第67話『崩落』
最初に異変へ気づいたのは、一体目だった。
地下水脈の入口側。
骨の鳴子。
腐肉獣の皮。
黒雨避け。
それらの向こう。
さらに外。
遠い振動。
ごん。
ごん。
鈍い。
重い。
以前の杭の音とは違う。
もっと深い。
岩へ直接響いている。
一体目はすぐに立ち上がった。
牙を鳴らす。
危険。
その感覚が群れへ流れる。
グレイは縦穴の近くで顔を上げた。
感じる。
振動。
黒岩を通して伝わる圧。
一定間隔。
人工的。
人間。
そして、崩すための音。
グレイの中で、以前の記憶が揺れた。
崩落。
坑道。
砕ける岩。
悲鳴。
暗闇。
レオンの最後の記憶は曖昧だ。
だが、崩れる音だけは鮮明だった。
人間が岩を壊す時の音。
閉じ込めるための音。
埋めるための音。
それを、グレイは本能より深い場所で覚えていた。
二体目が不安で鳴く。
「グレ」
幼生たちも起きる。
新しい幼生の一体が、入口側を見て震える。
「グ……」
一体目はもう入口へ向かっている。
グレイは追った。
外縁部。
黒岩の通路。
骨。
皮。
その先。
人間の匂いが濃い。
多い。
以前よりずっと。
火薬。
油。
汗。
魔力。
金属。
そして、強い決意。
人間たちは、もう迷うだけの段階を越え始めていた。
地下水脈外縁。
ラグドは黒岩へ手を当てていた。
振動を確認している。
後方では防衛局の作業班が、崩落用の杭を打ち込んでいる。
魔導兵たちが魔力を流し、黒岩の亀裂へ圧を加えている。
崩す。
地下水脈の横道を。
灰の巣へ続く細道を。
完全ではない。
全部を埋めれば、内部で何が起きるか分からない。
だから、狙うのは外縁。
人間側へ出やすい経路。
幼生用の細道。
それらを潰し、行動範囲を狭める。
防衛局は、そう判断した。
セヴィルは、その判断へ完全には賛成していなかった。
だが、反対もしきれない。
巣が広がっている。
これは事実だ。
弱い魔物が集まり始めている。
人間の声を模倣した。
周囲への影響が増えている。
放置すれば、さらに外へ広がる。
なら、どこかで止めなければならない。
問題は、止めた結果どうなるかだった。
「圧を上げます!」
魔導兵の声。
黒岩の奥で、低い音が響く。
ごご……。
ラグドが顔をしかめる。
「やりすぎるな」
「崩すんでしょう」
「全部じゃねぇ」
「ですが、狭めなければ」
ラグドは、奥の暗闇を見た。
いる。
絶対に。
灰の巣主。
こちらを見ている。
そして、考えている。
その感覚が消えない。
アレンも、剣を握りながら息を飲んでいた。
今日は討伐ではない。
封鎖作業の護衛。
だが、それでも空気が張り詰めている。
エリシアは、嫌な予感を抑えられなかった。
巣を壊す。
その行為自体が、何かを決定的に変える気がしていた。
ロウは、ずっと天井を見ている。
「動いてる」
小さな声。
ラグドが目を向ける。
「どこだ」
「見えない。でも、いる」
その瞬間。
奥の骨が鳴った。
から。
一つ。
さらに別方向。
から。
からり。
連鎖。
巣全体が反応し始める。
作業班の一人が怯えて振り返る。
「な、なんだ……」
セヴィルが低く言った。
「伝達です」
「伝達?」
「崩落作業を巣全体へ知らせている」
ラグドが舌打ちした。
「急げ」
魔導兵が魔力を強める。
黒岩の亀裂が広がる。
ぱき。
ぱきぱき。
地下水脈の壁が震える。
その振動は、巣の奥まで届いていた。
グレイは、入口近くの黒岩へ身体を押しつけていた。
振動。
崩れる。
道が潰される。
その感覚が伝わる。
一体目は激しく唸っている。
戦う。
排除。
その衝動。
二体目は逆。
幼生を連れて奥へ逃げたい。
新しい幼生たちは完全に混乱していた。
恐怖。
黒岩の震え。
崩落音。
群れ全体が不安で揺れる。
グレイは、感覚を広げた。
崩される場所。
外縁の細道。
幼生用の抜け道。
水脈へ続く横穴。
人間は、巣を切り離そうとしている。
グレイは、その意図を完全には理解しない。
だが、本能で分かる。
閉じ込められる。
逃げ道を潰される。
それは危険だ。
一体目が飛び出そうとする。
グレイは止めた。
「グ!」
強い制止。
一体目は止まる。
だが、怒りが爆発しそうになっている。
その時。
二体目が、小さく震えながら口を開いた。
「たす……け……」
グレイが振り返る。
違う。
外へ向けた声ではない。
恐怖で漏れた。
幼生たちも震えている。
新しい幼生の一体が、それを真似る。
「た……」
群れの不安が、声として漏れ始めていた。
崩落の振動がさらに強くなる。
ごごご……。
黒岩の一部が割れた。
ぱきん。
細道の一つが崩れる。
幼生用通路。
骨が落ちる。
黒雨避けの皮が裂ける。
新しい幼生が悲鳴を上げる。
きゅっ!
