第71話『選択』
朝になる前に、村から使者が走った。
夜明けの色が空に滲むより早く、若い男が馬に乗って村を出た。
手綱を握る手は震えていた。
馬も落ち着かない。
夜の間に何度も警鐘が鳴ったせいで、村全体が眠れていなかった。
家畜小屋の壁は破られていた。
木の板が内側からではなく、外側から噛み砕かれていた。
床には血。
山羊の引きずられた跡。
柵の近くには、小さな黒い外皮の欠片。
そして、見張りの男が見たという証言。
黒い影が二つ。
大きいものと、小さいもの。
山羊を咥えて森へ消えた。
男は、その影を知っていた。
報告書や通達で見た言葉を思い出した。
灰の巣主。
助けを呼ぶ魔物。
地下にいるはずの災害。
それが、村まで来た。
家畜を奪った。
子供が眠る家のすぐ外まで来た。
その事実が、村を変えた。
昨夜までは噂だった。
下層の話だった。
王都やギルドや討伐隊が何とかする遠い問題だった。
だが今は違う。
小屋の壁が破られている。
血が残っている。
家畜が消えている。
そして、子供が泣いている。
それだけで、人間の世界では十分だった。
使者は臨時拠点へ向かった。
馬の蹄が湿った土を叩く。
息が白くなる。
朝の冷気。
森の影。
どこかから、また黒い影が出てくるのではないか。
男は何度も振り返った。
何もいない。
それでも怖かった。
助けて、とどこかから聞こえた気がした。
実際には風だった。
木々が擦れただけ。
それでも男は、手綱を握る手に力を込め、馬を走らせた。
臨時拠点に報告が届いたのは、朝の鐘が鳴る少し前だった。
ラグドは眠っていなかった。
もともと、最近はまともに眠れていない。
封鎖線の地図。
灰の巣の痕跡。
黒雨の流路。
村への警戒通達。
討伐隊の動き。
研究院の観測記録。
全部が机の上に積み上がっている。
一つ片づけても、次が来る。
一つ止めても、別が動く。
灰の巣主だけではない。
人間側も、制御しきれなくなりつつある。
ラグドは、それを強く感じていた。
防衛局は早期討伐を求めている。
研究院は観測を続けたい。
ギルドは依頼停止と補償で揉めている。
村は不安を抱えている。
討伐隊は迷いながら待機している。
誰もが正しいことを言っている。
だから、最悪だった。
扉が乱暴に叩かれた。
「村から緊急報告です!」
ラグドは顔を上げた。
嫌な予感はしていた。
昨日、灰の巣主が地上に出ている可能性があると報告があった。
森の罠から獲物が消えた。
人間の罠の匂いが地下の外縁に残っていた。
その時点で、ラグドは思っていた。
次は家畜かもしれない。
そして、それは当たってしまった。
使者の報告は短かった。
夜半、村の家畜小屋が襲われた。
山羊一頭が奪われた。
黒い大きな魔物と、小さな同種の魔物を目撃。
灰の巣主および眷属と思われる。
村人に負傷者なし。
ただし家畜小屋が破損。
村民は強い不安状態。
見張り増員を要請。
即時討伐を求める声あり。
ラグドは報告書を読み終えると、しばらく黙った。
使者は震えている。
怒りもある。
恐怖もある。
そして、期待もある。
討伐隊が何とかしてくれるはずだという期待。
ラグドは、その目が苦手だった。
守ってくれ。
殺してくれ。
そう言われている。
言葉にされなくても分かる。
「被害は山羊一頭だけか」
ラグドが聞く。
使者は顔を歪めた。
「だけ、ですか」
ラグドはすぐに失言を悟った。
「悪い。確認だ」
使者は拳を握る。
「子供が見てたんです。黒いのが、小屋から山羊を引きずっていくのを。もし、次に小屋じゃなく家だったら?」
ラグドは答えられなかった。
使者は続ける。
「助けを呼ぶ声の話も聞いてます。夜にそんな声が聞こえたら、誰かが外に出るかもしれない。子供だったらどうするんですか」
その問いにも、答えられない。
ラグドは目を閉じた。
今ならまだ間に合う。
そう思っていた。
