第52話『人間側』
「個体指定災害候補、ですか」
セヴィルは、その言葉を聞いた時、少しだけ笑った。
場所は王都の研究院。
下層の黒岩とは違う。
白い石壁。
磨かれた床。
一定間隔で灯る魔導灯。
薬品の匂い。
乾いた紙の匂い。
瓶の中で揺れる保存液。
檻。
標本。
骨格。
魔物の外殻。
それらが整然と並んでいる。
洞窟で見ればただの死骸でしかないものが、ここでは名前を与えられ、番号を与えられ、価値を与えられていた。
セヴィルにとって、ここは落ち着く場所だった。
下層の湿った暗闇よりも。
冒険者たちの怒鳴り声よりも。
現場の無理解よりも。
ここには言葉がある。
分類がある。
記録がある。
理解しようとする者がいる。
だから、目の前に置かれた報告書の表題を見た時、彼は笑った。
個体指定災害候補。
実に仰々しい。
実に無骨だ。
そして、実に正しい。
「候補で済ませるべきか、という意見も出ています」
研究院の上席魔物分類官である女が、硬い声で言った。
名はミーリア。
灰色の髪を後ろでまとめ、目元に疲労を残している。
研究者というより、官僚に近い。
研究対象を愛する者ではなく、研究対象が社会へ与える影響を管理する者。
セヴィルは、あまり好きではなかった。
だが、彼女の判断は冷静だった。
「現時点での被害報告、行動変化、巣形成、増殖疑惑。いずれも通常の危険種判定を超えています」
机の上に、複数の資料が並んでいる。
一つ目。
下層で確認された仮称グレイラーヴァの初期記録。
灰幼生。
人族血液への反応。
罠回避。
下層適応。
二つ目。
捕食幼種化の記録。
黒岩環境への外皮適応。
対人観察。
道具への学習。
三つ目。
人族捕食疑惑。
死体損壊。
記憶反応の推定。
言語模倣の兆候。
四つ目。
巣形成。
骨配置。
鳴子。
死骸壁。
匂い誘導。
五つ目。
未確認幼体の存在。
複数の小型同種らしき痕跡。
巣周辺の小型足跡。
同一匂い系統。
小型個体による巣整備の可能性。
セヴィルは、その五つ目の資料へ視線を落とした。
そこだけは、何度読んでも胸の奥が熱くなる。
増えている。
あの個体は、増え始めている。
ただの進化ではない。
個体能力の向上でもない。
増殖。
眷属形成。
群体化。
もし本当なら、研究史に残る。
いや、魔物学そのものを書き換える。
セヴィルは静かに言った。
「素晴らしい」
ミーリアが眉をひそめた。
「素晴らしい、ではありません」
「失礼。学術的に、という意味です」
「現場では人が死んでいます」
「承知しています」
「承知している顔ではありませんね」
セヴィルは笑みを消した。
「では、どういう顔をすべきでしょう。恐怖に怯え、資料を燃やし、討伐隊へ火を持たせれば満足ですか?」
ミーリアの視線が鋭くなる。
部屋にいた他の研究員たちが沈黙する。
セヴィルは続けた。
「我々は理解するためにここにいる。未知の魔物が発生した。人族を捕食した可能性があり、行動学習し、巣を形成し、増殖している可能性がある。ならば感情的に焼き払う前に、最大限の記録を取るべきです」
「その間に地上へ出たら?」
ミーリアが問う。
「村が襲われたら?」
「まだ地上襲撃の記録はありません」
「地上付近で黒い小型魔物の目撃情報があります」
「不確定情報です」
「三名が同じ証言をしています。洞窟口付近で黒灰色の小型個体。さらに、洞窟内部から白鳴き種に似た音。人間の声のようなものを聞いたという証言もあります」
セヴィルの目がわずかに細くなった。
「人間の声」
「助けを求めるような声だったそうです」
その瞬間、セヴィルは本当に黙った。
興味が、表情から漏れそうになる。
それはまずい。
この場で露骨に喜べば、ミーリアはさらに警戒する。
だからセヴィルは、指先で報告書の端を押さえながら、できるだけ平静に言った。
「……言語模倣ですか」
「断定できません。ただ、現場班は撤退しました」
「賢明です」
「ラグドの判断です」
その名が出た瞬間、部屋の空気が少し変わった。
ラグド。
下層調査の現場指揮官。
冒険者上がりの調査員。
