第66話『外側』
封鎖線は、日に日に広がっていた。
最初は探索者への警告だけだった。
下層第七水脈周辺への立ち入り禁止。
ギルド依頼停止。
監視班の増員。
それだけ。
だが今は違う。
木杭。
縄。
簡易柵。
魔導灯。
見張り台。
地上側の入口には、防衛局の人員が常駐し始めていた。
王都へ続く道には、荷車が止まり、補給班が動き、地図が更新され続けている。
村にも通達が出た。
夜間外出禁止。
家畜管理強化。
地下水路封鎖。
子供だけで外へ出るな。
もし灰色の小型魔物を見つけた場合、絶対に近づくな。
助けを求める声を聞いても、絶対に一人で探しに行くな。
最後の一文が、人々をざわつかせた。
助けを求める声。
その噂は、すでに広がっていた。
探索者の間で。
封鎖班の間で。
監視兵の間で。
灰の巣主は、人間の言葉を真似る。
助けて、と言う。
それを聞いた若い監視兵が巣へ近づきかけた。
仲間が止めなければ危なかった。
そんな話が尾ひれをつけて流れていた。
王都の酒場では、もう半分怪談になっている。
黒雨。
灰の巣。
助けを呼ぶ魔物。
地下から人間を誘う声。
それを笑う者もいた。
怯える者もいた。
そして、真剣に危機感を抱く者たちもいた。
防衛局。
研究院。
討伐隊。
彼らは、噂ではなく現実としてそれを知っている。
だからこそ、空気が重かった。
臨時拠点の会議室。
地図が広げられている。
黒岩地帯。
地下水脈。
封鎖線。
監視地点。
そして、灰の巣主の推定行動範囲。
ラグドは、地図を睨んでいた。
「増えてる」
短い言葉。
セヴィルが頷く。
「ええ。痕跡数が」
彼は記録板をめくった。
「最初期は中心個体のみ。次に、明確な眷属二体。現在、少なくとも七体分の行動痕が確認されています」
エリシアが顔を曇らせる。
「増殖……しているんですよね」
セヴィルは少し考えた。
「正確には不明です。繁殖なのか、変異なのか、分裂に近いのか。ただ、群体が拡大していることは確かです」
防衛局の魔導兵が言った。
「なら、なおさら早期討伐を」
ラグドが遮る。
「討伐してどうなる」
「巣主を殺せば終わる可能性があります」
「可能性だろ」
「放置よりはましです」
ラグドは舌打ちした。
「今の問題は数だけじゃねぇ」
彼は、地図の地下水脈側を指差した。
「こっちへ動いてる」
アレンが眉を寄せる。
「さらに深部へ?」
「いや、違う」
ラグドは、指を滑らせた。
「横へ広がってる」
地下水脈。
腐肉獣の落ちた縦穴。
そこから派生する古い排水路。
崩れた鉱道。
未確認の空洞。
灰の巣は、奥へ逃げるだけではなかった。
横へ。
広く。
じわじわと。
人間の管理していない領域へ染み出している。
セヴィルが静かに言った。
「巣が“空間”として成長しています」
エリシアが小さく聞き返す。
「空間?」
「以前は、中心個体と周辺だけを指していました。しかし今は違う。鳴子、匂い道、皮、水流、移動用細道、待避所。それら全てが繋がり始めている」
彼は記録板を閉じた。
「つまり、灰の巣主は単体の魔物ではなくなりつつある」
ロウが壁際で低く言った。
「巣そのものってことか」
セヴィルは頷く。
「ええ」
その言葉に、部屋が静まった。
巣そのもの。
それは、今まで誰も明確に口にしてこなかった結論だった。
灰の巣主。
その中心個体は確かに存在する。
だが、本当に危険なのは、その周囲へ広がった“巣”だ。
人間を観測する骨。
黒雨を避ける皮。
匂いの道。
幼体用の通路。
そして、人間の言葉。
それら全てが、中心個体を核に広がっている。
一匹を殺して終わる問題ではなくなり始めていた。
防衛局の男が、苛立ったように言う。
「だから何だというんです。なおさら焼き払うべきだ」
エリシアがすぐ反応する。
「幼体もいます」
「だから?」
「だからって……」
言葉に詰まる。
魔導兵は冷たく続けた。
「放置すれば増える。今はまだ地下にいる。地上へ出ればどうなる」
誰も答えない。
答えは分かっている。
村が襲われる。
