第57話『飢える巣』
巣は、食べていた。
腐肉獣の死体。
黒鼠の骨。
黒殻狩りの残骸。
骨喰い虫の殻。
下層の黒岩に落ちたものを、群れは少しずつ取り込んでいた。
肉は幼生たちの腹へ入る。
骨は入口に並ぶ。
殻は壁の隙間を塞ぐ。
血は匂いの誘導に使われる。
腐った臓器は巣から遠ざけ、別の魔物を誘う餌にする。
食べられるものは食べる。
使えるものは使う。
危険なものは遠ざける。
それを繰り返すうちに、巣はただの巣ではなくなっていた。
黒岩の空洞に、死体の部品と骨の仕掛けと匂いの道が絡み合っている。
そこを、小さな幼生たちが動く。
一体目は入口へ。
二体目は保存場所へ。
新しく生まれた四体は、まだ奥でまとまっているが、少しずつ歩けるようになってきた。
グレイは中央にいた。
自然と、そこにいる。
全員の音が聞こえる位置。
全員の匂いが届く位置。
入口の骨も、奥の逃げ道も、保存肉も、水場へ続く細い通路も確認できる位置。
それがグレイの場所になっていた。
だが、その中心にいても、落ち着かなかった。
空腹があった。
自分のものではない。
群れの空腹。
それが、巣の中に薄く広がっている。
腐肉獣の死体を手に入れた時、一時的に満たされた。
新しい幼生たちは、柔らかい肉を食べ、眠った。
一体目も、二体目も、少し落ち着いた。
グレイも、群れの満足を受け取り、しばらくは静かでいられた。
だが、足りなかった。
腐肉獣は大きかった。
それでも、六体の幼生には長くもたない。
食べられる部位は減る。
腐る部位は増える。
硬い筋は残る。
毒のある臓器は捨てる。
二体目が、保存場所の前で何度も匂いを嗅いでいた。
食える。
まだ食える。
でも、少ない。
そういう焦りが、二体目から流れてくる。
一体目は入口で動きが荒くなっていた。
外へ出たい。
狩りたい。
取ってくる。
そんな感情。
新しい四体は、もっと単純だった。
空腹。
肉。
足りない。
それだけ。
グレイは、黒岩に爪を立てた。
封鎖のせいだ。
そう思った。
人間が道を潰した。
魔物の流れが変わった。
狩場が乱れた。
水場へ行くにも、人間の気配が増えた。
餌場へ向かう細道は塞がれた。
以前なら、黒鼠が自然に集まる場所があった。
骨喰い虫が多い通路もあった。
腐肉獣が漁る死骸の溜まり場もあった。
今は違う。
封鎖で押された魔物が、一部の道へ偏っている。
強い魔物が弱い魔物を追い、弱い魔物はさらに奥へ逃げる。
巣の近くへ来るものも増えた。
だが、餌として扱いやすいものは減っている。
大型は危険。
硬い魔物は幼生が食べにくい。
毒のあるものは避けなければならない。
肉があっても、全てが餌になるわけではない。
群れは、ただ増えればいいわけではなかった。
増えた分だけ、食えるものを選ぶ必要がある。
それが難しい。
グレイは巣の奥を見た。
新しい幼生の一体が、腐肉獣の骨を齧っていた。
食べられない。
骨の表面に残った肉の匂いを舐めているだけだ。
もう一体は、保存場所の近くで二体目の動きを真似している。
匂いを嗅ぐ。
肉を押す。
食べられるものを探す。
だが、まだ分からない。
腐った部位にも口をつけようとする。
二体目がそれを押し戻す。
弱い鳴き声。
不満。
空腹。
グレイへ流れてくる。
グレイは、低く鳴いた。
「グ」
待て。
その声で、幼生たちは少し静かになる。
だが、空腹は消えない。
声は腹を満たさない。
グレイは立ち上がった。
狩りへ行くしかない。
一体目がすぐ反応する。
入口から戻り、グレイの横へ来る。
「グレ」
連れていけ。
そういう感情。
以前より強い。
グレイは一体目を見た。
もう、完全に巣の奥で待つだけの幼生ではない。
黒灰色の外皮は硬くなり、脚も速い。
小型魔物相手なら、足止めくらいはできる。
二体目ほど匂いに敏くはないが、動きと反応は群れの中で一番鋭い。
