第63話『侵入』
巣は、静かだった。
それが一番気味悪かった。
アレンは、黒岩の通路の手前で足を止めた。
前回見た場所より、さらに奥。
地下水脈へ続く横穴。
腐肉獣の皮が敷かれ、黒雨を受ける骨の溝があり、小型個体用と思われる細い通り道が作られていた場所。
そこを越えた先。
本来なら、人間は入るべきではない場所。
ラグドは、入口の前で低く言った。
「ここから先は外縁じゃない」
誰も返事をしなかった。
分かっている。
ここから先は、灰の巣主の領域だ。
調査ではない。
観測でもない。
侵入。
それが今日の任務だった。
目的は単純だった。
巣の構造を確認する。
眷属の数を確認する。
逃げ道を確認する。
地上側へ抜ける経路の有無を確認する。
戦闘は避ける。
だが、必要なら応戦する。
紙の上では、そう書ける。
だが、目の前の黒い穴を見れば分かる。
中に入った時点で、もう相手の腹の中に入るようなものだった。
アレンは剣の柄に触れた。
抜かない。
ラグドから何度も言われている。
先に抜くな。
金属音を立てるな。
強い光を向けるな。
魔力を大きく動かすな。
巣は見る。
巣は聞く。
巣は覚える。
巣。
そう言われた時、アレンは最初、比喩だと思っていた。
魔物の住処。
それを警戒しているだけだと。
だが、前回外縁部を見てから、その感覚は変わった。
骨が置かれていた。
水を避ける皮があった。
小型個体だけが通れる道があった。
それは、偶然ではない。
誰かが生きるために作った場所だった。
そして今、彼らはその中へ入る。
エリシアは杖を胸の前で握っていた。
白い光を出せる。
煙を浄化できる。
傷を癒やせる。
だが、今日はそのどれも最小限に抑えるよう命じられている。
彼女の顔には迷いがあった。
怖いのではない。
いや、怖くないわけではない。
だがそれ以上に、これから何を見てしまうのかを恐れていた。
ロウは弓を背負ったまま、矢を抜いていない。
彼は無口だった。
だが、視線はずっと黒岩の天井を追っている。
灰の巣主は天井を使う。
それを何度も聞いているからだ。
セヴィルは、いつも通り記録板を持っている。
今回も同行している。
ラグドは反対した。
だが、研究院側が押し切った。
ただし条件がある。
絶対に採取しない。
触れない。
勝手に前へ出ない。
命令を聞かない場合、強制的に撤退させる。
セヴィルはその条件を受け入れた。
笑いながら。
ラグドは、その笑いが気に入らなかった。
「入るぞ」
ラグドの声。
全員が頷いた。
先頭はラグド。
次にロウ。
中央にアレンとエリシア。
後方にセヴィルと防衛局の魔導兵二人。
全員、足音を抑えて進む。
下層の黒岩は湿っている。
足を置く場所を間違えれば、滑る。
骨を踏めば鳴る。
皮に乗れば匂いがつく。
石を蹴れば、奥まで音が響く。
ラグドは、一歩ずつ慎重に進んだ。
最初の骨は、見えていた。
黒鼠の骨。
細い。
だが、二本が交差するように置かれている。
踏めば割れる。
割れれば音が鳴る。
ロウが指で示す。
ラグドは頷き、全員に避けさせる。
次の骨は、見えにくかった。
腐肉獣の皮の下に隠れていた。
アレンが気づかなければ踏んでいた。
彼は足を止め、そっと下がる。
皮の端が不自然に浮いている。
下に骨片。
踏めば、皮が沈み、骨が転がり、奥の別の骨へ当たる。
連鎖して鳴る仕掛け。
セヴィルが小さく息を吐いた。
「連動式ですね」
ラグドが睨む。
「喋るな」
セヴィルは黙った。
だが、目は輝いている。
アレンは、その目を見て少しだけぞっとした。
この人は、本当にこれを美しいと思っている。
恐怖の対象を、知識として愛している。
だが、アレンも同時に分かってしまった。
確かに、美しい。
嫌になるほど整っている。
黒岩の凹凸。
水滴の落ちる位置。
足の置き場。
骨の角度。
その全部が計算されているように見える。
人間が作った罠とは違う。
もっと生々しい。
そこに住むものが、毎日少しずつ変え、触り、覚え、直した結果。
