第58話『火』
最初に来たのは、匂いだった。
焦げた匂い。
火そのものではない。
もっと薄い。
乾いた木。
薬品。
熱せられた油。
そして、煙。
グレイは巣の中央で目を開けた。
白鳴き種の感覚が、遠くの空気の流れを拾っている。
人間。
多い。
封鎖班。
討伐隊。
さらに、その奥。
魔導具。
熱。
何かが始まる。
グレイはすぐに立ち上がった。
一体目が入口から振り返る。
警戒。
二体目は奥で新しい幼生たちを集めている。
最近、二体目はそういう動きを自然にする。
危険を感じると、幼生をまとめる。
匂いを混ぜ、落ち着かせる。
グレイは入口へ向かった。
骨が鳴る。
から。
からり。
外へ出る。
湿った下層の空気に、異物が混ざっていた。
煙。
まだ薄い。
だが、確実に広がっている。
グレイは通路を進んだ。
遠く。
人間の声。
「火を強くしすぎるな!」
ラグド。
その声を、グレイは覚えていた。
別の男が返す。
「甘いこと言ってる場合か! もう災厄候補だぞ!」
「だからって巣を焼くなって言ってんだ!」
「焼いてねぇ! 煙だ! 追い出すだけだ!」
煙。
グレイは、その言葉を理解しきれなかった。
だが、空気の変化は理解できる。
煙は下層を這う。
低く。
ゆっくり。
匂いを塗り潰すように。
グレイは、そこで初めて気づいた。
人間は、直接来ない。
だが、空気そのものを変えようとしている。
ごう。
遠くで風が鳴った。
送風。
魔導具か。
人間たちは煙を流している。
下層の空気を押し込みながら。
グレイの外皮が、わずかに熱を感じた。
煙はまだ薄い。
だが、これが巣へ届けば。
新しい幼生たちは耐えられない。
グレイはすぐに戻った。
一体目も続く。
巣へ入る。
二体目がすぐ反応する。
煙の匂い。
不安。
幼生たちが鳴く。
きゅ。
きゅ。
グレイは、巣の奥を見た。
逃げ道。
狭い。
だが、水脈側へ続く古い裂け目がある。
以前、腐肉獣が入り込んだ方向。
湿っている。
狭い。
だが、煙は流れにくいかもしれない。
グレイは感覚を送った。
移動。
奥。
二体目がすぐ動く。
新しい幼生たちを押す。
一体目は入口へ戻る。
警戒。
グレイは、もう一度外を見た。
煙が増えている。
白い。
薄い。
しかし、確実に空気を汚していく。
通路の低い場所ほど濃い。
骨喰い虫が壁を登って逃げている。
黒鼠も落ち着かない。
腐肉獣の唸り声まで遠くから響く。
下層全体がざわついていた。
煙は、グレイたちだけを追っているわけじゃない。
洞窟そのものを乱している。
グレイは、そこでラグドの声をまた聞いた。
「奥まで入れるな!」
「でも反応が薄い!」
「だからって濃くするな! 群れごと暴れたらどうする!」
群れ。
人間は知っている。
一匹じゃない。
だから煙を使った。
火で焼けば暴れる。
血を使えば学ぶ。
罠を置けば避ける。
だから、空気を変える。
追い込む。
静かに。
それが人間の答えだった。
グレイは、その瞬間、妙な感情を覚えた。
怖い。
ではない。
嫌悪に近い。
見えないもの。
逃げられないもの。
煙は牙じゃない。
でも、巣へ入ってくる。
幼生の呼吸へ入る。
匂いを塗り潰す。
群れの空気を奪う。
それが気持ち悪かった。
巣へ戻ると、新しい幼生の一体が咳くような音を出していた。
きゅっ。
きゅ。
苦しい。
二体目がすぐに身体を寄せる。
匂いで落ち着かせようとしている。
グレイは、裂け目方向へ進んだ。
狭い。
黒岩が尖っている。
以前は使わなかった。
群れを連れて通るには危険すぎたから。
だが、今は選べない。
煙は広がる。
一体目が入口から戻る。
焦り。
外の煙が濃くなっている。
グレイは、すぐに移動を始めた。
新しい幼生たちを奥へ押す。
二体目が先導する。
匂いを確認しながら。
一体目が後ろ。
入口側を警戒。
グレイは中央。
群れ全体を見る。
狭い裂け目を進む。
黒岩が外皮を削る。
新しい幼生たちは小さいから通れる。
だが、遅い。
煙が近づいてくる。
後ろの通路。
白い。
薄い霧のように広がっている。
匂いが消える。
骨の匂いも。
保存肉の匂いも。
グレイの匂いすら薄れる。
それが恐ろしかった。
群れは匂いで繋がっている。
それを煙が壊す。
新しい幼生たちが混乱し始める。
どこへ行けばいいか分からなくなる。
二体目が必死に匂いを擦りつける。
自分の体液。
グレイの匂い。
道を作る。
グレイは、その姿を見て少し驚いた。
二体目は、もうただの幼生ではない。
群れの匂いを維持している。
煙に対抗しようとしている。
裂け目の奥へ進む。
湿気が増える。
水の音。
地下水脈。
煙が少し薄くなる。
だが、完全には消えない。
人間は風を送っている。