連れて行けば、狩りは少し楽になる。
だが、危険も増える。
一体目が傷つけば、群れ全体が揺れる。
死ねば。
その先を考えたくなかった。
グレイは短く鳴いた。
「グ」
駄目だ。
一体目は止まらなかった。
一歩前に出る。
不満。
焦り。
群れの空腹。
それが一体目を押している。
グレイは、強く鳴いた。
「グ!」
今度は一体目が身体を縮めた。
従う。
だが、不満は消えない。
むしろ奥へ沈む。
一体目の中に、グレイの指示とは違う感情が育っている。
自分で判断したい。
自分で動きたい。
それを、グレイは感じた。
嫌な感覚だった。
群れは繋がっている。
だが、全部がグレイではない。
一体目は一体目だ。
二体目は二体目だ。
新しい四体も、これから別々の癖を持つ。
群れが大きくなるほど、全てを止められなくなる。
グレイは、それを少しずつ理解していた。
巣を出る。
一体目は残る。
二体目が奥から顔を上げる。
不安。
餌。
待つ。
グレイは、二体目へ感覚を送る。
守れ。
奥。
幼生。
二体目は静かに鳴いた。
「グレ」
分かった、に近い感覚。
グレイは外へ出た。
入口の骨が鳴る。
からり。
黒殻狩りの死骸の隙間を抜ける。
腐肉獣の肋骨で作った障害物を避ける。
外は、以前より匂いが悪かった。
封鎖の後から、下層全体に死臭が増えている。
逃げ道を失った魔物同士が衝突する。
弱いものが死ぬ。
死体に骨喰い虫が集まる。
腐肉獣が集まり、それをさらに大きな魔物が狙う。
生態系が一箇所へ押し込まれ、濁っている。
グレイは、その匂いを嗅ぎながら進んだ。
狙うのは柔らかい肉。
黒鼠。
小型蛇。
腐肉獣の幼体。
可能なら、まとめて。
水場は危険だ。
人間が監視している。
なら、封鎖で魔物が流れた新しい道を探す。
グレイは、以前塞がれた横穴の手前まで行った。
黒岩の壁。
人間が崩した通路。
そこから別方向へ魔物の匂いが流れている。
小さい足音。
黒鼠の群れ。
押し出されている。
グレイは天井へ上がった。
下の通路を、黒鼠が五匹走ってくる。
追われている。
後ろには骨喰い虫の群れ。
さらに奥に腐肉獣。
流れだ。
弱い魔物が逃げ、それを追う魔物が来る。
この流れを利用する。
グレイは、黒鼠の群れの先へ移動した。
狭い通路。
骨がいくつか落ちている。
それを前脚で弾く。
からっ。
黒鼠が一瞬止まる。
そこへ落ちる。
一匹。
噛む。
二匹目が逃げる。
前脚で押さえる。
三匹目は一体目がいれば止められたかもしれない。
だが、今はいない。
逃げる。
グレイは二匹を仕留めた。
さらに骨喰い虫が追いつく。
二匹。
三匹。
骨喰い虫の中身は幼生にも食べられる。
硬い殻は巣に使える。
殺す。
一匹。
二匹。
三匹目が逃げる。
追わない。
腐肉獣が近づいている。
持ちきれない。
黒鼠二匹。
骨喰い虫二匹。
これだけでも量はある。
グレイは、黒鼠を咥え、骨喰い虫の中身を前脚で押さえながら、巣へ戻る道を選んだ。
途中で、腐肉獣の匂いが近づく。
追われている。
血の匂いに引かれて。
グレイは、黒鼠の一匹を横道へ投げた。
腐肉獣の注意が逸れる。
肉を一つ捨てる。
群れの餌が減る。
だが、巣へ戻るためには必要だった。
そう判断する。
以前なら、何も感じなかった。
今は、捨てた黒鼠の分まで空腹が重くなる。
群れが食べられたはずの肉。
それを失った感覚。
グレイは牙を噛んだ。
巣へ戻ると、入口の骨が鳴った。
一体目が出迎える。
そして、咥えている肉の少なさを感じたのか、焦りが流れてきた。
足りない。
そう思っている。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
黙れ。
だが、群れの空腹は黙らない。
二体目が肉を受け取り、奥へ運ぶ。
