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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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第64話『声』

人間が去った後、巣はしばらく静かだった。


静かすぎるほどだった。


黒雨の水滴が落ちる音。


ぽた。


ぽた。


腐肉獣の皮に当たり、黒く濁った水が溜まっていく音。


骨の隙間を抜ける湿った風。


遠くの水脈。


人間が残したわずかな金属臭。


それらはある。


だが、幼生たちの鳴き声が少なかった。


侵入者が来た。


奥まで来た。


細道を覗かれた。


声を聞かれた。


骨を動かした。


帰路を乱した。


そして、人間は帰った。


誰も死ななかった。


血も流れなかった。


けれど、巣の中には何かが残った。


恐怖。


興奮。


学習。


人間が踏み込めるという事実。


人間が迷うという事実。


人間が音に反応するという事実。


それらが、巣の中に薄く沈んでいた。


グレイは巣の中央で身体を低くしていた。


本来の巣ではない。


地下水脈の仮巣。


だが、もう仮とは呼びにくくなっている。


腐肉獣の骨が並び、黒殻狩りの外殻が壁を作り、皮が黒雨を受け、細い通路が幼生用に削られている。


二体目が匂いを整え、一体目が入口を見る。


新しい幼生たちも、ただ奥で震えているだけではない。


一体は骨を動かした。


一体は水滴を避ける道を覚えた。


一体はまだグレイの近くを離れない。


一体は弱く、煙の後遺りで呼吸が浅い。


それぞれが違う。


違うのに、繋がっている。


その繋がりの中心で、グレイは眠れずにいた。


人間がまた来る。


その予感がある。


次は、もっと深く。


もっと静かに。


もっと準備して。


なら、巣も変わらなければならない。


グレイは入口側の骨を見た。


侵入者の帰路を乱した骨。


それを動かしたのは、新しい幼生の一体だった。


腐った死骸を食べた個体。


空腹に負けて外へ出た個体。


そして、今回、人間を慌てさせた個体。


危険な個体。


しかし、役に立った。


その事実が厄介だった。


グレイは低く鳴いた。


「グ」


その個体が反応する。


小さく身体を縮める。


叱られたことは覚えている。


だが、奥に残る興奮も消えていない。


人間が動いた。


骨を押したら、人間の動きが変わった。


その経験は消えない。


群れに残る。


グレイは、それを感じていた。


巣の中にある学習は、もうグレイだけのものではない。


一体が覚えたものは、薄く他へ流れる。


一体目も、人間の帰路を乱す配置を覚えた。


二体目も、人間の恐怖の匂いを覚えた。


新しい幼生たちも、骨を押せば外の大きな生き物が反応すると知った。


そして、二体目は。


二体目は、ずっと黙っていた。


いつもなら、匂いを嗅ぎ、幼生たちを押し、時々「グレ」と鳴く。


だが今は、保存肉の近くでじっとしている。


頭部を低くし、口をわずかに動かしている。


音を作っている。


グレイは、それに気づいていた。


気づいていたが、近づかなかった。


近づけば止めなければならない。


止めても、完全には消えない。


それが分かっていたから。


二体目の中には、人間の声が残っている。


助けて。


以前は不完全だった。


「たす……け」


「た……」


それだけだった。


だが、侵入者が来た時、人間は細道の奥の弱い鳴き声に反応した。


エリシアの息。


アレンの足音。


魔導兵の焦り。


ラグドの制止。


人間たちは、幼い音に反応した。


そして二体目は、それを嗅いだ。


聞いた。


感じた。


人間は、弱い声に反応する。


人間は、助けを求める音に引かれる。


その学習が、二体目の中で形になっていた。


グレイは二体目へ近づいた。


二体目が顔を上げる。


「グレ」


いつもの声。


安心。


しかし、その奥に別の音があった。


グレイは低く鳴いた。


「グ」


駄目だ。


まだ出していない声を止める。


二体目は身体を縮めた。


だが、口の奥が震えている。


出したい。


試したい。


使いたい。


その感覚が流れてくる。


悪意ではない。


ただ、覚えた道具を使いたい。


骨を置くように。


匂いを流すように。


水を避ける皮を敷くように。


声もまた、巣を守るためのものになりつつあった。


グレイは、そのことに強い嫌悪を覚えた。


声は危険だ。


人間を呼ぶ。


人間を迷わせる。


