第53話『夢』
夢を見ていた。
最初は、自分の夢だと思った。
黒岩の巣。
入口の骨。
黒殻狩りの死骸で塞いだ通路。
幼生たちの呼吸。
水場へ続く湿った匂い。
いつもの場所。
いつもの暗闇。
そこにいる自分。
グレイ。
そう思った。
だが、すぐに違うと分かった。
視点が低すぎる。
黒岩の床が近い。
入口の骨が大きい。
グレイの身体が、壁のように見える。
黒い外皮。
長い脚。
鋭い牙。
巣の中心にいる大きな影。
それを見上げている。
これは、自分ではない。
一体目の視点。
いや、匂いも混ざっている。
グレイの匂い。
強い。
安心。
餌。
声。
守るもの。
大きい。
怖い。
でも近くにいると落ち着く。
その感覚が、グレイの内側へ流れ込む。
グレイは、夢の中で自分を見ていた。
自分が、幼生にはこう見えている。
巣より大きい。
黒岩より強い。
空腹を満たすもの。
危険の前に立つもの。
名前を持つもの。
グレイ。
その音が、幼生の中で輝くように強かった。
グレイは、夢の中で身じろぎしようとした。
だが、身体が違う。
小さい。
軽い。
脚が短い。
視界がぼやける。
匂いの方が強い。
一体目の身体。
傷跡のある外皮。
あの時、骨喰い虫に叩きつけられた痛みの記憶が、かすかに残っている。
だが、その痛みより強いものがある。
守る。
二体目を。
新しく生まれた四体を。
巣を。
グレイの影を。
それはグレイ自身が教えた感覚だった。
グレイが敵の前に立った。
なら、自分も立つ。
グレイが骨を置いた。
なら、自分も置く。
グレイが牙を立てた。
なら、自分もいつか。
その欲求がある。
幼い。
危うい。
だが、確かにある。
グレイは、自分の中でそれを感じて、少しだけ怖くなった。
これは自分の感情ではない。
だが、完全に違うとも言えない。
自分が与えた形。
自分の模倣。
自分から広がったもの。
夢が揺れた。
今度は匂いが強くなった。
視界がさらに曖昧になる。
巣の奥。
肉の匂い。
黒鼠。
腐肉獣。
骨喰い虫。
食べられる部位と、捨てる部位。
毒の匂い。
腐り始めた匂い。
人間の古い匂い。
二体目の感覚。
二体目は、匂いで世界を分けている。
入口の外。
危険。
巣の奥。
安全。
グレイの匂い。
中心。
一体目の匂い。
動く壁。
新しい幼生たちの匂い。
守るべき小さな熱。
そして、人間の匂い。
強い。
怖い。
引かれる。
危険。
知りたい。
二体目の中で、人間の匂いは矛盾していた。
近づいてはいけないもの。
でも、声を出したくなるもの。
「たすけて」
その音。
二体目は意味を完全には理解していない。
けれど、その音が人間を動かすことを知っている。
声を聞くと、人間は止まる。
戻りかけても迷う。
恐怖と、助けたい気持ちが混ざる。
それを二体目は感じている。
匂いと心音で。
グレイは夢の中で、二体目の喉が震えるのを感じた。
「た……」
駄目だ。
グレイは叫ぼうとした。
だが、夢の中では声が出ない。
二体目は、ただ音を試している。
骨を鳴らすように。
水を動かすように。
匂いをずらすように。
人間の声もまた、使えるものとして。
その無邪気さが恐ろしかった。
悪意がない。
だからこそ、止めるのが難しい。
グレイは、二体目の内側で、人間の声が道具になっていくのを感じた。
助けて。
その音は、牙より遠くまで届く。
血よりも人間を動かす。
罠よりも深く、人間の中へ入る。
危険。
使うな。
そう思う。
だが、その知識自体が群れの中に残る。
一度知ったものは、消えない。
夢がまた揺れた。
次は、もっと小さい。
生まれたばかりの幼生の視点。
四体のうちの一体。
