第70話『飢餓線』
肉は、三日もたなかった。
森で奪った獣は大きかった。
少なくとも、地下で捕れる黒鼠や骨喰い虫とは比べものにならない量の肉があった。
新しい幼生たちは腹を満たし、一体目と二体目も久しぶりに十分食べた。
グレイも、硬い筋と余った臓器を食べた。
群れは静かになった。
飢餓に震える声は消え、黒雨の落ちる音だけが巣に戻った。
だが、それは長く続かなかった。
幼生たちは育っている。
食べれば育つ。
育てば、さらに食べる。
当たり前のことだった。
その当たり前が、今のグレイには重かった。
新しい四体は、もう生まれたばかりの柔らかい塊ではない。
小さいながらも歩き、骨を押し、肉を噛み、匂いに反応する。
煙で弱っていた個体も、少しずつ動けるようになった。
腐った死骸を食べた個体は、相変わらず前へ出たがる。
骨を動かした個体は、入口近くの配置を覚え始めている。
残る二体も、二体目の匂い分けを真似している。
つまり、全員が生きようとしている。
生きようとするたび、腹が減る。
グレイは保存場所を見た。
獣の骨。
少し乾いた筋。
硬い皮。
食える部分は、ほとんどない。
二体目がそこへ近づき、匂いを嗅ぐ。
まだ食べられるか。
危険か。
残せるか。
だが、返ってくる感覚は薄かった。
少ない。
足りない。
それだけ。
一体目は入口側にいた。
地下ではなく、地上側へ繋がる道を気にしている。
森。
獣。
罠。
村。
その記憶が、一体目の中で強くなっていた。
地上には肉がある。
地下より多い。
柔らかい。
大きい。
群れを満たせる。
一体目は、そう覚えた。
グレイも同じだ。
分かっている。
地下で小型魔物を追うより、地上で獣を狩る方が効率がいい。
ただし、人間に近い。
人間の匂いがある。
罠がある。
村がある。
そして、火がある。
前回、グレイは村を見た。
火を囲む人間を見た。
子供を止める女を見た。
家畜小屋を見た。
そして、家畜には手を出さなかった。
そのかわり、森の罠にかかった獣を奪った。
あれも人間のものだったのかもしれない。
だが、まだ境界は曖昧だった。
森の獣。
罠にかかった肉。
人間の手が届く前のもの。
そう考えることもできた。
だが、次はどうする。
森の罠は、毎回あるわけではない。
自然の獣も、簡単には見つからない。
群れは飢える。
なら、もっと確実な肉へ向かうしかない。
家畜。
人間が囲い、育て、守っている肉。
それを襲えば、もう言い訳はできない。
人間のものを奪う。
人間の暮らしを壊す。
グレイは、その意味を完全には言葉にできない。
だが、分かる。
あれを食べれば、線を越える。
その線の名前を、グレイは知らない。
だが、そこに線があることだけは分かっていた。
巣の奥で、新しい幼生の一体が鳴いた。
きゅ。
空腹。
それに続いて、もう一体。
きゅ。
さらに、別の一体が保存場所の骨を齧る。
かり。
食べられない。
それでも齧る。
二体目が止めようとするが、その幼生は抵抗した。
空腹が強い。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
幼生は止まる。
だが、空腹は消えない。
一体目が、グレイを見る。
行くべきだ。
その感覚。
グレイはしばらく動かなかった。
遠くでは、人間の杭の音がまだ時々響く。
封鎖は続いている。
地下の狩場は狭まっている。
腐肉獣の流れも変わった。
黒雨は少し減ったが、完全には消えていない。
下層はもう、以前の下層ではない。
なら、地上へ出るしかない。
グレイは、ゆっくり立ち上がった。
一体目がすぐ反応する。
連れて行け。
そう言うように前へ出る。
今回は、グレイは止めなかった。
一体目は必要だった。
地上で大きな獲物を運ぶには、一体では足りない。
二体目は巣に残す。
幼生たちを守るため。
グレイは二体目へ感覚を送る。
守れ。
奥。
静かに。
二体目は不安を返す。
人間。
声。
危険。
グレイは返す。
声を出すな。
二体目は小さく鳴いた。
「グレ」
分かった。
だが、その奥に残る声の記憶は消えない。
たすけて。
こないで。
言葉は、もう巣に残っている。
グレイは、それ以上考えなかった。
考えれば動けなくなる。
群れは飢えている。
それが今の現実だった。
夜を待った。
地上へ出る時は、夜がいい。
光が少ない。
人間の動きも減る。
だが、夜は夜で匂いが動く。
風が変わる。
草が音を立てる。
地上は、地下より広い。
広いということは、隠れる場所もあるが、見つかる場所も多いということだった。
グレイと一体目は、地上近くの裂け目を抜けた。
土の匂い。
草。
木。
遠くの火。
村。
前回と同じ村だった。