そして、人間を近づける。


近づいた人間が死ねば、血が流れる。


血が流れれば、群れが変わる。


グレイはそれを知っている。


だが、二体目はそこまで知らない。


いや、知り始めているのかもしれない。


だから余計に危険だった。


その時、外の骨が鳴った。


から。


軽い。


小型魔物ではない。


人間でもない。


一体目がすぐ反応する。


入口側へ走る。


グレイも振り返る。


外縁部。


人間の匂い。


近い。


数は少ない。


二人。


いや、三人。


討伐隊の本隊ではない。


前回の侵入後、残された観測用の小班だろう。


足音は静かだが、緊張している。


その中の一人の心音が速い。


怖がっている。


グレイは、一体目へ感覚を送る。


待て。


攻撃するな。


一体目は入口で伏せる。


だが、身体に力が入っている。


新しい幼生たちも起きる。


二体目は、じっと外を向いた。


人間の匂い。


人間の心音。


人間の迷い。


それが流れ込んでくる。


グレイは二体目の前に立った。


声を出すな。


そう伝える。


二体目は止まる。


だが、外の人間の会話が聞こえた。


「本当にここで待つんですか」


若い男の声。


「監視だけだ。奥へ入るなと言われている」


もう一人。


慎重。


「でも、昨日の声……幼体でしたよね」


三人目。


女。


エリシアではない。


だが、似た柔らかさのある声だった。


グレイは、その言葉を理解しきれない。


しかし、二体目は反応した。


幼体。


声。


人間の関心。


それが結びつく。


「もし捕まえられたら、研究院が」


「馬鹿言うな。巣主がいるんだぞ」


「でも、怪我してたら」


「近づくな」


会話。


人間は迷っている。


助けたいのか。


捕まえたいのか。


研究したいのか。


恐れているのか。


全部が混ざっている。


二体目の中で、その混ざった匂いが強くなる。


人間は、弱いものへ近づく。


グレイは、二体目へ強い制止を送った。


駄目だ。


二体目は震えた。


だが、外から聞こえた若い男の声が、二体目の中の何かを押した。


「助けを求める声だったら、無視できないだろ」


助け。


その音。


二体目の口が開いた。


グレイは前脚で押さえようとした。


だが、一瞬遅かった。


「たすけて」


巣の中に、その声が落ちた。


今までのような不完全な音ではなかった。


湿っている。


歪んでいる。


人間の声とは違う。


だが、意味ははっきりしていた。


たすけて。


二体目が、言った。


完全に。


グレイの身体が凍りついた。


一体目も振り返る。


新しい幼生たちも震える。


そして外の人間たちが、完全に止まった。


沈黙。


水滴の音だけが響く。


ぽた。


ぽた。


それから、女の声。


「今……」


若い男が息を呑む。


「聞こえた」


慎重な男が低く言う。


「近づくな」


だが、その声にも動揺がある。


二体目の声は、人間を掴んだ。


確実に。


グレイは二体目を押さえた。


強く。


痛めない程度に。


だが、動かさない。


二体目は震えている。


悪いことをしたと分かっている。


しかし、同時に、外の人間が反応したことも感じている。


成功。


そういう感覚が混ざっている。


グレイは低く唸った。


「グ……」


怒り。


制止。


恐怖。


全部が混ざった音。


二体目はさらに縮こまる。


だが、声はもう外へ出た。


外で若い男が一歩踏み出した。


骨が鳴る。


から。


慎重な男が止める。


「やめろ」


「でも、本当に助けてって」


「それを真似るって報告があっただろ」


「でも、もし本当に人がいたら?」


「ここに人はいない!」


「分からないだろ!」


迷い。


人間の迷いが、巣へ流れる。


二体目がそれを嗅ぐ。


新しい幼生の一体が、その緊張に反応して小さく鳴いた。


きゅ。


弱い。


幼い。


外へ漏れるほどではない。


しかし、人間はすでに耳を澄ませている。


女が言った。


「今、別の声も」


慎重な男の心音が乱れる。


若い男はさらに近づく。


もう一歩。


骨。


からり。


一体目が前へ出ようとする。


グレイは止めた。


攻撃すれば終わる。


血が流れる。


人間が殺しに来る。


だが、このまま近づかれても危険。


どうする。


グレイは、巣の構造を感じた。


入口の骨。


外縁の皮。


黒雨の溜まり。


横道。


人間の位置。


一体目の位置。


二体目。


幼生たち。


全てが薄く繋がる。


追い払う。