世界はほとんど形を持っていない。
匂い。
熱。
空腹。
近くにある肉。
他の幼生の身体。
グレイの音。
グ。
グレ。
グレイ。
それがすべての中心だった。
この幼生は、まだ空を知らない。
人間も知らない。
黒殻狩りも、ラグドも、レオンも知らない。
ただ、空腹と安心だけがある。
食べたい。
寒い。
近づきたい。
大きな影。
グレイ。
それだけ。
グレイは、その単純さに一瞬だけ安堵した。
まだ、何も知らない。
だが、その直後に恐怖が来る。
これから全部入る。
空も。
人間の声も。
死骸運びも。
骨の配置も。
巣の守り方も。
グレイが見たもの。
一体目が見たもの。
二体目が覚えた声。
全部が、いずれこの幼生にも流れ込む。
群れは記憶を分ける。
知らないままではいられない。
夢の中で、幼生は肉へ口を押しつけた。
噛む力は弱い。
だが、食べる。
肉の匂いが体内へ入る。
少し満ちる。
その満足が、グレイへも流れる。
夢なのに、腹が少し落ち着くような感覚があった。
自分は食べていない。
それなのに。
グレイは、夢の中でまた自分を見失いかけた。
自分は誰だ。
食べたのは幼生。
満ちたのは幼生。
だが、落ち着くのはグレイ。
この境界はどこにある。
グレイ。
その音を呼ぼうとした。
しかし、次に聞こえたのは別の声だった。
「レオン」
人間の声。
夢が砕けるように変わった。
黒岩が消えた。
木の机。
酒の匂い。
人間の手。
笑い声。
夕方の光。
レオンの記憶。
グレイは、今度は人間の身体の中にいた。
二本の脚。
両手。
胸の中で打つ心臓。
どく。
どく。
手には木の器。
隣にハルク。
「戻ったら奢れよ」
「お前が生きて戻ったらな」
笑う。
この記憶は知っている。
レオンを食べた時に流れ込んだ断片。
だが、今はいつもより鮮明だった。
なぜ。
グレイは夢の中で周囲を見た。
人間たちの顔はぼやけている。
しかし、感情は濃い。
仲間。
約束。
帰る場所。
金。
弟。
薬。
生きて戻る。
戻れなかった。
そして、下層。
痛み。
血。
「置いていけ」
その言葉。
ハルクの顔。
逃げろ。
頼む。
頼む。
グレイは、レオンの死の記憶に引きずられた。
洞窟。
壁にもたれる身体。
痛み。
血が流れる。
視界が暗い。
そこへ現れる黒い魔物。
グレイ。
自分。
レオンの視点から見る自分。
怖い。
異形。
だが、ただの獣とは違う目。
理解しているようで、理解できないもの。
「食うのか」
レオンの声。
グレイは夢の中で動けない。
レオンは死にかけている。
自分はレオンを食べた。
知っている。
でも、レオンの視点で見ると違う。
目の前の黒い魔物が近づく。
血を舐める。
記憶が奪われる感覚。
いや、奪われたのか。
渡ったのか。
分からない。
レオンは最後に、ハルクが逃げたかを知りたかった。
それだけが強かった。
グレイは、その感情を再び飲み込む。
帰らせたい。
自分は戻れなくても。
それが、レオンの最後の形だった。
夢の中で、グレイは震えた。
この記憶は、幼生たちにも流れているのか。
人間の死体を特別に扱う感覚。
助けてという声への反応。
空への憧れ。
それらは全部、レオンやニルや人間たちから来ているのかもしれない。
グレイが食べたもの。
聞いたもの。
見たもの。
全部が群れの中に薄く広がっている。
自分の罪も。
群れへ。
夢がさらに崩れた。
今度は白い。
白鳴き種の感覚。
目がない。
音だけの世界。
きぃ。
黒岩が震える。
生き物の位置が音で分かる。
骨。
水。
肉。
心音。
グレイは、白鳴き種の残響の中にいた。
見えない。
だが、全てが震えている。
巣の中の幼生六体。