巣の中にいるうちなら。
地上へ本格的に出る前なら。
人間を食う前なら。
家畜被害が出る前なら。
まだ、何かやりようがある。
そう思っていた。
だが、その“前”は一つずつ潰れていく。
灰の巣主は地上を見た。
村を見た。
罠の獲物を奪った。
そして今、家畜を奪った。
人間を殺していない。
まだ。
だが、村人にとってはもう十分に脅威だった。
ラグドは立ち上がった。
「村へ防衛班を回す。夜間見張りを増やす。単独行動は禁止。助けを呼ぶ声が聞こえても絶対に外へ出るな。これを改めて伝えろ」
使者は食い下がる。
「討伐は?」
ラグドは短く言った。
「会議で決める」
「今決めてください!」
その声に、廊下にいた者たちが振り返る。
使者の目は赤かった。
怒りと寝不足と恐怖。
「村は、今夜また来るかもしれないんです!」
ラグドは、その目を正面から受けた。
「分かってる」
「分かってない!」
使者は叫んだ。
「地下の化け物だと思ってたんです! でも来たんです! 俺たちの村に! 俺たちの家の前に!」
ラグドは拳を握った。
分かっている。
分かっているから苦しい。
だが、ここで感情だけで討伐を決めれば、もっと悪くなるかもしれない。
巣を刺激し、群れが散り、複数の村へ出る可能性もある。
だが、それを村人へ説明して納得させられるか。
できるわけがない。
彼らにとって重要なのは、今夜また来るかもしれない恐怖だ。
ラグドは低く言った。
「必ず対応する」
それしか言えなかった。
その日の会議は、これまでで最も荒れた。
防衛局は即時討伐を主張した。
村に被害が出た以上、局地災害指定に基づいて排除すべきだと。
ギルドは周辺村の避難準備を求めた。
研究院は観測を続ける余地を主張したが、声は弱くなっていた。
セヴィルですら、家畜被害の報告を読んだ時には表情を消していた。
「ついに地上の所有物を襲いましたか」
ミーリアが言った。
「所有物、では済みません。村の生活基盤です」
セヴィルは頷く。
「ええ。分かっています」
エリシアは顔を伏せていた。
昨夜、村にいた子供が黒い影を見たという報告を聞いてから、彼女はほとんど喋っていない。
アレンは真剣な顔で地図を見ている。
ロウは壁際で腕を組んでいた。
防衛局の魔導兵が強く言う。
「これで、討伐しない理由はなくなったはずです」
ラグドは低く返した。
「理由はある」
「何ですか」
「群れが散る危険だ」
「またそれですか」
「またそれだ」
魔導兵は机を叩いた。
「では、いつまで待つんです! 家畜の次は人です! 子供が外へ出ていたらどうなっていたか!」
ラグドは黙った。
その沈黙が、相手をさらに怒らせる。
「あなたは現場を見すぎて情が移ったのではないですか」
会議室が静まった。
アレンが顔を上げる。
エリシアも。
セヴィルは目を細めた。
ラグドは、ゆっくりと魔導兵を見た。
「情?」
「灰の巣主を殺したくないように見えます」
「殺したくないんじゃない」
ラグドの声は低かった。
「殺し損ねた時が怖いんだ」
魔導兵が口を閉じる。
ラグドは地図を叩いた。
「巣は広がってる。眷属もいる。声を使う。骨を動かす。逃げ道もある。中心個体だけ殺せば終わる保証はない。下手に突っ込んで、数体でも地上へ散ったらどうする。村一つじゃ済まない」
「だから完全包囲してから討伐すべきです」
「その完全包囲ができてない」
「なら急げばいい」
「急いで崩落を起こして、腐肉獣を流したのは誰だ」
魔導兵の顔が歪む。
ラグドはさらに続けた。
「俺は討伐に反対してるんじゃない。順番を間違えるなと言ってる」
アレンが静かに聞いた。
「ラグドさんは、どうすべきだと思いますか」
ラグドは、しばらく黙った。
そして言った。
「今夜、村を守る」
全員が彼を見る。
「灰の巣主は家畜を奪った。群れが飢えてるなら、また来る可能性がある。討伐隊を村側に置く。巣へ突っ込むんじゃなく、出てきたところを止める」
