寒さを感じる。


同時にグレイの匂いを探す。


グレイの中へ、細かい針のような感覚が一斉に刺さった。


食わせろ。


温めろ。


隠せ。


守れ。


グレイ。


グレイ。


グレイ。


まだ名前を知らないはずなのに、中心を求める感覚だけはある。


新しく生まれた八体は、濡れた身体を震わせながら、グレイの方へ這おうとした。


古い幼生たちが反応する。


前にいた四体。


もう“新しい”とは呼べない。


彼らは一斉に戸惑った。


自分たちより小さいもの。


弱いもの。


守るもの。


餌を奪い合うもの。


その全部。


腐った死骸を食べた個体が、一番早く近づいた。


新しく生まれた一体の匂いを嗅ぐ。


食べようとはしない。


だが、空腹と興味が強い。


グレイは低く鳴いた。


「グ」


その個体は止まる。


二体目がすぐに新生幼生たちへ近づいた。


濡れた外皮を舐めるように触れ、匂いを整える。


前より手際がいい。


以前、四体が生まれた時に覚えたのだ。


一体目も入口から戻ってきた。


新しい幼生たちの周りを回り、外側を見る。


守る位置。


さらに、前の四体のうち二体が二体目の真似を始める。


小さい新生幼生を黒雨の落ちない場所へ押す。


まだ不器用だ。


押しすぎて、新生幼生が小さく鳴く。


きゅ。


すると、二体目がその二体を押し戻す。


強くではない。


だが、確かに指示のような行動だった。


群れが、群れの中で幼生を扱い始めている。


グレイは、その光景を見ていた。


自分が動かなくても、群れが動いている。


新しい命を守ろうとしている。


それは頼もしい。


それは恐ろしい。


もう完全にグレイ一体の手で育てているわけではない。


群れが、群れを育てる。


増えるための仕組みが、巣の中にでき始めている。


《眷属幼体の大量孵化を確認》


《群体規模が拡大しました》


《二次保護行動を確認》


《群体内育成分担が進行しています》


《増殖適応が加速しています》


声が響いた。


頭の奥。


冷たいようで、熱い声。


グレイはその声を聞きながら、身体を動かせなかった。


増殖適応が加速。


その言葉が、巣全体へ染みるようだった。


加速。


止まらない。


むしろ速くなっている。


山羊を食った。


群れが満ちた。


だから増えた。


増えたから、また食わなければならない。


食うために地上へ出る。


地上へ出れば人間が来る。


人間が来れば危険が増える。


危険が増えれば、さらに適応する。


さらに増える。


輪。


終わらない輪。


グレイは、初めてその形をはっきり感じた。


これは、ただの繁殖ではない。


危機への返答だ。


人間が強くなるほど。


巣が狭まるほど。


群れは増えようとする。


数で補う。


役割を増やす。


感覚を増やす。


道を増やす。


声を増やす。


それが、この身体の答え。


グレイは、胸の奥が冷えていくのを感じた。


もう止められない。


そう思った。


八体の新生幼生は、まだ弱い。


しかし、すぐに動くようになる。


すぐに食べる。


すぐに学ぶ。


すぐに真似る。


前の四体がそうだったように。


いや、それより早いかもしれない。


なぜなら、もう教える個体がいる。


一体目。


二体目。


前の四体。


彼らが新しい八体へ、グレイの行動を伝える。


骨の鳴らし方。


黒雨の避け方。


肉の分け方。


人間の匂い。


そして、声。


声まで広がる。


グレイは二体目を見た。


二体目もこちらを見ている。


不安。


罪悪感。


守る意志。


その全部。


二体目も分かっている。


増えたものへ、自分の知識が移ることを。


助けて、という声も。


来ないで、という声も。


いずれ誰かが真似る。


新生幼生の一体が、まだ目もまともに開かないまま、小さく口を動かした。


「グ……」


グレイの名の欠片。


生まれてすぐに。


群れの音に反応して。


二体目が震える。


一体目は静かに見ている。


前の四体も、その音を聞いている。


グレイは、低く返した。


「グレイ」


すると、一体目が返す。


「グレ」


二体目も。


「グレ」


前の四体も、不揃いに。


「グ……」


「グレ……」


「グ……」


「グ……」


そして、新しい八体が、意味も知らずに震えながら音を出す。


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


巣の中に、十五の声が重なった。


グレイを含めれば、十六。


音が多すぎる。


呼吸が多すぎる。


匂いが多すぎる。


空腹が多すぎる。


グレイは、その中心で意識が沈みかけた。


一匹だった頃が遠い。


