表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
52/64

第52話『人間側』

「個体指定災害候補、ですか」


セヴィルは、その言葉を聞いた時、少しだけ笑った。


場所は王都の研究院。


下層の黒岩とは違う。


白い石壁。


磨かれた床。


一定間隔で灯る魔導灯。


薬品の匂い。


乾いた紙の匂い。


瓶の中で揺れる保存液。


檻。


標本。


骨格。


魔物の外殻。


それらが整然と並んでいる。


洞窟で見ればただの死骸でしかないものが、ここでは名前を与えられ、番号を与えられ、価値を与えられていた。


セヴィルにとって、ここは落ち着く場所だった。


下層の湿った暗闇よりも。


冒険者たちの怒鳴り声よりも。


現場の無理解よりも。


ここには言葉がある。


分類がある。


記録がある。


理解しようとする者がいる。


だから、目の前に置かれた報告書の表題を見た時、彼は笑った。


個体指定災害候補。


実に仰々しい。


実に無骨だ。


そして、実に正しい。


「候補で済ませるべきか、という意見も出ています」


研究院の上席魔物分類官である女が、硬い声で言った。


名はミーリア。


灰色の髪を後ろでまとめ、目元に疲労を残している。


研究者というより、官僚に近い。


研究対象を愛する者ではなく、研究対象が社会へ与える影響を管理する者。


セヴィルは、あまり好きではなかった。


だが、彼女の判断は冷静だった。


「現時点での被害報告、行動変化、巣形成、増殖疑惑。いずれも通常の危険種判定を超えています」


机の上に、複数の資料が並んでいる。


一つ目。


下層で確認された仮称グレイラーヴァの初期記録。


灰幼生。


人族血液への反応。


罠回避。


下層適応。


二つ目。


捕食幼種化の記録。


黒岩環境への外皮適応。


対人観察。


道具への学習。


三つ目。


人族捕食疑惑。


死体損壊。


記憶反応の推定。


言語模倣の兆候。


四つ目。


巣形成。


骨配置。


鳴子。


死骸壁。


匂い誘導。


五つ目。


未確認幼体の存在。


複数の小型同種らしき痕跡。


巣周辺の小型足跡。


同一匂い系統。


小型個体による巣整備の可能性。


セヴィルは、その五つ目の資料へ視線を落とした。


そこだけは、何度読んでも胸の奥が熱くなる。


増えている。


あの個体は、増え始めている。


ただの進化ではない。


個体能力の向上でもない。


増殖。


眷属形成。


群体化。


もし本当なら、研究史に残る。


いや、魔物学そのものを書き換える。


セヴィルは静かに言った。


「素晴らしい」


ミーリアが眉をひそめた。


「素晴らしい、ではありません」


「失礼。学術的に、という意味です」


「現場では人が死んでいます」


「承知しています」


「承知している顔ではありませんね」


セヴィルは笑みを消した。


「では、どういう顔をすべきでしょう。恐怖に怯え、資料を燃やし、討伐隊へ火を持たせれば満足ですか?」


ミーリアの視線が鋭くなる。


部屋にいた他の研究員たちが沈黙する。


セヴィルは続けた。


「我々は理解するためにここにいる。未知の魔物が発生した。人族を捕食した可能性があり、行動学習し、巣を形成し、増殖している可能性がある。ならば感情的に焼き払う前に、最大限の記録を取るべきです」