防衛局の魔導兵が眉を寄せる。
「待ち伏せですか」
「防衛だ」
「同じでしょう」
「違う。巣の奥で戦うより、村の外で止めた方がまだ見通しがいい」
セヴィルが少し考えて言った。
「理に適っています。巣を刺激せず、地上侵出の経路を確認できる。さらに、家畜被害の再発を防げる」
魔導兵が苛立つ。
「研究目線ではそうでしょうね」
「防衛目線でもです」
セヴィルは珍しく強く言った。
「巣内討伐を焦れば、戦場は向こうの領域です。骨、匂い、細道、黒雨。全てが相手に有利です。村外であれば、少なくとも地形は我々が選べる」
ロウが頷いた。
「俺もそっちがいい。森なら見える。地下よりは」
エリシアも小さく言った。
「村の人を守れるなら」
アレンは少しだけ目を閉じた。
それから、顔を上げる。
「俺も賛成です」
魔導兵は不満そうだったが、討伐隊の中核が賛成したことで黙った。
ミーリアがまとめる。
「では、今夜は村外防衛。討伐ではなく侵入阻止。ただし、対象が人間へ攻撃した場合、即時交戦」
ラグドが頷く。
「それでいい」
アレンは静かに言った。
「もし、灰の巣主がまた家畜を狙ったら」
ラグドは答える。
「止める」
「殺しますか」
空気が止まる。
ラグドは、アレンの目を見た。
アレンの目は揺れていなかった。
揺れを押し殺しているだけかもしれない。
だが、もう逃げていない。
「必要なら」
ラグドは言った。
アレンは頷いた。
その頃。
地下の巣では、山羊の骨が残っていた。
肉はほとんど食べ終えた。
骨の一部は一体目が入口へ運んだ。
家畜の骨は、地下の魔物とは匂いが違う。
二体目は、その匂いを嫌がった。
人間の匂いがついているからだ。
だが、骨は使える。
硬い。
軽い。
鳴りやすい。
巣の入口に置けば、いい音がした。
からん。
黒鼠の骨より澄んだ音。
一体目はその音を気に入った。
何度か押して鳴らした。
グレイはそれを止めた。
「グ」
音を無駄に鳴らすな。
一体目は止まる。
だが、山羊の骨の音を覚えた。
新しい幼生たちも覚えた。
人間の家畜の骨が、灰の巣の一部になり始めていた。
グレイは、それを見ていた。
村から奪ったものが、巣の守りになる。
人間のものを食べ、人間のものを骨にして、自分たちの場所へ組み込む。
それは、もうただの狩りではない。
グレイにも分かる。
線を越えた。
巣の中には満腹の空気が残っている。
幼生たちは昨日より元気だ。
煙で弱っていた個体も動きが戻っている。
腐った死骸を食べた個体も、今は落ち着いている。
肉は群れを救った。
だから、グレイは後悔しきれない。
だが、人間の警鐘の音が頭に残っている。
村の男の叫び。
子供の声。
火を持て、という言葉。
人間もまた、守るために動く。
グレイは、二体目が山羊の骨の匂いを消そうとしているのを見た。
黒岩粉を擦りつける。
腐肉獣の皮で覆う。
人間の匂いを隠す。
それは正しい。
だが、隠しても事実は消えない。
巣にはもう、村の匂いが入った。
地上の家畜の血が入った。
人間の生活の一部が、群れの腹に入った。
その時。
一体目が地上側へ顔を向けた。
また行くべきだ。
その感覚。
グレイは低く鳴く。
「グ」
まだだ。
一体目は不満を流す。
肉がある場所を知っている。
なぜ待つ。
そういう感覚。
グレイは返せない。
人間が待っているかもしれないから。
そう伝えようとするが、一体目にはまだ曖昧だ。
人間は危険。
だが、家畜は肉。
人間を避けて肉を取ればいい。
一体目はそう学習してしまった。
昨日の成功が、群れの中に残っている。
二体目は不安を返す。
人間が来る。
声。
火。
危険。
二体目は、人間の反応に敏い。
グレイは二体目の不安を信じた。
次に村へ行けば、前と同じでは済まない。
それでも、肉は必要になる。
明日か。