死肉を探していた頃。


骨喰い虫から逃げていた頃。


自分の身体を守るだけでよかった頃。


もう、そこへ戻る道はない。


巣は、完全に別のものになった。


群れ。


いや、群れ以上。


生まれ、育て、役割を分け、学び、広がるもの。


災害の芽。


人間がそう呼ぶなら、たぶん間違っていない。


グレイは、新しく生まれた八体の空腹を感じた。


まだ小さい。


だが、すぐに餌がいる。


今すぐ柔らかい肉がいる。


山羊の残りはほとんどない。


地下の小型魔物では足りない。


つまり。


また地上。


また村。


また人間の領域。


グレイは目を閉じた。


昨夜、行かないと選んだ。


それは正しかった。


だが、今、状況が変わった。


八体増えた。


選択は、すぐにまた迫ってくる。


人間は村で待っている。


ラグドたちは、森にいる。


きっと今夜も、明日も、待つ。


そこへ群れが行けば、戦いになる。


だが行かなければ、飢える。


この新しい八体のうち、弱いものから死ぬ。


その想像が、グレイの中を重くした。


殺せるか。


増えすぎたものを。


今なら。


そう考えた。


前にも考えた。


そして食べなかった。


今回も、理屈は同じだ。


数を減らせば餌が足りる。


危険も減る。


声も広がりにくい。


人間に見つかりにくい。


合理的。


グレイは、新生幼生の一体へ顔を近づけた。


濡れている。


小さい。


弱い。


牙を立てれば終わる。


その瞬間。


前の四体のうち、臆病な個体が、グレイと新生幼生の間に身体を滑り込ませた。


震えている。


怖がっている。


それでも、入った。


守るように。


一体目ほど強くない。


二体目ほど分かっているわけでもない。


ただ、小さいものが怖がっているから。


自分より弱いから。


守ろうとした。


グレイは動きを止めた。


次に、二体目が新生幼生を奥へ押した。


一体目がグレイを見た。


責めているわけではない。


だが、止めている。


群れが、またグレイを止めた。


グレイ自身から。


前と同じ。


だが今回は、もっと多い。


一体目。


二体目。


前の幼生。


みんなが、新しい八体を守る側へ回り始めている。


グレイは、牙を閉じた。


食べない。


また。


食べられない。


もう、食べ物として見られない。


群れの一部として見てしまう。


それが、グレイの弱さなのか。


それとも、群れの強さなのか。


分からない。


ただ、これで決まった。


八体は生かす。


生かすなら、食わせる。


食わせるなら、狩る。


狩るなら、地上へ近づく。


人間とぶつかる。


グレイは、ゆっくりと身体を起こした。


二体目が新生幼生をまとめている。


一体目が入口へ戻る。


前の四体が、不器用に世話を手伝う。


八体の新生幼生が、小さく震えながら群れの匂いを覚える。


その光景は、奇妙なほど静かだった。


まるで、巣が自分で次の段階へ進んだようだった。


遠く。


地上の方で、人間の気配が動いている。


村の外。


待機する討伐隊。


彼らはまだ知らない。


灰の巣が、今夜さらに増えたことを。


最低六体だった眷属が、もうその数ではないことを。


巣の中で、育成分担が始まっていることを。


声も、骨も、匂いも、次の世代へ移り始めていることを。


グレイは、黒雨の音を聞いた。


ぽた。


ぽた。


その音の間に、新しい呼吸が混ざる。


八つ。


細く。


弱く。


だが確かに。


グレイは低く鳴いた。


「グレイ」


今度は、返事が多かった。


一体目。


二体目。


前の四体。


新しい八体。


不完全な声が、巣の中で重なっていく。


「グレ」


「グレ」


「グ……」


「グレ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


巣が鳴っているようだった。


グレイは、その中心で理解した。


もう、一匹の意思では止まらない。


群れは増える。


飢える。


学ぶ。


外へ広がる。


そして、人間はそれを止めに来る。


なら、次に来るのは選択ではない。


衝突だ。


グレイは、新しい幼生たちを見下ろした。


小さく、弱く、まだ何も知らない命。


だが、その存在だけで、世界はさらに動く。


グレイは目を閉じた。


生きたいだけだった。


最初から。


それだけだった。


だが、生きたいという願いが増えれば、それは災害になる。


黒雨の音が落ちる。


ぽた。


ぽた。


巣の中で、十六の命が呼吸している。


そして灰の巣は、もう誰にも止められない速度で増え始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。