新しい幼生たちが一斉に動く。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
肉。
肉。
肉。
グレイは黒鼠の腹を裂いた。
柔らかい部位を四体へ分ける。
骨喰い虫の中身も押し出す。
量はある。
だが、全員が満ちるほどではない。
一体目と二体目は、ほとんど食べない。
新しい四体へ譲っている。
それがまた問題だった。
成長している二体にも餌は必要だ。
食わなければ動きが鈍る。
外皮も弱る。
防衛もできない。
グレイは、一体目の前へ黒鼠の脚を押した。
食え。
一体目は少し躊躇した。
奥の幼生を見る。
譲ろうとしている。
グレイは強く鳴いた。
「グ」
食え。
一体目はようやく食べた。
二体目にも肉を置く。
二体目は匂いを確認し、少しだけ食べる。
残りを奥へ押そうとする。
グレイは止めた。
「グ」
お前が食え。
二体目も、少しだけ食べる。
群れ全体のため。
それを理解しているのかもしれない。
だが、新しい幼生たちの空腹が強すぎる。
年長の二体は、自然と譲ってしまう。
それが続けば、逆に群れが弱る。
グレイは、食べる順番まで考えなければならないと理解した。
餌があるだけでは足りない。
分配。
優先。
保存。
成長。
防衛。
全部が繋がる。
巣の中央で、肉が減っていく。
一体目が食べ、二体目が食べ、新しい幼生たちが食べる。
それでも、一体だけが満ちていない。
新しい幼生の一体。
小さく、他の三体より少し動きが遅い個体。
いつも餌を取るのが遅れる。
グレイは、その個体を薄く認識していた。
まだ名前はない。
どの幼生にも名はない。
ただ匂いと感覚で分かる。
遅い個体。
その個体が、食べきれなかった。
肉片へ近づいた時には、別の幼生が先に食べていた。
きゅ。
弱い鳴き声。
空腹。
不足。
それが流れる。
グレイは、残った骨喰い虫の中身をその個体へ押そうとした。
だが、別の幼生が横から食いついた。
強い個体。
グレイは低く鳴いた。
「グ!」
強い個体が止まる。
遅い個体へ肉を押す。
遅い個体が食べる。
少しだけ空腹が薄れる。
だが、完全ではない。
肉が足りない。
グレイは保存場所を見た。
ほとんど空。
腐肉獣の硬い筋が少し。
黒殻狩りの殻近くに残った乾いた肉。
幼生向きではない。
それでも、食べないよりはいい。
二体目が、それを見ていた。
匂いを読む。
食べられるか。
危険か。
迷っている。
グレイは硬い筋を噛み砕き、少し柔らかくした。
遅い個体の前へ置く。
食べにくい。
だが、食べる。
きゅ。
少し落ち着く。
その時、巣の入口で一体目が動いた。
外を見ている。
何か来たか。
グレイは感覚を広げた。
外敵ではない。
魔物の匂いも遠い。
人間も近くない。
ではなぜ。
一体目の視線は、入口の外に置いてある古い骨喰い虫の死骸へ向いていた。
以前、捨てたもの。
古い。
食べるには向かない。
毒ではないが、腐り始めている。
匂いが悪い。
グレイは、すぐに低く鳴いた。
「グ」
駄目だ。
一体目は振り返る。
違う。
一体目ではない。
入口の影に、別の幼生がいた。
新しい四体のうちの一体。
いつ出た。
グレイの外皮が硬くなる。
空腹で動いた。
骨の隙間を抜け、入口近くまで出ていた。
小さいから通れた。
見落とした。
その幼生は、古い骨喰い虫の死骸に顔を近づけていた。
二体目が反応するより早く。
グレイが動くより早く。
幼生は、腐りかけの死骸へ口をつけた。
噛む。
食べる。
グレイは一瞬、動けなかった。
勝手な行動。
初めてだった。
グレイの指示ではない。
一体目や二体目の模倣でもない。
空腹に押されて、個体が勝手に動いた。
巣の外へ出て。
禁止したものを食べた。
グレイは飛び出した。
幼生を咥え、死骸から引き離す。
幼生が暴れる。
きゅう!