人が死ぬ。
だから、防衛局は正しい。
だが、正しいからといって、簡単に割り切れるわけではない。
アレンは、巣の中で聞いた声を思い出していた。
助けて。
あの歪んだ声。
そして、その後に聞こえた幼生たちの鳴き声。
彼は、剣を握る手に力が入るのを感じた。
守るために来た。
でも、何をどう守ればいいのか、少しずつ分からなくなっている。
ラグドが低く言った。
「問題は、外側だ」
全員が彼を見る。
ラグドは地図の外周を叩いた。
「灰の巣主の周囲で、他の魔物の動きが変わってる」
セヴィルが頷く。
「腐肉獣の移動経路も変化していますね」
「黒鼠も増えてる。骨喰い虫も。前は散ってた連中が、巣の周囲へ寄ってる」
ロウが眉を寄せる。
「餌の匂いか?」
「それだけじゃない」
ラグドは、少し考えてから言った。
「巣の周囲が“安全”になってる」
エリシアが驚く。
「安全?」
「少なくとも、他の場所よりはな。灰の巣主の縄張りじゃ、大型魔物が減ってる。腐肉獣も、群れで入ると縦穴へ落とされる。黒殻狩りも減った」
セヴィルが静かに言葉を継いだ。
「つまり、弱い魔物が生き残りやすい環境になっている」
アレンが理解する。
「巣の周囲に、小型魔物が集まり始めている……」
「ええ」
セヴィルは頷く。
「灰の巣主自身が呼んでいるわけではありません。しかし、結果的に周囲の生態系を変えている」
黒雨。
骨。
腐肉獣の死骸。
排除された大型個体。
それらが、別の魔物を引き寄せる。
巣の外側に、さらに別の生き物が集まり始めている。
灰の巣は、もう単なる隠れ家ではない。
環境そのものを変え始めていた。
ラグドが苦い顔をした。
「最悪なのは、これがまだ途中ってことだ」
セヴィルが静かに返す。
「ええ」
「もっと広がる」
「可能性は高い」
「じゃあ、止めるしかねぇだろ」
その声は、防衛局の男ではなかった。
アレンだった。
全員が少し驚く。
アレン自身も、自分の声の硬さに驚いていた。
彼は続けた。
「俺は、あの巣を見ました。幼体も見た。声も聞いた。迷いました。でも」
彼は地図を見る。
広がる封鎖線。
周囲の村。
王都への排水路。
黒雨。
「これが広がれば、もっと多くが巻き込まれる」
エリシアが小さく息を呑む。
アレンは苦しそうに言った。
「だから、止めないといけない」
ラグドは黙っていた。
セヴィルも。
ロウは壁へ寄りかかったまま目を閉じる。
誰もアレンを責められなかった。
彼は正しい。
少なくとも、人間側から見れば。
放置すれば、灰の巣は広がる。
魔物が集まる。
人間が死ぬ。
なら、止めるしかない。
問題は、その止め方だった。
セヴィルが静かに言った。
「巣主単体の討伐では、おそらく不十分です」
魔導兵が顔をしかめる。
「では」
「巣全体を切り離す必要があります」
ラグドが低く聞く。
「封鎖か」
「ええ。地下水脈の分断。縦穴側の崩落誘導。外縁部の焼却。ただし、中心個体を刺激しすぎれば、群れが散る可能性があります」
「地上側へ出るか」
「あるいは、さらに深部へ逃げる」
エリシアが震える声で言った。
「もし、逃げた先で増え続けたら……」
誰も答えない。
答えはない。
どの選択肢も危険だった。
だから、人間側は迷う。
迷いながら、それでも動かなければならない。
その頃、巣の中では。
グレイが、縦穴を見下ろしていた。
腐肉獣を落とした穴。
黒い水が流れる深部。
風が下から吹いてくる。
冷たい。
濃い。
未知の匂い。
今まで、近づかなかった場所。
だが、最近は違う。
下から、小型魔物が上がってくる。
黒鼠。
骨喰い虫。
見たことのない白い虫。
弱いものばかり。
彼らは、縦穴の周囲へ集まってくる。
グレイは、その理由を完全には理解していない。
だが、感じていた。
ここは、他より死ににくい。
腐肉獣が少ない。
黒殻狩りも来にくい。
人間もまだ少ない。
骨があり、死骸があり、水がある。
だから、集まる。
弱いものが。
一体目が縦穴の縁に立つ。
「グレ」
下へ行くか?