学術畑の人間ではない。
だが、現場の信頼は厚い。
何より、グレイラーヴァに関する報告の多くは、彼の観察に基づいている。
慎重すぎる。
臆病とも言える。
だが、彼がいなければ、セヴィルたちはもっと多くの情報を失っていただろう。
そして、もっと多くの人間も。
ミーリアは言った。
「ラグドは封鎖を提案しています」
セヴィルは眉を上げた。
「討伐ではなく?」
「封鎖です。下層出入口を段階的に封じ、対象を刺激しない範囲で行動域を制限する。火攻め、毒、広域魔法は禁止。誘引罠も禁止。血液餌も禁止」
セヴィルは小さく息を吐いた。
「実に彼らしい」
「あなたは反対ですか?」
「反対ではありません。ただ、不完全です。封鎖だけでは内部変化を観察できない」
「観察より安全です」
「安全を最優先するなら、洞窟ごと埋めるべきでしょう」
「その案も出ています」
セヴィルは、今度こそ表情を消した。
「本気で?」
ミーリアは答えない。
それが答えだった。
セヴィルは資料から視線を上げた。
「洞窟を埋める? 対象の正体も、増殖機構も、適応条件も、眷属との関係も未確認のまま?」
「地上へ出る危険があるなら」
「埋めても死ぬとは限りません」
ミーリアの目が細くなる。
セヴィルは続けた。
「むしろ最悪です。圧力、酸素不足、飢餓、隔離環境。それら全てに適応する可能性があります。閉じ込めるという行為そのものが、対象をより異常な方向へ押し出すかもしれない」
「それは仮説です」
「下層での変化記録は、その仮説を支持しています」
ミーリアは沈黙した。
セヴィルの言葉は、学術的には正しい。
あの個体は制限に適応する。
毒水に慣れ、黒岩環境に溶け、罠を覚え、道を読み、人間の言葉を聞き、巣を作り、増えた。
閉じ込めれば、閉じ込められた状態に適応する可能性がある。
飢えれば、飢餓に適応する。
闇へ閉ざせば、闇へ広がる。
出口を潰せば、別の出口を作る。
それがグレイラーヴァという個体だ。
セヴィルは、そう思っている。
そして、その恐ろしさに魅了されている。
ミーリアは、低く言った。
「あなたは捕獲派ですね」
「可能なら」
「不可能なら?」
「観察継続」
「観察中に被害が増えたら?」
「その時は討伐判断もやむを得ません」
「本当にそう思っていますか?」
セヴィルは、少しだけ笑った。
「私は研究者です。ですが、人類を滅ぼしてまで研究したいわけではありません」
「その線引きが、あなたは遅い」
「あなたは早すぎる」
二人の視線がぶつかる。
部屋の中で、若い研究員が小さく咳をした。
誰もそれに触れない。
やがて、ミーリアは別の資料を取り上げた。
「冒険者ギルドからの意見です」
「ギルドが?」
「下層探索依頼の停止を求めています。一部隊員の負傷、行方不明者、さらに黒い小型魔物の目撃で、現場が不安定になっているとのことです」
セヴィルは資料を受け取った。
ギルドの報告は、研究院のものより荒い。
だが、現場感はある。
下層浅域における小型魔物の移動変化。
腐肉獣の増加。
骨喰い虫の集中。
一部通路で不自然な骨配置。
黒殻狩りの成体死骸を利用した障害物。
探索者が「助けて」という声を聞き、確認に向かったところ、正体不明の黒い影と遭遇。
白鳴き種に似た音を確認。
推定、グレイラーヴァまたは関連個体の擬態行動。
セヴィルは、その一文を指でなぞった。
関連個体。
ついに、報告書の中にその言葉が入った。
一匹ではない。
そう認識され始めている。
ミーリアが言った。
「ギルドは危険度の引き上げを求めています。最低でも《準災害種》。一部では《個体指定災害候補》ではなく、《群体災害候補》にすべきという意見もある」
セヴィルは、ゆっくりと息を吐いた。
「群体災害候補」
「笑うところではありません」
「笑っていませんよ」
実際、セヴィルは笑っていなかった。
その言葉は、彼にも重すぎた。
群体災害。
一個体の変異ではない。
増える災害。
学ぶ災害。
巣を持つ災害。
声を真似る災害。
もしグレイラーヴァの眷属が、親個体の学習を引き継ぐなら。
