第69話『村』
最初に見えたのは、火だった。
洞窟の中で見た火とは違う。
煙で追い立てるための火ではない。
岩を崩すための火でもない。
木を燃やし、鍋を温め、夜の暗さを押し返すための火。
小さく揺れている。
赤く。
橙色に。
外の世界の空気の中で。
グレイは、森の影に伏せていた。
地上。
夜。
風がある。
湿った地下水脈の空気ではなく、草と土と葉の匂いが混ざった空気。
空には、暗い青が広がっている。
一体目が最初に見た空とは違う。
昼の広すぎる青ではない。
夜の空。
黒に近い。
しかし、完全な闇ではない。
星がある。
月がある。
雲が流れている。
グレイは、それを見上げていた。
巣から出たのは、餌のためだった。
封鎖線が広がり、地下水脈側にも人間の気配が増えた。
腐肉獣は減った。
黒鼠も動きが変わった。
骨喰い虫はいるが、それだけでは群れを養えない。
新しい幼生たちは育ち始めている。
食べる量も増えている。
一体目と二体目も、以前より大きい。
動くために食わなければならない。
だから、グレイは地上近くまで出た。
完全に出るつもりはなかった。
地上へ近づき、匂いを拾い、家畜の場所や小型魔物の流れを調べるだけ。
そう考えていた。
だが、夜の森を進むうちに、火が見えた。
人間の村。
小さい。
王都ではない。
木の柵。
低い家。
畑。
家畜小屋。
井戸。
灯りのついた窓。
人間の匂いが、いくつも重なっている。
汗。
布。
煙。
焼いた肉。
穀物。
家畜。
土。
子供の匂い。
老人の匂い。
眠る者の匂い。
起きている者の匂い。
グレイは、森の影からそれを見ていた。
一体目は隣にいる。
地上へ出ることに強い興奮を持っていた個体。
今は身体を低くし、村を見ている。
警戒。
好奇心。
獲物。
危険。
その全てが混ざっている。
二体目は巣に残した。
新しい幼生たちも。
連れては来られない。
地上は危険だ。
光が多い。
匂いが流れすぎる。
人間も多い。
だから、今回はグレイと一体目だけ。
それでも、巣の感覚は遠く繋がっている。
二体目の不安が薄く届く。
幼生たちの空腹も。
弱く。
遠く。
けれど、消えない。
群れが腹を空かせている。
だから、グレイはここにいる。
村を見ている。
人間の近くまで来ている。
その事実が、グレイの中で冷たく残っていた。
家畜小屋の匂いが強い。
鳥。
山羊。
豚に近い獣。
柔らかい肉。
大きな肉。
群れを満たす量。
一体目が、その匂いへ反応する。
狩る。
持ち帰る。
そういう単純な感覚。
グレイはすぐに制止した。
「グ」
待て。
一体目は止まる。
だが、納得はしていない。
空腹がある。
群れの空腹。
肉が目の前にある。
なぜ取らない。
その疑問が流れてくる。
グレイにも答えはない。
ただ、分かる。
ここで襲えば、人間が来る。
もっと強く。
もっと多く。
火。
剣。
勇者。
封鎖。
崩落。
全部が来る。
そして何より。
村の中の人間たちが、あまりにも無防備だった。
地下に来る人間とは違う。
鎧を着ていない。
剣を持っていない。
子供がいる。
火のそばで笑っている。
家の中で食事をしている。
それを見た瞬間、レオンの記憶が揺れた。
酒場。
火。
皿。
笑い声。
肉を切る音。
誰かが馬鹿な話をして、誰かが笑う。
帰る場所。
人間の生活。
それは、グレイが食べた記憶の中にあったものだった。
そして今、目の前に現実としてある。
グレイは、人間を理解したいと思った。
まだ。
消えていなかった。
人間は怖い。
巣を壊す。
煙を流す。
崩落させる。
幼生を殺すかもしれない。
それでも。
火を囲んで笑う人間を見ると、胸の奥に違うものが浮かぶ。
これは何だ。
羨望か。
懐かしさか。
レオンの記憶の残りか。
分からない。
ただ、見ていた。
家の扉が開いた。
女が出てくる。
手には木の器。
中身は湯気の立つ食べ物。
その後ろから小さな子供が走って出る。
女が何か言う。
子供が笑う。
音は遠い。
意味はすべて分からない。
だが、声の調子は分かる。
怒っているようで、怒っていない。
止めようとしている。
子供は火の近くへ行きたがる。