「その間に地上へ出たら?」


ミーリアが問う。


「村が襲われたら?」


「まだ地上襲撃の記録はありません」


「地上付近で黒い小型魔物の目撃情報があります」


「不確定情報です」


「三名が同じ証言をしています。洞窟口付近で黒灰色の小型個体。さらに、洞窟内部から白鳴き種に似た音。人間の声のようなものを聞いたという証言もあります」


セヴィルの目がわずかに細くなった。


「人間の声」


「助けを求めるような声だったそうです」


その瞬間、セヴィルは本当に黙った。


興味が、表情から漏れそうになる。


それはまずい。


この場で露骨に喜べば、ミーリアはさらに警戒する。


だからセヴィルは、指先で報告書の端を押さえながら、できるだけ平静に言った。


「……言語模倣ですか」


「断定できません。ただ、現場班は撤退しました」


「賢明です」


「ラグドの判断です」


その名が出た瞬間、部屋の空気が少し変わった。


ラグド。


下層調査の現場指揮官。


冒険者上がりの調査員。


学術畑の人間ではない。


だが、現場の信頼は厚い。


何より、グレイラーヴァに関する報告の多くは、彼の観察に基づいている。


慎重すぎる。


臆病とも言える。


だが、彼がいなければ、セヴィルたちはもっと多くの情報を失っていただろう。


そして、もっと多くの人間も。


ミーリアは言った。


「ラグドは封鎖を提案しています」


セヴィルは眉を上げた。


「討伐ではなく?」


「封鎖です。下層出入口を段階的に封じ、対象を刺激しない範囲で行動域を制限する。火攻め、毒、広域魔法は禁止。誘引罠も禁止。血液餌も禁止」


セヴィルは小さく息を吐いた。


「実に彼らしい」


「あなたは反対ですか?」


「反対ではありません。ただ、不完全です。封鎖だけでは内部変化を観察できない」


「観察より安全です」


「安全を最優先するなら、洞窟ごと埋めるべきでしょう」


「その案も出ています」


セヴィルは、今度こそ表情を消した。


「本気で?」


ミーリアは答えない。


それが答えだった。


セヴィルは資料から視線を上げた。


「洞窟を埋める? 対象の正体も、増殖機構も、適応条件も、眷属との関係も未確認のまま?」


「地上へ出る危険があるなら」


「埋めても死ぬとは限りません」


ミーリアの目が細くなる。


セヴィルは続けた。


「むしろ最悪です。圧力、酸素不足、飢餓、隔離環境。それら全てに適応する可能性があります。閉じ込めるという行為そのものが、対象をより異常な方向へ押し出すかもしれない」


