第56話『崩落』
最初に崩れたのは、巣ではなかった。
下層そのものだった。
ごおん。
遠くで、黒岩が裂ける音が響いた。
鈍い。
重い。
ただの落石ではない。
黒岩の奥から押し潰されるような音。
洞窟全体が、ゆっくり軋む。
巣の奥で眠っていた新しい幼生たちが一斉に目を覚ました。
きゅ。
きゅ。
不安。
恐怖。
振動。
その感覚が群れ全体へ流れる。
一体目は即座に入口へ向かった。
二体目は新しい幼生たちを奥へ押し込む。
グレイは中央で動かなかった。
いや、動けなかった。
白鳴き種の感覚が、洞窟全体の震えを拾っていた。
遠い。
だが大きい。
人間。
杭。
縄。
崩落。
封鎖。
夢で聞いた音と同じだった。
ついに始まった。
人間が、道そのものを潰し始めた。
ごご。
また揺れる。
黒岩の粉が巣の天井から落ちた。
新しい幼生の一体が鳴く。
「グ……」
グレイは低く返した。
「グ」
落ち着け。
だが、群れ全体に流れる不安は消えない。
洞窟は変わる。
道が消える。
それは、魔物にとって世界そのものが変わるということだった。
グレイは入口へ向かった。
一体目がすぐ隣へ並ぶ。
最近、一体目はグレイの動きを当然のように追う。
護衛。
補佐。
真似。
全部混ざっている。
二体目は奥へ残った。
新しい幼生たちの匂いを落ち着かせている。
役割ができていた。
グレイは入口の骨を抜けた。
から。
からり。
以前より音が増えている。
骨が増えたからだ。
巣そのものが大きくなり、複雑になっている。
それは守りでもあり、弱点でもあった。
揺れれば、骨が鳴る。
魔物を呼ぶ。
人間を呼ぶ。
グレイは通路を進んだ。
遠くから、人間の匂いが流れてくる。
多い。
封鎖班。
さらに、その奥。
逃げてくる魔物。
黒鼠。
骨喰い虫。
腐肉獣。
下層の流れが変わっている。
道が潰され、行き場を失ったものたちが別ルートへ流れてきている。
生態系が押し潰されていた。
人間はグレイたちを閉じ込めようとしている。
だが、押されるのはグレイたちだけじゃない。
洞窟にいる全ての生き物だ。
グレイは水場方向へ進んだ。
途中。
いつも使っていた細い横道が、完全に塞がっていた。
黒岩。
杭。
崩落。
人間が意図的に落としたのだろう。
以前なら黒鼠が抜けていた隙間もない。
完全封鎖。
グレイは、しばらくその壁を見ていた。
ここは狩りの近道だった。
一体目が初めて地上へ近づいた時も、この道を使った。
骨喰い虫を追い込んだ場所。
レオンの血が流れた通路。
全部、ここへ繋がっていた。
それが、消えている。
グレイは黒岩を嗅いだ。
新しい。
人間。
火薬に近い匂い。
魔力結晶。
崩落用の杭。
静かに、確実に潰している。
怒りは、まだなかった。
代わりにあったのは、圧迫感だった。
世界が狭くなっていく。
逃げ道が減る。
水場までの距離が伸びる。
狩場が偏る。
群れを抱えた今、それは致命的だった。
一体目が黒岩へ前脚をかける。
押す。
動かない。
一体目の中に焦りが流れる。
グレイも同じだった。
だが、無理だ。
これは壊せない。
少なくとも今の群れでは。
グレイは一体目へ感覚を送る。
戻れ。
別ルート。
一体目は少しだけ抵抗した。
まだ押そうとする。
だが、グレイが動き出すと従った。
以前より、自我がある。
しかし、グレイへの追従も強い。
群れの中心。
その感覚が、ますます濃くなっていた。
別ルートへ向かう。
そこは以前、腐肉獣が多かった通路だ。
湿っている。
狭い。
匂いがこもる。
グレイは好きではなかった。
だが、もう選べない。
封鎖されたから。
その時。
遠くで悲鳴が聞こえた。
魔物ではない。
人間。
短い。
切れるような叫び。
続いて、骨が砕ける音。
腐肉獣。
いや、複数。
グレイは止まった。
白鳴き種の感覚が広がる。
人間三。
腐肉獣四。
さらに奥から黒鼠の群れ。
通路封鎖で流れが変わったせいだ。
今まで別方向へ散っていた魔物が、一箇所へ集中している。
人間が押した。
だから、魔物が溢れた。
グレイは暗闇の奥を見た。
灯りが揺れている。
腐肉獣の唸り。
血。
恐怖。
「下がれ!」
人間の声。
焦っている。
以前なら、グレイは避けただろう。
人間同士の戦い。
関係ない。
だが、今は違う。
腐肉獣が増えれば、この通路は使えなくなる。
群れの狩場が消える。
水場への道も危険になる。
つまり。
群れへ影響する。
グレイは、そこで理解した。
人間の行動が、群れへ直接繋がり始めている。
もう、避けていれば終わりではない。
封鎖一つで、生態系全体が動く。
押された魔物が流れる。
狩場が変わる。
餌が減る。
群れが飢える。
世界そのものが、グレイたちへ押し寄せている。
一体目が低く唸る。
戦うか。
