第54話『封鎖』
最初に変わったのは、音だった。
人間は、急に静かになった。
以前の探索者たちは違った。
金属を鳴らす。
怒鳴る。
灯りを振る。
仲間同士で話し続ける。
恐怖をごまかすように。
あるいは、下層を舐めているように。
だが、最近の人間は違う。
声を潜める。
歩幅が小さい。
金属を布で包む。
灯りを減らす。
立ち止まる時間が長い。
匂いも変わった。
油。
汗。
酒。
それらの強い匂いが減った。
代わりに、乾いた布と薬品の匂い。
土を隠す粉。
血の匂いを消す液体。
黒岩へ残る痕跡を減らそうとしている。
グレイは、水場近くの天井へ張りつきながら、その変化を感じていた。
人間が学び始めている。
こちらに合わせて。
《封鎖》。
夢の中で聞いた言葉が、頭の奥に残っていた。
夢だったのか。
実際に白鳴き種の感覚で拾った音だったのか。
もう分からない。
だが、人間の動きは、その言葉通りに変わっている。
入口を塞ぐ。
道を管理する。
深く入りすぎない。
刺激しない。
しかし、確実に狭めていく。
巣の周囲が、静かに囲まれ始めていた。
グレイは、水場の匂いを読む。
黒鼠。
少ない。
骨喰い虫。
増えている。
腐肉獣。
遠い。
大型の気配。
なし。
だが、人間がいる。
二人。
さらに奥に三人。
以前より多い。
そして、近い。
封鎖のせいで、狩場が減っている。
人間の気配がある場所では、魔物も減る。
餌場が崩れる。
群れには厳しい。
巣では、新しい幼生たちが成長し始めていた。
まだ小さい。
だが、食う量が増えた。
一体目と二体目も、以前より動く。
群れ全体の空腹が重くなっている。
グレイは、水場の奥にいた黒鼠へ視線を向けた。
二匹。
少ない。
だが、取るしかない。
グレイは天井を這った。
骨が鳴らない位置。
湿った岩。
白鳴き種の感覚を広げる。
黒鼠の心音。
小さい。
速い。
人間の足音。
遠い。
今ならいける。
グレイは落ちた。
一匹目。
噛む。
終わり。
二匹目が逃げる。
追う。
その瞬間。
水場の向こうで、人間の灯りが揺れた。
グレイは止まった。
早い。
以前ならもっと遠くで騒いでいた。
今は違う。
こちらの音を聞いている。
「今、音がした」
低い声。
男。
慣れている。
探索者ではなく、調査員に近い。
グレイは、黒鼠を咥えたまま動かなかった。
人間の匂いが近づく。
慎重。
怖がっている。
だが、逃げない。
以前の人間より厄介だ。
グレイは、天井へ戻った。
黒鼠を落とさないように。
ゆっくり。
骨を鳴らさず。
その時、別方向から別の匂いが来た。
金属。
縄。
魔力結晶。
知らない匂い。
人間たちが、何かを設置している。
グレイは視線を向けた。
通路の奥。
黒岩の壁に、小さな結晶板が埋め込まれていた。
光は弱い。
音もない。
だが、違和感がある。
人間の道具。
新しい。
グレイは、本能的に近づきたくなかった。
危険。
そう感じる。
だが、同時に気になる。
何をするものだ。
罠か。
音を拾うのか。
匂いか。
魔力か。
分からない。
グレイは、その結晶板をじっと見た。
人間たちの会話が聞こえる。
「ここなら反応取れるか」
「巣が近ければ、何かしら出るはずだ」
「刺激するな。設置したら戻る」
巣。
人間は探している。
直接は来ない。
だが、外から囲い始めている。
グレイは、静かに後退した。
今は触るな。
そう判断する。
知らないものには近づかない。
ラグドの罠を見てきた。
人間の道具は危険だ。
それを群れにも教えなければならない。
グレイは巣へ戻った。
入口の骨。
から。
一体目がすぐに来る。
最近、一体目は入口近くにいる時間が長い。
警戒。
防衛。
巣の守りを自分の役目だと思っている。
二体目は奥。
新しい幼生たちといる。
匂いを読む。
傷を舐める。
食べ残しを分ける。
それぞれの役割が、はっきりしてきていた。
グレイは黒鼠を落とした。
新しい幼生たちがすぐ反応する。
きゅ。
きゅ。
空腹。
一斉に流れ込む。
グレイは肉を裂きながら、一体目へ感覚を送った。
危険。
人間。
近い。
新しい道具。