そういう整い方だった。
巣は、使われている。
生きている。
さらに奥へ進む。
匂いが濃くなる。
腐肉獣の血。
黒殻狩りの古い体液。
黒鼠の毛。
骨喰い虫の殻。
そして、灰の匂い。
説明しづらい。
焦げではない。
砂でもない。
乾いた外皮と、湿った黒岩と、薄い血の混ざった匂い。
ラグドは、その匂いを覚えていた。
灰の巣主の匂い。
近い。
彼は手を上げた。
全員が止まる。
音がない。
いや、ある。
水滴。
遠い水脈。
誰かの呼吸。
自分の心音。
それだけ。
静かすぎる。
ラグドは低く言った。
「見られてる」
アレンは剣へ手をかけそうになり、止めた。
ロウは天井を見る。
何もいない。
エリシアが小さく息を吸う。
彼女の魔力がわずかに揺れる。
ラグドがすぐに目で止める。
エリシアは頷き、光を抑えた。
何も見えない。
だが、見られている。
その感覚があった。
奥の暗闇。
天井の裂け目。
骨の陰。
水滴を受ける皮の裏。
どこかに目がある。
いや、目ではないのかもしれない。
匂い。
音。
振動。
こちらの存在が、巣全体に伝わっている。
そんな気がした。
セヴィルが、ほとんど囁きに近い声で言った。
「これは……興味深い」
ラグドが振り返る。
セヴィルは続けてしまった。
「単純な視線ではありません。巣全体がこちらを認識している感覚がある。鳴子を鳴らしていないにもかかわらず、奥の気配が変わった」
「黙れって言ったろ」
「すみません」
だが、セヴィルの言葉は、全員が感じていたことでもあった。
巣が気づいている。
中に入った瞬間から。
彼らはさらに進んだ。
通路が分岐する。
右は狭い。
人間は通れない。
だが、小型の灰巣眷属なら通れるだろう。
左は広い。
しかし、骨が多い。
正面は水が流れている。
ラグドは右の細道を見た。
黒岩の縁が擦れている。
小型の何かが何度も通った跡。
そこには、灰色の外皮片が一つだけ引っかかっていた。
セヴィルの指が動いた。
採取したい。
その欲求が見えた。
ラグドは低く言う。
「駄目だ」
「まだ何も」
「顔に出てる」
セヴィルは手を引っ込めた。
「残念です」
アレンは、細道の奥を覗いた。
暗い。
低い。
人間は這っても通れない。
だが、奥から小さな音が聞こえた気がした。
きゅ。
幼い声。
アレンの背筋が冷える。
エリシアも気づいた。
「今……」
ラグドが手を上げる。
進むな。
細道の奥から、また小さな音。
きゅ。
それは威嚇ではなかった。
怯えた声に聞こえた。
エリシアの表情が揺れる。
幼体。
本当にいる。
しかも、近くに。
魔導兵の一人が小声で言った。
「確認を」
ラグドは即座に首を振る。
「入れない。刺激するな」
「でも、数を確認する必要が」
「ここで覗き込んで親を呼ぶ気か」
魔導兵は黙った。
親。
ラグドが思わず使った言葉。
巣主。
中心個体。
災害。
そう呼ぶべき相手を、親と言ってしまった。
アレンはその言葉を聞き逃さなかった。
エリシアも。
セヴィルは、少しだけ目を細めた。
その瞬間。
奥で骨が鳴った。
から。
全員が止まる。
細道の奥ではない。
左の広い通路。
次に、別方向でも鳴る。
からり。
さらに後方。
から。
ラグドの顔色が変わった。
「囲まれてるんじゃない」
ロウが低く言う。
「鳴らしてる」
ラグドが頷く。
「位置をずらされてる」
骨の音が、あちこちで鳴る。
大きくはない。
小さい。
だが、方向が分からない。
水音に混ざる。
黒岩に反響する。
まるで、巣のあちこちに何かがいるように感じる。
実際にいるのかもしれない。
灰巣眷属。
小型個体。
骨を鳴らしている。
意図的に。
ロウが弓を構える。
ラグドが止める。
「まだ撃つな」
「撃たない。ただ構える」
アレンも剣を抜きそうになり、こらえた。
だが、手は柄にある。
エリシアは息を整え、最低限の防護術を準備する。
魔力を抑えながら。
セヴィルは周囲を見ていた。