そういう感情。
グレイは少し迷った。
人間を助ける気はない。
だが、腐肉獣が増えるのも困る。
その時。
腐肉獣の一体が、人間ではなくこちらへ顔を向けた。
匂い。
血。
群れ。
腐肉獣は飢えていた。
封鎖で餌が減っているのだろう。
グレイは瞬時に理解した。
このままでは巣方向へ流れる。
新しい幼生たちが危険。
グレイは動いた。
天井。
壁。
最短。
腐肉獣の頭上へ落ちる。
牙。
喉。
腐肉獣が悲鳴を上げる。
人間たちが一斉に振り返った。
「なっ……!」
灯りが揺れる。
グレイは止まらない。
腐肉獣を押し潰し、そのまま別の一体へ飛ぶ。
一体目も後ろから飛びかかった。
まだ小さい。
だが、以前より速い。
脚へ噛みつく。
腐肉獣が体勢を崩す。
人間の槍が刺さる。
血。
混乱。
狭い通路。
腐肉獣たちは、敵が誰なのか分からなくなっていた。
グレイは、その隙を利用した。
通路の横壁。
以前から脆かった場所。
そこへ腐肉獣を叩きつける。
ごき。
黒岩が崩れる。
通路の一部が落ちた。
腐肉獣二体が巻き込まれる。
人間たちが悲鳴を上げる。
グレイは、一体目へ感覚を送る。
戻れ。
すぐ。
一体目は腐肉獣へさらに噛みつこうとしていた。
興奮している。
戦い。
勝てる。
その感覚。
グレイは強く命じた。
「グ!」
一体目が硬直する。
ようやく後退。
グレイは腐肉獣の死体を引きずり、人間から距離を取った。
人間たちは追わない。
追えない。
通路が崩れ、混乱している。
その中で、一人だけグレイを見ていた。
ラグド。
まただ。
グレイは、彼の匂いを覚えていた。
ラグドも、グレイを見ている。
戦った。
だが、人間を襲うためではなかった。
腐肉獣を止めるため。
ラグドは、それを理解した顔をしていた。
だが、周囲の人間は違う。
若い調査員が震えた声を出す。
「灰の巣主……!」
その名。
また。
人間側で広がっている。
グレイは意味を知らない。
だが、その音に恐怖が混ざっていることは分かる。
ラグドが低く言った。
「追うな」
「でも!」
「追うな!」
強い声。
周囲が止まる。
ラグドは崩れた通路を見た。
腐肉獣。
死体。
血。
封鎖。
そして、逃げていくグレイ。
ラグドは小さく呟いた。
「押しすぎたか……」
グレイは、その言葉を聞いた。
押しすぎた。
そう。
人間が世界を押した。
だから、全部が動いた。
腐肉獣も。
黒鼠も。
骨喰い虫も。
そして、グレイたちも。
グレイは腐肉獣の死体を咥え、一体目と共に巣へ戻った。
以前なら、こんな大型を運ぶことはなかった。
だが、群れには必要だ。
飢え。
成長。
封鎖。
全部が、もっと食えと言ってくる。
巣へ戻ると、二体目がすぐ反応した。
腐肉獣の匂い。
大量の肉。
新しい幼生たちも起きる。
空腹。
喜び。
グレイは死体を落とした。
新しい幼生たちが群がる。
まだうまく裂けない。
一体目が肉を引き剥がして分ける。
二体目が腐った部位を避ける。
グレイが大型の骨を処理する。
自然だった。
誰も指示していない。
それでも動く。
群れだから。
グレイは、その光景を見ていた。
封鎖される。
道が減る。
魔物が押し寄せる。
人間が増える。
それでも、群れは適応し始めている。
腐肉獣すら餌へ変えた。
崩れた通路すら利用した。
世界が押してくるなら、形を変えて耐える。
それが群れだった。
その時。
遠くで、また崩落音がした。
ごおん。
別の通路。
また一つ、世界が潰される。
新しい幼生たちが不安で鳴く。
きゅ。
きゅ。
グレイは低く返した。
「グ」
落ち着け。
だが、自分の中にも同じ感情があった。
不安。
圧迫。
逃げ道が減る感覚。
下層そのものが変わっていく。
グレイは、腐肉獣の骨を見下ろした。
以前なら、洞窟はただの場所だった。
暗くて、冷たくて、広かった。
今は違う。
群れの世界だ。
巣へ繋がる道。
狩場。
水場。
地上への気配。
全部が繋がっている。
だから、人間が通路を潰すたびに、世界そのものが歪む。
グレイは、初めて思った。
人間は、洞窟を壊している。
自分たちを閉じ込めるために。
だが、そのせいで下層全体が壊れ始めている。
なら。
悪いのは、どっちだ。
その考えが浮かんだ瞬間、グレイは少しだけ驚いた。
今まで、人間は怖いものだった。
避けるもの。
強いもの。
理解できないもの。
でも今、初めて別の感情が混ざった。
敵意。
まだ小さい。
だが、確かにある。
群れを押し潰すものへの感情。
グレイは、巣の入口を見た。
封鎖は続く。
世界はさらに狭くなる。
なら、群れはもっと変わるしかない。
もう、以前のように隠れて生きるだけでは足りなかった。
群れを抱えた瞬間から。
世界そのものが、グレイたちを災厄へ押し上げ始めていた。