そんな感覚。
戦える場所を探している。
二体目は反対の感覚を返す。
危険。
幼生が落ちる。
黒雨が強い。
新しい幼生たちは、縦穴を怖がっている。
風。
深さ。
暗さ。
全部が不安。
グレイは、下を見続けた。
巣が広がっている。
それは分かる。
入口側だけではない。
水脈。
横穴。
縦穴。
黒雨。
匂い道。
全部が繋がり始めている。
そして、周囲の弱い魔物が集まり始めている。
骨喰い虫が、外縁の死骸を掃除する。
黒鼠が、余った肉を齧る。
それによって腐臭が減る。
腐臭が減れば、腐肉獣が寄りにくくなる。
結果、さらに弱い魔物が集まる。
循環。
グレイは、その流れをぼんやり理解し始めていた。
巣が、周囲を変えている。
自分たちが生きるために作った場所が、別の生き物まで変え始めている。
その時。
二体目が、小さく鳴いた。
「グレ」
不安。
人間。
グレイは感覚を広げる。
遠い。
だが、多い。
人間たちが、また何かを運んでいる。
杭。
縄。
火薬。
崩落用の準備。
ラグドの匂い。
アレン。
エリシア。
セヴィル。
全員いる。
そして、以前より覚悟が強い。
迷いはある。
でも、動こうとしている。
グレイは低く唸った。
「グ……」
一体目が反応する。
戦う。
そんな感情。
二体目は幼生たちを囲う。
新しい幼生たちは震える。
その中の一体が、小さく呟いた。
「たす……」
グレイはすぐ振り返る。
声。
まだ消えない。
群れの中に残っている。
そして、その声を聞いた黒鼠が、一瞬動きを止めた。
グレイは、その小さな反応を見逃さなかった。
黒鼠ですら、音に反応した。
つまり。
声は、人間だけではない。
生き物全体へ影響する可能性がある。
呼ぶ。
集める。
迷わせる。
グレイの背中に冷たいものが走った。
巣は、ただ広がっているのではない。
変質している。
骨。
匂い。
水。
声。
全部が混ざり始めている。
グレイは、自分の中にあるレオンの記憶を思い出した。
人間の町。
人の集まる場所。
匂い。
音。
熱。
外側。
人間は、自分たちの外側に世界を広げる。
道を作り、町を作り、他を巻き込む。
そして今。
灰の巣もまた、外側へ広がり始めている。
グレイは、それを恐れていた。
だが、止め方が分からない。
生きるためにやっている。
守るために変わっている。
その結果、外側が変わる。
なら、生きること自体が危険なのか。
グレイは、縦穴の風を受けながら目を閉じた。
遠くで、人間が杭を打つ音が響く。
ごん。
ごん。
封鎖。
崩落。
準備。
人間は、巣を外側から止めようとしている。
だが、巣もまた外側へ広がっている。
そのぶつかり合いが、もう始まっていた。
一体目が低く鳴く。
「グレ」
グレイは返した。
「グ」
まだだ。
だが、もう近い。
戦いではない。
もっと大きな何か。
人間と巣。
その外側同士が、ぶつかり始めている。
黒雨は今日も落ちていた。
ぽた。
ぽた。
その音は、まるで時間を刻むようだった。
巣が広がる時間。
人間が決断へ近づく時間。
そして、グレイがもう“ただの一匹”ではいられなくなる時間を。