もし匂いや音、行動が群れで共有されるなら。
もし一体が見たものを、他の個体が薄く受け取るなら。
それは通常の魔物の群れではない。
知識が群れ全体へ広がる。
罠が一度見抜かれれば、群れ全体が警戒する。
人間の声が一度有効だと分かれば、複数個体が模倣する。
地上を一体が見れば、他の個体もその情報を共有する。
そして、餌が足りなければ、群れは広がる。
セヴィルは、指先で資料を軽く叩いた。
「ラグドの封鎖案は、正しいかもしれません」
ミーリアが目を細める。
「意外ですね」
「刺激を減らすという点では。ただし、封鎖は静かに行うべきです。大規模隊を送り込むのは逆効果でしょう」
「具体案は?」
「まず下層探索依頼を停止。表向きは落盤危険。冒険者や素人が入らないようにする」
ミーリアは頷いた。
「続けて」
「出入口に直接罠を置かない。対象が道具を学ぶ可能性がある。代わりに遠隔監視。音響記録、匂い布、魔力反応板。対象に触れない観測」
「捕獲は?」
「今はしない」
ミーリアは少し驚いたように見た。
セヴィルは、淡々と言った。
「今捕獲しようとすれば、巣を刺激します。眷属がいるなら、親個体の反応は読み切れない。巣を壊せば、群れが散る可能性もある。それが最悪です」
「群れが散る」
「ええ。一箇所にいるなら、まだ管理できます。散れば見失う。地上へ出る個体が増えるかもしれない」
ミーリアは、ようやく深く頷いた。
「その点は同意します」
「なので、巣の位置は確認しても、直接侵入はしない」
「ラグドも同じ意見です」
「でしょうね」
セヴィルは少し苦笑した。
悔しいが、ラグドは正しい。
あの男は学者ではない。
だが、あの個体の危険性を肌で理解している。
刺激すれば変わる。
追えば逃げ道を作る。
罠を張れば罠を学ぶ。
血を置けば血を覚える。
声を聞けば言葉を覚える。
巣を脅かせば、怒りを覚える。
では、眷属を殺せば?
その想像をした瞬間、セヴィルは初めて背筋に冷たいものを感じた。
もしグレイラーヴァが眷属を守る個体なら。
もし群体内で恐怖や怒りが共有されるなら。
眷属を一匹殺した瞬間、群れ全体が人間を敵と認識する可能性がある。
今までは避ける、隠れる、誘導する。
そういう行動だった。
だが、明確な敵意を持った群体になれば。
それは災害だ。
ミーリアが言った。
「問題は、上層部です」
「討伐を望んでいますか」
「王都防衛局は討伐寄りです。研究院は捕獲寄り。ギルドは探索停止と封鎖。現場は慎重対応。意見が割れています」
「最悪ですね」
「ええ。最悪です」
意見が割れる。
それは現場に混乱を生む。
討伐班が火を持ち込む。
研究院が捕獲罠を置く。
ギルドの冒険者が報酬目当てに潜る。
誰かが勝手に血餌を置く。
誰かが助けての声に引かれて巣へ近づく。
その全てが、グレイラーヴァへ情報を与える。
人間側の混乱は、あの個体にとって学習材料になる。
セヴィルは、資料を閉じた。
「統一指揮が必要です」
「誰を置きますか」
「ラグド」
ミーリアは即答しなかった。
「研究院としては不満が出ます」
「でしょうね」
「あなたも不満では?」
「非常に」
セヴィルは笑った。
「ですが、現時点で最も対象を生かしつつ、人間側の被害を抑えられるのは彼です。生かすという点においても、殺さないという点においても」
「あなたがそれを言うとは」
「私情と判断は別です」
ミーリアは少しだけ表情を緩めた。
「では、あなたは現場から外れますか?」
セヴィルの笑みが消えた。
「それは困ります」
「でしょうね」
「観測班として残ります。直接干渉はしない。ラグドの許可なく餌も罠も薬剤も使わない。それでどうです」
「守れますか?」
「努力します」
「守れますか?」
セヴィルは、少し間を置いてから言った。
「守ります」
ミーリアは、それでようやく頷いた。
「では、その方針で会議に出します」
「通りますか?」
「分かりません」
「でしょうね」
二人は同時に資料へ目を落とした。
そこには、仮称グレイラーヴァの行動記録が並んでいる。