殺さずに。


恐怖で。


グレイは天井へ移動した。


二体目から離れる前に、強く感覚を送る。


黙れ。


二体目は震えながら従う。


グレイは外縁へ進んだ。


一体目もついてこようとする。


止める。


一体目は不満を流すが、止まる。


グレイは、人間たちの近くの天井へ回った。


彼らはまだ巣の入口にいる。


若い男が前。


女が少し後ろ。


慎重な男が二人を止めている。


「戻るぞ」


「でも」


「これは罠だ」


「声が」


「声を使うんだ!」


その言葉。


人間も分かっている。


声が罠になると。


それでも動揺する。


人間は、分かっていても揺れる。


その弱さを、二体目は利用できるようになった。


グレイは、天井から白鳴き種の外殻片を落とした。


きぃん。


高く、細い音。


三人が振り返る。


グレイは別方向で骨を鳴らす。


からっ。


さらに黒雨の溜まりに小石を落とす。


ぴちゃ。


音を散らす。


慎重な男は即座に叫んだ。


「下がれ!」


若い男もようやく恐怖が勝った。


だが、女が一瞬だけ奥を見た。


「本当に、助けてって……」


その一瞬が危険だった。


二体目がまた反応した。


グレイは遠くにいた。


止められない。


巣の奥から、震えるような声が漏れた。


「たすけて」


今度はさらに人間に近かった。


女が動いた。


反射的に。


助けを求める声に、身体が動いた。


慎重な男が腕を掴もうとする。


だが、その時、女の足が骨を踏んだ。


からり。


連動する骨が転がる。


別の骨に当たる。


からからから。


音が巣の中へ走る。


一体目が反応する。


新しい幼生たちが怯えて鳴く。


きゅ。


きゅ。


二体目が不安で震える。


人間の女が、骨の音に驚いて足を滑らせた。


腐肉獣の皮。


黒雨で湿っている。


足が取られる。


女が倒れる。


「きゃっ」


その身体が、入口の内側へ転がった。


ほんの少し。


だが、巣の内側へ。


一体目が飛び出した。


反射だった。


守る。


侵入者。


排除。


グレイは叫ぶように鳴いた。


「グ!」


止まれ。


一体目の身体が空中でわずかに鈍る。


だが、完全には止まれない。


女の前へ着地する。


牙を開く。


女の目が見開かれる。


恐怖。


悲鳴。


「う、あ……」


一体目は噛まなかった。


グレイの制止が間に合った。


だが、牙は女の喉のすぐ近くにあった。


若い男が剣を抜いた。


金属音。


アレンたちではない。


この男は迷いながらも、仲間を守るために抜いた。


グレイは天井から落ちた。


若い男と一体目の間へ。


黒い外皮。


長い脚。


牙。


男の心音が跳ねる。


慎重な男が叫ぶ。


「やめろ! 剣を下げろ!」


だが、もう遅い。


剣が振られる。


グレイは避けた。


男を殺さない角度へ。


剣先がグレイの外皮をかすめる。


浅い傷。


痛み。


一体目の怒りが爆発する。


二体目も奥で震える。


新しい幼生たちが鳴く。


巣全体が、一瞬で敵意に染まりかける。


グレイは低く、強く鳴いた。


「グル……!」


全員止まれ。


群れへ。


そして人間へ。


その音は、黒岩に反響し、骨を震わせた。


人間たちも動きを止めた。


女は倒れたまま震えている。


一体目は牙を開いたまま。


若い男は剣を構え、手が震えている。


慎重な男は、息を詰めている。


グレイは、女を見た。


殺せる。


男も。


三人とも。


一体目と一緒なら、可能だ。


だが、殺せば血が流れる。


人間はさらに来る。


勇者たちが来る。


火が来る。


巣が壊れる。


それに。


レオンの記憶が、ほんの少しだけ揺れていた。


倒れた人間。


仲間が助けようとする。


置いていけない。


助けて。


その言葉。


グレイは、二体目の声が何をしたのかを理解した。


あの声は、人間の中の何かを動かす。


仲間を助けたい。


弱いものを見捨てられない。


その感情。


グレイはそれを食べた記憶から知っている。


だから、これを使うのは危険なのだ。


グレイは一体目へ感覚を送った。


下がれ。


一体目は抵抗する。


侵入者。


危険。


殺せる。


グレイはさらに強く送る。


下がれ。


一体目は、牙を閉じた。


一歩下がる。


グレイも女から離れる。


慎重な男が、女を引きずって戻す。


若い男は剣を構えたままだが、攻撃しない。


グレイも動かない。


一瞬。


長い一瞬。


それから慎重な男が叫んだ。


「撤退!」


三人は逃げた。