それぞれの呼吸。
入口の骨。
黒殻狩りの死骸。
遠くの人間。
もっと遠くの封鎖準備。
金属杭。
縄。
魔力板。
人間たちが動いている。
その音が、夢の中に流れてくる。
本当に聞こえているのか。
それとも夢か。
分からない。
だが、人間の数が増えている。
静かに。
大きな足音ではなく、慎重な足音。
ラグドの指示だろうか。
刺激しないように。
でも、近づいている。
封鎖。
その言葉が浮かぶ。
出口を塞ぐ。
道を制限する。
巣を刺激しないように包囲する。
人間側が本気になっている。
グレイは夢の中で、それを感じた。
金属の音。
布で包まれた道具。
魔力を抑えた結晶。
声を潜める人間。
「ここから先は音を立てるな」
知らない声。
「巣の位置は?」
「まだ確定じゃない」
「灰の巣主に気づかれるな」
灰の巣主。
その言葉が夢に入ってきた。
自分を指す音。
人間がつけた新しい呼び方。
灰の巣主。
グレイではない。
グレイラーヴァでもない。
灰の巣主。
巣を持つもの。
増えるもの。
災害の候補。
その意味が、音と一緒に流れ込む。
グレイは夢の中で、自分が人間の報告書に書かれているような感覚を覚えた。
名前をつけられる。
分類される。
危険度を与えられる。
討伐か、封鎖か、捕獲か。
人間たちが決めている。
自分の知らない場所で。
王都。
研究院。
ラグド。
セヴィル。
ミーリア。
知らない名前まで、レオンの記憶や人間の会話から薄く繋がっている。
グレイの頭の中が、さらに混ざる。
幼生の視点。
レオンの記憶。
白鳴き種の音。
人間たちの会話。
巣の匂い。
空の青。
全部が一つの夢に流れ込む。
自分はどこだ。
グレイは叫ぼうとした。
「グレイ」
声が出た。
だが、それは自分の声だけではなかった。
一体目が夢の中で呼ぶ。
「グレ」
二体目が呼ぶ。
「グレ」
新しい四体が、まだ不完全に鳴く。
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
巣の中の全員が、同じ音を返す。
その音が、グレイを中心に回る。
いや、グレイが中心なのか。
音の中心にグレイがいるのか。
それとも、グレイという音そのものが中心なのか。
分からない。
夢の中で、グレイは自分の身体を探した。
黒い外皮。
長い脚。
牙。
傷。
巣の奥で眠る自分。
それがある。
しかし同時に、一体目の小さな身体もある。
二体目の匂いの世界もある。
四体の空腹もある。
レオンの手もある。
白鳴き種の音もある。
空を見上げる視点もある。
どれが自分か。
全部違う。
でも全部、今の自分の中にある。
グレイは、夢の中で黒岩を掴もうとした。
感覚がない。
掴めない。
代わりに、匂いがある。
音がある。
心音がある。
飢餓がある。
人間の恐怖がある。
幼生の安心がある。
それらが渦になって、グレイを飲み込む。
自分が薄れていく。
レオンの記憶酔いの時とは違う。
あの時は、人間一人の記憶に飲まれそうだった。
今は、群れ全体に溶けそうになっている。
もっと大きい。
もっと広い。
そして、なぜか少し心地よい。
一人ではない。
誰かが空腹なら分かる。
誰かが怖ければ分かる。
誰かが空を見れば、みんな知る。
誰かが死ねば。
その先を考えた瞬間、夢の中に赤い感覚が走った。
痛み。
恐怖。
誰かが噛まれた。
いや、夢か。
現実か。
グレイは跳ね起きた。
巣の中。
暗い。
骨。
黒殻狩りの死骸。
幼生たち。
一体目が入口側で身体を低くしている。
二体目が新しい幼生たちを奥へ押している。
四体のうち一体が、脚を怪我していた。
小さな裂傷。
深くはない。
骨喰い虫に噛まれたような傷。