空気の流れそのものを変えている。
ごう。
遠くでまた風が鳴る。
新しい幼生の一体が転んだ。
遅い個体。
以前、腐った骨喰い虫を勝手に食べた個体。
外皮が少し弱い。
煙を吸って苦しそうにしている。
一体目が振り返る。
戻ろうとする。
グレイは止めた。
「グ!」
戻るな。
煙の方へ行けば危険。
だが、一体目は怒りに近い感情を流す。
巣を壊されている。
追われている。
群れが苦しんでいる。
それが一体目を荒くしていた。
グレイも同じだった。
煙。
火。
人間。
下層を押し潰すもの。
その全部が繋がり始める。
裂け目の奥で、群れは一度止まった。
地下水脈の空洞。
狭い。
湿っている。
黒岩に水滴が落ちる。
ここなら煙は薄い。
だが、巣ではない。
骨もない。
保存肉もない。
匂いも定着していない。
群れが落ち着かない。
新しい幼生たちが鳴く。
きゅ。
きゅ。
怖い。
苦しい。
空腹。
全部が流れる。
二体目が必死に匂いを擦る。
一体目は入口側を睨んでいる。
グレイは、裂け目の向こうを見た。
煙。
まだ来る。
人間は止めない。
追い出そうとしている。
そこではじめて、グレイの中で何かが変わった。
今まで、人間は避けるものだった。
怖いものだった。
理解できないものだった。
だが、今。
群れを苦しめている。
新しい幼生たちが咳き込み、二体目が匂いを失い、一体目が怒り、巣が煙で汚されている。
全部、人間がやった。
グレイの中に、熱いものが生まれた。
嫌悪。
拒絶。
そして。
敵意。
小さくない。
今までで一番はっきりしていた。
群れを脅かすもの。
人間。
その認識が、煙と一緒に肺へ入ってくる。
一体目が低く唸った。
グルル。
以前は出さなかった音。
威嚇。
怒り。
それを聞いた瞬間、グレイも喉の奥が熱くなった。
「……グル」
低い。
湿った。
怒りの音。
新しい幼生たちが震える。
二体目も反応する。
群れ全体に、その感情が広がる。
煙への恐怖。
追われる不安。
そして、人間への拒絶。
白鳴き種の感覚が、遠くの会話を拾う。
「反応が移動した!」
「地下水脈側だ!」
「追い込めるぞ!」
追い込む。
その言葉に、グレイの外皮が硬くなった。
追われている。
群れごと。
巣ごと。
人間は、こちらを生き物ではなく、押し込めるものとして扱っている。
レオンの記憶が一瞬浮かんだ。
酒場。
笑い声。
仲間。
帰る場所。
あの時の人間たち。
今、煙を流している人間たち。
同じものに思えなかった。
ラグドの声が、また遠くで響く。
「深追いするな!」
「でも今なら!」
「今はまだ刺激するなって言ってんだろ!」
まだ。
またその言葉。
ラグドだけは違う。
そう感じる。
だが、止められていない。
煙は流れている。
群れは追われている。
結果は同じだった。
その時。
地下水脈の奥から、別の音がした。
ずる。
ぐちゃ。
腐肉獣。
いや、もっと多い。
煙から逃げてきた魔物たち。
地下水脈側へ流れている。
グレイは瞬時に理解した。
人間が押した。
煙で。
だから、下層の魔物が全部こちらへ来る。
世界そのものが押し込まれている。
一体目が前へ出る。
戦う気だ。
グレイも動いた。
群れを守る。
その感覚が、もう自然だった。
だが、同時に別の感情が混ざる。
人間が来なければ。
煙を流さなければ。
こんなことにはならなかった。
その思考。
それは、今までのグレイにはなかった。
責任を外へ向ける感情。
敵を認識する感情。
グレイは、地下水脈の暗闇を見つめた。
腐肉獣の群れが近づいている。
煙は後ろから来る。
逃げ場が狭まる。
群れは、押されている。
人間に。
その事実が、グレイの中で完全な形を持ち始めていた。
新しい幼生が、苦しそうに鳴く。
きゅ。
グレイは振り返った。
小さい。
弱い。
煙だけで死ぬかもしれない。
それを見た瞬間。
敵意が、完全に形になった。
人間。
群れを苦しめるもの。
巣を壊すもの。
空気を汚すもの。
追い込むもの。
グレイは低く唸った。
「グルル……」
それはもう、ただの警戒音ではなかった。
明確な敵意だった。
そして、その感情は群れ全体へ流れた。
一体目。
二体目。
新しい幼生たち。
全員が、人間という存在へ初めて同じ感情を抱き始める。
怖い。
嫌だ。
近づくな。
群れを壊すな。
その感情が、地下水脈の暗闇でゆっくり広がっていく。
遠くでは、まだ人間が煙を送り込んでいる。
ラグドの怒鳴り声も聞こえる。
止めようとしている。
だが、止まっていない。
もう遅い。
グレイは、初めて理解した。
人間は、群れを殺そうとしている。
そして今。
グレイもまた、人間を敵として認識し始めていた。