単独幼体。
捕食幼種。
巣主。
群体化。
擬態疑惑。
地上付近目撃。
増殖。
危険性は明らかだ。
だが、それ以上に不明点が多すぎる。
セヴィルは、静かに言った。
「名前を変えるべきかもしれませんね」
ミーリアが問う。
「グレイラーヴァでは不十分だと?」
「ええ。もう幼生ではない。ラーヴァという呼称は適切ではないかもしれない」
「では?」
セヴィルは少し考えた。
「まだ早いですね。名づけは、理解の後であるべきです」
ミーリアは冷たく言った。
「現場では、もう別の呼び方が出始めています」
「何と?」
「灰の巣主」
セヴィルは、その名を聞いて黙った。
灰の巣主。
悪くない。
魔物の分類名としては詩的すぎる。
だが、現場の恐怖をよく表している。
灰色から始まった魔物。
巣を持ち、眷属を持ち、増え始めたもの。
巣主。
グレイは、人間からそう見られ始めている。
セヴィルは小さく呟いた。
「本人は、どう認識しているのでしょうね」
ミーリアが眉を寄せる。
「本人?」
「対象です」
「魔物ですよ」
「魔物でも、自己認識がないとは限りません」
「危険な考え方です」
「研究とは、危険な考え方から始まるものです」
ミーリアは何も言わなかった。
その時、扉が叩かれた。
若い職員が入ってくる。
顔色が悪い。
「失礼します。下層監視班から緊急報告です」
ミーリアがすぐに立つ。
「内容は?」
「封鎖予定区域近くで、複数の小型個体の痕跡が確認されました」
部屋の空気が止まった。
セヴィルの指が、わずかに動く。
職員は続ける。
「足跡は少なくとも六。うち二つは比較的大型化しています。さらに、痕跡の一部が地上側通路に向かっていたとのことです」
ミーリアの顔が硬くなる。
「地上側?」
「はい。ただし、途中で引き返した形跡があります」
セヴィルは、静かに資料を閉じた。
六。
報告と一致する。
グレイラーヴァ本体と、眷属六体。
いや、足跡が六なら、本体を含まない可能性もある。
だとすれば、増殖は既に確認段階に近い。
ミーリアは低く言った。
「会議を待っている時間はなさそうですね」
セヴィルは頷いた。
「封鎖を急ぐべきです。ただし、静かに」
「討伐班が先走る可能性があります」
「止めるしかありません」
「誰が?」
その問いに、セヴィルは少しだけ苦笑した。
答えは決まっている。
ラグドだ。
現場で止められるのは、あの男しかいない。
そして、もし止められなければ。
人間側の一手が、巣を完全に刺激する。
グレイラーヴァの群れを。
灰の巣主を。
セヴィルは、窓の外を見た。
王都の空は青い。
下層の魔物が見た空も、この色だったのだろうか。
もし、あの群れが本当に空を知ったなら。
地上はもう、ただの未知ではない。
戻りたい場所ではなく、行きたい場所になる。
それは、非常にまずい。
非常に興味深い。
そして、非常に恐ろしい。
ミーリアが言った。
「対象区分を上げます」
セヴィルは、窓から視線を戻した。
「正式に?」
「はい」
彼女は、報告書の表紙へ新しい紙を重ねた。
そこには、まだ空欄の分類欄がある。
ミーリアはペンを取り、短く記した。
《個体指定災害候補》
そして、その下に追記する。
《群体化進行中》
セヴィルは、その文字を見つめた。
たった数語。
だが、それは世界がグレイをどう見るかを変える言葉だった。
もう、珍しい魔物ではない。
もう、研究対象だけでもない。
もう、下層の一個体ではない。
災害の候補。
群体化するもの。
放置すれば広がるもの。
人間側は、ついにその段階まで認識した。
セヴィルは、静かに息を吐いた。
「灰の巣主、ですか」
ミーリアは答えなかった。
窓の外では、王都の空が何も知らないように明るかった。
その空の下で、人間たちはこれから決める。
封じるか。
捕らえるか。
殺すか。
そして、その決定が下層へ届く時。
あの巣は、どんな形で反応するのか。
セヴィルには、もう分からなかった。
ただ一つだけ分かる。
人間側が、ようやく本気になった。
そしてたぶん。
それは、遅すぎた。




