第65話『巣の夢』
第65話『巣の夢』
レオンは、夢の中で雨を見ていた。
黒い雨だった。
空から降っているわけではない。
地下の天井から落ちている。
ぽた。
ぽた。
腐肉獣の皮へ落ちる黒い水。
骨を濡らす水。
黒岩を伝う濁った雫。
その音を、レオンは知っていた。
いや。
グレイが知っていた。
夢の中で、境界が曖昧になっている。
レオンの記憶。
グレイの感覚。
人間だった頃の足。
今の多脚。
酒場の灯り。
黒岩の湿気。
それらが混ざり、ひどく歪んでいた。
レオンは歩いていた。
下層ではない。
王都だった。
石畳。
雨上がりの匂い。
露店。
焼いた肉。
誰かの笑い声。
人間の町。
その中を歩いている。
普通に。
二本の足で。
手がある。
顔がある。
けれど、通り過ぎる人間たちは、誰もレオンを見ない。
見えていないようだった。
夢だから。
レオンはそれを理解している。
夢の中のレオンは、もう自分が死んでいることを知っている。
だから、これは記憶だ。
残りカス。
脳に残った景色。
それが、グレイの眠りの中で再生されている。
雨の匂い。
人間の汗。
酒。
革。
暖かい肉の匂い。
それらを感じた瞬間、夢が歪んだ。
石畳が黒岩へ変わる。
露店の布が腐肉獣の皮へ変わる。
人間の笑い声が、幼生の鳴き声へ変わる。
「グ……」
「グ……」
レオンは振り返った。
そこには、小さな灰色の幼生たちがいた。
震えている。
黒雨を避けている。
腹を空かせている。
その中心に、黒い影。
グレイ。
自分。
いや、違う。
レオンは人間だった。
グレイは魔物だ。
でも、夢の中ではその境界が崩れている。
レオンは、グレイの目で幼生たちを見た。
守らなければ。
その感覚が自然に浮かぶ。
人間だった頃にはなかった感覚。
だが今は、呼吸より自然だった。
夢の中で、幼生の一体が口を動かした。
「た……」
レオンの胸が冷える。
声。
助けて。
その言葉。
人間だった頃の記憶が揺れる。
崩落した坑道。
暗闇。
血。
誰かが叫んでいた。
「助けて!」
誰だった。
ニルか。
別の探索者か。
それとも、自分か。
記憶が濁っている。
だが、その声を聞いた時、人間だったレオンは身体を動かした。
助けなければと思った。
人間だから。
仲間だったから。
そうして、死んだ。
夢の中で、黒雨が強くなる。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
幼生たちが身を縮める。
二体目が彼らを押し込む。
一体目が入口を見る。
グレイが、夢の中のレオンを見る。
いや、レオンがグレイを見る。
どちらか分からない。
だが、その目には恐怖があった。
声を覚えた。
群れが。
それが危険だと、グレイは理解している。
人間を動かす。
人間を近づける。
人間を迷わせる。
助けを求める声。
それは、人間の中の柔らかい部分へ入り込む。
そして、その柔らかさは時に、人間を殺す。
夢の中で、王都の景色が戻る。
酒場。
暖炉。
レオンは席に座っている。
向かいにはハルク。
笑っている。
「お前さぁ、また助けようとして死にかけたんだって?」
レオンは苦笑する。
「仕方ないだろ」
「仕方なくねぇよ。見捨てろよ、そういう時は」
「無理だって」
「だから短命なんだよ、お前みたいなのは」
ハルクが酒を飲む。
レオンは、その光景をぼんやり見ていた。
懐かしい。
暖かい。
でも、遠い。
もう戻れない。
その時、酒場の扉が開いた。
冷たい風。
そして、黒い幼生が入ってきた。
酒場の客たちが騒ぐ。
誰も逃げない。
誰も驚かない。
夢だから。
幼生は、店の中央で口を開いた。
「たすけて」
酒場が静まる。
ハルクが顔を上げる。
レオンも。
その声は、二体目のものだった。
歪んだ人間の声。
助けを求める声。
夢の中で、ハルクが眉をひそめる。
「……なんだそりゃ」
幼生がもう一度言う。
「たすけて」
酒場の客たちが揺れる。
立ち上がる者。
怯える者。
武器へ手をかける者。
近づこうとする者。
全部いる。
人間は、助けを求める声に反応する。
たとえ相手が化け物でも。
夢の中で、レオンはそれを見ていた。
そして理解していた。
これが危険なのだと。
声は、人間と魔物の境界を曖昧にする。
殺すべき相手へ、迷いを生む。
迷いは隙になる。
隙は死を呼ぶ。
それを、群れが覚えた。
夢がまた歪む。
酒場の床が黒岩へ変わる。
客たちの顔が、討伐隊へ変わる。
アレン。
エリシア。
ロウ。
ラグド。
セヴィル。
彼らが巣の入口へ立っている。
二体目の声を聞いている。
助けて。
その音へ反応している。
アレンが迷う。
エリシアが揺れる。
ロウが警戒する。
ラグドが止める。
セヴィルが観察する。
その全部が、夢の中で混ざっていく。
グレイは、その夢を見ながら眠っていた。
現実の巣の中で。
黒雨の音を聞きながら。
幼生たちに囲まれながら。
一体目は入口で眠っている。
浅い眠り。
いつでも起きられる。
二体目は、幼生たちを抱えるようにしている。
新しい幼生たちは密着している。
その中の一体が、寝言のように小さく呟いた。
「た……」
グレイの身体が反応する。
夢の中のレオンが振り返る。
現実のグレイが目を開ける。
暗い。
黒岩。
湿気。
骨。
黒雨。
現実だ。
だが、夢の感覚が残っている。
人間だった頃の感覚。
暖炉の熱。
酒。
笑い声。