明後日か。
すぐに。
グレイは、巣の中央で動けなくなった。
行けば危険。
行かなければ飢える。
選択。
その言葉がレオンの記憶から浮かぶ。
人間はよく選ぶ。
助けるか。
逃げるか。
戦うか。
見捨てるか。
そして、選んだ後で後悔する。
グレイは、そんな人間の記憶を馬鹿にしていたのかもしれない。
迷うから弱い。
そう感じていた。
だが今、グレイ自身が迷っている。
群れを守るために肉を奪うか。
人間を刺激しないために飢えを耐えるか。
どちらを選んでも、何かが壊れる。
夜が近づいた。
地上では、討伐隊が村の外へ配置についた。
ラグドは森の縁にいた。
アレンは家畜小屋の近く。
エリシアは村人たちの避難場所で待機。
ロウは木の上。
セヴィルは少し後方の観測地点。
防衛局の魔導兵たちは柵の外側へ散っている。
村人たちは家の中にいる。
火は絞られた。
だが、完全には消していない。
暗すぎても危険だからだ。
山羊が一頭減った家畜小屋には、別の家畜がいる。
餌。
囮ではない。
少なくとも建前上は。
村を守るために、家畜は移動できなかった。
だが、ラグドには分かっている。
これは半分、待ち伏せだ。
灰の巣主がまた来るなら、ここだ。
来なければいい。
そう思う。
来なければ、今夜は何も起きない。
村人は少し安心する。
討伐はもう少し先延ばしにできる。
だが、来れば。
その時は、選ばなければならない。
ラグドは森の闇を見ていた。
「今ならまだ間に合う」
小さく呟いた。
何に間に合うのか、自分でも分からない。
灰の巣主を殺さずに済むことか。
村が血を見ずに済むことか。
討伐隊が迷いを捨てる前か。
それとも、あの黒い群れが完全に人間の敵になる前か。
分からない。
ただ、何かがまだ間に合う気がしていた。
その感覚に、ラグドはしがみついていた。
地下の巣で、グレイは地上の匂いを感じていた。
村。
家畜。
人間。
強い気配。
多い。
昨夜とは違う。
待っている。
グレイは分かった。
人間は選んだ。
守るために待つことを。
一体目が地上側を見ている。
行きたい。
肉がある。
だが、グレイは低く鳴いた。
「グ」
行かない。
一体目が振り返る。
強い不満。
群れの空腹はまだ完全ではないが、いずれ来る。
今のうちに取りに行くべき。
そういう感覚。
グレイはもう一度鳴いた。
「グ」
行かない。
二体目が安堵を流す。
新しい幼生たちは意味を理解していない。
ただ、グレイの強い制止に静かになる。
一体目は、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくり身体を低くした。
従った。
だが、その奥には消えない感情があった。
空腹になれば、また出る。
肉を知っているから。
グレイは、その感情を感じながら目を閉じた。
今夜は行かない。
それが選択だった。
だが、選択は終わりではない。
先延ばしにすぎない。
地上では、ラグドたちが待っている。
地下では、グレイたちが飢えを待っている。
両方が、まだ何かに間に合うと思っている。
だが、夜は長かった。
森は静かだった。
村の火は小さく揺れていた。
そして、誰も来ないまま、時間だけが過ぎていく。
それでも、ラグドは知っていた。
これで終わりではない。
来なかったことは、解決ではない。
灰の巣主は選んだ。
今夜は来ないことを。
なら、次に飢えた時。
どんな選択をするのか。
その答えが、もっと重いものになるかもしれない。
地下の巣で、グレイも同じように感じていた。
今夜は選んだ。
行かないと。
だが、群れはまた腹を空かせる。
その時、自分はまた止められるのか。
一体目を。
幼生たちを。
自分自身を。
答えはなかった。
黒雨の音が、静かに落ちる。
ぽた。
ぽた。
選択は、まだ終わっていない。
ただ、次の飢餓まで先送りされただけだった。