二体目が飛びついて押さえる。
グレイは、その光景を見て身体が熱くなるのを感じた。
壊される。
巣を。
群れを守る場所を。
その怒りは、レオンの記憶より強かった。
魔物としての怒り。
巣を脅かされた獣の怒り。
一体目がそれを感じ取る。
戦う。
今。
そういう感情が流れる。
グレイは迷った。
止めるべきか。
行くべきか。
このまま崩され続ければ、もっと危険になる。
だが、人間と戦えば、さらに大きな被害が出る。
迷い。
その一瞬だった。
外側で、大きな崩落音が響いた。
どごん!!
黒岩が裂ける。
空気が揺れる。
外縁部の一部が、本格的に崩れた。
土煙。
骨が砕ける音。
水が流れ込む音。
そして。
幼生の一体が、悲鳴を上げた。
細道の崩落に巻き込まれかけたのだ。
二体目が引きずって助けた。
だが、その時。
巣の奥から、別の匂いが流れ込んだ。
腐肉獣。
崩落で封じられていた別通路が開いた。
新しい穴。
そこから、押し出された腐肉獣の群れが流れ込んでくる。
グレイの感覚が一気に広がる。
まずい。
人間が崩した。
その結果、別の通路が繋がった。
腐肉獣が来る。
群れの奥へ。
幼生たちの方へ。
一体目が即座に走る。
グレイも動いた。
人間への怒りが、一瞬で別方向へ切り替わる。
今は腐肉獣。
群れを守る。
それだけ。
外側。
ラグドも異変に気づいた。
「待て……音が違う」
ロウがすぐに矢を抜く。
「来る」
次の瞬間。
崩落した亀裂の奥から、腐臭が噴き出した。
腐肉獣。
しかも複数。
作業班がざわめく。
「なんでこんなところに!」
ラグドが叫ぶ。
「崩した先が繋がってたんだ! 下がれ!」
遅かった。
腐肉獣が、黒岩を押し割るように現れた。
目が濁り、腹が裂け、血と泥を撒き散らしている。
作業班の一人が悲鳴を上げる。
魔導兵が前へ出る。
「迎撃!」
戦闘が始まる。
狭い。
黒岩。
崩落した足場。
腐肉獣。
混乱。
最悪だった。
アレンが剣を抜く。
一閃。
腐肉獣の首を断つ。
だが、後ろからさらに来る。
ロウの矢が目を貫く。
エリシアが防護術を展開。
作業班を守る。
ラグドは、腐肉獣を蹴り飛ばしながら奥を見た。
そこに、一瞬だけ黒い影が見えた。
灰色。
多脚。
速い。
灰の巣主。
だが、こちらへ来ない。
腐肉獣の方へ向かっている。
ラグドの目が見開かれる。
「おい……」
セヴィルも見た。
「巣主が、腐肉獣を迎撃している……?」
誰も理解できなかった。
だが、現実だった。
グレイは、崩落した裂け目の奥で腐肉獣へ飛びかかっていた。
幼生へ行かせない。
それだけ。
一体目も横から脚へ噛みつく。
腐肉獣が暴れる。
黒岩へ叩きつける。
グレイは喉を裂く。
血が飛ぶ。
黒雨に混ざる。
新しい幼生たちは奥で震えている。
二体目が身体で塞ぐ。
人間たちも、外側で腐肉獣と戦っている。
一瞬。
ほんの一瞬。
人間と灰の巣が、同じ敵へ向いていた。
アレンが、その光景を見た。
黒い巣主が、幼生側へ行こうとした腐肉獣を止めた。
守っている。
明確に。
アレンの剣が、一瞬止まる。
その隙を、ラグドの怒声が叩いた。