違うのは、村の空気だった。
警戒がある。
罠の獲物が消えたからだろう。
柵の近くに人間の匂いが増えている。
家畜小屋の周りに新しい縄。
木の杭。
小さな鈴。
鳴子。
人間も学んだ。
森の罠から獲物が消えた。
だから、村の外側を警戒した。
家畜を守るために。
グレイは、木の影からそれを見た。
鈴。
骨の鳴子に似ている。
踏めば音が出る。
触れれば人間が起きる。
人間も同じことをする。
守るために。
そのことが、グレイの胸を少しだけ重くした。
似ている。
自分たちと。
巣を守るために骨を置く。
人間は家畜を守るために鈴を置く。
どちらも、守るものがあるから。
一体目が低く鳴く。
「グレ」
行ける。
そういう感覚。
一体目は鈴の配置を見ている。
隙間。
風。
杭の高さ。
地下の骨よりは単純。
避けられる。
グレイもそう思った。
人間の罠は、灰の巣の鳴子ほど複雑ではない。
少なくとも、この村のものは。
だが、問題は罠ではない。
問題は、罠を越えた先にある肉が、人間のものだということだ。
家畜小屋の中で、獣が眠っている。
山羊に似たものが二頭。
鳥が複数。
小さな豚に似た獣が一頭。
全部、肉。
群れを満たす肉。
グレイの腹は、そこまで空いていない。
だが、巣から流れてくる幼生たちの空腹がある。
遠くても分かる。
肉。
肉が必要。
一体目もその空腹を感じている。
だから、迷わない。
グレイだけが迷っている。
レオンの記憶が、また火のそばの人間を見せる。
家畜は、彼らの食べ物だ。
生活だ。
明日の肉だ。
子供の食事だ。
それを奪う。
なら、人間は怒る。
悲しむ。
困る。
それでも。
幼生たちも腹を空かせている。
二体目も待っている。
群れも生きたい。
人間の子供と、灰の幼生。
どちらを優先するのか。
答えは、もう決まっていた。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
行く。
一体目が身体を低くした。
二体は別々に動いた。
グレイは影から。
一体目は低い草の中から。
鈴を避ける。
縄を越える。
杭の影へ入る。
家畜小屋の匂いが強くなる。
獣たちは眠っている。
一頭が不安げに鼻を動かす。
気づかれる前に。
グレイは小屋の側面へ回った。
扉には金具。
音が鳴る。
正面からは無理。
だが、壁は木だ。
下の板に隙間がある。
一体目なら入れる。
グレイは一体目へ感覚を送る。
中へ。
鳴らすな。
一体目は迷わず隙間へ入った。
黒い身体が木の影へ吸い込まれる。
中で、家畜の一頭が動く。
小さな音。
一体目の気配が低くなる。
待つ。
グレイは外から壁を押した。
ほんの少し。
板が軋む。
音は小さい。
中で一体目が、山羊に似た獣の喉へ飛びかかった。
短い悲鳴。
くぐもった音。
だが、完全には消せなかった。
家畜小屋の鳥たちが騒ぎ出す。
ばさばさ。
鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
グレイの身体が硬直する。
人間の家から灯りが揺れた。
まずい。
一体目が中で獲物を引きずる。
グレイは壁の隙間を広げた。
木を噛み砕く。
音が出る。
もう静かにはできない。
一体目が山羊の死体を押し出す。
重い。
グレイが咥える。
その時、家の扉が開いた。
男の声。
「なんだ!?」
灯り。
人間。
子供の声もする。
「お父さん?」
女の声が続く。
「外に出ないで!」
グレイは山羊の死体を咥えたまま、影へ下がる。
一体目がまだ中にいる。
もう一頭も狙おうとしている。
グレイは強く感覚を送った。
戻れ。
一体目は迷った。
肉。
もう一頭。
もっと持ち帰れる。
群れが満ちる。
その感覚。
グレイはさらに強く鳴いた。
「グ!」
声が漏れた。
人間の男が振り返る。
灯りがこちらへ向く。
一体目がようやく戻る。
壁の隙間から飛び出す。
その瞬間、男が見た。
黒い影。
山羊の死体。
木の壁に開いた穴。
一体目。
そして、少し奥のグレイ。
男の顔が凍りつく。
「灰の……!」
その声が、村へ響いた。
グレイは走った。
山羊を咥え、一体目と共に森へ。
背後で鐘が鳴る。
村の警鐘。
カン。
カン。
カン。
人間の声が増える。
「魔物だ!」
「家畜小屋!」
「子供を中へ!」
「火を持て!」
火。
その言葉に、グレイの身体が一瞬強張る。
煙の記憶。
地下水脈。
幼生の咳。
人間への敵意。
それが一気に戻る。
だが、今は逃げる。
一体目も走る。
興奮。
成功。
肉。
だが、背後の人間の声で少し怯えている。
グレイは森の奥へ入った。
血の匂いが残る。
追われる。
人間はすぐには追ってこない。
夜。
