第55話『群れ』
腐肉獣の死体は、巣の中央に置かれた。
置いた、というより、動かせなかった。
大きすぎた。
黒殻狩りの死骸は入口の壁にできた。
だが、腐肉獣は違う。
柔らかい。
重い。
血と腐臭を含み、巣の空気をすぐに濁らせる。
外へ運ぶには、匂いが強すぎる。
入口まで引きずれば、他の魔物を呼ぶ。
水場へ持っていくには、人間の封鎖線に近づきすぎる。
だから、グレイは巣の中央で処理することにした。
肉を裂く。
使える部位を分ける。
腐りかけた部分を捨てる。
骨を残す。
皮を剥ぐ。
匂いの強い臓器を外へ出す。
それは食事ではなかった。
作業だった。
グレイは、牙を使い、前脚を使い、腐肉獣を分解していく。
血の匂いが広がるたびに、二体目が反応した。
二体目は匂いに敏い。
危険な部位と食べられる部位を嗅ぎ分けようとしている。
以前なら、グレイが一匹で判断していた。
今は、二体目が先に顔を向ける。
これは駄目。
これは食える。
これは匂いが外へ流れる。
そういう感覚が薄く流れてくる。
グレイは、その感覚を受け取って肉を分けた。
一体目は入口側にいる。
黒殻狩りの死骸の向こう。
骨の配置を確認しながら、時々巣の外を見ている。
人間。
魔物。
どちらも来るかもしれない。
一体目は、それを警戒している。
新しい幼生たちは、巣の奥に集められていた。
まだ小さい。
だが、もう完全な赤子ではない。
柔らかい肉を与えれば、自分で食べる。
骨の音にも反応する。
グレイの声にも反応する。
時々、意味も分からずに「グ」と鳴く。
そのたびに、巣の中の空気が少し変わる。
グレイという音が、また広がる。
腐肉獣の肉を裂きながら、グレイはその音を聞いていた。
きゅ。
グ。
きゅ。
グレ。
生まれたばかりの四体は、まだ音が不完全だ。
だが、一体目と二体目はもうはっきり呼べる。
「グレ」
「グレイ」
時々、二体目は人間の言葉の欠片まで漏らす。
「た……」
その度に、グレイは低く制止する。
「グ」
二体目は止まる。
だが、完全には忘れない。
忘れられない。
群れは学ぶ。
そして、忘れにくい。
それがこの章で得た一番大きな変化だった。
グレイは、腐肉獣の柔らかい腹肉を四つに裂いた。
新しい幼生たちの前へ押す。
四体が一斉に食べ始める。
空腹が薄れる。
巣全体が少し静かになる。
その静けさが、グレイにも流れてくる。
自分が食べたわけではない。
それでも落ち着く。
もう、そこに違和感を覚える余裕も少なくなっていた。
群れの空腹が自分を動かす。
群れの満足が自分を静める。
それは異常だ。
だが、今のグレイにとっては現実だった。
一体目が入口から戻ってきた。
「グレ」
短く鳴く。
警戒。
外に人間はいない。
近くの魔物も少ない。
その感覚が流れてくる。
グレイは、肉を裂く動きを止めずに受け取った。
分かった。
声は出さない。
だが、一体目には伝わったようだった。
一体目は巣の入口側に骨を一つ追加する。
それから、腐肉獣の硬い肋骨を咥えようとした。
重い。
一体目だけでは動かせない。
二体目が近づく。
匂いを嗅ぐ。
置く場所を探る。
二体で骨を引きずる。
グレイは見ていた。
肋骨は長く、曲がっている。
入口の狭い通路へ横に置けば、大型魔物の脚を引っかけるかもしれない。
人間なら、暗闇で足を止める。
小型魔物なら下を抜けるが、その時に音が鳴る。
悪くない。
グレイは少しだけ手伝った。
肋骨を入口近くへ運ぶ。
一体目が位置を調整する。
二体目が匂いの流れを読む。
グレイが最後に角度を決める。
三体で一つの骨を置いた。
からり。
音を確認する。
軽すぎる。
グレイは肋骨の端に小石を挟んだ。
もう一度。
ごと。
重い音。
これなら分かる。
一体目が、その音を聞いて満足に近い感情を流す。
二体目は、匂いの流れが入口ではなく横道へ逸れていることを確認している。
グレイはそこで、ふと理解した。
自分はもう、一匹で巣を作っていない。
群れで作っている。
骨を置く。
匂いを読む。
入口を見る。
餌を分ける。
幼生を奥へ押す。
警戒する。
それぞれが、少しずつ違うことをしている。
最初は、全部グレイがやっていた。
今は違う。
一体目は動く。
二体目は嗅ぐ。
四体の幼生は食べて育つ。
そして、グレイは全体を感じる。
群れ。
その言葉が、今までで一番はっきり浮かんだ。
グレイは入口の骨を見つめた。
黒殻狩りの死骸。
腐肉獣の肋骨。
黒鼠の細い骨。
黒岩喰いの殻。
白鳴き種の外殻片。