「それは仮説です」


「下層での変化記録は、その仮説を支持しています」


ミーリアは沈黙した。


セヴィルの言葉は、学術的には正しい。


あの個体は制限に適応する。


毒水に慣れ、黒岩環境に溶け、罠を覚え、道を読み、人間の言葉を聞き、巣を作り、増えた。


閉じ込めれば、閉じ込められた状態に適応する可能性がある。


飢えれば、飢餓に適応する。


闇へ閉ざせば、闇へ広がる。


出口を潰せば、別の出口を作る。


それがグレイラーヴァという個体だ。


セヴィルは、そう思っている。


そして、その恐ろしさに魅了されている。


ミーリアは、低く言った。


「あなたは捕獲派ですね」


「可能なら」


「不可能なら?」


「観察継続」


「観察中に被害が増えたら?」


「その時は討伐判断もやむを得ません」


「本当にそう思っていますか?」


セヴィルは、少しだけ笑った。


「私は研究者です。ですが、人類を滅ぼしてまで研究したいわけではありません」


「その線引きが、あなたは遅い」


「あなたは早すぎる」


二人の視線がぶつかる。


部屋の中で、若い研究員が小さく咳をした。


誰もそれに触れない。


やがて、ミーリアは別の資料を取り上げた。


「冒険者ギルドからの意見です」


「ギルドが?」


「下層探索依頼の停止を求めています。一部隊員の負傷、行方不明者、さらに黒い小型魔物の目撃で、現場が不安定になっているとのことです」


セヴィルは資料を受け取った。


ギルドの報告は、研究院のものより荒い。


だが、現場感はある。


下層浅域における小型魔物の移動変化。


腐肉獣の増加。


骨喰い虫の集中。


一部通路で不自然な骨配置。


黒殻狩りの成体死骸を利用した障害物。


探索者が「助けて」という声を聞き、確認に向かったところ、正体不明の黒い影と遭遇。


白鳴き種に似た音を確認。


推定、グレイラーヴァまたは関連個体の擬態行動。


セヴィルは、その一文を指でなぞった。


関連個体。


ついに、報告書の中にその言葉が入った。


一匹ではない。


そう認識され始めている。


ミーリアが言った。


「ギルドは危険度の引き上げを求めています。最低でも《準災害種》。一部では《個体指定災害候補》ではなく、《群体災害候補》にすべきという意見もある」


セヴィルは、ゆっくりと息を吐いた。


「群体災害候補」


「笑うところではありません」


「笑っていませんよ」


実際、セヴィルは笑っていなかった。


その言葉は、彼にも重すぎた。


群体災害。


一個体の変異ではない。


増える災害。


学ぶ災害。


巣を持つ災害。


声を真似る災害。


もしグレイラーヴァの眷属が、親個体の学習を引き継ぐなら。


もし匂いや音、行動が群れで共有されるなら。


もし一体が見たものを、他の個体が薄く受け取るなら。


それは通常の魔物の群れではない。


知識が群れ全体へ広がる。


罠が一度見抜かれれば、群れ全体が警戒する。


人間の声が一度有効だと分かれば、複数個体が模倣する。


地上を一体が見れば、他の個体もその情報を共有する。


そして、餌が足りなければ、群れは広がる。


セヴィルは、指先で資料を軽く叩いた。


「ラグドの封鎖案は、正しいかもしれません」


ミーリアが目を細める。


「意外ですね」


「刺激を減らすという点では。ただし、封鎖は静かに行うべきです。大規模隊を送り込むのは逆効果でしょう」


「具体案は?」


「まず下層探索依頼を停止。表向きは落盤危険。冒険者や素人が入らないようにする」


ミーリアは頷いた。


「続けて」


「出入口に直接罠を置かない。対象が道具を学ぶ可能性がある。代わりに遠隔監視。音響記録、匂い布、魔力反応板。対象に触れない観測」


「捕獲は?」


「今はしない」


ミーリアは少し驚いたように見た。


セヴィルは、淡々と言った。


「今捕獲しようとすれば、巣を刺激します。眷属がいるなら、親個体の反応は読み切れない。巣を壊せば、群れが散る可能性もある。それが最悪です」


「群れが散る」


「ええ。一箇所にいるなら、まだ管理できます。散れば見失う。地上へ出る個体が増えるかもしれない」


ミーリアは、ようやく深く頷いた。


「その点は同意します」


「なので、巣の位置は確認しても、直接侵入はしない」


「ラグドも同じ意見です」


「でしょうね」


セヴィルは少し苦笑した。


悔しいが、ラグドは正しい。


あの男は学者ではない。


だが、あの個体の危険性を肌で理解している。


刺激すれば変わる。


追えば逃げ道を作る。


罠を張れば罠を学ぶ。


血を置けば血を覚える。


声を聞けば言葉を覚える。


巣を脅かせば、怒りを覚える。


では、眷属を殺せば?