森。
恐怖。
だが、朝になれば必ず来る。
罠の獲物が消えた時とは違う。
今回は見られた。
家畜を襲った。
山羊を奪った。
灰の巣主だと、人間が声に出した。
線を越えた。
その感覚が、グレイの中に重く沈む。
森の途中で、グレイは山羊の死体を一度置いた。
息を整える。
一体目が口元の血を舐める。
満足。
だが、グレイは満たされない。
村の火。
男の声。
子供の声。
女の声。
家畜小屋の鳴子。
全部が残っている。
人間が守っていたものを奪った。
もう、人間側にとっては明確な被害だ。
この肉で群れは生きる。
だが、その代わりに人間はもっと本気になる。
グレイは山羊の首元を咥え直した。
戻るしかない。
群れが待っている。
地下へ戻る道は長く感じた。
封鎖線を避け、見張りを避け、血の匂いを消しながら進む。
だが完全には消えない。
山羊の血は強い。
家畜の匂い。
人間の生活の匂い。
それを巣へ持ち帰る。
二体目は、遠くからそれを感じた。
地下水脈の入口で待っていた。
「グレ」
安堵。
そして不安。
人間の匂い。
家畜の匂い。
血。
全部を嗅ぎ取ったのだろう。
グレイは山羊を置いた。
新しい幼生たちが一斉に近づく。
きゅ。
きゅ。
強い空腹。
肉の匂いに反応する。
一体目が得意げに鳴く。
「グレ」
狩った。
持ち帰った。
その感情。
二体目は山羊の死体の周りを回る。
人間の匂いが強い。
縄。
木。
小屋。
家畜。
二体目は不安を流す。
これは危険な肉。
そういう感覚。
グレイは返す。
食える。
だが、危険。
二体目は理解したのか、縄や木片の匂いがついた部位を避ける。
肉を分ける。
幼生たちは待ちきれずに寄る。
グレイが制止する。
「グ」
順番。
弱い個体へ。
煙で弱った個体。
遅い個体。
次に他。
一体目と二体目は後。
グレイは最後。
それは、前回よりさらに自然だった。
群れの分配。
だが今回は、肉が違う。
森の獣ではない。
家畜。
人間の生活にいた肉。
幼生たちはそんなこと知らない。
ただ食べる。
血に口を染め、柔らかい肉を噛み、腹を満たす。
満足が巣へ広がる。
その満足に、グレイも少し落ち着く。
同時に、村の警鐘の音が頭から消えない。
カン。
カン。
カン。
人間が恐怖で鳴らした音。
巣の骨と同じだ。
守るための音。
危険を知らせる音。
グレイは、そのことを理解してしまった。
人間は、もうこちらを避けない。
家畜を奪われた。
子供の近くまで来た。
村の中へ入った。
そう認識する。
討伐しない理由が薄くなる。
ラグドが止めようとしても。
セヴィルが観測したいと言っても。
エリシアが迷っても。
アレンが苦しんでも。
村の人間が被害を受ければ、もう話は変わる。
守るために、殺しに来る。
それは、グレイにも分かる。
なぜなら、グレイも同じだからだ。
群れを脅かされれば戦う。
人間も、村を脅かされれば戦う。
同じだ。
だからこそ、ぶつかる。
幼生たちが肉を食べ終え、次々に眠り始める。
満たされた眠り。
久しぶりの静けさ。
一体目も、少し誇らしげに身体を丸める。
二体目だけが、まだ起きていた。
山羊の骨を嗅ぎ、人間の匂いがついた部分を遠くへ押している。
痕跡を嫌がっている。
賢い。
グレイはそれを見ていた。
二体目が小さく鳴く。
「グレ」
不安。
人間が来る。
そういう感覚。
グレイも同じだった。
「グ」
短く返す。
来る。
たぶん。
だが、今は食べるしかなかった。
巣が静かになる。
黒雨の音。
幼生の寝息。
山羊の骨。
人間の匂い。
それらが混ざる。
グレイは巣の入口側を見た。
遠く、地上の方で警鐘がまだ鳴っている気がした。
実際にはもう止まっているかもしれない。
でも、記憶の中では鳴り続けている。
境界線を越えた音。
もう、狩場と村の間には線がない。
群れの飢餓が、その線を越えさせた。
グレイは低く、自分の名を呼んだ。
「グレイ」
一体目が眠りながら返す。
「グレ」
二体目も。
「グレ」
幼生たちも、満腹の眠りの中で弱く鳴く。
「グ……」
「グ……」
その声は穏やかだった。
満ちている。
生きている。
だから、グレイは後悔しきれなかった。
肉を奪った。
人間を怯えさせた。
でも、群れは生きた。
その事実が、グレイをさらに苦しめる。
正しいのか。
間違いなのか。
分からない。
ただ、次に人間が来る理由だけは、前よりずっと分かりやすくなった。
グレイは目を閉じた。
村の火。
男の叫び。
子供の声。
山羊の血。
幼生たちの満腹。
全部が混ざる。
そして、黒雨の音が静かに落ちる。
ぽた。
ぽた。
その夜、灰の巣は満たされた。
だが外の世界では、討伐の理由が一つ、確かに増えた。