いつ入った。
グレイが眠っている間に、小型の骨喰い虫が巣の隙間から入り込んだのか。
入口ではない。
死骸の下の隙間。
グレイは瞬時に理解した。
夢の中の痛みは、これだ。
幼生の一体が噛まれた痛み。
それが夢に流れ込んだ。
グレイはすぐに動いた。
骨喰い虫の匂い。
まだ近い。
黒殻狩りの死骸の下。
グレイは前脚を突っ込み、骨喰い虫を引きずり出した。
噛み砕く。
一撃。
体液が飛ぶ。
巣の中の幼生たちが震える。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
落ち着け。
一体目が返す。
「グレ」
二体目も。
「グレ」
新しい幼生たちは、震えながらグレイの音に反応する。
グレイは傷ついた幼生へ近づいた。
脚の傷は浅い。
体液が少し滲む。
二体目がすでに傷口を舐めている。
一体目は入口側で警戒を続けている。
役割がある。
夢ではない。
現実に、群れは動いている。
グレイが眠っている間にも。
グレイは、傷ついた幼生を見て、自分の中に残る夢の感覚を思い出した。
痛みが流れ込んだ。
誰かの痛みで目覚めた。
つまり、もう寝ていても一人ではない。
群れのどこかが傷つけば、自分も揺れる。
誰かが空を見れば、自分も見る。
誰かが人間の声を覚えれば、自分も止めなければならない。
自分だけの眠りすら、もうない。
グレイは、巣の入口を確認した。
死骸の下の隙間。
ここから入られた。
見落とし。
すぐに塞ぐ必要がある。
一体目が骨を運ぶ。
二体目が匂いを嗅ぎ、骨喰い虫の通った跡を探す。
グレイは黒岩の欠片を押し込み、隙間を狭める。
新しい幼生たちは奥で震えている。
傷ついた一体は、まだ弱く鳴いている。
きゅ。
その声が、グレイの中で痛みになる。
グレイは、黒岩を押し込みながら、夢の中で聞いた人間の声を思い出した。
灰の巣主。
封鎖。
個体指定災害候補。
群体化進行中。
それが夢か現実か分からない。
しかし、遠くの音として本当に拾っていた可能性がある。
人間は動いている。
巣もまた変わっている。
内側では群れが増え、外側では人間が封じようとしている。
グレイは、傷ついた幼生の匂いを嗅いだ。
まだ生きる。
食べれば治る。
休めば動ける。
そう判断する。
グレイは保存肉を裂き、幼生の前へ置いた。
傷ついた幼生が弱く食べる。
その満足が薄く流れる。
グレイの中の痛みも少し薄まる。
一体目が入口から戻り、グレイの横に立つ。
二体目も奥から来る。
新しい幼生たちも、少しずつ寄る。
巣の中で、全員がグレイの周囲に集まる。
夢の続きのようだった。
グレイは目を閉じた。
怖い。
境界が崩れていく。
でも、群れが近くにいると、少し落ち着く。
それがまた怖い。
自分は一人で生きていた。
逃げて、食って、隠れていた。
今は、眠りの中でまで群れの痛みを感じる。
人間の記憶も、魔物の感覚も、幼生の空腹も、空の色も、全部が混ざる。
グレイは低く、自分の名を呼んだ。
「グレイ」
すぐに返る。
「グレ」
「グレ」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
六つの返事。
それは安心だった。
同時に、自分がもう戻れない場所まで来た証でもあった。
グレイは、暗い巣の中で目を開けた。
夢は終わった。
だが、夢で見たものは消えなかった。
一体目の視点。
二体目の匂い。
幼生の空腹。
レオンの後悔。
白鳴き種の残響。
人間の封鎖音。
空の青。
それらは全部、グレイの中に残っている。
もう、自分だけの記憶ではない。
群れの記憶。
そして、群れの夢だった。