それらが組み合わさり、ただの死骸ではない形になっている。
巣の一部。
群れの一部。
食ったものが、身体だけでなく巣にもなっている。
食べた魔物の力が、外皮や顎になる。
残った骨が、守りになる。
記憶が、声になる。
匂いが、道になる。
血が、警告になる。
全部が使われる。
この群れは、そういうものになり始めていた。
無駄がない。
生きるためなら、何でも使う。
自分の身体から生まれたものまで。
グレイは、ふと腹の奥にまた熱を感じた気がして身体を硬くした。
だが、今回は孵化ではなかった。
疲労。
空腹。
そして、群れ全体の熱。
六体の幼生が近くにいることで、巣の空気そのものが温かい。
以前の巣は冷たかった。
黒岩の匂いだけだった。
今は、命の匂いがある。
血。
肉。
呼吸。
体液。
声。
熱。
巣は生き物のようになっている。
外から見れば、きっと醜い。
骨と死骸と黒い幼生がうごめく場所。
人間が見れば、吐き気を覚えるかもしれない。
焼き払うべきものと思うかもしれない。
だが、グレイにとっては違った。
ここは巣だった。
帰る場所だった。
守る場所だった。
一体目が、また入口を見た。
何かを感じたのだろう。
グレイも感覚を広げる。
遠く。
人間。
静かな足音。
封鎖線の方。
ラグドの匂いはない。
別の調査班。
近づいてはいるが、巣へ直行しているわけではない。
人間たちは静かに動いている。
封鎖のために。
道を減らすために。
グレイたちを外へ出さないために。
グレイは、低く息を吐いた。
人間側も学んでいる。
血を置かない。
罠を不用意に使わない。
大声を出さない。
火で追い立てない。
刺激しない。
だが、囲む。
静かに。
確実に。
それは、ある意味で討伐より厄介だった。
戦うなら噛める。
逃げるなら道を探せる。
だが、静かに道を減らされると、群れは少しずつ狭くなる。
餌場が減る。
水場が遠くなる。
地上への道が監視される。
人間は、グレイたちを殺さずに殺そうとしているのかもしれない。
飢えさせる。
閉じ込める。
動けなくする。
グレイは、それを理解し始めていた。
なら、こちらも変わるしかない。
封鎖されるなら、別の道。
狩場が減るなら、新しい狩場。
声が危険なら、声を隠す場所。
幼生が増えるなら、巣を広げる。
人間が静かになるなら、もっと静かに。
グレイの中で、いくつもの判断が同時に動く。
だが、その判断はもう一匹分ではない。
六体の幼生。
入口。
餌。
水。
封鎖。
地上。
全部を含んだ判断。
重い。
だが、確かに広い。
自分の思考が、巣全体へ広がっている。
一体目が見た入口。
二体目が嗅いだ肉。
新しい幼生が感じる空腹。
全部が、グレイの中で薄く光る。
一つ一つは弱い。
だが、重なると、巣の形になる。
グレイは腐肉獣の死体に戻った。
まだ肉はある。
だが、保存には向かない部分も多い。
腐る前に食べるか、外へ捨てるか。
グレイは二体目へ匂いを送る。
二体目が近づき、肉を嗅ぎ分ける。
食える。
捨てる。
危険。
そういう感覚が流れる。
グレイは、それに従って肉を分ける。
一体目が捨てる肉を運ぶ。
外へ。
ただし巣から離れすぎない。
新しい幼生の一体が、それを見て真似しようとした。
小さな身体で肉片を咥える。
重くて倒れる。
一体目が戻ってきて、その肉片を押した。
手伝うように。
新しい幼生が鳴く。
「グ……」
一体目が返す。
「グレ」
それは会話ではなかった。
でも、完全な無意味でもなかった。
声と匂いと動作が混ざる。
群れの中だけで通じる何か。
グレイは、それを見ながら思った。
言葉ではない。
だが、言葉になりかけている。
人間のような会話ではない。
しかし、指示と感情と匂いが混ざった伝達。
それが生まれている。
これが成長すれば。
群れはもっと動ける。
一体目が外で見たものを、二体目が匂いで補い、グレイが判断し、新しい幼生が模倣する。
早い。
あまりにも早い。
グレイは、そこでようやく恐怖を感じた。
自分たちは強くなっている。
しかし、強くなればなるほど、人間は放置しない。
人間がグレイたちを災害と呼ぶのなら、たぶん間違ってはいない。
グレイたちは、ただ生きているだけだ。
でも、その生き方は広がる。
学ぶ。
増える。
適応する。
そして、人間の領域へ触れる。
それは、外から見れば災害だ。
巣の奥で、幼生たちが腐肉獣の肉を食べ終えて眠り始めた。
腹が満ちた幼生から順に、グレイの近くへ寄ってくる。
一体目は入口の近く。