女が腕を掴む。
危ない。
そういう感情。
グレイは、その光景に動けなくなった。
二体目が幼生を黒雨から遠ざける時と、似ていた。
一体目が新しい幼生の前に立つ時と、似ていた。
弱いものを止める。
危険から離す。
食べさせる。
近くに置く。
人間も同じことをしている。
違う形で。
違う匂いで。
違う声で。
でも、似ている。
グレイは、それを理解したくなった。
一体目が小さく鳴く。
「グレ」
空腹。
その音で、グレイは現実へ戻る。
群れがある。
巣がある。
空腹がある。
理解している場合ではない。
夜の村の外れに、家畜小屋がある。
人間の住む家より少し離れている。
匂いが強い。
柵は木。
小さな入口。
見張りはいない。
今なら、近づける。
一体目は、それを感じている。
簡単だ。
奪える。
グレイも分かる。
だが、動かない。
レオンの記憶が邪魔をする。
家畜を奪えば、人間は困る。
肉。
金。
生活。
子供の食べ物。
そういう感覚が流れる。
なぜそんなことを考える。
魔物なら食えばいい。
群れが飢えているなら奪えばいい。
そう思う自分もいる。
だが、別の自分が止める。
人間の火。
人間の声。
女が子供を止める手。
それらが、グレイの中で肉の匂いとぶつかっていた。
一体目には、その迷いが伝わる。
一体目は混乱している。
なぜ。
餌がある。
危険は少ない。
群れが飢えている。
なのに、動かない。
一体目の感情が苛立ちに変わる。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
待て。
一体目は従う。
だが、いつまで従うか分からない。
群れの中に個が育っている。
空腹が強くなれば、勝手に動く。
地下で腐った骨喰い虫を食べた幼生のように。
この地上で、一体目が勝手に動けばどうなる。
家畜を襲う。
人間が叫ぶ。
村が起きる。
火が集まる。
人間が武器を持つ。
討伐隊が来る。
グレイは、それを想像した。
だから、今は動けない。
だが、群れは飢えている。
何も持ち帰らずに戻れば、また空腹が巣を壊す。
その時、森の別の方から獣の匂いがした。
野生の獣。
村の家畜ではない。
小さくない。
鹿に近い。
傷ついている。
血の匂い。
グレイはそちらへ顔を向けた。
一体目も反応する。
餌。
人間のものではない。
森の中の獲物。
これなら。
グレイは静かに移動した。
一体目もついてくる。
村から離れる。
火が少し遠ざかる。
人間の声も薄くなる。
森の影。
風。
獣の血。
傷ついた獣は、罠にかかったのか脚を引きずっていた。
人間の罠かもしれない。
だが、今は人間はいない。
グレイは天井ではなく木の影を使った。
地上の動きは地下と違う。
枝。
落ち葉。
土。
音が出やすい。
一体目はまだ地上の歩き方に慣れていない。
何度か葉を鳴らす。
獣が振り返る。
遅い。
傷がある。
グレイが横へ回る。
一体目が正面へ出る。
挟む。
それは自然にできた動きだった。
群れの狩り。
一体目が獣の注意を引く。
グレイが背後から飛びかかる。
喉。
短い。
獣は倒れた。
血の匂いが広がる。
一体目が興奮する。
肉。
大きい。
持ち帰れる。
グレイも安堵した。
これなら、人間の村を襲わずに済む。
少なくとも今夜は。
だが、その安心は長く続かなかった。
獣の首に、縄が巻かれていた。
人間の罠。
この獣は、人間が仕掛けた罠にかかっていた。
つまり。
これも人間のものなのかもしれない。
グレイは、獣の死体を見下ろした。
森の獲物。
だが、人間の罠にかかっていた。
人間が取るはずだった肉。
それを奪う。
家畜を襲うよりは遠い。
だが、完全に無関係ではない。
境界がまた曖昧になる。
人間のもの。
自然のもの。
群れの餌。
どこからどこまでが、奪うことになるのか。
グレイには分からない。
一体目は迷わない。
肉を咥えようとする。
グレイは止めなかった。
群れは飢えている。
この肉が必要だ。
グレイは縄を噛み切った。
人間の匂いが強い。
縄。
油。
手の汗。
グレイはそれを覚える。
罠の匂い。
一体目にも流れる。
これは危険。