触るな。
一体目は、すぐに理解したわけではない。
だが、警戒が強く流れる。
入口の外を見る。
二体目も反応する。
人間の匂い。
最近増えている。
怖い。
でも、知りたい。
その矛盾した感覚。
グレイは二体目へ強く感情を送った。
近づくな。
二体目は身体を縮める。
だが、完全には消えない。
好奇心。
人間の声。
助けて。
その音の記憶が、まだ二体目の中に残っている。
グレイは、少しだけ苛立った。
危険だと理解しているのに、群れの中から消えない。
知識。
一度入ったものは残る。
それが群れだった。
巣の奥で、新しい幼生の一体が骨を噛んでいた。
かり。
かり。
まだ食べられない。
だが、真似している。
一体目を。
グレイを。
その姿を見て、グレイは少しだけ動きを止めた。
増えている。
ただ数が増えただけではない。
行動が増殖している。
学習が増殖している。
模倣が連鎖している。
もし、このまま成長すれば。
もっと多くが骨を置く。
もっと多くが人間を避ける。
もっと多くが声を覚える。
グレイは、巣が急に狭く感じた。
人間の封鎖だけではない。
群れそのものが、巣を押し広げようとしている。
《外部環境圧迫を確認》
《行動範囲制限への適応を開始します》
その声が頭へ流れた。
適応。
まただ。
最近、声が増えている。
以前は進化の時だけだった。
今は違う。
群れが変化するたび、環境が変わるたび、薄く聞こえる。
適応。
まるで、何かがグレイを観察しながら、次を促しているように。
グレイは、その感覚が嫌だった。
だが、同時に逆らえない。
環境が変わる。
なら、変わる。
飢えれば狩り方を変える。
囲まれれば道を変える。
巣が狭ければ広げる。
それが、生きるということ。
グレイは、入口方向を見た。
封鎖。
なら、別の道が必要だ。
今まで使っていなかった通路。
崩れかけた裂け目。
水場の下。
あるいは、地上。
その考えが浮かんだ瞬間、一体目が反応した。
空。
地上。
青。
風。
一体目の記憶が流れ込む。
一体目も考えたのだ。
外。
広い場所。
餌があるかもしれない場所。
グレイは、すぐにその感覚を押さえ込んだ。
駄目だ。
地上は危険。
人間が多い。
光が強い。
隠れにくい。
だが、飢餓はそれ以上に強い。
巣の奥で、新しい幼生たちが肉を食べ終えた。
まだ足りない。
もっと欲しい。
その空腹が、巣全体へ広がる。
グレイは、疲労を感じた。
狩っても足りない。
人間が増えている。
狩場が減る。
群れは成長する。
封鎖される。
逃げ場が減る。
その時。
白鳴き種の感覚が、遠くの音を拾った。
人間。
多い。
五。
六。
もっと。
金属。
木材。
杭。
そして。
「ここを閉じる」
閉じる。
グレイの身体が硬直した。
遠い。
だが、巣へ繋がる横道の一つ。
あまり使わない古い通路。
そこへ人間が集まっている。
封鎖。
本当に始めた。
グレイは立ち上がった。
一体目もすぐに反応する。
二体目も、空気の変化を感じた。
新しい幼生たちが不安で鳴く。
きゅ。
きゅ。
グレイは、巣の外へ出た。
一体目がついてくる。
止めようとした。
だが、止まらない。
防衛。
群れを守る。
それが一体目の中で強くなりすぎている。
グレイは、諦めて一体目を連れて行った。
二体目には感覚を送る。
守れ。
奥へ。
二体目は従う。
新しい幼生たちを奥へ押し込み始める。
グレイは通路を走った。
古い横道。
最近使っていない。
だが、もし閉じられれば、逃げ道が減る。
それは危険だ。
人間たちは慎重だった。
灯りを減らしている。
声も小さい。
だが、作業音は消せない。
黒岩へ杭を打つ。
縄を張る。
崩落用の支柱を置く。
完全封鎖ではない。
まずは狭めるつもりだ。
ラグドか。
刺激を避けながら、道を減らしている。
グレイは、天井からそれを見た。
人間は六人。
戦闘用は二人。
残りは作業。
今なら襲える。
落ちれば、一人は殺せる。
だが、その後は。
血。
悲鳴。
討伐。
火。
全部来る。
グレイは動かなかった。
一体目は、すぐ横で人間を見ている。
緊張。
怒り。
怖い。