まだ眠らない。
二体目は新しい幼生たちのそば。
四体は体を寄せ合っている。
小さな呼吸が重なる。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
その音が、巣の壁に反響する。
グレイは中央にいた。
自然とそうなった。
全員が見える位置。
入口も見える。
奥の逃げ道も見える。
保存肉も見える。
自分が中心。
群れの中心。
グレイは、その事実を逃げずに見た。
今まで、自分は何度も否定した。
これは巣だ。
家ではない。
これは幼生だ。
子ではない。
これは群体だ。
家族ではない。
これは生存だ。
愛ではない。
そうやって言葉を分けようとした。
けれど、もう分けきれなかった。
幼生が飢えれば狩る。
傷つけば怒る。
声を出せば止める。
空を見れば連れ戻す。
巣を壊されれば戦う。
それが全部、生存本能だとしても。
結果として、グレイは守っている。
この群れを。
そして、この群れはグレイを呼ぶ。
「グレ」
一体目が入口から振り返って鳴いた。
外は今、安全。
そういう感覚。
グレイは小さく返す。
「グ」
二体目が眠りかけながら鳴く。
「グレ」
新しい幼生の一体が、寝言のように続く。
「グ……」
また一体。
「グ……」
また。
「グ……」
「グ……」
六つの声。
それぞれ違う。
一体目は強い。
二体目は湿った音。
新しい幼生たちはまだ弱い。
だが、全部がグレイを呼んでいる。
グレイは、巣の中央で目を閉じた。
その瞬間、感覚が広がった。
入口の暗闇。
一体目の警戒。
二体目の匂い。
四体の満腹と眠気。
外の人間の遠い心音。
封鎖の音。
水場の湿り。
黒殻狩りの死骸。
腐肉獣の骨。
巣の全体が、薄く一つの身体のように感じられた。
完全な一体ではない。
まだ個体は分かれている。
一体目は一体目。
二体目は二体目。
新しい幼生はそれぞれ弱く別の命。
グレイはグレイ。
それでも、重なっている。
薄い糸で。
匂いで。
音で。
空腹で。
恐怖で。
声で。
繋がっている。
グレイは、その中心にいた。
「……一人じゃない」
声になったかどうか分からない。
人間の言葉に近い音だった。
レオンの記憶が与えた言葉。
ニルの血が運んだ感情。
グレイが、自分の巣でようやく理解した事実。
一人じゃない。
それは、最初は気持ち悪かった。
次に、怖かった。
今も怖い。
だが、それだけではなくなっていた。
一人じゃないから、重い。
一人じゃないから、狩らなければならない。
一人じゃないから、逃げ道を探す。
一人じゃないから、戦う。
一人じゃないから、失えば痛い。
そして、一人じゃないから、広がる。
グレイは目を開けた。
巣の奥で、六つの小さな命が眠っている。
その全てが、自分に繋がっている。
その全てが、自分とは別のものでもある。
群れ。
これが群れ。
グレイは、ようやくそれを認めた。
その時、遠くで人間の音がした。
杭を打つ音。
封鎖の音。
ごん。
黒岩を通して、巣まで響く。
幼生たちが眠りの中で微かに震える。
一体目が顔を上げる。
二体目も目を開ける。
グレイは、静かに入口を見た。
人間は近づいている。
世界は狭くなっている。
飢餓はまた来る。
巣はさらに広がる必要がある。
いつか、ここでは足りなくなる。
その時、群れはどうする。
答えはまだない。
だが、もう一匹で考える問題ではなかった。
グレイは低く鳴いた。
「グレイ」
一体目が返す。
「グレ」
二体目が返す。
「グレ」
眠っていた四体も、薄く反応する。
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
巣の中に、七つの音が重なった。
それは名前だった。
合図だった。
祈りにも似ていた。
そして、災厄の芽が目を覚ます音でもあった。
黒岩の奥で、灰の巣主は静かに群れを抱えた。
第3章《群体》は、ここで終わる。
外の世界はまだ知らない。
この暗い巣の中で、ただ生き延びようとするものたちが、やがて何と呼ばれるのかを。
グレイはまだ知らない。
自分たちが、人間にとってどれほど恐ろしい存在になり始めているのかを。
ただ、分かっていた。
もう戻れない。
一匹だった頃には。
巣を持たなかった頃には。
名前を一人で呼んでいた頃には。
もう戻れない。
グレイは、眠る幼生たちの音を聞きながら、静かに目を閉じた。
群れは生きている。
そして、生きるために、次はもっと広がらなければならない。