女は足を引きずっている。


若い男は何度も振り返る。


慎重な男が二人を引っ張る。


足音が遠ざかる。


骨が鳴る。


からり。


から。


やがて消える。


グレイは追わなかった。


一体目も追わない。


だが、一体目の中には強い不満が残っている。


殺すべきだった。


群れを脅かした。


そういう感情。


グレイは否定する。


殺せばもっと来る。


だが、一体目にはまだそこまで分からない。


二体目には、別の感情がある。


成功。


失敗。


恐怖。


声が人間を動かした。


でも危険になった。


その混乱。


グレイは奥へ戻った。


二体目は身体を丸めていた。


新しい幼生たちの近くで、小さく震えている。


グレイが近づくと、二体目は弱く鳴いた。


「グレ……」


謝罪に近い。


だが、その奥に、声の効果への理解がある。


使える。


その知識は、もう消えない。


グレイは低く鳴いた。


「グ」


強い制止。


二体目は目を伏せるように身体を低くする。


だが、巣全体にはもう残っていた。


人間の声。


助けて。


それを聞いた人間は、近づく。


迷う。


転ぶ。


剣を抜く。


危険になる。


その一連の出来事が、群れの記憶になった。


新しい幼生の一体が、寝言のように口を動かした。


「た……」


グレイはすぐに振り返った。


その個体は、二体目を見ていた。


真似ようとしている。


二体目だけではない。


声も模倣される。


群れへ広がる。


グレイは、腹の奥が冷えるのを感じた。


駄目だ。


これは広げてはいけない。


だが、止められるのか。


声は骨より軽い。


匂いより速い。


一度聞けば真似られる。


グレイ自身がそうだった。


人間の言葉を、記憶から拾った。


グレイ。


空。


助けて。


群れはそれを覚える。


二体目が完全に言えた今、他の個体もいずれ言えるようになる。


グレイは、巣の中央で低く唸った。


怒りではない。


恐怖だった。


群れがまた、自分の制御から外れる可能性。


その第一歩が、声だった。


遠くで、人間の足音が消えた方向から、別の音がした。


警笛。


短い。


人間が仲間を呼んでいる。


今回のことは、必ず伝わる。


灰の巣主の群れが、人間の言葉を完全に模倣した。


人間を引き寄せた。


仲間を危険に晒した。


その報告が、ラグドへ。


アレンへ。


セヴィルへ。


防衛局へ。


王都へ届く。


グレイは、それを言葉では知らない。


だが、足音の速さと警笛の鋭さで分かった。


人間は大きく動く。


次は、もっと危険になる。


一体目が入口側で低く鳴いた。


「グレ」


戦う準備。


そんな感覚。


二体目は奥で小さく鳴いた。


「グレ」


不安。


新しい幼生たちは、震えながら真似る。


「グ……」


「グ……」


そして一体だけが、まだ不完全に呟いた。


「た……す……」


グレイは、その個体の前へ行き、強く低く鳴いた。


「グ」


やめろ。


幼生は縮こまる。


声は止まる。


今は。


だが、巣の黒岩には残響が残っていた。


たすけて。


その音。


人間を動かす音。


群れが覚えてしまった音。


グレイは、暗い巣の中で目を閉じた。


群れを守るために声を封じたい。


だが、群れは生きるために使えるものを覚える。


骨も。


皮も。


匂いも。


黒雨も。


腐肉獣の死体も。


そして、人間の心を動かす声も。


全部、使えるなら使おうとする。


それが適応。


それが生存。


それが、グレイという存在の根にあるもの。


だからこそ、怖かった。


自分自身の性質が、群れを危険な方へ進めている。


グレイは、低く自分の名を呼んだ。


「グレイ」


一体目が返す。


「グレ」


二体目も、震えながら。


「グレ」


幼生たちも。


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


その声の中に、ほんのわずかに別の響きが混ざった。


たすけて。


まだ完全ではない。


だが、芽はある。


グレイは理解した。


もう声は、二体目だけのものではない。


巣が覚えた。


そして、巣が覚えたものは、いつか必ず使われる。


その時、人間はまた来る。


助けるために。


殺すために。


あるいは、その両方を抱えて。


グレイは、黒雨の落ちる音を聞きながら、静かに牙を閉じた。


声は力だった。


そして、力はいつも、群れを次の危険へ連れていく。

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