助けを求める人間。
そして今、巣の中で助けを真似る幼生。
グレイはゆっくり立ち上がった。
新しい幼生の近くへ行く。
その個体は眠ったまま、口を小さく動かしている。
「た……す……」
完全ではない。
だが、近づいている。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
止める音。
幼生はびくりと震え、静かになる。
二体目が目を開けた。
「グレ」
不安。
謝罪。
恐怖。
二体目は、自分が群れへ声を広げたことを理解している。
完全には。
だが、感じている。
グレイは二体目を見た。
怒っているわけではない。
いや、怒りもある。
でも、それより怖かった。
止められない。
群れが、自分で学び始めている。
それが怖い。
以前のグレイは、一匹だった。
考えるのは自分だけだった。
今は違う。
一体目は自分で骨を配置する。
二体目は人間の反応を読む。
新しい幼生たちは模倣する。
群れ全体が、少しずつ別々に動いている。
それでも繋がっている。
だから、巣が生きているように見える。
グレイは、黒雨を受ける皮の近くへ移動した。
ぽた。
ぽた。
黒い水が落ちる。
グレイは、それを見ながら夢を思い出していた。
酒場。
ハルク。
笑い声。
人間。
遠い。
もう遠すぎる。
だが、完全には消えない。
助けを求める声を危険だと思うのは、レオンの記憶があるからだ。
人間は、その声に弱い。
レオン自身がそうだった。
だから、グレイは怖がっている。
群れが、人間の弱さを使い始めたことを。
もしレオンの記憶がなければ。
グレイはもっと簡単に、その声を使ったかもしれない。
餌を引き寄せる道具として。
でも今は違う。
その先にあるものを、少しだけ知っている。
人間は、仲間を見捨てられない。
だから、死ぬ。
夢の中の自分のように。
その時、入口側で一体目が起き上がった。
「グレ」
何かいる。
グレイはすぐに感覚を広げた。
外縁部。
遠い。
人間。
数が多い。
前より。
討伐隊本隊ではない。
もっと広い。
封鎖線。
杭。
縄。
金属。
魔導灯。
人間たちが、巣の周囲を固め始めている。
昨日の件が伝わったのだ。
人間の言葉を模倣した。
助けを求めた。
人を引き寄せた。
その報告が、人間を大きく動かした。
グレイは、遠くの振動を感じた。
重い。
大型装備。
地上側から何かを運び込んでいる。
ラグドの匂いもある。
アレン。
エリシア。
ロウ。
セヴィル。
全員いる。
そして、もっと増えている。
グレイは低く唸った。
「グ……」
一体目が牙を鳴らす。
戦い。
そんな感情。
二体目は幼生たちを抱え込む。
新しい幼生たちは不安で震える。
その中の一体が、小さく呟く。
「た……す……」
グレイは振り返った。
夢の残りが、まだ頭の奥にある。
酒場。
助けて。
人間の迷い。
それが、現実へ重なる。
外で、人間たちも迷っているのだろうか。
討伐するべきか。
焼くべきか。
封鎖するべきか。
幼体を殺すべきか。
生け捕りにするべきか。
グレイには分からない。
だが、一つだけ分かる。
人間は、本気で来る。
声は、その引き金になった。
グレイは巣の中央へ戻った。
骨。
皮。
外殻。
黒雨。
全部を見る。
今の巣は、隠れるための巣だ。
だが、人間が増えれば、いずれ破られる。
なら。
もっと深く。
もっと複雑に。
もっと広く。
変えなければ。
グレイの中で、巣の形が動き始める。
水脈の下流。
縦穴。
腐肉獣の落ちた深部。
まだ行っていない場所。
危険。
だが、人間は入りにくい。
一体目がその感覚を受け取る。
新しい場所。
戦える場所。
二体目は別の感覚を返す。
幼生が危険。
水が強い。
黒雨が落ちる。
新しい幼生たちも、不安を返す。
だが、ここに留まる不安もある。
群れ全体が揺れている。
グレイは、夢の最後を思い出した。
酒場の中で、幼生が助けてと言った時。
人間たちは、近づきながらも、武器へ手をかけていた。
助けたい。
でも怖い。
その両方。
人間はいつも、二つを抱えている。
グレイは、静かに理解していた。
だから、人間は危険なのだ。
完全に優しくない。
完全に冷たくもない。
迷う。
迷うから、予測しにくい。
群れも同じになり始めている。
一体目は戦いたい。
二体目は守りたい。
幼生は真似したい。
グレイは止めたい。
全部違う。
それでも、一つの巣。
グレイは低く、自分の名を呼んだ。
「グレイ」
一体目が返す。
「グレ」
二体目も。
「グレ」
幼生たちも。
「グ……」
「グ……」
その中で、一体だけが、眠そうに小さく呟いた。
「たす……」
グレイは、目を閉じた。
もう、完全には消せない。
声は巣に残った。
そして、人間もまた、その声を忘れない。
遠くで杭を打つ音が響く。
ごん。
ごん。
封鎖。
包囲。
準備。
人間の世界が、灰の巣主へ向けて動いている。
グレイは、黒雨の落ちる暗闇の中で静かに立っていた。
夢は終わった。
だが、夢の中で見たものは残っている。
人間だった頃の自分。
今の群れ。
助けを求める声。
それら全部が混ざり合い、グレイの中で新しい恐怖になっていた。
巣は成長している。
だが、その成長は、グレイが望む形だけでは進まない。
それでも、止まれない。
生きるために。
群れを守るために。
黒い雨が落ち続ける中、灰の巣は静かに次の形を夢見始めていた。