恐怖よりも観察欲が勝っている顔だった。
「反応が早い。外縁部でこちらを検知し、内部へ伝達。眷属が鳴子を操作している可能性が高い」
ラグドは小さく舌打ちした。
「今それを言うな」
「記録が」
「生きて戻ったら書け」
骨の音が止まった。
静寂。
それがさらに怖かった。
全員が息を殺す。
すると、暗闇の奥から低い音がした。
「グ……」
声。
人間ではない。
だが、意味があるように聞こえる音。
巣の奥から。
一つ。
そして、別の小さな声が返す。
「グレ」
さらに。
「グ……」
「グレ」
「グ……」
複数。
エリシアの顔が青ざめる。
アレンは、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
これは、会話なのか。
いや、分からない。
だが、ただの鳴き声には聞こえない。
呼び合っている。
確認し合っている。
人間が侵入したことを、巣の中で伝え合っている。
ラグドは低く言った。
「撤退準備」
魔導兵が驚く。
「まだ奥を確認していません」
「もう十分だ」
「しかし」
「奥に幼体がいる。声が複数。鳴子を操作してる。巣は反応してる。これ以上入る理由がない」
魔導兵は不満そうだったが、アレンが言った。
「ラグドさんに従います」
エリシアも頷く。
ロウも。
撤退が決まった。
だが、巣は簡単に戻してくれなかった。
後方へ下がろうとした時、来た道の骨が動いていた。
最初に避けた骨。
黒鼠の細い骨。
位置が少しずれている。
誰かが動かした。
後方の鳴子が、帰路を変えている。
ラグドが顔をしかめる。
「やりやがったな」
セヴィルが呟く。
「帰路の再配置……」
「黙ってろ」
ラグドは、骨を見た。
踏めば鳴る。
避けるには、壁際を通るしかない。
だが、壁際には濡れた皮がある。
滑る。
しかも匂いが強い。
わざとだ。
人間が来た道を、そのまま戻れないようにしている。
それが完全な罠なのか、ただの防衛反応なのかは分からない。
だが、巣が動いている。
彼らが中にいる間に。
アレンは、ぞっとした。
生きている。
本当に、巣が生きている。
ラグドが指示を出す。
「一人ずつ。壁に触るな。骨を跨ぐ。ロウ、後ろを見ろ。アレン、エリシアを支えろ」
全員が慎重に動く。
一歩。
骨を跨ぐ。
皮を避ける。
黒岩の隙間へ足を置く。
魔導兵の一人がわずかに滑った。
がしゃ。
金属音。
全員が凍る。
奥で、小さな声が反応した。
「グ」
それまでより低い。
強い。
ラグドの背筋に冷たいものが走る。
中心個体。
近い。
今の音は、幼体ではない。
重い。
暗い。
巣全体へ沈むような声。
灰の巣主。
アレンも感じた。
空気が変わった。
奥の暗闇が、急に濃くなる。
何かが、こちらを見ている。
いや、見ているだけではない。
判断している。
攻撃するか。
逃がすか。
追うか。
ただ観察するか。
そのどれかを。
アレンは剣を抜きかけた。
その瞬間、エリシアが小さく首を振った。
まだ。
アレンは止まった。
剣は抜かない。
金属音を増やさない。
全員が息を殺しながら下がる。
奥の声は、それ以上続かなかった。
だが、消えない。
存在感だけが残る。
細道の奥から、幼体らしき弱い鳴き声が一つ。
それに答えるように、低い声がまた短く響く。
「グ」
すると、幼体の声が静まった。
アレンは、そのやり取りを聞いてしまった。
怯えた幼体を、落ち着かせている。
そう聞こえた。
そう聞こえてしまった。
彼の心が揺れる。
相手は魔物だ。
災害だ。
人を殺したかもしれない。
これから村を襲うかもしれない。
それでも、今の音は。
守っているものの音だった。
ラグドが低く言う。
「考えるな。足元だけ見ろ」
アレンは、はっとして頷いた。
撤退を続ける。
骨の罠。
水滴。
皮。
外殻。
どれも、行きよりも嫌な配置になっている気がする。
実際に動いたものもある。
気のせいもあるだろう。
だが、気のせいで済まない。
この巣では、何も信用できない。