「止まるな!」
アレンは我に返る。
腐肉獣を斬る。
だが、頭の中から光景が消えない。
灰の巣主が、幼生を守るために戦っていた。
人間ではない。
魔物だ。
災害だ。
それでも。
その動きは、ただの捕食ではなかった。
セヴィルは、震える声で呟いた。
「外側が壊れた結果、内部と外部が繋がった……」
ラグドが腐肉獣を叩き潰しながら怒鳴る。
「分析は後にしろ!」
だが、セヴィルの言葉は本質だった。
崩落。
封鎖。
その結果、巣の外側と別の魔物圏が繋がった。
人間が止めようとしたことで、別の危険が流れ込んだ。
灰の巣主は、それに対処している。
皮肉だった。
防衛局が巣を狭めようとした結果、巣は人間側と同じ敵を迎撃している。
腐肉獣の最後の一体が倒れた時、空気が静まった。
血。
黒雨。
崩れた黒岩。
全員が荒く息をしている。
そして、その奥。
崩落した裂け目の向こうで。
グレイがこちらを見ていた。
遠い。
暗い。
だが、確かに見ている。
アレンと目が合った気がした。
ほんの一瞬。
その目には怒りがあった。
恐怖も。
そして、守ろうとする何かも。
グレイはすぐに奥へ消えた。
一体目も。
黒岩の向こうへ。
ラグドは、しばらく動かなかった。
セヴィルが低く言う。
「見ましたか」
「ああ」
「巣主は、人間を襲いませんでした」
「腐肉獣を止める方を優先した」
エリシアが震える声で呟く。
「幼生を守ってた……」
防衛局の魔導兵が苛立ったように言う。
「だから何だ! 結果的に人を襲う危険種なのは変わらない!」
誰も否定しなかった。
その通りだ。
危険なのは変わらない。
巣は広がっている。
人間の言葉を覚えた。
周囲の生態系を変えている。
だから止めなければならない。
だが。
今見たものもまた、事実だった。
ラグドは、崩れた黒岩を見ながら低く言った。
「俺たち、もう“外側”にいるんだな」
アレンが聞き返す。
「外側?」
ラグドは、血に濡れた骨を見た。
「前は、巣の外から見てた。でも今は違う。崩せば中が動く。中が動けば周りも変わる。もう切り離せねぇ」
セヴィルが静かに頷く。
「ええ。灰の巣は、外へ広がった。そして人間側も、すでにその外側へ巻き込まれている」
崩落した通路の奥から、黒雨が流れてくる。
ぽた。
ぽた。
血を混ぜながら。
その音は、まるで境界が崩れていく音のようだった。
人間と巣。
内側と外側。
その線は、もう以前ほどはっきりしていない。
そして、グレイもまた奥で理解していた。
人間は壊す。
だが、人間もまた壊れる。
崩落で。
腐肉獣で。
迷いで。
群れと同じように。
グレイは、幼生たちのいる奥へ戻った。
二体目が震えている。
新しい幼生たちも怯えている。
一体目は、まだ怒りを残していた。
だが、全員生きている。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
生きている。
今は。
だが、巣は崩された。
人間は、もっと来る。
なら。
もっと変わらなければならない。
黒雨の音が、暗闇の中で静かに響き続けていた。