その想像をした瞬間、セヴィルは初めて背筋に冷たいものを感じた。


もしグレイラーヴァが眷属を守る個体なら。


もし群体内で恐怖や怒りが共有されるなら。


眷属を一匹殺した瞬間、群れ全体が人間を敵と認識する可能性がある。


今までは避ける、隠れる、誘導する。


そういう行動だった。


だが、明確な敵意を持った群体になれば。


それは災害だ。


ミーリアが言った。


「問題は、上層部です」


「討伐を望んでいますか」


「王都防衛局は討伐寄りです。研究院は捕獲寄り。ギルドは探索停止と封鎖。現場は慎重対応。意見が割れています」


「最悪ですね」


「ええ。最悪です」


意見が割れる。


それは現場に混乱を生む。


討伐班が火を持ち込む。


研究院が捕獲罠を置く。


ギルドの冒険者が報酬目当てに潜る。


誰かが勝手に血餌を置く。


誰かが助けての声に引かれて巣へ近づく。


その全てが、グレイラーヴァへ情報を与える。


人間側の混乱は、あの個体にとって学習材料になる。


セヴィルは、資料を閉じた。


「統一指揮が必要です」


「誰を置きますか」


「ラグド」


ミーリアは即答しなかった。


「研究院としては不満が出ます」


「でしょうね」


「あなたも不満では?」


「非常に」


セヴィルは笑った。


「ですが、現時点で最も対象を生かしつつ、人間側の被害を抑えられるのは彼です。生かすという点においても、殺さないという点においても」


「あなたがそれを言うとは」


「私情と判断は別です」


ミーリアは少しだけ表情を緩めた。


「では、あなたは現場から外れますか?」


セヴィルの笑みが消えた。


「それは困ります」


「でしょうね」


「観測班として残ります。直接干渉はしない。ラグドの許可なく餌も罠も薬剤も使わない。それでどうです」


「守れますか?」


「努力します」


「守れますか?」


セヴィルは、少し間を置いてから言った。


「守ります」


ミーリアは、それでようやく頷いた。


「では、その方針で会議に出します」


「通りますか?」


「分かりません」


「でしょうね」


二人は同時に資料へ目を落とした。


そこには、仮称グレイラーヴァの行動記録が並んでいる。


単独幼体。


捕食幼種。


巣主。


群体化。


擬態疑惑。


地上付近目撃。


増殖。


危険性は明らかだ。


だが、それ以上に不明点が多すぎる。


セヴィルは、静かに言った。


「名前を変えるべきかもしれませんね」


ミーリアが問う。


「グレイラーヴァでは不十分だと?」


「ええ。もう幼生ではない。ラーヴァという呼称は適切ではないかもしれない」


「では?」


セヴィルは少し考えた。


「まだ早いですね。名づけは、理解の後であるべきです」


ミーリアは冷たく言った。


「現場では、もう別の呼び方が出始めています」


「何と?」


「灰の巣主」


セヴィルは、その名を聞いて黙った。


灰の巣主。


悪くない。


魔物の分類名としては詩的すぎる。


だが、現場の恐怖をよく表している。


灰色から始まった魔物。


巣を持ち、眷属を持ち、増え始めたもの。


巣主。


グレイは、人間からそう見られ始めている。


セヴィルは小さく呟いた。


「本人は、どう認識しているのでしょうね」


ミーリアが眉を寄せる。


「本人?」


「対象です」


「魔物ですよ」


「魔物でも、自己認識がないとは限りません」


「危険な考え方です」


「研究とは、危険な考え方から始まるものです」


ミーリアは何も言わなかった。


その時、扉が叩かれた。


若い職員が入ってくる。


顔色が悪い。


「失礼します。下層監視班から緊急報告です」


ミーリアがすぐに立つ。


「内容は?」


「封鎖予定区域近くで、複数の小型個体の痕跡が確認されました」


部屋の空気が止まった。


セヴィルの指が、わずかに動く。


職員は続ける。


「足跡は少なくとも六。うち二つは比較的大型化しています。さらに、痕跡の一部が地上側通路に向かっていたとのことです」


ミーリアの顔が硬くなる。


「地上側?」


「はい。ただし、途中で引き返した形跡があります」


セヴィルは、静かに資料を閉じた。


六。


報告と一致する。


グレイラーヴァ本体と、眷属六体。


いや、足跡が六なら、本体を含まない可能性もある。


だとすれば、増殖は既に確認段階に近い。


ミーリアは低く言った。


「会議を待っている時間はなさそうですね」


セヴィルは頷いた。


「封鎖を急ぐべきです。ただし、静かに」


「討伐班が先走る可能性があります」


「止めるしかありません」


「誰が?」


その問いに、セヴィルは少しだけ苦笑した。


答えは決まっている。


ラグドだ。


現場で止められるのは、あの男しかいない。


そして、もし止められなければ。


人間側の一手が、巣を完全に刺激する。


グレイラーヴァの群れを。


灰の巣主を。


セヴィルは、窓の外を見た。


王都の空は青い。


下層の魔物が見た空も、この色だったのだろうか。


もし、あの群れが本当に空を知ったなら。


地上はもう、ただの未知ではない。


戻りたい場所ではなく、行きたい場所になる。


それは、非常にまずい。


非常に興味深い。


そして、非常に恐ろしい。


ミーリアが言った。


「対象区分を上げます」


セヴィルは、窓から視線を戻した。


「正式に?」


「はい」


彼女は、報告書の表紙へ新しい紙を重ねた。


そこには、まだ空欄の分類欄がある。


ミーリアはペンを取り、短く記した。


《個体指定災害候補》


そして、その下に追記する。


《群体化進行中》


セヴィルは、その文字を見つめた。


たった数語。


だが、それは世界がグレイをどう見るかを変える言葉だった。


もう、珍しい魔物ではない。


もう、研究対象だけでもない。


もう、下層の一個体ではない。


災害の候補。


群体化するもの。


放置すれば広がるもの。


人間側は、ついにその段階まで認識した。


セヴィルは、静かに息を吐いた。


「灰の巣主、ですか」


ミーリアは答えなかった。


窓の外では、王都の空が何も知らないように明るかった。


その空の下で、人間たちはこれから決める。


封じるか。


捕らえるか。


殺すか。


そして、その決定が下層へ届く時。


あの巣は、どんな形で反応するのか。


セヴィルには、もう分からなかった。


ただ一つだけ分かる。


人間側が、ようやく本気になった。


そしてたぶん。


それは、遅すぎた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