足元の骨。
天井の影。
壁の匂い。
自分の呼吸。
全てが相手に伝わっているように感じる。
ようやく外縁部へ戻った時、全員の背中は汗で濡れていた。
地下水脈の冷気の中なのに。
ラグドは、最後に奥を見た。
黒い。
何も見えない。
だが、確かにいる。
灰の巣主と、その群れ。
彼は短く言った。
「戻る」
今度は誰も反対しなかった。
人間たちの足音が遠ざかる。
慎重に。
速くなりすぎないように。
恐怖を抑えながら。
巣の奥で、グレイはその音を聞いていた。
一体目が隣にいた。
いつでも飛び出せる位置。
二体目は奥で新しい幼生たちをまとめている。
四体の幼生は震えていた。
人間の匂い。
魔力。
金属。
恐怖。
好奇心。
全部が巣へ残っている。
グレイは、天井の影から人間たちを見ていた。
今日の人間たちは、奥へ来た。
骨を見た。
細道を見た。
声を聞いた。
巣の中へ入った。
攻撃はしなかった。
だが、入った。
それだけで、群れは強く反応した。
一体目は戦いたがった。
二体目は幼生を隠した。
新しい幼生たちは恐怖で鳴いた。
グレイは止めた。
鳴子を動かしたのは一体目だ。
帰路の骨を少しずらしたのは、腐った死骸を食べた個体だった。
いつの間にか入口近くまで来て、骨を押していた。
危険だった。
だが、有効でもあった。
人間は慌てた。
つまり、幼生たちが自分で巣を守ろうとした。
グレイの指示だけではない。
巣全体が、侵入者へ反応した。
グレイは、その事実を重く受け止めていた。
強い。
群れは強くなっている。
でも、危ない。
勝手に動けば、人間を刺激する。
人間が攻撃すれば、誰かが死ぬ。
グレイは、奥の幼生たちへ戻った。
二体目が小さく鳴く。
「グレ」
不安。
人間は去った。
でも、匂いが残っている。
グレイは低く返す。
「グ」
生きている。
今は大丈夫。
新しい幼生たちが、少しずつ近づいてくる。
一体だけ、入口側を気にしている。
骨を動かした個体。
好奇心と興奮が強い。
人間が慌てた。
自分が動かした骨で。
それを感じている。
グレイは、その個体を見た。
危険な芽。
学習。
自我。
巣を守る意思。
それが、小さな個体にも生まれ始めている。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
強い制止。
その個体は身体を縮めた。
だが、完全に消えない。
興奮が奥に残る。
グレイは、理解した。
もう、完全には止められない。
群れは成長している。
巣は、グレイ一匹のものではない。
それぞれが反応し、それぞれが学び、それぞれが守ろうとする。
だから、巣は生きているように見える。
実際、生きているのかもしれない。
骨と死骸と匂いで作った場所。
そこを群れが動き、直し、変え、反応する。
巣は、群れの外側の身体になり始めている。
グレイは、外縁の方を見た。
人間は戻った。
だが、また来る。
次は、もっと深く。
もっと準備して。
今日、彼らは見た。
そして、学んだ。
こちらも見た。
こちらも学んだ。
互いに、次へ進む。
それが分かった。
グレイは、自分の名を低く呼んだ。
「グレイ」
一体目が返す。
「グレ」
二体目も。
「グレ」
幼生たちも、震えながら。
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
声が巣の中で重なる。
骨がわずかに震える。
黒雨が落ちる。
匂いが回る。
その全てが一つの生き物のように、暗闇の中で静かに息をした。
人間は今日、巣の中へ入った。
そして知った。
そこは、魔物が隠れている場所ではない。
ただの巣穴ではない。
反応する。
記憶する。
変化する。
灰の巣主の巣は、生きている。
その理解は、人間側に恐怖を残した。
そしてグレイ側にも、別の理解を残した。
人間は、巣の中まで来る。
なら、次はもっと深く守らなければならない。
巣は、その夜からまた形を変え始めた。