空腹。
不満。
恐怖。
それらが一気に流れる。
食べたい。
足りない。
食べたかった。
その感情が、あまりにも単純で、強かった。
グレイは幼生を巣の奥へ戻した。
低く鳴く。
「グ!」
制止。
幼生は身体を縮める。
だが、口の周りには骨喰い虫の腐った体液がついている。
二体目がすぐ近づき、匂いを嗅ぐ。
不安。
危険。
毒ではない。
だが、よくない。
グレイは水場へ行くべきか迷った。
洗う。
だが、外は危険。
人間もいる。
今は動かせない。
幼生は震えながらも、まだ空腹だった。
腐った死骸を少し食べただけ。
満ちていない。
グレイは、その幼生の前に硬い筋肉を置いた。
幼生は食べようとする。
だが、うまく噛めない。
苛立ち。
また外へ行きたがる感覚。
グレイは、ぞっとした。
これは、ただの命令違反ではない。
個体の意思だ。
空腹に従った。
グレイの制止より、空腹が勝った。
群れが増えれば、こういうことが増える。
全ての空腹を同時に満たせなければ、誰かが勝手に動く。
誰かが外へ出る。
腐ったものを食べる。
人間の匂いを追う。
危険な声を出す。
止めきれない。
一体目が、入口から戻ってきた。
その幼生を見る。
怒りではない。
困惑。
なぜ従わなかった。
そんな感覚。
二体目は、腐った匂いを消そうと幼生の口元を舐めている。
グレイは、その光景を見ながら理解した。
群れは個を持ち始めている。
繋がっている。
でも、全部が同じではない。
一体目は守ろうとする。
二体目は嗅ぎ、整える。
遅い個体は餌を取り損ねる。
強い個体は奪う。
そして今、空腹で外へ出た個体がいる。
グレイの意思だけでは、群れはもう完全には動かない。
それは成長だった。
同時に危険だった。
グレイは、入口の外へ出た。
古い骨喰い虫の死骸を咥え、遠くへ捨てる。
もっと遠く。
巣から匂いが届かない場所へ。
戻る途中、封鎖された横穴の方で人間の音がした。
ごん。
杭を打つ音。
また世界が狭くなる。
グレイは、その音を聞きながら、牙を噛んだ。
飢えさせられている。
そう感じた。
人間は直接攻撃していない。
だが、道を塞ぎ、狩場を歪め、魔物の流れを変え、群れを飢えさせている。
その結果、幼生が腐った死骸を食べた。
勝手に外へ出た。
危険に近づいた。
これも、人間が押した結果なのか。
それとも、増えた自分たちが悪いのか。
分からない。
ただ、空腹は現実だった。
巣へ戻ると、幼生たちは静かになっていた。
食べられる肉はほとんどない。
空腹はまだ残る。
だが、疲れて眠り始めている。
満ちた眠りではない。
諦めに近い眠り。
それが群れ全体へ重く沈む。
グレイは中央に座った。
一体目は入口。
二体目は奥。
四体の幼生は固まって眠る。
そのうちの一体だけ、口元にまだ腐った匂いが残っている。
グレイは、その匂いを忘れない。
群れが飢えると、個が勝手に動く。
その事実を。
今日、巣は初めてグレイの手から少しだけ外れた。
ほんの少し。
小さな幼生が、死んだ骨喰い虫を食べただけ。
だが、それは大きかった。
グレイは、静かに自分の名を呼んだ。
「グレイ」
一体目が返す。
「グレ」
二体目も。
「グレ」
眠っている幼生たちは、今日はすぐに返さなかった。
空腹で疲れている。
少し遅れて、一体だけが小さく鳴いた。
「グ……」
それは、腐った死骸を食べた個体だった。
グレイは、その弱い声を聞きながら、目を閉じた。
群れは一つだ。
だが、一つではない。
そして飢餓は、その綻びから入り込む。
巣はまだ生きている。
けれど、確かに飢えていた。