でも、飛びかかろうとはしない。
グレイの感情を読んでいる。
今は駄目。
そう理解している。
その時、人間の一人が顔を上げた。
若い。
恐怖が強い。
だが、洞窟を見つめている。
「本当にいるんですか」
低い声。
別の男が答える。
「いる。だが、刺激するな」
ラグドだった。
グレイは、その匂いを覚えていた。
血。
鉄。
古い傷。
そして、妙に落ち着いた匂い。
他の人間とは違う。
ラグドは通路を見渡していた。
探している。
だが、挑発しない。
「ここを塞いだら、次は西側だ。順番に狭める」
「閉じ込めるんですか」
「違う。外へ出さない」
ラグドの声は低い。
静かだ。
だが、その中に疲労があった。
「戦う気はない。あっちも、今はまだな」
まだ。
その言葉に、グレイは少しだけ反応した。
まだ。
人間は理解している。
今はまだ、グレイたちは積極的に襲っていない。
だから、刺激を避けている。
だが、境界は近い。
一度でも越えれば。
もう戻れない。
ラグドは続ける。
「血を置くな。声を出すな。灯りを振るな。あいつらは覚える」
若い男が息を呑む。
「あいつら……?」
ラグドは少し黙った。
そして、小さく言った。
「もう一匹じゃねぇ」
その言葉に、一体目が反応した。
グレイも。
人間は知っている。
群れを。
増えたことを。
封鎖は、一匹を閉じ込めるためではない。
群れを外へ出さないため。
グレイは、天井で静かに息を殺した。
ラグドは、ふと暗闇を見た。
グレイのいる方向。
気づいたのか。
いや、違う。
ただ、そこにいる可能性を考えている。
ラグドは低く呟いた。
「頼むから、出てくるなよ」
その声は、誰へ向けたものだったのか。
仲間か。
自分か。
グレイか。
分からない。
だが、その音には敵意が少なかった。
疲れていた。
本当に、戦いたくないのだ。
グレイは、その感情を理解してしまった。
人間なのに。
その瞬間、白鳴き種の感覚が、別方向の音を拾った。
骨。
崩れる音。
遠い。
だが、巣方向。
二体目。
新しい幼生たち。
何か入った。
グレイの身体が一瞬で硬直した。
危険。
巣。
一体目も反応する。
グレイは、迷わず走った。
ラグドたちを置いて。
通路を駆ける。
一体目も続く。
後ろで人間たちが何か言っている。
だが、聞いていられない。
巣。
二体目。
幼生。
骨が崩れる音。
グレイは入口を飛び込んだ。
からっ。
骨が鳴る。
巣の奥。
二体目が新しい幼生たちの前に立っていた。
その向こう。
黒殻狩りの死骸の下。
大きな影。
腐肉獣。
飢えた大型。
死骸の匂いに引かれたのか。
隙間から入り込んでいた。
二体目が震えている。
怖い。
でも逃げていない。
新しい幼生たちを守っている。
グレイの中で、何かが切り替わった。
封鎖。
飢餓。
人間。
全部が消える。
今いるのは、群れへ入り込んだ敵だけ。
グレイは、低く唸った。
その音は、以前よりずっと深かった。
巣全体が震える。
腐肉獣が振り返る。
遅い。
グレイは落ちた。
牙。
脚。
黒岩へ叩きつける。
腐肉獣が暴れる。
骨が飛ぶ。
新しい幼生たちが悲鳴を上げる。
二体目が、それでも前へ出る。
一体目も横から飛びつく。
グレイは腐肉獣の喉を噛み裂いた。
熱い体液。
腐臭。
暴れる脚。
それを黒岩へ押し込み、潰す。
動かなくなるまで。
完全に。
巣の中に、荒い呼吸だけが残った。
グレイは、死んだ腐肉獣の上で止まった。
一体目。
二体目。
新しい幼生たち。
全員、生きている。
怪我は軽い。
だが、恐怖が巣全体へ広がっていた。
グレイは、その恐怖を感じながら、腐肉獣の死体を見た。
飢えていたから来た。
封鎖で狩場が減ったのか。
それとも、群れの匂いが強くなったのか。
分からない。
だが、確実に世界が狭くなっている。
人間だけじゃない。
魔物も。
飢餓も。
全部が巣へ押し寄せ始めている。
グレイは、腐肉獣の死体を見下ろした。
餌になる。
だが、それ以上に。
これは警告だった。
封鎖は始まった。
そして、巣の外だけではなく。
世界そのものが、群れを押し潰そうとし始めていた。