これは人間の道具。
覚えろ。
一体目は匂いを嗅ぎ、覚えた。
それから、二体で獣を引きずった。
大きい。
重い。
しかし、地下の腐肉獣ほどではない。
森の中を通り、村から遠い道を選ぶ。
火はまだ見える。
人間たちは笑っている。
誰も、森の中で獲物が奪われたことに気づいていない。
グレイは一度だけ振り返った。
村。
火。
子供。
女。
家畜小屋。
レオンの記憶が、また小さく揺れる。
帰る場所。
人間には帰る場所がある。
グレイにも巣がある。
それは似ているのか。
違うのか。
グレイは、獣を咥えながら考えた。
巣には火がない。
皿もない。
言葉も違う。
だが、幼生たちが待っている。
二体目が不安で待っている。
新しい幼生たちが腹を空かせて待っている。
一体目と一緒に肉を運ぶ。
それは、人間が家族へ食べ物を持ち帰ることと、どれほど違うのか。
分からない。
分からないまま、グレイは森の影へ消えた。
地下へ戻る道は慎重に選んだ。
封鎖線を避ける。
人間の見張りを避ける。
獣の血が匂いを残すため、途中で何度も土をかけ、葉で擦った。
一体目も真似する。
地上の葉を使い、血の跡を隠す。
学習。
やはり速い。
縄の匂いも覚えた。
罠も覚えた。
森の音も少し覚えた。
一体目は成長している。
その成長が頼もしく、同時に怖い。
地下へ戻ると、二体目がすぐに反応した。
「グレ」
強い安堵。
肉。
大量の肉。
新しい幼生たちが一斉に動く。
きゅ。
きゅ。
空腹が、巣全体から湧き上がる。
グレイは獣を置いた。
二体目が匂いを嗅ぐ。
人間の匂い。
罠の匂い。
それに気づいて不安を流す。
グレイは感覚を送る。
危険。
でも食える。
二体目は理解したのか、肉を慎重に嗅ぎ分け始めた。
首の縄があった部分は避ける。
肉を分ける。
一体目が手伝う。
新しい幼生たちは、待ちきれずに近づこうとする。
グレイが制止する。
「グ」
順番。
柔らかい肉から。
弱い個体へ。
煙で呼吸の浅い個体。
遅い個体。
それから他。
一体目と二体目は最後。
グレイは、自分でも驚くほど自然に分けていた。
人間の記憶にある食事とは違う。
だが、分配。
それは群れを保つために必要だった。
幼生たちが食べ始める。
満足が少しずつ広がる。
巣の空気が落ち着いていく。
飢餓が薄れる。
その感覚に、グレイも少しだけ安堵する。
だが、胸の奥には村の火が残っていた。
人間の笑い声。
女の手。
子供の声。
そして、人間の罠にかかった獣。
今夜、グレイは村を襲わなかった。
人間を殺さなかった。
家畜も奪わなかった。
でも、人間が取るはずだった獲物を奪った。
それは、人間から見れば被害なのだろうか。
もし罠を見に来た人間が、縄だけ残っているのを見たら。
何かに奪われたと気づく。
灰の巣主の仕業だと考えるかもしれない。
そうなれば、人間はまた動く。
結局、何をしても繋がる。
完全に無関係な餌などない。
世界はすべて誰かの外側にある。
グレイは、食べる幼生たちを見ながら思った。
自分たちは生きるために食う。
人間も生きるために食う。
同じ森に、同じ獲物に、同じ夜に手を伸ばす。
なら、いつか必ずぶつかる。
それが境界線なのかもしれない。
グレイは、低く自分の名を呼んだ。
「グレイ」
一体目が返す。
「グレ」
二体目も。
「グレ」
幼生たちは肉を食べながら、弱く鳴く。
「グ……」
「グ……」
その声の中に、今夜は別の音が混ざらなかった。
助けて、とは誰も言わない。
ただ食べている。
生きるために。
グレイは目を閉じた。
火の光が、まだ記憶に残っている。
村。
人間の暮らし。
理解したい。
そう思った。
だが、群れが飢えれば、理解よりも肉が優先される。
その事実も分かっている。
グレイは、黒雨の音と幼生たちの咀嚼音を聞きながら、静かに息を沈めた。
遠い村では、まだ火が揺れているだろう。
人間たちは眠りにつくだろう。
朝になれば、罠の獲物が消えていることに気づくだろう。
その時、人間は何を思うのか。
グレイには分からない。
ただ、今夜は群れが満ちた。
それだけが、今のグレイにとって確かなことだった。




